第2章 年〜年

TOTO:ウォシュレット発売と住設機器への多角化

杉原周一の無借金経営からウォシュレットへ

1965年〜杉原周一が据えた自己資本比率という物差し

単品メーカーから住設の総合へ向かう

売上高は1965年11月期の111億円が1967年11月期に178億円となり、市場は広がっていた。創立50周年にあたる1967年、東洋陶器は衛生陶器と水栓金具だけを作る会社から、住宅設備機器を幅広く扱う総合メーカーへ転じる方針を定めた。取扱商品は1950年代からプラスチック浴槽やユニットバスルームへ広がっていたものの、売上に占める割合は小さく、腰を据えた体制も整っていなかったうえ、高度成長期の伸びはあくまで衛生陶器と水栓金具という狭い市場の中でのことで、多様な住宅需要に見合う品ぞろえも、それを支える技術開発力や生産・販売の体制も、この時点では備わっていなかった。この年は、洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げる出発点となった。

  • 会社年鑑(東陶機器・各期業績)
    • [1]売上高は1965年11月期111億円、1967年11月期178億円
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [2]1967年5月に創立50周年を迎え、企業体質の改善をはかり洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げ住設機器の総合メーカーをめざす新たな出発点となった
    • [3]1950年代にプラスチック浴槽やユニットバスルームなど取扱商品の多角化をはかったが、売上高全体に占めるウエートは低く本格的な体制づくりも遅れていた
    • [4]1950年代の急成長は衛生陶器・水栓金具という限定された市場においてのものであり、住宅産業の構成員として成長するには商品構成・技術開発力・生産販売体制の構築が必要だった
    • [5]住宅市場の拡大は衛生陶器・水栓金具メーカーとして発展してきた性格に大きな変容を迫るものだった
事業本部に利益責任を負わせる

1968年6月、東洋陶器は事業本部制を採用し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部を発足させた。各事業本部の長には常務取締役が就き、独立採算で受け持つ商品の生産・販売・利益の計画を立て、それぞれの成績が問われる仕組みとなった。こうした体制に改めたのは、食器からプラスチック、ユニットバスルームへと品目を増やしながら、計画や方針が行き渡らず、どの製品がどれだけ利益を上げたかの責任もはっきりしなかったためである。1969年1月6日には1973年度を締めくくりの年度に据えた5ヵ年計画を発表し、売上高を2倍に、総資本税引利益率を10%に、自己資本比率を60%に引き上げ、5年のうちに借入金をなくすことを目標とした。QCサークル活動は1968年10月に取り入れられ、1年たつとサークル数1,008、参加者7,089名に達し、全従業員の82%を占めた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [6]1968年6月、事業本部制の採用を軸に組織の大改革を実施し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部が発足した
    • [7]各事業本部長には常務取締役が就任し、独立採算制のもとで担当商品の生産・販売・利益計画を立て業績が測定されることになった
    • [8]食器・プラスチック・ユニットバスルームへと商品を拡大してきたが計画や方針に徹底を欠き、製品別の利益責任もあいまいだった
    • [9]1969年1月6日、1973年度を最終年度とする5ヵ年計画が発表された
    • [10]5ヵ年計画の目標は売上高を2倍、総資本税引利益率を10%、自己資本比率を60%とし、5年間で無借金の状態にすることだった
    • [11]1968年10月に全員参加のQCサークル活動を導入し、1969年9月にはサークル数1,008、メンバーは全従業員の82%にあたる7,089名に達した
成長率を落として利息の向きを変える

杉原周一が社長に就任した1967年7月の時点で、東洋陶器はすでに自他ともに認める高成長企業だった。しかし成長にともなって借入金が増え、自己資本比率は1968年5月期に32%まで下がり、従来の40〜50%から崩れていた。杉原は自己資本比率を総資本回転率・売上高留保利益率・売上高年成長率・株式資本比率の4項で表す企業経営基本式を立て、年成長率をあえて25%から20%へ落とす代わりに回転率と留保利益率を引き上げる方針を全従業員へ明示した。4年後には自己資本比率が約60%へ戻り、月に4,000万円を支払っていた利息は、逆に月4,000万円が入る側へ変わった。同じ期間に従業員は9,000人超から8,000人を割る水準まで減り、売上高は2倍になった。1970年3月には社名を東陶機器へ改めている。杉原は1972年6月21日に急逝した。

  • 証券アナリストジャーナル 1972年(杉原周一 )
    • [12]杉原周一が社長に就任した1967年7月当時、東陶機器はすでに自他共に許す高成長の優良企業だった
    • [13]高成長にともなって借入金が増加し自己資本比率が低下、1968年5月期決算では従来の40〜50%から32%まで下がった
    • [14]杉原は総資本回転率K・売上高留保利益率L・売上高年成長率N・株式資本比率Pからなる企業経営基本式を導き、K=1→1.2、L=0.04→0.06、N=0.25→0.20、P=1/3→1/3.5を全従業員に明示した
    • [15]3年半から4年で自己資本比率は約60%に上昇し、4年前に月4,000万円支払っていた利息は逆に月4,000万円入ってくるようになった
    • [16]4年前に9,000人を超えていた従業員数は8,000人を割り、これに対して売上高は2倍になった
    • [18]杉原周一は1972年6月21日に急逝した
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1970年3月、社名を東陶機器に変更
参考文献[1]-[18]
  • 会社年鑑(東陶機器・各期業績)
    • [1]売上高は1965年11月期111億円、1967年11月期178億円
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [2]1967年5月に創立50周年を迎え、企業体質の改善をはかり洗面化粧台やホーローバスへ事業分野を広げ住設機器の総合メーカーをめざす新たな出発点となった
    • [3]1950年代にプラスチック浴槽やユニットバスルームなど取扱商品の多角化をはかったが、売上高全体に占めるウエートは低く本格的な体制づくりも遅れていた
    • [4]1950年代の急成長は衛生陶器・水栓金具という限定された市場においてのものであり、住宅産業の構成員として成長するには商品構成・技術開発力・生産販売体制の構築が必要だった
    • [5]住宅市場の拡大は衛生陶器・水栓金具メーカーとして発展してきた性格に大きな変容を迫るものだった
    • [6]1968年6月、事業本部制の採用を軸に組織の大改革を実施し、営業・外国・衛陶・金具・プラスチック・食器・仕入商品・ユニット工事の8事業本部が発足した
    • [7]各事業本部長には常務取締役が就任し、独立採算制のもとで担当商品の生産・販売・利益計画を立て業績が測定されることになった
    • [8]食器・プラスチック・ユニットバスルームへと商品を拡大してきたが計画や方針に徹底を欠き、製品別の利益責任もあいまいだった
    • [9]1969年1月6日、1973年度を最終年度とする5ヵ年計画が発表された
    • [10]5ヵ年計画の目標は売上高を2倍、総資本税引利益率を10%、自己資本比率を60%とし、5年間で無借金の状態にすることだった
    • [11]1968年10月に全員参加のQCサークル活動を導入し、1969年9月にはサークル数1,008、メンバーは全従業員の82%にあたる7,089名に達した
  • 証券アナリストジャーナル 1972年(杉原周一 )
    • [12]杉原周一が社長に就任した1967年7月当時、東陶機器はすでに自他共に許す高成長の優良企業だった
    • [13]高成長にともなって借入金が増加し自己資本比率が低下、1968年5月期決算では従来の40〜50%から32%まで下がった
    • [14]杉原は総資本回転率K・売上高留保利益率L・売上高年成長率N・株式資本比率Pからなる企業経営基本式を導き、K=1→1.2、L=0.04→0.06、N=0.25→0.20、P=1/3→1/3.5を全従業員に明示した
    • [15]3年半から4年で自己資本比率は約60%に上昇し、4年前に月4,000万円支払っていた利息は逆に月4,000万円入ってくるようになった
    • [16]4年前に9,000人を超えていた従業員数は8,000人を割り、これに対して売上高は2倍になった
    • [18]杉原周一は1972年6月21日に急逝した
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1970年3月、社名を東陶機器に変更

1973年〜石油危機後の需要構造の変化と価格競争からの離脱

三本目の柱を後発商品に賭ける

1973年の新春、東陶機器は1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画を発表した。売上高を5年で2倍の1,000億円、生産性も2倍とし、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上を維持するという内容だった。重点施策には衛生陶器と水栓金具という2大収益部門の増強に加え、後発のホーローバスと洗面化粧台の育成が並び、この2商品を1977年度に全売上高の30%まで高めて3本目の柱に育てることが課題とされた。折しも建設需要は過熱し、1973年上期の受注高は前期比43.7%増の406億円に達したが、生産実績は294億円にとどまって品不足が表面化した。第2次計画は、需要が足りない局面ではなく供給が追いつかない局面から始まった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [19]1973年新春、黒河社長の指示により1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画が発表された
    • [20]第2次5ヵ年計画は売上高を5年間で2倍の1,000億円、生産性も2倍、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上の維持を目標とした
    • [21]重点施策は衛生陶器・水栓金具の2大収益部門の増強、後発部門であるホーローバスと洗面化粧台の育成、営業販売網の強化拡大で、1977年度に両商品の売上比率を30%まで高め3本目の柱に育てることが課題とされた
    • [22]1973年上期の受注高は対前期比43.7%増の406億円を記録したが、これに対する生産実績は294億円で品不足が目立った
住宅が余る前提へ計画を組み替える

1974年、日本経済は戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は大きく減少した。1973年の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対して住宅総数が3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達していた。住宅難の時代は終わり、住宅ストック過剰の時代を迎えたのである。加えて戦後のベビーブーム期に生まれた世代の婚姻数が1972年をピークに減り始め、世帯数の伸びが鈍って新規住宅需要は細った。黒河隼人社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切ると発表し、売上高目標を5年で1.5倍へ下げた第3次5ヵ年計画を示した。『つくれば売れる時代は過ぎ去りました』と述べ、需要家の要望を的確に把握することを求めた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [23]1974年に戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は著しく落ち込んだ
    • [24]1973年実施の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対し住宅総数は3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達した
    • [25]住宅難時代は終わりを告げ、住宅ストック過剰時代を迎えた
    • [26]1947〜49年生まれの世代の婚姻数が1972年をピークに年々減少し、世帯数の鈍化を招いて新規住宅需要低迷の要因となった
    • [27]黒河社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切り、売上高(実質)を5年間で1.5倍以上とする第3次5ヵ年計画を実施すると発表した
    • [28]第3次5ヵ年計画の発表にあたり黒河社長は従業員に発想の転換と積極的な行動をうながした
差別化できない品番を切る

浴槽や洗面化粧台では各社の量産体制が整って品質の差が縮まり、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が起きていた。1974年の洗面化粧台には地場メーカーまで加えて100社に迫る参入があり、たまらず撤退するメーカーも現れた。東陶機器は量的拡大を追って価格競争に巻き込まれるのではなく、商品開発で他社との差別化をはかり需要を自ら創る方針を打ち出した。既存商品を洗い出して差別化できない品番は商品系列から外す一方、ピエール・カルダンのデザインによる洗面化粧台を1975年に、クラフトバスを1977年に投入した。1975年2月には本社内へ50名の研究室を置き、1978年11月には茅ヶ崎工場内に研究所を設けた。売上高は1976年11月期に942億円、経常利益は95億4,000万円となった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [29]競合メーカーの多い浴槽や洗面化粧台はメーカーの量産体制が確立して品質の差が接近し、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が展開した
    • [30]洗面化粧台は他分野からの新規参入が続き、1974年には地場メーカーを加えると100社に迫る勢いとなり、撤退するメーカーも現れはじめた
    • [31]量的拡大を追って価格競争に巻き込まれることなく、商品開発面を強化して他社との差別化をはかり需要をみずから創造する基本方針を打ち出した
    • [32]差別化できない商品は商品系列から外す方針で品番・品種の整理統合を進め、ピエール・カルダンデザインの洗面化粧台(1975年発売)、TOTOクラフトバス(1977年発売)などを投入した
    • [33]1975年2月に本社内へ50名の研究スタッフによる研究室を設置し、1978年11月27日に茅ヶ崎工場内へ延面積1,250平方メートルの研究所を設立した
  • 日本企業要覧 1977年版(東陶機器)
    • [34]1976年11月期の売上高は対前期比16%増の942億2,000万円、経常利益は13%増の95億4,000万円
参考文献[19]-[34]
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [19]1973年新春、黒河社長の指示により1977年度を最終年度とする第2次5ヵ年計画が発表された
    • [20]第2次5ヵ年計画は売上高を5年間で2倍の1,000億円、生産性も2倍、総資本税引利益率は毎年10%以上、自己資本比率は毎年60%以上の維持を目標とした
    • [21]重点施策は衛生陶器・水栓金具の2大収益部門の増強、後発部門であるホーローバスと洗面化粧台の育成、営業販売網の強化拡大で、1977年度に両商品の売上比率を30%まで高め3本目の柱に育てることが課題とされた
    • [22]1973年上期の受注高は対前期比43.7%増の406億円を記録したが、これに対する生産実績は294億円で品不足が目立った
    • [23]1974年に戦後初めてのマイナス成長を記録し、住宅建設は著しく落ち込んだ
    • [24]1973年実施の住宅統計調査では総世帯数2,965万に対し住宅総数は3,106万戸と逆転し、空家率は5.5%に達した
    • [25]住宅難時代は終わりを告げ、住宅ストック過剰時代を迎えた
    • [26]1947〜49年生まれの世代の婚姻数が1972年をピークに年々減少し、世帯数の鈍化を招いて新規住宅需要低迷の要因となった
    • [27]黒河社長は1976年の年頭に第2次5ヵ年計画を3年で打ち切り、売上高(実質)を5年間で1.5倍以上とする第3次5ヵ年計画を実施すると発表した
    • [28]第3次5ヵ年計画の発表にあたり黒河社長は従業員に発想の転換と積極的な行動をうながした
    • [29]競合メーカーの多い浴槽や洗面化粧台はメーカーの量産体制が確立して品質の差が接近し、需要の集中する普及品を中心に採算を度外視した価格競争が展開した
    • [30]洗面化粧台は他分野からの新規参入が続き、1974年には地場メーカーを加えると100社に迫る勢いとなり、撤退するメーカーも現れはじめた
    • [31]量的拡大を追って価格競争に巻き込まれることなく、商品開発面を強化して他社との差別化をはかり需要をみずから創造する基本方針を打ち出した
    • [32]差別化できない商品は商品系列から外す方針で品番・品種の整理統合を進め、ピエール・カルダンデザインの洗面化粧台(1975年発売)、TOTOクラフトバス(1977年発売)などを投入した
    • [33]1975年2月に本社内へ50名の研究スタッフによる研究室を設置し、1978年11月27日に茅ヶ崎工場内へ延面積1,250平方メートルの研究所を設立した
  • 日本企業要覧 1977年版(東陶機器)
    • [34]1976年11月期の売上高は対前期比16%増の942億2,000万円、経常利益は13%増の95億4,000万円

1980年〜ウォシュレットによる需要創造と欧州への資本参加

商品群を四つの言葉で整理し直す

1980年10月1日、東陶機器は東京を皮切りに大阪・札幌・福岡でTOTOフェア'80を開催した。商品ラインを個・質・和・省という四つの基本コンセプトに凝縮し、それぞれのゾーンへ新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演つきで並べた。明確なコンセプトにもとづく展示はこれが初めてで、高度成長の終焉以来模索してきた商品開発の方向をここで集約した。会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座のウォシュレット、身体障害者用の浴槽に関心が集まった。ハード志向のものづくりから、消費者の生活を発想の原点に据える生活提案型へ、商品開発の向きが変わるきっかけとなった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [35]1980年10月1日、東京会場を皮切りに大阪・札幌・福岡で「TOTOフェア'80」を開催した
    • [36]TOTOフェア'80では商品ラインを「個」「質」「和」「省」の四つの基本コンセプトに凝縮し、各コンセプトのゾーンに新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演を織り込みながら展示した
    • [37]明確なコンセプトにもとづいた展示は初めてで、高度成長の終焉以来模索をつづけていた商品開発の方向を集約したものだった
    • [38]会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座「ウォシュレット」、身体障害者用の浴槽に大きな関心が集まった
    • [39]この成功がハード志向の「モノ」づくりから消費者の生活を商品発想の原点に据える「生活ソフト重視」「生活提案型」への方向転換のきっかけとなった
輸入品の失敗作を改良して販売する

前身といえる商品は1964年にすでにあり、ウォッシュエアシートの名でアメリカから輸入して売っていたが、お湯の温度が定まらず、扱いも面倒で座りにくかったため、病院向けなどにわずかに出るだけだった。開発陣は社内で試験を重ね、座り心地・洗う角度・温度・水の勢いのちょうどよい条件を探ったうえで、洗浄・乾燥・暖房の三つの機能に、ICと温度センサーで温度を自動調節する仕組みを加え、1980年6月、温水洗浄便座ウォシュレットとして全国発売にこぎつけた。いまある便座と付け替えるだけで取り付けられることから、増改築キャンペーンの戦略商品にうってつけだった。1982年からはテレビ・新聞・雑誌へ広告費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが商品名を全国へ広めた。参入メーカーの増加がかえって市場を活性化させ、1987年11月には販売累計100万台を超えた。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [40]ウォシュレットは完全なオリジナル商品ではなく、1964年に「ウォッシュエアシート」の商品名でアメリカから輸入販売していたが、湯温が不安定で操作も複雑、坐り心地も悪く病院用などに細々と販売されていた
    • [41]坐り心地・洗浄角度・温度・水勢など最適な洗浄条件を探るため社内で実験を繰り返し、洗浄・乾燥・暖房の三機能にICと温度センサーを使った自動温度調節機能を開発した
    • [42]1980年6月を期して温水洗浄便座「ウォシュレット」を全国発売した
    • [43]既設の便座取替えだけで済むため増改築キャンペーンの格好の戦略商品となった
    • [44]1982年からルート販売とあわせてテレビ・新聞・雑誌などマス媒体に広告宣伝費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが「ウォシュレット」の名を全国的に広めた
    • [45]旺盛な需要に新規参入メーカーも増えたがこれが市場を活性化する相乗効果を生み、ウォシュレットは1987年11月に販売以来100万台を突破した
円高の輸出を高付加価値品へ寄せる

1980年度の新設住宅着工戸数は121万戸まで減り、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急速に進んだ。東陶機器は良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓といった質への転換を軸にマーケティング戦略を組み直した。海外では1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社へ資本参加し、販売・技術・デザインの交流をはかった。1986年3月にはパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を置き、同年12月には直営の輸入専門商社としてセラトレーディングを設立した。急激な円高で一般商品の国際競争力が低下したため、輸出はウォシュレットやニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品に据え、アリア社と西ドイツのケラマグ社を経由して各国へ広げた。国内で需要を創る力を身につけた会社が次に試されるのは、その力が国境を越えるかどうかだった。

  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [46]新設住宅着工戸数は1980年度に121万戸まで激減し、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急激に進んだ
    • [47]高度化・多様化するニーズに対応する良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓など量的充足から質的なものへの転換を軸にマーケティング戦略を展開することになった
    • [48]1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社に資本参加し、販売・技術・デザインなど幅広い交流をはかることになった
    • [49]1986年3月にパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を設置し、同年12月に直営の輸入専門商社としてセラトレーディング株式会社を設立した
    • [50]急激な円高の進行で一般商品の国際競争力が低下したため、「ウォシュレット」やニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品とし、アリア社と子会社の西ドイツ・ケラマグ社を通じて各国に輸出の拡大をはかった
参考文献[35]-[50]
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
    • [35]1980年10月1日、東京会場を皮切りに大阪・札幌・福岡で「TOTOフェア'80」を開催した
    • [36]TOTOフェア'80では商品ラインを「個」「質」「和」「省」の四つの基本コンセプトに凝縮し、各コンセプトのゾーンに新商品やグレードアップ商品を中心に160セットの商品群を実演を織り込みながら展示した
    • [37]明確なコンセプトにもとづいた展示は初めてで、高度成長の終焉以来模索をつづけていた商品開発の方向を集約したものだった
    • [38]会場では石油・ガス・ソーラーの給湯機、アメリカのマイクロファー社との技術提携による超節水便器、温水洗浄便座「ウォシュレット」、身体障害者用の浴槽に大きな関心が集まった
    • [39]この成功がハード志向の「モノ」づくりから消費者の生活を商品発想の原点に据える「生活ソフト重視」「生活提案型」への方向転換のきっかけとなった
    • [40]ウォシュレットは完全なオリジナル商品ではなく、1964年に「ウォッシュエアシート」の商品名でアメリカから輸入販売していたが、湯温が不安定で操作も複雑、坐り心地も悪く病院用などに細々と販売されていた
    • [41]坐り心地・洗浄角度・温度・水勢など最適な洗浄条件を探るため社内で実験を繰り返し、洗浄・乾燥・暖房の三機能にICと温度センサーを使った自動温度調節機能を開発した
    • [42]1980年6月を期して温水洗浄便座「ウォシュレット」を全国発売した
    • [43]既設の便座取替えだけで済むため増改築キャンペーンの格好の戦略商品となった
    • [44]1982年からルート販売とあわせてテレビ・新聞・雑誌などマス媒体に広告宣伝費を重点的に投入し、一連のコマーシャルが「ウォシュレット」の名を全国的に広めた
    • [45]旺盛な需要に新規参入メーカーも増えたがこれが市場を活性化する相乗効果を生み、ウォシュレットは1987年11月に販売以来100万台を突破した
    • [46]新設住宅着工戸数は1980年度に121万戸まで激減し、量的な充足を背景に住宅市場の成熟化が急激に進んだ
    • [47]高度化・多様化するニーズに対応する良質な住環境の創造、既設住宅の増改築、取替え需要の開拓など量的充足から質的なものへの転換を軸にマーケティング戦略を展開することになった
    • [48]1985年5月、フランスのコングロマリットであるラファルジュ・コペ社傘下のアリア社に資本参加し、販売・技術・デザインなど幅広い交流をはかることになった
    • [49]1986年3月にパリのアリア社内へ欧州駐在員事務所を設置し、同年12月に直営の輸入専門商社としてセラトレーディング株式会社を設立した
    • [50]急激な円高の進行で一般商品の国際競争力が低下したため、「ウォシュレット」やニューセラミックスなどの高付加価値商品を戦略商品とし、アリア社と子会社の西ドイツ・ケラマグ社を通じて各国に輸出の拡大をはかった

筆者考察

1967年に社長となった杉原周一がやったのは、成長率を上げることではなく、下げることだった。自己資本比率が1968年5月期に32%へ低下したとき、杉原は年20%を超える伸びを保つかぎり毎年5万坪の工場を増設する必要があり、その資金の出どころは銀行しかないと見た。借りた金で建てた工場は、返済の時期になるとまた次の増設を求める。そこで年成長率を25%から20%へ落とし、その分を総資本回転率と留保利益率の改善へ振り向けた。4年後、月に4,000万円払っていた利息は月4,000万円受け取る側へ変わり、従業員は9,000人超から8,000人を割る水準まで減って、売上高は2倍になった。

この物差しは、需要が消えたあとにこそ効いた。1973年の住宅統計で住宅総数が総世帯数を上回り、住宅難の時代が終わったとき、東陶機器は第2次5ヵ年計画を3年で打ち切って売上目標を下げている。浴槽と洗面化粧台で100社が競う価格競争には乗らず、差別化できない品番を商品系列から外し、研究室と研究所を置いた。1980年に発売したウォシュレットは、1964年に輸入販売して売れなかった商品の作り直しである。既設の便座を取り替えるだけで設置でき、新築が減っても売れる商品を、新築が減った市場へ出した。需要の波を待つ会社から、波の外に商品を置く会社へ、性格はここで変わった。

1965年〜1990年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1965年11月期 単体 111 n/a n/a 6 6.0% n/a
1966年11月期 単体 147 +32.4% n/a 7 5.3% n/a
1967年11月期 単体 178 +21.1% n/a 9 5.4% n/a
1968年11月期 単体 217 +21.9% n/a 12 5.7% 衛生陶器工場竣工(中津工場)(1968/04)
1969年11月期 単体 301 +38.7% n/a 22 7.4% n/a
1970年11月期 単体 375 +24.6% 67 37 9.9% n/a
1971年11月期 単体 451 +20.3% 88 45 10.0% n/a
1972年11月期 単体 516 +14.4% 99 50 9.7% n/a
1973年11月期 単体 762 +47.7% 124 66 8.7% n/a
1974年11月期 単体 913 +19.8% 131 60 6.6% n/a
1975年11月期 単体 810 ▲11.3% 84 50 6.2% n/a
1976年11月期 単体 942 +16.3% 95 43 4.6% n/a
1977年11月期 単体 949 +0.7% 96 50 5.3% n/a
1978年11月期 単体 1,063 +12.0% 107 52 4.9% n/a
1979年11月期 単体 1,216 +14.4% 137 67 5.5% n/a
1980年11月期 単体 1,422 +16.9% 155 79 5.6% n/a
1981年11月期 単体 1,345 ▲5.4% 123 62 4.6% n/a
1982年11月期 単体 1,515 +12.6% 142 62 4.1% n/a
1983年11月期 単体 1,597 +5.4% 157 71 4.4% n/a
1984年11月期 単体 1,760 +10.2% 163 74 4.2% n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a ユニットバスルーム製造会社、千葉東陶を設立(1986/03)
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a システムキッチン製造会社、東陶ハイリビングを設立(1989/07)

出所:会社年鑑

出典・参考

5件
出典・参考
  • TOTO 有価証券報告書 第159期(2025年3月期)【沿革】
  • 東陶機器七十年史(東陶機器, 1988)
  • 会社年鑑(東陶機器・各期業績)
  • 証券アナリストジャーナル 1972年(杉原周一 )
  • 日本企業要覧 1977年版(東陶機器)

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