第1章 年〜年

大塚HD:大塚製薬工場の創業と輸液中心の医療用製品

1921年〜鳴門の苦汁から炭酸マグネシウムを製造する大塚製薬工場と、4度の応召

大塚製薬工場は、大塚武三郎氏が徳島県鳴門で営んだ炭酸マグネシウムの製造工場である。原料には、製塩の副産物として出る苦汁(ニガリ)を用いた。従業員は20人足らずで、製品は工業用の炭酸マグネシウムに限られていた。大塚武三郎氏は無借金経営を通し、銀行とは預金の取引にとどめて三十四銀行を選んだ。個人経営の工場を法人に改めることも、1969年まで認めなかった。法人化の遅れから、のちに大塚正士氏は税金対策の意味も込めて周辺に株式会社を次々と設立した。塩の町で化学品の工場が成り立ったのは、原料の苦汁を地元の製塩業から安く確保できたためとみられる。

  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [1]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [2]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [3]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [4]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
  • 日経ビジネス 1991年4月15日号 21世紀への100人 大塚明彦氏(大塚製薬社長)
    • [5]大塚武三郎氏が鳴門で創業。大塚製薬工場の法人化を1969年まで許さず、大塚正士氏が税金対策などから周辺に株式会社を次々設立
    • [6]大塚武三郎氏が鳴門で創業。大塚製薬工場の法人化を1969年まで許さず、大塚正士氏が税金対策などから周辺に株式会社を次々設立

長男の大塚正士氏は1934年に撫養中学を卒業し、父の工場で働き始めた。大塚正士氏は堅実経営の父である大塚武三郎氏を説得し、製品の多角化を進めた。妹の嫁ぎ先の父親から、1品だけの製造は危険だと繰り返し指摘されたことが発端である。工場での臭素カリの製造開始と、富士フイルムへの納入。一方で、納入先の大手製薬会社はブロームカルシウムを100グラム1円で仕入れ、2円で販売していた。大塚正士氏はこの差を知り、下請けのままでは多角化しても利益が残らないと考えた。1937年から1945年にかけては4回応召した。多角化の構想は、応召のたびに中断を重ねたと推察される。

  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
    • [7]大塚正士氏は1934年撫養中学卒業後に父の工場で働き、堅実経営の父を説得して製品多角化を進めるも1937〜1945年に4回応召
    • [8]大塚正士氏は1934年撫養中学卒業後に父の工場で働き、堅実経営の父を説得して製品多角化を進めるも1937〜1945年に4回応召
    • [13]大塚正士氏は1934年撫養中学卒業後に父の工場で働き、堅実経営の父を説得して製品多角化を進めるも1937〜1945年に4回応召
  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [9]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
    • [10]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
    • [11]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
    • [12]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
参考文献[1]-[13]
  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [1]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [2]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [3]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [4]大塚製薬工場は鳴門で苦汁(ニガリ)を原料に工業用炭酸マグネシウムを製造する従業員20人足らずの零細企業。大塚武三郎氏は無借金主義で三十四銀行と取引
    • [9]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
    • [10]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
    • [11]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
    • [12]妹の嫁ぎ先の父親の助言で臭素カリを製造し富士フイルムへ納入。納入先大手製薬がブロームカルシウムを100g1円で仕入れ2円で販売していたのを知り、下請けの限界を悟る
  • 日経ビジネス 1991年4月15日号 21世紀への100人 大塚明彦氏(大塚製薬社長)
    • [5]大塚武三郎氏が鳴門で創業。大塚製薬工場の法人化を1969年まで許さず、大塚正士氏が税金対策などから周辺に株式会社を次々設立
    • [6]大塚武三郎氏が鳴門で創業。大塚製薬工場の法人化を1969年まで許さず、大塚正士氏が税金対策などから周辺に株式会社を次々設立
  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
    • [7]大塚正士氏は1934年撫養中学卒業後に父の工場で働き、堅実経営の父を説得して製品多角化を進めるも1937〜1945年に4回応召
    • [8]大塚正士氏は1934年撫養中学卒業後に父の工場で働き、堅実経営の父を説得して製品多角化を進めるも1937〜1945年に4回応召
    • [13]大塚正士氏は1934年撫養中学卒業後に父の工場で働き、堅実経営の父を説得して製品多角化を進めるも1937〜1945年に4回応召

1946年〜終戦直後の注射薬への転進と、大衆薬を開いたオロナイン軟膏

大塚正士氏は戦時中から基礎物資を買い入れ、戦後の値上がりで事業の元手を得た。終戦の時点で紙幣の価値が急落すると読み、財産を土地と物資に換える方針を固めた。第一次大戦後のドイツで起きたインフレの話が、判断の手がかりになったという。石炭は統制が外れた直後に、工場の敷地が埋まるほど購入した。重曹は、50キログラム入りで13円の品が1万円ほどにまで値上がり。大塚正士氏は、昭和20年代の混乱期を好機として生かした。統制の解除と物価の騰貴が重なる時期に物資を抱えていたことが、医薬品へ転じる資金の源になったと思われる。

  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [14]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [15]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [16]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [17]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [18]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
    • [19]昭和20年代の混乱期を千載一遇の好機とした経営者として大塚正士氏を描写

大塚正士氏は1946年に注射薬の製造を始め、医薬品へ進出した。下請けのままでは利益が残らないと見て、最終製品を自社で製造して自立する方針を立てた。父の大塚武三郎氏を説得し、物資で得た利益をブドウ糖やリンゲル液の注射薬に投じた。1947年には、父から経営権を譲り受けた。生産開始から3年間は競合がなく、薬局への割り当て制と代金先払いでも売れた。その後は大手の参入とドッジラインで月商が1800万円程度に減り、毎月250万円の赤字を計上した。朝鮮戦争の特需では、第一物産から2000万円の前金付きで滅菌蒸留水を受注。1951年末には累積赤字を解消し、黒字に転じた。

  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
    • [20]1946年から注射薬の製造を始め医薬に進出、1947年に父から経営権の譲渡を受ける
    • [23]1946年から注射薬の製造を始め医薬に進出、1947年に父から経営権の譲渡を受ける
  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [21]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [22]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [24]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [25]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [26]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [27]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃

大塚正士氏は点滴注射液を500ミリリットル入りのバイアル瓶で発売し、注射薬の月商を1億円台に乗せた。それでも注射薬1本では不安が残るとして、2本目の主力商品を求めた。1953年には、第一物産から紹介されたオロナイト・ケミカル社の殺菌消毒剤を軟膏に仕立て、オロナイン軟膏として発売した。臭いの苦情で売上が月3000万円で止まると、無臭の原料に切り替えて旧製品を無償で交換し、1年足らずで売上を1億円台に乗せた。1963年に設立した大塚製薬は、輸液とオロナイン軟膏を大塚製薬工場から仕入れ、病院や薬局へ卸す販売会社だった。病院と店頭の双方に築いた販路が、のちの消費者向け飲料の販売力の基盤になったのだろう。

  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [28]点滴注射液を500mlバイアル瓶で発売し月商1億円台。注射薬だけでは不安で主力商品を追加。オロナインは臭いで月3000万円頭打ち、無臭原料で旧製品無償交換し1年足らずで1億円台
    • [29]点滴注射液を500mlバイアル瓶で発売し月商1億円台。注射薬だけでは不安で主力商品を追加。オロナインは臭いで月3000万円頭打ち、無臭原料で旧製品無償交換し1年足らずで1億円台
    • [31]点滴注射液を500mlバイアル瓶で発売し月商1億円台。注射薬だけでは不安で主力商品を追加。オロナインは臭いで月3000万円頭打ち、無臭原料で旧製品無償交換し1年足らずで1億円台
  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
    • [30]1953年に「オロナイン軟膏」を発売し大衆薬分野に参入
  • 日経ビジネス 1982年10月18日号 大塚製薬グループスタディ
    • [32]大塚製薬は1963年に販売会社として発足し、輸液・オロナイン軟膏を大塚製薬工場から仕入れ病院・薬局・薬店へ卸した
参考文献[14]-[32]
  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
    • [14]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [15]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [16]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [17]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [18]戦中から基礎物資を買い集め、戦後は統制解除直後に石炭を買い占め、重曹は50kg入り13円が1万円ほどに値上がり。終戦時に財産を土地と物にと判断、第一次大戦後のドイツのインフレが手がかり
    • [21]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [22]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [24]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [25]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [26]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [27]終戦を機に最終製品を自ら製造する方針。物資の利益をブドウ糖・リンゲル液の注射薬に投入、3年間独走の後ドッジラインで月商1800万円・月250万円の赤字。朝鮮特需で第一物産から2000万円前金の受注、1951年末に累積赤字一掃
    • [28]点滴注射液を500mlバイアル瓶で発売し月商1億円台。注射薬だけでは不安で主力商品を追加。オロナインは臭いで月3000万円頭打ち、無臭原料で旧製品無償交換し1年足らずで1億円台
    • [29]点滴注射液を500mlバイアル瓶で発売し月商1億円台。注射薬だけでは不安で主力商品を追加。オロナインは臭いで月3000万円頭打ち、無臭原料で旧製品無償交換し1年足らずで1億円台
    • [31]点滴注射液を500mlバイアル瓶で発売し月商1億円台。注射薬だけでは不安で主力商品を追加。オロナインは臭いで月3000万円頭打ち、無臭原料で旧製品無償交換し1年足らずで1億円台
  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
    • [19]昭和20年代の混乱期を千載一遇の好機とした経営者として大塚正士氏を描写
    • [20]1946年から注射薬の製造を始め医薬に進出、1947年に父から経営権の譲渡を受ける
    • [23]1946年から注射薬の製造を始め医薬に進出、1947年に父から経営権の譲渡を受ける
    • [30]1953年に「オロナイン軟膏」を発売し大衆薬分野に参入
  • 日経ビジネス 1982年10月18日号 大塚製薬グループスタディ
    • [32]大塚製薬は1963年に販売会社として発足し、輸液・オロナイン軟膏を大塚製薬工場から仕入れ病院・薬局・薬店へ卸した

出典・参考

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出典・参考
  • 日経ビジネス 1978年9月11日号 編集長インタビュー 大塚正士氏(大塚製薬会長)
  • 日経ビジネス 1982年10月18日号 大塚製薬グループスタディ
  • 日経ビジネス 1983年7月25日号 シリーズ
  • 日経ビジネス 1991年4月15日号 21世紀への100人 大塚明彦氏(大塚製薬社長)

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