TOTO:東洋陶器の設立と衛生陶器への単品特化
関東大震災の復興需要から占領軍特需へ移行した販売先
1914年〜震災復興需要に乗った衛生陶器の国産化
国産の衛生陶器が初めて売り出されたのは1914年8月で、研究を重ねて工業化にこぎつけた成果だった。その出発点は、森村組の大倉和親が明治45年1月、父孫兵衛と組んで名古屋の日本陶器合名会社(現日本陶器)の中に製陶研究所を設け、自らの資金で洋風建築向け便器の国産化に乗り出したことにある。兄弟会社の日本陶器(現ノリタケカンパニーリミテド)が米国の食器市場を主な舞台としたのに対し、大倉は中国大陸と東南アジアの「東洋市場」を目指す意図を社名に託した。設立は1917年5月で、門司港と筑豊炭田に近い小倉に資本金100万円で東洋陶器を置いた。初代社長には大倉和親が就任し、製陶研究所の技術をそのまま持ち込んで衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を始めた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]工業化に成功し1914年8月に初めて製品を販売、これが国産衛生陶器の嚆矢
- [2]大倉和親が明治45年(1912年)1月、父孫兵衛とともに名古屋の日本陶器合名会社内に製陶研究所を新設した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [3]兄弟会社の日本陶器は現ノリタケカンパニーリミテド(米国食器市場を主戦場)
- [4]社名「東洋陶器」は中国大陸・東南アジアの東洋市場開拓という大倉孫兵衛・和親親子の願望に由来
- TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1917年5月、資本金100万円で北九州小倉に東洋陶器株式会社を設立、初代社長は大倉和親
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
- [6]日本陶器合名会社内にあった製陶研究所の技術をもって東洋陶器を創立し、衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を開始した
しかし生産は数年軌道に乗らず、第一次大戦後の不況下で赤字が続いた。1923年の減資のあと、同年9月の関東大震災による復興需要で衛生陶器が伸び、業績は好転した。1920年5月に資本金を150万円へ増資して導入した日本初のドレスラー式トンネル窯(連続焼成窯)が量産体制を支え、品質改良を重ねて最高級品の評価を得ると、1935年から37年ごろが戦前期の業績ピークとなった。1936年にオリンピックの東京招致が決まって大都市の下水道工事が活発化すると、1937年10月には神奈川県に茅ヶ崎工場を建設した。水回り産業の国産化は、震災と都市インフラ整備という外部ショックを触媒にして初めて成立した。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [7]1923年に減資、同年9月の関東大震災で衛生陶器需要が伸び業績が好転
- [9]戦前期の業績ピークは1935〜37年ごろ
- [10]1936年に東京五輪招致が決定(後に返上)し下水道工事が活発化
- TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1920年5月に資本金を150万円へ増資し、日本初の連続焼成窯(ドレスラー式トンネル窯)を導入
- [11]1937年10月、神奈川県に茅ヶ崎工場(衛生陶器)を建設
1939年を迎えると、軍需に関わる生産拡充施設の需要が国内で伸び、満州でも重工業会社や炭鉱開発会社の工場とその従業員宿舎の建設が重なったため、受注は予想に反して増えた。前年の1938年末には、鉄鋼などの建築資材が統制されるため国内の建築は大きく落ち込み、満州国向けも1割減るとの見通しだった。技術者を移住させるための鉄筋コンクリート造アパートでは、衛生陶器の需要が1939年から43年まで年に5万戸分と見込まれた。1939年末には手持受注残高が1年分に積み上がった。1940年9月には同業10社が衛生陶器の共同販売を目的に共販組合を設立し、直前1年の販売実績をもとにした出資比率で東洋陶器は37.9%を占めた。同年1月には初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格として制定され、欧米製品の模写から出発した便器と洗面器は、ここで国の標準を得た。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [12]1939年に入ると国内の軍需関連生産拡充施設の需要増と、満州の重工業会社・鉱業開発会社の工場建設・従業員宿舎の需要が重なり膨大な注文を獲得した
- [13]1938年末の予測では建築資材の統制などで国内建築の著減、満州国建築の10%減による受注減が見越されていた
- [14]満州の技術者移住用アパートの衛生陶器は1939〜43年に年間5万戸分が見込まれ、1939年末の手持受注残高は1年分に達した
- [15]1940年9月、同業10社が衛生陶器共販組合(資本金5万円)を設立し、1939年6月〜40年5月の販売実績比率にもとづく出資で東洋陶器は37.9%を占めた
- [16]1940年、わが国初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格(JES)60号熔化質衛生陶器・61号化粧素地質衛生陶器として制定された
参考文献[1]-[16]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]工業化に成功し1914年8月に初めて製品を販売、これが国産衛生陶器の嚆矢
- [2]大倉和親が明治45年(1912年)1月、父孫兵衛とともに名古屋の日本陶器合名会社内に製陶研究所を新設した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [3]兄弟会社の日本陶器は現ノリタケカンパニーリミテド(米国食器市場を主戦場)
- [4]社名「東洋陶器」は中国大陸・東南アジアの東洋市場開拓という大倉孫兵衛・和親親子の願望に由来
- [7]1923年に減資、同年9月の関東大震災で衛生陶器需要が伸び業績が好転
- [9]戦前期の業績ピークは1935〜37年ごろ
- [10]1936年に東京五輪招致が決定(後に返上)し下水道工事が活発化
- TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1917年5月、資本金100万円で北九州小倉に東洋陶器株式会社を設立、初代社長は大倉和親
- [8]1920年5月に資本金を150万円へ増資し、日本初の連続焼成窯(ドレスラー式トンネル窯)を導入
- [11]1937年10月、神奈川県に茅ヶ崎工場(衛生陶器)を建設
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
- [6]日本陶器合名会社内にあった製陶研究所の技術をもって東洋陶器を創立し、衛生陶器と食卓用陶磁器の製造を開始した
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [12]1939年に入ると国内の軍需関連生産拡充施設の需要増と、満州の重工業会社・鉱業開発会社の工場建設・従業員宿舎の需要が重なり膨大な注文を獲得した
- [13]1938年末の予測では建築資材の統制などで国内建築の著減、満州国建築の10%減による受注減が見越されていた
- [14]満州の技術者移住用アパートの衛生陶器は1939〜43年に年間5万戸分が見込まれ、1939年末の手持受注残高は1年分に達した
- [15]1940年9月、同業10社が衛生陶器共販組合(資本金5万円)を設立し、1939年6月〜40年5月の販売実績比率にもとづく出資で東洋陶器は37.9%を占めた
- [16]1940年、わが国初の衛生陶器規格が臨時日本標準規格(JES)60号熔化質衛生陶器・61号化粧素地質衛生陶器として制定された
1941年〜戦時統制による経営主体の喪失と占領軍特需での再起
1941年1月、東洋陶器は衛生陶器と食器の流通のために小倉陶器商会・東衛陶器商会・東和陶器商会の3社を設立した。経済新体制のもとで生産者の卸売兼業が禁じられる情勢となり、自社とは別組織の卸売会社と小売会社を置かざるをえなくなったためである。同年10月、商工省は陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器の製造業者は全国で1社へ企業合同せよと指示した。硬質陶器では東洋陶器だけが合同の対象から外れた。円ブロック向けの輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶の徴用による船腹不足と為替の障害で塞がれた。国内向け製品の生産額は1941年11月からの半年で前年同期の50%以下に抑えられ、食器の生産は止まった。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [17]1941年1月、衛生陶器および食器の流通のため小倉陶器商会(産地卸し)・東衛陶器商会(一般卸し)・東和陶器商会(小売り)を設立した
- [18]経済新体制のもとで生産者である東洋陶器の卸売り兼業が禁止される情勢となり、別組織の卸売・小売会社の設立を余儀なくされた
- [19]1941年10月、商工省が陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器製造業者は全国1会社への企業合同を指示された
- [20]硬質陶器製造業者の企業合同では東洋陶器が対象から除かれた
- [21]円ブロック向け輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶徴用による船腹不足と外国為替関係の障害で途絶した
- [22]1941年11月〜42年3月末の国内向け製品の生産額は前年同期の約50%以下に抑えられた
小倉と茅ヶ崎の工場はどちらも戦災を免れ、生産設備にもほとんど傷みがなかった。1945年8月に戦争が終わると、東洋陶器は衛生陶器と食器という本業の生産に戻った。販売の拠点は様子が違い、東京・大阪・名古屋の出張所は焼け落ち、大連・上海・奉天などの海外拠点は終戦を待たずに閉じていた。戦時中の陶製照明器具のような金属の代用品や、点火栓碍子・電解槽などの軍需品は、もともとの陶磁器と性格が大きく違わなかったので、民需への切り替えにさほど苦労しなかった。平和産業へ移るにあたっては軍需向け陶磁器の設備を壊して衛生陶器の工場を広げ、1945年10月20日には日本特殊陶業に貸していた茅ヶ崎工場が戻って、森村茂樹社長が出席して衛生陶器製造転換式を行なった。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [23]小倉・茅ヶ崎の両工場が無傷で終戦を迎え、生産設備はほとんど損傷を受けなかった
- [24]終戦で戦時体制から解放され、本来の衛生陶器と食器の生産に立ち返ることになった
- [25]東京・大阪・名古屋の各出張所はいずれも焼失し、大連・上海・奉天など海外出張所も終戦前に閉鎖されていた
- [26]終戦以前に生産していた陶製照明器具などの金属代用品、点火栓碍子や電解槽などの軍需品は製品の性質が本来の陶磁器とかけ離れておらず、軍需から民需への転換が比較的容易だった
- [27]平和産業への移行にあたり軍需用陶磁器などの生産設備の取壊しに着手し、衛生陶器の工場を拡張した
- [28]1945年10月20日、日本特殊陶業に貸与していた茅ヶ崎工場が返還され、森村茂樹社長出席のもとで衛生陶器製造転換式を行なった
連合国軍総司令部は都心のビルや高級住宅を相次いで接収し、宿舎として冷暖房・台所・便所を改修する工事を日本政府に求めた。これが東洋陶器の立ち直りのきっかけとなった。便所は水洗が条件で、和風便器はすぐに腰掛便器へ替えられ、給水・給湯の配管の先にはどこにも水栓が付いた。このため衛生陶器と水栓金具の需要がそろって伸びた。注文は戦前から実績のある東洋陶器に集まり、水栓金具セットも含めると特需全体の90%に当たる量をこなした。生産を増やすため1945年10月以降に人を多数採用した結果、終戦直後に大きく減っていた従業員は、1年後の1946年には戦前のピークに並ぶ約1,000名まで回復した。戦前から張り合ってきた名古屋製陶所が衰える一方で、陶管とタイルの伊奈製陶(現LIXIL)が衛生陶器に乗り出した。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [29]GHQは都内のビルや高級住宅を接収し、日本政府に対し宿舎の冷暖房・台所・便所の改修工事を要求した
- [30]占領軍特需は戦後の混迷のなかで関連産業にとって再建のきっかけとなり、東洋陶器も再建への足がかりをつかんだ
- [31]接収宿舎の便所は水洗とされ和風便器は腰掛便器に取り替えられ、給水・給湯設備の末端にすべて水栓が取り付けられたため衛生陶器と水栓金具の需要が膨大になった
- [32]衛生陶器の分野では戦前から経験豊富な東洋陶器に受注が集中し、水栓金具セットを含め全特需の90%におよぶ量を引き受けた
- [33]1945年10月以降に大量募集を行ない、終戦時に減少した従業員は1946年には戦前のピーク時に匹敵する約1,000名に達した
- [34]戦前からのライバルであった名古屋製陶所が凋落し、陶管やタイルを製造していた伊奈製陶(現INAX)が衛生陶器分野に進出した
参考文献[17]-[34]
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [17]1941年1月、衛生陶器および食器の流通のため小倉陶器商会(産地卸し)・東衛陶器商会(一般卸し)・東和陶器商会(小売り)を設立した
- [18]経済新体制のもとで生産者である東洋陶器の卸売り兼業が禁止される情勢となり、別組織の卸売・小売会社の設立を余儀なくされた
- [19]1941年10月、商工省が陶磁器工業整備要綱を通達し、衛生陶器製造業者は全国1会社への企業合同を指示された
- [20]硬質陶器製造業者の企業合同では東洋陶器が対象から除かれた
- [21]円ブロック向け輸出は1940年9月以降きわめて困難となり、第三国向けも船舶徴用による船腹不足と外国為替関係の障害で途絶した
- [22]1941年11月〜42年3月末の国内向け製品の生産額は前年同期の約50%以下に抑えられた
- [23]小倉・茅ヶ崎の両工場が無傷で終戦を迎え、生産設備はほとんど損傷を受けなかった
- [24]終戦で戦時体制から解放され、本来の衛生陶器と食器の生産に立ち返ることになった
- [25]東京・大阪・名古屋の各出張所はいずれも焼失し、大連・上海・奉天など海外出張所も終戦前に閉鎖されていた
- [26]終戦以前に生産していた陶製照明器具などの金属代用品、点火栓碍子や電解槽などの軍需品は製品の性質が本来の陶磁器とかけ離れておらず、軍需から民需への転換が比較的容易だった
- [27]平和産業への移行にあたり軍需用陶磁器などの生産設備の取壊しに着手し、衛生陶器の工場を拡張した
- [28]1945年10月20日、日本特殊陶業に貸与していた茅ヶ崎工場が返還され、森村茂樹社長出席のもとで衛生陶器製造転換式を行なった
- [29]GHQは都内のビルや高級住宅を接収し、日本政府に対し宿舎の冷暖房・台所・便所の改修工事を要求した
- [30]占領軍特需は戦後の混迷のなかで関連産業にとって再建のきっかけとなり、東洋陶器も再建への足がかりをつかんだ
- [31]接収宿舎の便所は水洗とされ和風便器は腰掛便器に取り替えられ、給水・給湯設備の末端にすべて水栓が取り付けられたため衛生陶器と水栓金具の需要が膨大になった
- [32]衛生陶器の分野では戦前から経験豊富な東洋陶器に受注が集中し、水栓金具セットを含め全特需の90%におよぶ量を引き受けた
- [33]1945年10月以降に大量募集を行ない、終戦時に減少した従業員は1946年には戦前のピーク時に匹敵する約1,000名に達した
- [34]戦前からのライバルであった名古屋製陶所が凋落し、陶管やタイルを製造していた伊奈製陶(現INAX)が衛生陶器分野に進出した
1949年〜食器を切り捨てた再建と大衆市場での売上高100億円
1948年秋の3ヵ月におよぶ長期争議は、操業を止めただけでなく、社内の信頼と対外信用を損なった。12月8日に工場が再開すると、再建の責任者となった江副孫右衛門は千数百名の従業員を前に、『他社よりも品質品位のよい、価格の安い、しかも需要に応じられるだけの量を——つくらない限り、絶対に東陶の再建はありえません』と述べた。しかし1949年の単一為替レート設定に加え、同年9月のイギリスによる30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随したため、伝統的な輸出市場が崩れて滞貨が激増した。1950年3月、東洋陶器は不振の食器を大幅に減産して衛生陶器と水栓金具を生産の主力にする生産計画大綱を決め、希望退職には全従業員の20%にあたる325名が応じた。累積欠損は5,800万円に達し、賃金は平均26%カットされた。1949年5月に上場した株式は額面を割り、20円台を上下した。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [35]1948年の長期争議は経理上の損失にとどまらず社内の不信と対外信用の低下をともない、12月8日に工場が3ヵ月ぶりに再開した
- [36]1948年12月10日の始業式で、再建の事実上の責任者となった江副孫右衛門相談役が千数百名の従業員を前に所信を述べた
- [37]単一為替レートの設定に加え1949年9月のイギリスの30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随し、輸出不振で滞貨が激増した
- [38]1950年3月の生産計画大綱は不振の食器を大幅に減産し衛生陶器と水栓金具にウエートを置く内容で、希望退職に全従業員の20%にあたる325名が応じた
- [39]1950年上期決算で不良資産を損金計上した結果、累積欠損は5,800万円に達し、1950年下期から従業員の平均26%の賃金カットを実施した
- [40]1949年5月16日に上場した株式は1950年に額面を大きく割り込み20円台を上下した
東洋陶器にとっての特需は、前線へ直接送る品よりも、国内の基地や軍関係の宿舎・住宅で膨らんだ需要に応えるものが主だった。発注の量が大きく、水栓金具を組み合わせて納める条件も付いたことから、金具の出荷はかつてない水準に達した。こうして1950年6月の朝鮮動乱に伴う特需が、業績を上向かせた。創業者の大倉和親は1955年7月、79年の生涯を終えた。同月には日本住宅公団が発足し、一般住宅の設備を近代化する動きが始まろうとしていた。特需と復興需要を頼りにしてきた事業は、ここを境に大衆市場へ向きを変えることになる。1958年7月には茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野へ進んで浴槽を開発した。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [41]前線向けの直接特需よりも国内基地・軍関係の宿舎や住宅の需要増に対応する特需が発生し、水栓金具をセットする条件が付いていたため水栓金具はこれまでにない出荷量を記録した
- [42]ドッジ不況下で経営維持に腐心していた東洋陶器にとって、朝鮮動乱にともなう特需は起死回生の転機となった
- [43]1955年7月、創業者の大倉和親が79年の生涯を閉じた
- [44]1955年7月に日本住宅公団が設立され、一般住宅への住宅設備の近代化が始まろうとしていた
- [45]事業は1940年代の特需・復興需要依存体質から脱し、1950年代の高度成長への転換期にさしかかっていた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
- [46]1958年7月、茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野に進出して浴槽などを開発した
1955年度に13億円だった売上高は、1961年度に50億円を超え、1964年度には100億円に乗った。伸びを支えたのは下水道の整備で、1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画が始まると水洗便器の需要が急速に増えた。下水道用品は自治体公認の設備業者が各戸へ据え付ける方式が主だったため、東洋陶器は自治体への指定活動、設備業者向けの講習会、下水道PR映画の制作といった普及活動を重ねた。1962年には東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準を超えた売上高に応じて特約店と共同で奨励金を払う制度を発足させた。1964年時点で衛生陶器は全国生産の6割を占め、業界第一位に立っていた。ただし滋賀工場などの大型投資が相次いだ結果、自己資本比率は1961年に30%まで低下した。国内生産の6割を支えた量産の設備は、利益ではなく借入で買われていた。
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [47]1955年度に13億円であった売上高は1961年度に50億円を突破し、1964年度には100億円台に乗せ、10年間で約8倍に伸びた
- [48]1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画がスタートし、水洗便器など下水道用品の需要が急速に増加した
- [49]下水道用品は自治体公認の設備業者が据え付けるため、各自治体への指定活動、設備事業者への講習会、下水道PR映画の制作などの普及活動を重ねた
- [50]1962年、東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準売上高以上を達成した場合に売上高にスライドして特約店と共同で販売奨励金を支払う特約販売店制度を発足させた
- [52]1960年以降に滋賀工場・東洋陶器ビル・本社社屋の建設などの大型投資が相次ぎ、自己資本比率は1961年に30%まで低下した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
- [51]1964年時点で衛生陶器が主力で全国生産の6割を占め業界第一位、付属金具類でも他を引き離していた
参考文献[35]-[52]
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- [35]1948年の長期争議は経理上の損失にとどまらず社内の不信と対外信用の低下をともない、12月8日に工場が3ヵ月ぶりに再開した
- [36]1948年12月10日の始業式で、再建の事実上の責任者となった江副孫右衛門相談役が千数百名の従業員を前に所信を述べた
- [37]単一為替レートの設定に加え1949年9月のイギリスの30%のポンド切下げに東南アジアのポンドブロックが追随し、輸出不振で滞貨が激増した
- [38]1950年3月の生産計画大綱は不振の食器を大幅に減産し衛生陶器と水栓金具にウエートを置く内容で、希望退職に全従業員の20%にあたる325名が応じた
- [39]1950年上期決算で不良資産を損金計上した結果、累積欠損は5,800万円に達し、1950年下期から従業員の平均26%の賃金カットを実施した
- [40]1949年5月16日に上場した株式は1950年に額面を大きく割り込み20円台を上下した
- [41]前線向けの直接特需よりも国内基地・軍関係の宿舎や住宅の需要増に対応する特需が発生し、水栓金具をセットする条件が付いていたため水栓金具はこれまでにない出荷量を記録した
- [42]ドッジ不況下で経営維持に腐心していた東洋陶器にとって、朝鮮動乱にともなう特需は起死回生の転機となった
- [43]1955年7月、創業者の大倉和親が79年の生涯を閉じた
- [44]1955年7月に日本住宅公団が設立され、一般住宅への住宅設備の近代化が始まろうとしていた
- [45]事業は1940年代の特需・復興需要依存体質から脱し、1950年代の高度成長への転換期にさしかかっていた
- [47]1955年度に13億円であった売上高は1961年度に50億円を突破し、1964年度には100億円台に乗せ、10年間で約8倍に伸びた
- [48]1963年に第1次下水道整備5ヵ年計画がスタートし、水洗便器など下水道用品の需要が急速に増加した
- [49]下水道用品は自治体公認の設備業者が据え付けるため、各自治体への指定活動、設備事業者への講習会、下水道PR映画の制作などの普及活動を重ねた
- [50]1962年、東京地区の二次卸店から特約販売店を選び、基準売上高以上を達成した場合に売上高にスライドして特約店と共同で販売奨励金を支払う特約販売店制度を発足させた
- [52]1960年以降に滋賀工場・東洋陶器ビル・本社社屋の建設などの大型投資が相次ぎ、自己資本比率は1961年に30%まで低下した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)
- [46]1958年7月、茅ヶ崎工場内に合成樹脂工場を新設し、強化プラスチックの分野に進出して浴槽などを開発した
- [51]1964年時点で衛生陶器が主力で全国生産の6割を占め業界第一位、付属金具類でも他を引き離していた
筆者考察
衛生陶器は、市場が無いところから始まった商品である。大倉和親が1912年に私財を投じて製陶研究所を設けてから半世紀、東洋陶器の売上げを決めたのは、いつも自社の外にある事情だった。1923年の関東大震災の復興、1930年代末の満州の官舎建設、終戦直後の占領軍宿舎の水洗化、1950年の朝鮮動乱、そして1960年代の下水道整備。どれも会社が起こした出来事ではない。便器と洗面器は建物に付いてくる商品であり、建物が建つ理由は常に会社の外で決まる。単品に絞ったことが業界一位を作り、同じことが業績を外の事情に預ける構造も作った。
それでも東洋陶器は、波を待っていただけではない。1940年には初の衛生陶器規格を国の標準として通し、1962年には東京地区の二次卸店から特約販売店を選んで奨励金を払う仕組みを設け、自治体への指定活動と下水道PR映画の制作まで手がけた。需要が来たときに取りこぼさない仕掛けを、需要が来る前に置いていたのである。1955年度に13億円だった売上高が1964年度に100億円へ達し、衛生陶器で全国生産の6割を占めたのは、その積み重ねの結果だった。ただし量産の設備は借入で買われ、自己資本比率は1961年に30%まで低下している。伸びの速度そのものが、次の経営課題になった。
1912年〜1964年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年11月期 | 単体 | 11 | n/a | 0 | 1.5% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年11月期 | 単体 | 31 | n/a | 1 | 6.1% | n/a |
| 1960年11月期 | 単体 | 42 | +35.5% | 3 | 7.9% | n/a |
| 1961年11月期 | 単体 | 53 | +26.2% | 4 | 7.5% | n/a |
| 1962年11月期 | 単体 | 58 | +9.4% | 4 | 7.1% | n/a |
| 1963年11月期 | 単体 | 76 | +31.0% | 5 | 7.0% | n/a |
| 1964年11月期 | 単体 | 102 | +34.2% | 6 | 6.6% | n/a |
出所:大阪経済評論、会社年鑑
出典・参考
5件
- TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
- 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(東洋陶器)