電通グループ:光永星郎による日本電報通信社の設立と通信・広告の一体化
1901年〜広告主の出資で立てた資本金10万円の日本広告と、銀座裏に併設した電報通信社
1901年7月1日、光永星郎氏による資本金10万円の日本広告株式会社の設立。光永星郎氏は1866年に熊本県八代郡で生まれ、創業時は36歳だった。光永星郎氏は台湾総督府を退官したのち1900年に上京し、蓄えた300円を準備金として通信社の構想を練った。相談を受けた人の多くは、政党に属さない通信社は存続できないとして計画の中止を勧めた。光永星郎氏は出資を求めて大広告主を回り、売薬・化粧品・出版・タバコの経営者を役員に迎えた。会長は衆議院議員の日向輝武氏、専務は山崎帝国堂の山崎嘉太郎氏で、創業者の光永星郎氏は常務取締役にとどまった。定款は社長の席を設けておらず、発足時の主導権は出資した広告主が握っていたと思われる。
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [1]1901年7月 光永星郎が資本金10万円で日本広告株式会社を設立
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [2]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [3]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [4]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [5]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [6]1901年7月1日開業時の役員は会長日向輝武・専務山崎嘉太郎・常務光永星郎ほか広告主で、定款に社長は無かった
- [7]1901年7月1日開業時の役員は会長日向輝武・専務山崎嘉太郎・常務光永星郎ほか広告主で、定款に社長は無かった
1901年11月、光永星郎氏は日本広告株式会社の社屋内に電報通信社を併設し、通信社の業務を始めた。同時に切抜通信社も置き、両社の経営を取締役の権藤震二氏に任せた。政治青年だった光永星郎氏の本来の目標は、通信社の経営にあった。日清戦争の特派員として、得た情報を内地へ送る機関が無い不便を経験していた。しかし両通信社の規模は小さく、創業当初は大株主の意向を尊重して通信業に力を注がなかった。光永星郎氏は銀座裏に拠って、資金も後ろ盾もないところから事業を起こした。光永星郎氏自身も後年、創業を非常な難産だったと振り返っている。広告会社は、通信社を持つための足場として置かれたと推察される。
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [8]1901年11月 日本広告株式会社社屋内に電報通信社を併設し通信社業務を開始
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [9]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [10]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [11]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [12]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [14]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- 森永五十五年史(1954)
- [13]光永星郎は銀座裏に開業し徒手空拳で事業を築いた
光永星郎氏が通信より先に広告を手がけたのは、地方紙の求めが広告の取次にあったからである。郷里で小新聞を出していた弟の光永真三氏は、地方紙は通信より広告のサービスを欲していると伝えた。山崎嘉太郎氏は広告代理業からの出発を勧め、談合を排した公正な取引と低い手数料率なら歓迎されると助言した。光永星郎氏は、広告代理業が利潤を生めば兼営の通信業も成り立つとの見通しを得た。当時の有力な代理業者は談合で料金と手数料をつり上げ、直取引の広告主や新聞社には取次を拒んでいた。徳富猪一郎氏は、光永星郎氏が村井商会主の村井吉兵衛氏を100回訪ねたという逸話を記した。広告を先にした創業の順序は、通信を続けるための資金源を先に確保する判断だったのだろう。
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [15]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [16]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [17]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [18]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [19]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- 日本電報 1941年2月号「光永八火翁の橫顏」德富猪一郞 p46-48
- [20]光永星郎は村井商会主村井吉兵衛を訪問すること百回に達した
参考文献[1]-[20]
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [1]1901年7月 光永星郎が資本金10万円で日本広告株式会社を設立
- [8]1901年11月 日本広告株式会社社屋内に電報通信社を併設し通信社業務を開始
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [2]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [3]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [4]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [5]光永星郎は手許資金がほぼ無く、台湾時代の300円を準備金に通信社を構想したが周囲は中止を勧め、山崎嘉太郎の助言で大広告主に出資者になってもらった
- [6]1901年7月1日開業時の役員は会長日向輝武・専務山崎嘉太郎・常務光永星郎ほか広告主で、定款に社長は無かった
- [7]1901年7月1日開業時の役員は会長日向輝武・専務山崎嘉太郎・常務光永星郎ほか広告主で、定款に社長は無かった
- [9]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [10]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [11]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [12]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [14]光永の夢は通信社経営にあり、創業時に電報通信社と切抜通信社を併設して権藤震二に経営させたが規模は小さく、当初は大株主の意見で通信業に力を注がなかった。日清戦争の特派員体験で通信機関の必要を痛感。創業を後年「非常な難産」と回顧
- [15]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [16]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [17]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [18]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- [19]弟の光永真三は地方紙が通信より広告サービスを欲していると述べ、山崎嘉太郎は談合を排した公正取引・低廉な手数料率の広告代理業から始めるよう助言。当時の代理業者は談合で料金をつり上げ直取引を妨げていた
- 森永五十五年史(1954)
- [13]光永星郎は銀座裏に開業し徒手空拳で事業を築いた
- 日本電報 1941年2月号「光永八火翁の橫顏」德富猪一郞 p46-48
- [20]光永星郎は村井商会主村井吉兵衛を訪問すること百回に達した
1906年〜資本金26万円で一社にした日本電報通信社と、社員300人の京橋の本社
1906年12月、株式会社日本電報通信社が設立され、電報通信社の事務を引き継いだ。翌1907年8月には日本広告株式会社を合併し、資本金を26万円へ増資。徳富猪一郎氏も、両社の合併によって日本電報通信社が創立されたと回想している。合併の時点で光永星郎氏は専務取締役として、大株主に遠慮せずに采配を振るえる立場を得ていた。合併を終えた光永星郎氏は通信部門の拡充へ向かい、明治末期には福岡日日新聞と通信契約を結んだ。暗号を使わない書き流し式の電報で、地方紙の速報需要に応えた。広告の勘定と通信の勘定を一社に収め、広告部門の利益を通信部門の投資に充当する仕組みが整ったとみられる。
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [21]1906年12月 株式会社日本電報通信社を設立し旧電報通信社の事務を継承。1907年8月 日本広告株式会社を合併し資本金を26万円に増資
- [22]1906年12月 株式会社日本電報通信社を設立し旧電報通信社の事務を継承。1907年8月 日本広告株式会社を合併し資本金を26万円に増資
- 日本電報 1941年2月号「光永八火翁の橫顏」德富猪一郞 p46-48
- [23]両社を合併して現在の日本電報通信社が創立された
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [24]合併後の光永は専務取締役として大株主に遠慮なく采配。1907年の兼業体制確立後に通信部門拡充に注力し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、書き流し式電報で地方紙に歓迎された
- [25]合併後の光永は専務取締役として大株主に遠慮なく采配。1907年の兼業体制確立後に通信部門拡充に注力し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、書き流し式電報で地方紙に歓迎された
- [26]合併後の光永は専務取締役として大株主に遠慮なく采配。1907年の兼業体制確立後に通信部門拡充に注力し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、書き流し式電報で地方紙に歓迎された
1923年、光永星郎氏は社長の肩書きを得た。それまでの定款には社長の席が無く、光永星郎氏は専務取締役として実務を率いていた。同年春に入社した田嶋一雄氏は、社屋が京橋区加賀町にあり、社員は300人余りで、通信と広告の2部門があったと回想している。大正期には通信部門の責任者に甥の上田碩三氏を据え、1918年にアメリカのUP通信社とニュース契約を結んだ。1914年のシーメンス事件では常務取締役の権藤震二氏が引責辞職し、通信部門の信用が一時揺らいだ。1923年9月1日の関東大震災で加賀町の社屋は焼失したものの、光永星郎氏は営業成績を前年より引き上げた。社長制は、大きくなった2部門を1人の決裁でつなぐための整理だったと考えられる。
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [27]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [28]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [30]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [31]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [32]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- 私の履歴書 経済人21 田嶋一雄(1923年に日本電報通信社へ入社)
- [29]1923年春入社時の日本電報通信社は通信と広告の2部門、社屋は京橋区加賀町、社員300人余り
参考文献[21]-[32]
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [21]1906年12月 株式会社日本電報通信社を設立し旧電報通信社の事務を継承。1907年8月 日本広告株式会社を合併し資本金を26万円に増資
- [22]1906年12月 株式会社日本電報通信社を設立し旧電報通信社の事務を継承。1907年8月 日本広告株式会社を合併し資本金を26万円に増資
- 日本電報 1941年2月号「光永八火翁の橫顏」德富猪一郞 p46-48
- [23]両社を合併して現在の日本電報通信社が創立された
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [24]合併後の光永は専務取締役として大株主に遠慮なく采配。1907年の兼業体制確立後に通信部門拡充に注力し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、書き流し式電報で地方紙に歓迎された
- [25]合併後の光永は専務取締役として大株主に遠慮なく采配。1907年の兼業体制確立後に通信部門拡充に注力し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、書き流し式電報で地方紙に歓迎された
- [26]合併後の光永は専務取締役として大株主に遠慮なく采配。1907年の兼業体制確立後に通信部門拡充に注力し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、書き流し式電報で地方紙に歓迎された
- [27]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [28]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [30]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [31]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- [32]光永の社長の肩書は1923年から。上田碩三が1918年にUPとニュース契約。1914年シーメンス事件で常務権藤震二が引責辞職。関東大震災で加賀町社屋焼失も営業成績は前年以上
- 私の履歴書 経済人21 田嶋一雄(1923年に日本電報通信社へ入社)
- [29]1923年春入社時の日本電報通信社は通信と広告の2部門、社屋は京橋区加賀町、社員300人余り
1928年〜シーメンス式電送で日刊紙の9割を結んだ通信網と、銀座西七丁目の新社屋
1928年11月1日、日本電報通信社はドイツのシーメンス社のテレフォン式電送を実用に供した。大阪毎日と東京日日が先に写真電送を試み、東西の朝日も実用化を進めていた。両大紙の電送は自社専用だったのに対し、日本電報通信社は受信した写真を全国の日刊紙に供給した。日本電報通信社の方式は搬送式で、朝日が1本に17〜18分を要したのに対し3分で足りたという。同年11月6日には京都と東京の間で、試送を含め50本余りを交換した。通信部門の好敵手だった帝国通信社は1928年に倒産し、1926年発足の新聞連合社が新たな競争相手となっていた。電送への投資は、全国紙に対する速報の競争劣位を避けるための備えと解される。
- 事業之日本 7(12) 1928年12月号「電送通信網で東洋に冠絕する日本電報通信社長光永星郞君」p102-103
- [33]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [34]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [35]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [36]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [37]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [38]帝通は1928年に倒産し、1926年誕生の新聞連合社が電通通信部門のライバルとなった
1928年時点で、全国に200社弱ある輪転機を備えた日刊紙のうち、9割が日本電報通信社の特約先だった。国内外の支局は35か所に及び、アメリカの合同通信と特約して海外ニュースを取り入れた。同じ記事は、日本電報通信社が広告の取扱いでも地方ごとに強い地盤を持っていたと伝えている。地方紙は通信料金を広告料金で差し引いて決済する方式を歓迎し、通信の特約先が広告枠の仕入れ先を兼ねた。通信部門は独立の勘定では万年赤字だったものの、広告部門の利益が赤字を補って余りあった。1928年時点の総資本金は100万円、払込資本は63万円で、年1割の配当を続けていた。通信網と広告網が互いの収益を支える構造が、30年近い経営で全国に広がったと推測される。
- 事業之日本 7(12) 1928年12月号「電送通信網で東洋に冠絕する日本電報通信社長光永星郞君」p102-103
- [39]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- [40]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- [41]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- [44]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [42]通信料金を広告料金で差引決済する方式を地方紙が歓迎。通信部門は万年赤字でも広告部門の利益がそれを補った
- [43]通信料金を広告料金で差引決済する方式を地方紙が歓迎。通信部門は万年赤字でも広告部門の利益がそれを補った
1933年11月、銀座西七丁目に日本電報通信社の東京の新社屋が竣工。設計は横河工務所、施工は大林組で、建物は1972年時点でも電通の別館として残っていた。同じ時期、新聞連合社の幹部は国策通信社の構想を政府要人に説き、日本電報通信社との合併を働きかけた。1932年には関東軍の圧力で両社の満州支局が合併し、満州国通信社が設立された。光永星郎氏は言論の自由と民業圧迫への反対を掲げ、赤字の新聞連合社と黒字の日本電報通信社の対等合併の不合理を数字で示した。1933年に政府は光永星郎氏を貴族院の勅選議員とし、光永星郎氏はその後に示された合併の条件を受け入れた。新社屋の完成と前後して、通信部を切り離す条件が固まりつつあったとうかがえる。
- 大林組八十年史(1972)
- [45]日本電報通信社(東京)1933年11月竣工、設計横河工務所、大林組施工。銀座西七丁目に電通別館として現存(1972年)
- [46]日本電報通信社(東京)1933年11月竣工、設計横河工務所、大林組施工。銀座西七丁目に電通別館として現存(1972年)
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [47]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- [48]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- [49]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- [50]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
参考文献[33]-[50]
- 事業之日本 7(12) 1928年12月号「電送通信網で東洋に冠絕する日本電報通信社長光永星郞君」p102-103
- [33]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [34]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [35]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [36]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [37]朝日・日日が電送を始めると電通はシーメンスのテレフォン式を採用し1928年11月1日から実用。搬送式で1本3分(朝日は17-18分)、全国の日刊紙に供給。11月6日に京都・東京間で50何本を交換
- [39]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- [40]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- [41]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- [44]1928年時点で全国約200弱の日刊新聞の9割が特約先、広告取扱でも地方に強い根。支局35か所、米合同通信と特約。総資本金100万円・払込63万円・年1割配当
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [38]帝通は1928年に倒産し、1926年誕生の新聞連合社が電通通信部門のライバルとなった
- [42]通信料金を広告料金で差引決済する方式を地方紙が歓迎。通信部門は万年赤字でも広告部門の利益がそれを補った
- [43]通信料金を広告料金で差引決済する方式を地方紙が歓迎。通信部門は万年赤字でも広告部門の利益がそれを補った
- [47]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- [48]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- [49]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- [50]新聞連合社幹部が国策通信社構想で電通との合併運動。1932年関東軍の圧力で満州支局合併・満州国通信社設立。光永は言論の自由・民業圧迫反対と対等合併の不条理を主張。1933年貴族院勅選議員となり、その後合併条件をのんだ
- 大林組八十年史(1972)
- [45]日本電報通信社(東京)1933年11月竣工、設計横河工務所、大林組施工。銀座西七丁目に電通別館として現存(1972年)
- [46]日本電報通信社(東京)1933年11月竣工、設計横河工務所、大林組施工。銀座西七丁目に電通別館として現存(1972年)
出典・参考
7件
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- 森永五十五年史(1954)
- 大林組八十年史(1972)
- 私の履歴書 経済人21 田嶋一雄(1923年に日本電報通信社へ入社)
- 事業之日本 7(12) 1928年12月号「電送通信網で東洋に冠絕する日本電報通信社長光永星郞君」p102-103
- 日本電報 1941年2月号「光永八火翁の橫顏」德富猪一郞 p46-48
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37