第2章 年〜年

ブリヂストン:柴本重理社長のUNIROYAL買収とブリヂストンへの改称

1968年〜導入した製法からラジアルの自主開発へ

乗用車用ラジアルタイヤの国内発売は住友ゴムが1966年10月のSP-3で先行し、当社は1967年4月のRD-10で続いた。五十年史は1969年から1972年の経営活動を『本章が取り扱う時期における当社の経営活動は、ラジアルタイヤを一つの基軸として展開したということができる』と総括し、その基軸のかたわらにポリエステルタイヤの開発を並べた。ポリエステルコードとゴムの接着技術は技術陣が独自に開発したもので、コードの見本を入手したのは1958年2月、接着剤の開発着手は1959年4月にさかのぼる。ポリエステルはレーヨンとナイロンの中間的な物性を持ち、従来と同じ処理ではまったく接着しない難があった。米国から製法を導入する側にいた会社が、材料の接着から自前で解く側へ移っていた。

  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)七章 自主技術の確立と国際化
    • [1]乗用車用ラジアルタイヤの国内発売時期 住友ゴム1966年10月 SP-3/当社1967年4月 RD-10
    • [2]1969〜1972年の経営活動はラジアルタイヤを基軸に展開したという総括/同時にポリエステルタイヤの開発を挙げる
    • [3]ポリエステルコードとゴムの接着技術は当社技術陣が独自に開発
    • [4]1958年2月 ポリエステルコードの見本を入手/1959年4月 接着剤の開発に着手
    • [5]ポリエステルはレーヨンとナイロンの中間的物性で従来と同じ処理ではまったく接着しない

1964年9月に石橋幹一郎社長がTQC導入の声明を出し、翌10月にデミング・プラン推進本部が発足している。改善提案は1980年度で14万3527件、従業員1人あたり84件を数えた。工場は1968年に彦根と上尾、1970年に下関と鳥栖、1971年に栃木と熊本と矢継ぎ早に操業へ入り、いずれも需要の盛り上がる直前の操業だった。タイヤの主力工場にはコード工場を併設するのが常で、老朽化していた久留米コード工場は1968年7月に着工して翌年6月に稼働し、生産性は旧工場の2倍になった。売上高は1968年12月期の1,050億円から1972年12月期には1,788億円へ伸びた。

  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)七章 自主技術の確立と国際化
    • [6]1964年9月 石橋幹一郎社長がTQC導入を声明/同年10月 デミング・プラン推進本部が発足
    • [7]1980年度の改善提案総数 14万3527件・従業員1人あたり84件
    • [9]タイヤ主力工場にはコード工場を併設するのを常とした
    • [10]久留米新コード工場 1968年7月着工・1969年6月完成/生産性は旧コード工場の2倍
  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [8]1968年 彦根・上尾、1970年 下関・鳥栖、1971年 栃木・熊本が操業開始/いずれも需要が大きく盛り上がる直前の操業
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [11]売上高 1968年12月期1,050億円 → 1972年12月期1,788億円

1969年春、全国的なラジアルキャンペーン「エキサイティングセール」でラジアル時代の開始を告げ、モータリゼーションの展開に合わせてオーナードライバー向けの拠点をガソリンスタンドへ広げた。この時期、スタンドは補修用タイヤ売上高の約20%、乗用車タイヤ売上高の約25%を占めるに至っている。並行して量販店網を整え、販売会社の直接系列化も進めた。技術サービスを担うBTM(ブリヂストンタイヤ・テクニカルマン)の制度は1960年前後に始まり、試験に合格した販売店の社員へ資格を与える仕組みだった。彼らは他社商品の評判も自社商品の悪い情報も連絡票で本社へ流し、需要動向と好みの変化をつかむ経路になった。

  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)七章 自主技術の確立と国際化
    • [12]1969年春 全国的なラジアルキャンペーン「エキサイティングセール」の実施
    • [13]オーナードライバーへのタイヤサービス拠点としてのSS(ガソリンスタンド)の拡大
    • [14]SSが当社の補修用タイヤ売上高の約20%・乗用車タイヤ売上高の約25%を占めるに至る
    • [15]タイヤ専業店を中軸とする量販店網の整備と販売会社の直接系列化
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [16]BTM制度は1978年時点で20年近くの歴史/試験を課して資格を与える
  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [17]BTM連絡票で他社商品の評判・自社商品の悪い情報・テストタイヤの動向を本社へ流す仕組み
参考文献[1]-[17]
  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)七章 自主技術の確立と国際化
    • [1]乗用車用ラジアルタイヤの国内発売時期 住友ゴム1966年10月 SP-3/当社1967年4月 RD-10
    • [2]1969〜1972年の経営活動はラジアルタイヤを基軸に展開したという総括/同時にポリエステルタイヤの開発を挙げる
    • [3]ポリエステルコードとゴムの接着技術は当社技術陣が独自に開発
    • [4]1958年2月 ポリエステルコードの見本を入手/1959年4月 接着剤の開発に着手
    • [5]ポリエステルはレーヨンとナイロンの中間的物性で従来と同じ処理ではまったく接着しない
    • [6]1964年9月 石橋幹一郎社長がTQC導入を声明/同年10月 デミング・プラン推進本部が発足
    • [7]1980年度の改善提案総数 14万3527件・従業員1人あたり84件
    • [9]タイヤ主力工場にはコード工場を併設するのを常とした
    • [10]久留米新コード工場 1968年7月着工・1969年6月完成/生産性は旧コード工場の2倍
    • [12]1969年春 全国的なラジアルキャンペーン「エキサイティングセール」の実施
    • [13]オーナードライバーへのタイヤサービス拠点としてのSS(ガソリンスタンド)の拡大
    • [14]SSが当社の補修用タイヤ売上高の約20%・乗用車タイヤ売上高の約25%を占めるに至る
    • [15]タイヤ専業店を中軸とする量販店網の整備と販売会社の直接系列化
  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [8]1968年 彦根・上尾、1970年 下関・鳥栖、1971年 栃木・熊本が操業開始/いずれも需要が大きく盛り上がる直前の操業
    • [17]BTM連絡票で他社商品の評判・自社商品の悪い情報・テストタイヤの動向を本社へ流す仕組み
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [11]売上高 1968年12月期1,050億円 → 1972年12月期1,788億円
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [16]BTM制度は1978年時点で20年近くの歴史/試験を課して資格を与える

1973年〜創業者の引退と石油危機

1973年5月15日、石橋正二郎会長は取締役会の席上で引退を声明した。創業以来42年にわたり最高責任者の座にあった人物の退場であり、新会長に石橋幹一郎社長、新社長に柴本重理副社長が指名された。柴本重理氏は1939年に入社し、取締役・常務・専務を経て1963年に副社長となった営業畑の人物で、石橋家の一族縁者でない社長の就任は会社の内外に大きな反響を呼んだ。本人は後年、『急に「社長に」と言われて、当然でしょうが、「はい、そうですか」と受ける人はいないですよね。私もいろいろ抗弁しましたが、すべて逃げ道をふさがれていましたよ』と当時を振り返っている。石橋正二郎氏はパーキンソン病を患って1975年後半には出社しなくなり、1976年9月11日に87年の生涯を閉じた。社葬は同月28日に青山葬儀所で営まれ、会葬者は4,500人にのぼった。

  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)八章 激変する環境への対応
    • [18]1973年5月15日 石橋正二郎会長が取締役会で引退を声明
    • [19]創業以来42年の最高責任者が退き、新会長に石橋幹一郎社長・新社長に柴本重理副社長を指名
    • [21]石橋家の一族縁者でない柴本重理の社長就任は会社内外に多大の反響を呼んだ
    • [22]石橋正二郎はパーキンソン病で1975年後半から出社せず/1976年9月11日 87歳で死去
    • [23]1976年9月28日 青山葬儀所で社葬/会葬者4,500人
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [20]柴本重理 1939年ブリヂストンタイヤ入社/1947年取締役・1949年常務・1958年専務・1963年副社長・1973年5月社長就任

引退から5か月後、第四次中東戦争が世界的な石油危機の発端となった。危機は原材料と燃料の逼迫となって現れ、11月末に見込んだ12月の充足率は合成ゴムとタイヤコードで約80%、カーボンブラックで70%、重油で60%だった。素原料のナフサはキロリットル当たり1973年10月の8,000円が1年後には2万5000円へ3倍に騰がり、1974年1月、補修用タイヤで30%、新車用で15%の値上げに踏み切った。もっとも1972年初めから原材料の調達源を国際的に分散させており、海外調達で当面の不足を補うことができた。値上げは売上に跳ね返り、1973年12月期の2,258億円は翌期2,944億円へ伸びている。

  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)八章 激変する環境への対応
    • [24]1973年10月6日 第四次中東戦争が世界的な石油危機の発端
    • [25]1973年11月末に見込んだ12月の原材料充足率 合成ゴム・タイヤコード約80%/カーボンブラック70%/重油60%
    • [26]ナフサ価格 1973年10月 キロリットル当たり8,000円 → 1974年10月 2万5000円
    • [27]1974年1月 補修用タイヤ30%・新車用15%の値上げを実施
    • [28]1972年初めから原材料調達源の国際的拡散に着手し、石油危機時に海外調達で不足を補塡
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [29]売上高 1973年12月期2,258億円 → 1974年12月期2,944億円

1974年2月の消費者物価は前年同月比26.3%上昇し、国会は物価集中審議の形で大企業経営者を参考人として喚問した。4月3日の参議院予算委員会には柴本重理社長も出席している。値上げにあたり業界各社が原材料の動向や市場の動きを情報交換した結果、各社の値上げ幅は似通っていた。公正取引委員会はこれを不当な取引制限に当たるとして4月2日に1団体7社の32か所を立入り調査し、8月に価格協定破棄を勧告、当社は11月9日に決定の破棄を報告した。需要は1974年3月の需給ギャップ解消後に急減し、タイヤ9工場の操業短縮は1974年91日、1975年261日、1976年160日へ及んだ。補修用タイヤの販売が1973年の実績を上回るのは1979年である。

  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)八章 激変する環境への対応
    • [30]1974年2月の消費者物価は前年同月比26.3%上昇
    • [31]1974年4月3日 参議院予算委員会に柴本重理社長が参考人として出席
    • [32]値上げにあたる業界各社の情報交換の結果、各社の値上げ幅が似通ったものとなった
    • [33]1974年4月2日 公正取引委員会が日本自動車タイヤ協会と7社の32か所を立入り調査
    • [34]1974年8月 公取委が7社へ価格協定破棄の勧告/同年11月9日 当社が破棄を報告
    • [35]タイヤ9工場の操業短縮 1974年91日・1975年261日・1976年160日
    • [36]補修用タイヤの販売が1973年の実績を上回ったのは1979年
参考文献[18]-[36]
  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)八章 激変する環境への対応
    • [18]1973年5月15日 石橋正二郎会長が取締役会で引退を声明
    • [19]創業以来42年の最高責任者が退き、新会長に石橋幹一郎社長・新社長に柴本重理副社長を指名
    • [21]石橋家の一族縁者でない柴本重理の社長就任は会社内外に多大の反響を呼んだ
    • [22]石橋正二郎はパーキンソン病で1975年後半から出社せず/1976年9月11日 87歳で死去
    • [23]1976年9月28日 青山葬儀所で社葬/会葬者4,500人
    • [24]1973年10月6日 第四次中東戦争が世界的な石油危機の発端
    • [25]1973年11月末に見込んだ12月の原材料充足率 合成ゴム・タイヤコード約80%/カーボンブラック70%/重油60%
    • [26]ナフサ価格 1973年10月 キロリットル当たり8,000円 → 1974年10月 2万5000円
    • [27]1974年1月 補修用タイヤ30%・新車用15%の値上げを実施
    • [28]1972年初めから原材料調達源の国際的拡散に着手し、石油危機時に海外調達で不足を補塡
    • [30]1974年2月の消費者物価は前年同月比26.3%上昇
    • [31]1974年4月3日 参議院予算委員会に柴本重理社長が参考人として出席
    • [32]値上げにあたる業界各社の情報交換の結果、各社の値上げ幅が似通ったものとなった
    • [33]1974年4月2日 公正取引委員会が日本自動車タイヤ協会と7社の32か所を立入り調査
    • [34]1974年8月 公取委が7社へ価格協定破棄の勧告/同年11月9日 当社が破棄を報告
    • [35]タイヤ9工場の操業短縮 1974年91日・1975年261日・1976年160日
    • [36]補修用タイヤの販売が1973年の実績を上回ったのは1979年
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [20]柴本重理 1939年ブリヂストンタイヤ入社/1947年取締役・1949年常務・1958年専務・1963年副社長・1973年5月社長就任
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [29]売上高 1973年12月期2,258億円 → 1974年12月期2,944億円

1977年〜内部固めが生んだ余力と米国生産への踏み切り

年間設備投資額は1974年度の267億円から1976年度145億円へ落ち、1977年度207億円、1978年度210億円と持ち直したものの、1969年度216億円・1970年度279億円の水準を下回った。有利子負債は1974年度の856億円から1978年度には397億円へ減り、自己資本比率は32.9%から42.4%へ上がっている。設備へ向かわない資金は運用へ回り、1974年度に17億800万円だった短期有価証券は1978年12月末で239億6400万円に膨らんだ。産業界が減量経営へ傾くなか、柴本重理氏は『私は、だいたい減量とか、ちぢこまるとか、そういうのは好きじゃないのです』と語っている。年220億円程度の設備投資は、すべて自己資金の範囲に収まっていた。

  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [37]年間設備投資額 1974年度267億円・1975年度172億円・1976年度145億円・1977年度207億円・1978年度210億円/1969年度216億円・1970年度279億円を下回る
    • [38]有利子負債 1974年度856億円 → 1978年度397億円
    • [39]自己資本比率 1974年度32.9% → 1976年度39.7% → 1978年度42.4%
    • [40]短期有価証券 1974年度17億800万円 → 1978年12月末239億6400万円
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [41]220億円の設備投資はすべて自己資金の範囲で、なお余裕があるとの説明

1978年度、大手4社の売上高合計7,142億円のうち当社は3,699億円で51.7%を占め、経常利益では合計341億6900万円のうち316億200万円、実に92.5%を握っていた。源泉は価格差販売にあり、首位に立った1960年代後半から一貫して他社の製品とどこが違うかを説く教育が続いた。支店が本社へ出す月報には、他社との価格差を必ず記入させた。トラック用タイヤの価格は他社より5〜8%高かった。国内シェアは5割に迫っていたが、輸入タイヤと更新タイヤを含めた構成比ではより低かった。弱点を問われた柴本氏は『最近はやや、ひ弱さが出てきている。もっと挑戦して闘わなきゃならない。戦闘性は企業の本性。高度成長期とは違う挑戦の仕方があるはずだ』と答えている。

  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [42]1978年度 大手4社の売上高合計7,142億円のうち当社3,699億円(51.7%)/経常利益合計341億6900万円のうち316億200万円(92.5%)
    • [43]格差販売を伝統的な政策とし、支店の月報に他社との価格差を必ず記入させた
    • [44]格差販売を伝統的な政策とし、支店の月報に他社との価格差を必ず記入させた
    • [45]トラック用タイヤの価格は他社より5〜8%高い
    • [47]現在の弱点を問われ、やや、ひ弱さが出てきていると回答
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [46]輸入タイヤ・更新タイヤを含めた構成比ではシェアはより低い

柴本氏が1978年末に『もう、タイヤは先行き数パーセントしか伸びないでしょう』と語り、価値の高い製品に絞って伸ばす以外に道はないとしたのは、国内向けタイヤの伸びしろが細ってきていたからである。非タイヤ部門は、育つと独立会社として切り出す方式を取っていたため、本体の構成比に反映されにくかった。実際に売上高に占める比率は1974年12月期が16.7%、1978年12月期が16.1%で横ばいにとどまり、理想として掲げたタイヤ70・非タイヤ30には遠く及ばなかった。1980年の年頭、石橋幹一郎会長は社員に対し、自社開発によって新たな技術の柱を立てることが競争を勝ち抜く唯一の道だと説いた。服部邦雄氏は1981年3月の社長就任にあたり、国内シェア50%の維持と、グッドイヤー・ミシュランに続く世界3位への進出を使命とした。

  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [48]タイヤは先行き数パーセントしか伸びず、付加価値の高いものを選んで育てるほかないとの認識
    • [49]理想はタイヤ70・非タイヤ30/事業がまとまると分離・独立会社にするため本体の比率が上がらない
  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [50]非タイヤ部門の売上高構成比 1974年12月期16.7% → 1978年12月期16.1%
  • 80年代わが社の戦略(1980)「ブリヂストンタイヤ 石橋幹一郎」
    • [51]1980年 石橋幹一郎会長の年頭方針「自己開発で新機軸を生み出すことだけが国際・国内両面での激しい競争を克服しうる唯一の途」
  • 日経ビジネス 1981年4月20日号
    • [52]1981年3月27日 服部邦雄が社長に就任/国内シェア50%の維持と世界ビッグスリー入りを使命と表明

余力の向け先は米国市場だった。1980年12月に豪UNIROYAL HOLDINGS LTD.の株式を買収し、1982年11月には米国にBRIDGESTONE TIRE MANUFACTURING (U.S.A.), INC.を設立して、翌1983年にファイアストンからトラック用タイヤの工場を取得し、1984年4月には社名を株式会社ブリヂストンへ改めた。1985年には脱同族化を担う石橋幹一郎氏の意向で家入昭氏が社長に就任し、1987年、懸案だった乗用車タイヤの米国生産に踏み切った。米国での知名度は低く、輸出は250万本でシェアは2%弱にとどまっていた。新車用ではなく付加価値の高い補修用市場に絞り、4%を目指すとした。最大の障害は、社歴の長い者が条件のよい職場を選べる先任権の協約改定だった。

  • ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
    • [53]1980年12月 オーストラリアのUNIROYAL HOLDINGS LTD.の株式を買収
    • [54]1982年11月 米国にBRIDGESTONE TIRE MANUFACTURING(U.S.A.),INC.を設立
    • [56]1984年4月 株式会社ブリヂストンに社名を変更
  • 日経ビジネス 1987年5月11日号
    • [55]1983年 米ファイアストンからトラック用タイヤ工場を買収
    • [57]1985年 家入昭が社長に就任/若返りと脱同族化をはかる石橋幹一郎の意向によるトップ交代
    • [58]1987年 懸案だった乗用車タイヤの米国生産を決定
    • [59]米国での輸出250万本・シェア2%弱
    • [60]新車用は値を叩かれるため補修用タイヤ市場に絞りシェア4%を目標
    • [61]米国生産の最大の問題は社歴の長い者が条件のよい職場を優先して選べる先任権をめぐる労働協約の改定
参考文献[37]-[61]
  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
    • [37]年間設備投資額 1974年度267億円・1975年度172億円・1976年度145億円・1977年度207億円・1978年度210億円/1969年度216億円・1970年度279億円を下回る
    • [38]有利子負債 1974年度856億円 → 1978年度397億円
    • [39]自己資本比率 1974年度32.9% → 1976年度39.7% → 1978年度42.4%
    • [40]短期有価証券 1974年度17億800万円 → 1978年12月末239億6400万円
    • [42]1978年度 大手4社の売上高合計7,142億円のうち当社3,699億円(51.7%)/経常利益合計341億6900万円のうち316億200万円(92.5%)
    • [43]格差販売を伝統的な政策とし、支店の月報に他社との価格差を必ず記入させた
    • [44]格差販売を伝統的な政策とし、支店の月報に他社との価格差を必ず記入させた
    • [45]トラック用タイヤの価格は他社より5〜8%高い
    • [47]現在の弱点を問われ、やや、ひ弱さが出てきていると回答
    • [50]非タイヤ部門の売上高構成比 1974年12月期16.7% → 1978年12月期16.1%
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [41]220億円の設備投資はすべて自己資金の範囲で、なお余裕があるとの説明
    • [46]輸入タイヤ・更新タイヤを含めた構成比ではシェアはより低い
    • [48]タイヤは先行き数パーセントしか伸びず、付加価値の高いものを選んで育てるほかないとの認識
    • [49]理想はタイヤ70・非タイヤ30/事業がまとまると分離・独立会社にするため本体の比率が上がらない
  • 80年代わが社の戦略(1980)「ブリヂストンタイヤ 石橋幹一郎」
    • [51]1980年 石橋幹一郎会長の年頭方針「自己開発で新機軸を生み出すことだけが国際・国内両面での激しい競争を克服しうる唯一の途」
  • 日経ビジネス 1981年4月20日号
    • [52]1981年3月27日 服部邦雄が社長に就任/国内シェア50%の維持と世界ビッグスリー入りを使命と表明
  • ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
    • [53]1980年12月 オーストラリアのUNIROYAL HOLDINGS LTD.の株式を買収
    • [54]1982年11月 米国にBRIDGESTONE TIRE MANUFACTURING(U.S.A.),INC.を設立
    • [56]1984年4月 株式会社ブリヂストンに社名を変更
  • 日経ビジネス 1987年5月11日号
    • [55]1983年 米ファイアストンからトラック用タイヤ工場を買収
    • [57]1985年 家入昭が社長に就任/若返りと脱同族化をはかる石橋幹一郎の意向によるトップ交代
    • [58]1987年 懸案だった乗用車タイヤの米国生産を決定
    • [59]米国での輸出250万本・シェア2%弱
    • [60]新車用は値を叩かれるため補修用タイヤ市場に絞りシェア4%を目標
    • [61]米国生産の最大の問題は社歴の長い者が条件のよい職場を優先して選べる先任権をめぐる労働協約の改定

筆者考察

柴本重理氏が受け取ったのは、創業者が用意した資産と、創業者のいない会社だった。1973年5月に石橋正二郎氏が引退を声明し、その5か月後に石油危機が来る。重油の充足率は60%まで落ち、ナフサは1年で3倍になり、補修用タイヤを30%値上げした。値上げは増収に結びついたが、その決算を前に柴本氏は参議院予算委員会へ参考人として呼ばれ、公正取引委員会は各社を立入り調査した。オーナーの一声で工場を建てる経営はここで終わり、柴本氏が選んだのは反対向きの策だった。設備投資を1974年度の267億円から1976年度145億円へ落とし、有利子負債を856億円から397億円へ返す。創業者が世を去った1976年、会社は拡大ではなく内部固めの途中にあった。

拡大をやめた数年で、会社は極端に強くなり、同時に使い道のない余力を抱えた。1978年度、大手4社の経常利益341億円のうち316億円、実に92.5%を1社で握っている。他社より5〜8%高い値で売り切る力がありながら、国内タイヤは先行き数パーセントしか伸びず、非タイヤは16%で横ばい、行き場のない資金は239億円の短期有価証券として積み上がった。出口は米国しかない。1982年に現地法人、1983年にファイアストンの工場、1987年に乗用車タイヤの現地生産と順に着手する。だが米国での持ち分は輸出250万本の2%弱で、名前すら知られていなかった。久留米で半値のタイヤを売った会社が、半世紀を経て無名の新参からやり直す位置に立っていた。

年間設備投資額の推移 1969年度〜1978年度(億円)

216 1969 279 1970 267 1974 172 1975 145 1976 207 1977 210 1978
  • 1971年度から1973年度は数値を持たないため置いていない。
  • 出所は日経ビジネス 1980年1月14日号「ケーススタディ ブリヂストンタイヤ」。

1968年〜1987年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1968年12月期 単体 1,050 n/a n/a 57 5.5% n/a
1969年12月期 単体 1,246 +18.7% n/a 68 5.5% n/a
1970年12月期 単体 1,511 +21.3% 137 76 5.1% n/a
1971年12月期 単体 1,573 +4.1% 130 68 4.3% n/a
1972年12月期 単体 1,788 +13.7% 201 96 5.4% n/a
1973年12月期 単体 2,258 +26.3% 254 118 5.2% インドネシアに合弁会社P.T. Bridgestone Tire Indonesiaを設立(1973/09)
1974年12月期 単体 2,944 +30.4% 302 119 4.1% n/a
1975年04月期 単体 2,953 +0.3% n/a 165 5.6% n/a
1976年04月期 単体 3,271 +10.8% n/a 125 3.8% n/a
1977年04月期 単体 3,538 +8.2% n/a 137 3.9% n/a
1978年04月期 単体 3,699 +4.6% n/a 149 4.0% n/a
1979年04月期 単体 4,343 +17.4% n/a 253 5.8% n/a
1980年04月期 単体 4,176 ▲3.8% n/a 244 5.8% n/a
1981年04月期 単体 5,140 +23.1% n/a 141 2.7% n/a
1982年04月期 単体 4,908 ▲4.5% n/a 171 3.5% n/a
1983年04月期 単体 5,134 +4.6% n/a 154 3.0% 米国にBridgestone Tire Manufacturing(U.S.A.)を設立(1982/11)
1984年04月期 単体 5,467 +6.5% n/a 176 3.2% n/a
1985年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年12月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

9件
出典・参考
  • ブリヂストン 有価証券報告書 第107期(2025年12月期)【沿革】
  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)七章 自主技術の確立と国際化
  • ブリヂストンタイヤ五十年史(ブリヂストンタイヤ, 1982)八章 激変する環境への対応
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
  • 日経ビジネス 1980年1月14日号
  • 日経ビジネス 1981年4月20日号
  • 日経ビジネス 1987年5月11日号
  • 80年代わが社の戦略(1980)「ブリヂストンタイヤ 石橋幹一郎」

免責事項およびポリシー