光永星郎
経歴1901〜1940年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1901年主要役職の状況(推定含む目安)1940年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 電通(旧・日本広告/日本電報通信社) | 1901 | 設立 常務 | ||
| 1906 | 設立 専務 | ||||
| 1923 | 社長 | ||||
| 1940 | 社長 退任(顧問へ) |
社長就任までの出自
出自
熊本県八代郡野津村の出身で、1880年に熊本へ出て徳富一敬氏の共立学舎などに学んだ。学問より自由民権運動に傾き、新聞記者と自由党の院外団を行き来した。日清戦争では『めざまし新聞』と『福岡日日新聞』の特派員を務め、戦後は台湾総督府の役人に転じた。創業の時点で手元にはほとんど自己資金が無く、出資は役員に迎えた広告主に仰いだ。資本の裏づけを持たないまま、通信と広告の会社を起こした創業者である。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1901年に開業した日本広告株式会社は定款に社長の席を設けず、創業者の光永星郎氏は会長・専務に次ぐ常務取締役として出発した。1907年に日本広告株式会社と日本電報通信社が一社になると、光永星郎氏は専務取締役として大株主に遠慮せず采配を振るう立場を得た。第1次大戦の直後には、一部の重役による株式の買い占めを事前に察知して退けた。大戦後の好況で累積赤字を解消して復配したのち、1923年2月に社長の肩書きを得た。
在任中の主な施策
施策
社長就任の年、1923年9月の関東大震災で加賀町の社屋を失ったが、営業成績は前年を上回った。1928年11月にはドイツのシーメンス社の電送装置を実用に供し、受信した写真を全国の日刊紙に供給した。同年、輪転機を備えた全国の日刊紙のうち9割が日本電報通信社の特約先になっていた。1933年12月には銀座の新社屋が落成した。新聞連合社との合併を迫られると、赤字の相手との対等合併の不合理を数字で示して抵抗した。それでも1936年6月に通信部門を同盟通信社へ譲渡し、広告専業の会社として再出発した。
創業ストーリー
創業ストーリー
光永星郎氏は1866年に熊本県八代郡野津村で生まれ、家が傾くなかで母と豆腐の製造・販売を営んで育った。自由民権運動の影響で政治家を志し、軍人を目指した時期もあったが、凍傷で足を痛めて断念した。1890年に朝日新聞社の『大阪公論』に入り、のちに星亨氏の推薦で『めざまし新聞』と『福岡日日新聞』の特派員として日清戦争を報道した。優れた情報を得ても内地へ送る機関が無く、情報が古びていく経験から、通信機関の必要を痛感した。戦後は台湾総督府の役人となり、1898年に澎湖島弁務署長を最後に退官した。
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [16]慶応二年に熊本県八代郡野津村に生まれ、幼少期は家が傾き母親と豆腐の製造販売を営んだ。自由民権運動の影響を受け政治家を志す。士官学校予備校に入ったが履物が買えず凍傷にかかり軍人を断念。明治二十三年に朝日新聞社の大阪公論に入社。星の推薦でめざまし新聞と福岡日日新聞の特派員として日清戦争を報道。優れた情報を得ても内地に送る機関がなく情報が腐ってしまい、通信機関の必要性を痛感した
- [17]慶応二年に熊本県八代郡野津村に生まれ、幼少期は家が傾き母親と豆腐の製造販売を営んだ。自由民権運動の影響を受け政治家を志す。士官学校予備校に入ったが履物が買えず凍傷にかかり軍人を断念。明治二十三年に朝日新聞社の大阪公論に入社。星の推薦でめざまし新聞と福岡日日新聞の特派員として日清戦争を報道。優れた情報を得ても内地に送る機関がなく情報が腐ってしまい、通信機関の必要性を痛感した
- [18]慶応二年に熊本県八代郡野津村に生まれ、幼少期は家が傾き母親と豆腐の製造販売を営んだ。自由民権運動の影響を受け政治家を志す。士官学校予備校に入ったが履物が買えず凍傷にかかり軍人を断念。明治二十三年に朝日新聞社の大阪公論に入社。星の推薦でめざまし新聞と福岡日日新聞の特派員として日清戦争を報道。優れた情報を得ても内地に送る機関がなく情報が腐ってしまい、通信機関の必要性を痛感した
- [19]慶応二年に熊本県八代郡野津村に生まれ、幼少期は家が傾き母親と豆腐の製造販売を営んだ。自由民権運動の影響を受け政治家を志す。士官学校予備校に入ったが履物が買えず凍傷にかかり軍人を断念。明治二十三年に朝日新聞社の大阪公論に入社。星の推薦でめざまし新聞と福岡日日新聞の特派員として日清戦争を報道。優れた情報を得ても内地に送る機関がなく情報が腐ってしまい、通信機関の必要性を痛感した
- [20]台湾総督府の役人となり澎湖島弁務署長を最後に明治三十一年退官。明治三十三年に妻を連れて上京し、台湾時代にためた三百円を準備金に通信業経営構想を具体化。相談相手の多くは政党に所属しない通信社は存続できないとして中止を勧告。弟の真三は地方紙は通信サービスより広告サービスが欲しいと言い、山崎は広告代理業から出発すべし、談合を排した公正な広告取引と低廉な手数料率なら歓迎されると助言した
1900年に妻を連れて上京し、台湾時代に蓄えた300円を準備金に通信社の構想を練った。相談した人の多くは、政党の機関でない通信社は存続できないとして中止を勧めた。郷里で小新聞を出していた弟の光永真三氏は、地方紙が通信より広告のサービスを求めていると伝えた。山崎帝国堂の山崎嘉太郎氏は広告代理業から始めるよう助言し、談合を排した公正な取引と低い手数料率なら広告主と新聞社に歓迎されると説いた。
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [21]台湾総督府の役人となり澎湖島弁務署長を最後に明治三十一年退官。明治三十三年に妻を連れて上京し、台湾時代にためた三百円を準備金に通信業経営構想を具体化。相談相手の多くは政党に所属しない通信社は存続できないとして中止を勧告。弟の真三は地方紙は通信サービスより広告サービスが欲しいと言い、山崎は広告代理業から出発すべし、談合を排した公正な広告取引と低廉な手数料率なら歓迎されると助言した
- [22]台湾総督府の役人となり澎湖島弁務署長を最後に明治三十一年退官。明治三十三年に妻を連れて上京し、台湾時代にためた三百円を準備金に通信業経営構想を具体化。相談相手の多くは政党に所属しない通信社は存続できないとして中止を勧告。弟の真三は地方紙は通信サービスより広告サービスが欲しいと言い、山崎は広告代理業から出発すべし、談合を排した公正な広告取引と低廉な手数料率なら歓迎されると助言した
- [23]台湾総督府の役人となり澎湖島弁務署長を最後に明治三十一年退官。明治三十三年に妻を連れて上京し、台湾時代にためた三百円を準備金に通信業経営構想を具体化。相談相手の多くは政党に所属しない通信社は存続できないとして中止を勧告。弟の真三は地方紙は通信サービスより広告サービスが欲しいと言い、山崎は広告代理業から出発すべし、談合を排した公正な広告取引と低廉な手数料率なら歓迎されると助言した
- [24]台湾総督府の役人となり澎湖島弁務署長を最後に明治三十一年退官。明治三十三年に妻を連れて上京し、台湾時代にためた三百円を準備金に通信業経営構想を具体化。相談相手の多くは政党に所属しない通信社は存続できないとして中止を勧告。弟の真三は地方紙は通信サービスより広告サービスが欲しいと言い、山崎は広告代理業から出発すべし、談合を排した公正な広告取引と低廉な手数料率なら歓迎されると助言した
1901年7月1日、資本金10万円の日本広告株式会社が開業した。光永星郎氏は売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主を回り、出資者と役員に迎えた。会長は衆議院議員の日向輝武氏、専務は山崎嘉太郎氏で、創業者の光永星郎氏は常務取締役にとどまった。同時に電報通信社を設け、新聞社から受け取る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺できる仕組みにより、通信と広告を表裏一体で営む体制を整えた。光永星郎氏は後年、創業を「難産しかも非常な難産であった」と振り返っている。
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [25]1901年7月 光永星郎が資本金10万円で日本広告株式会社を設立
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [26]開業時の役員は会長日向輝武(衆議院議員)・専務山崎嘉太郎(山崎帝国堂)・常務光永星郎。売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主が光永のお百度で出資者・役員となった。創業を三五年後に「難産しかも非常な難産であった」と回顧。明治四十年に兼業体制を確立してから通信部門の拡充に全力を投入し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、広告部門の利益が通信部門の投資に注がれた。昭和八年に貴族院勅選議員となり、その興奮中にだされた電連合併の条件をのんだ。通信部門社員への惜別のあいさつの一部に「これを語るに真に忍びない」
- [27]開業時の役員は会長日向輝武(衆議院議員)・専務山崎嘉太郎(山崎帝国堂)・常務光永星郎。売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主が光永のお百度で出資者・役員となった。創業を三五年後に「難産しかも非常な難産であった」と回顧。明治四十年に兼業体制を確立してから通信部門の拡充に全力を投入し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、広告部門の利益が通信部門の投資に注がれた。昭和八年に貴族院勅選議員となり、その興奮中にだされた電連合併の条件をのんだ。通信部門社員への惜別のあいさつの一部に「これを語るに真に忍びない」
- [29]開業時の役員は会長日向輝武(衆議院議員)・専務山崎嘉太郎(山崎帝国堂)・常務光永星郎。売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主が光永のお百度で出資者・役員となった。創業を三五年後に「難産しかも非常な難産であった」と回顧。明治四十年に兼業体制を確立してから通信部門の拡充に全力を投入し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、広告部門の利益が通信部門の投資に注がれた。昭和八年に貴族院勅選議員となり、その興奮中にだされた電連合併の条件をのんだ。通信部門社員への惜別のあいさつの一部に「これを語るに真に忍びない」
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [28]資本金十万円で電報通信社と日本広告株式会社を創立し表裏一体の形で通信と広告の併営を開始。新聞社へのニュース料金は貰い勘定、広告料金は代理店の支払いで収支の相殺勘定ができた。大正二年わが社の主唱で日本新聞協会設立、光永社長が理事長として運営。昭和十一年六月一日に日本電報通信社と新聞連合社の改組が実現し広告専門会社として再出発。昭和十五年十二月、光永真三専務が第二代社長に就任し四十年にわたる光永星郎社長時代は幕を閉じた。昭和二十年二月二十日、初代社長光永星郎氏逝去(享年八十歳)
1906年12月に株式会社日本電報通信社を設立し、1907年8月に日本広告株式会社を合併して資本金を26万円に増やした。専務取締役となった光永星郎氏は、広告部門の利益を通信部門に注ぎ、明治末期に『福岡日日新聞』と通信契約を結んで地方紙への足場を築いた。1913年には日本電報通信社の主唱で日本新聞協会が設立され、光永星郎氏が理事長として運営に当たった。1923年2月、光永星郎氏は初代社長に就任した。
- 有価証券報告書 2025年12月期「沿革」
- [30]1906年12月 株式会社日本電報通信社を設立。1907年8月 日本広告株式会社を合併し資本金を26万円に増資
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [31]開業時の役員は会長日向輝武(衆議院議員)・専務山崎嘉太郎(山崎帝国堂)・常務光永星郎。売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主が光永のお百度で出資者・役員となった。創業を三五年後に「難産しかも非常な難産であった」と回顧。明治四十年に兼業体制を確立してから通信部門の拡充に全力を投入し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、広告部門の利益が通信部門の投資に注がれた。昭和八年に貴族院勅選議員となり、その興奮中にだされた電連合併の条件をのんだ。通信部門社員への惜別のあいさつの一部に「これを語るに真に忍びない」
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [32]資本金十万円で電報通信社と日本広告株式会社を創立し表裏一体の形で通信と広告の併営を開始。新聞社へのニュース料金は貰い勘定、広告料金は代理店の支払いで収支の相殺勘定ができた。大正二年わが社の主唱で日本新聞協会設立、光永社長が理事長として運営。昭和十一年六月一日に日本電報通信社と新聞連合社の改組が実現し広告専門会社として再出発。昭和十五年十二月、光永真三専務が第二代社長に就任し四十年にわたる光永星郎社長時代は幕を閉じた。昭和二十年二月二十日、初代社長光永星郎氏逝去(享年八十歳)
- [33]歴代社長欄「初代社長光永星郎 明治34年7月創業 大正12年2月就任」
1933年に貴族院の勅選議員となった光永星郎氏は、その後に示された新聞連合社との合併の条件を受け入れた。1936年6月1日に通信部門は新会社の同盟通信社へ移り、日本電報通信社は広告専業の会社として再出発した。通信部門の社員への惜別のあいさつには「これを語るに真に忍びない」の一節がある。1940年12月に弟の光永真三氏が第2代社長に就任し、40年にわたる光永星郎氏の時代は幕を閉じた。1945年2月20日、光永星郎氏は80歳で死去した。
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
- [34]開業時の役員は会長日向輝武(衆議院議員)・専務山崎嘉太郎(山崎帝国堂)・常務光永星郎。売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主が光永のお百度で出資者・役員となった。創業を三五年後に「難産しかも非常な難産であった」と回顧。明治四十年に兼業体制を確立してから通信部門の拡充に全力を投入し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、広告部門の利益が通信部門の投資に注がれた。昭和八年に貴族院勅選議員となり、その興奮中にだされた電連合併の条件をのんだ。通信部門社員への惜別のあいさつの一部に「これを語るに真に忍びない」
- [36]開業時の役員は会長日向輝武(衆議院議員)・専務山崎嘉太郎(山崎帝国堂)・常務光永星郎。売薬・化粧品・出版・タバコの大広告主が光永のお百度で出資者・役員となった。創業を三五年後に「難産しかも非常な難産であった」と回顧。明治四十年に兼業体制を確立してから通信部門の拡充に全力を投入し、明治末期に福岡日日新聞と通信契約、広告部門の利益が通信部門の投資に注がれた。昭和八年に貴族院勅選議員となり、その興奮中にだされた電連合併の条件をのんだ。通信部門社員への惜別のあいさつの一部に「これを語るに真に忍びない」
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [35]資本金十万円で電報通信社と日本広告株式会社を創立し表裏一体の形で通信と広告の併営を開始。新聞社へのニュース料金は貰い勘定、広告料金は代理店の支払いで収支の相殺勘定ができた。大正二年わが社の主唱で日本新聞協会設立、光永社長が理事長として運営。昭和十一年六月一日に日本電報通信社と新聞連合社の改組が実現し広告専門会社として再出発。昭和十五年十二月、光永真三専務が第二代社長に就任し四十年にわたる光永星郎社長時代は幕を閉じた。昭和二十年二月二十日、初代社長光永星郎氏逝去(享年八十歳)
- [37]資本金十万円で電報通信社と日本広告株式会社を創立し表裏一体の形で通信と広告の併営を開始。新聞社へのニュース料金は貰い勘定、広告料金は代理店の支払いで収支の相殺勘定ができた。大正二年わが社の主唱で日本新聞協会設立、光永社長が理事長として運営。昭和十一年六月一日に日本電報通信社と新聞連合社の改組が実現し広告専門会社として再出発。昭和十五年十二月、光永真三専務が第二代社長に就任し四十年にわたる光永星郎社長時代は幕を閉じた。昭和二十年二月二十日、初代社長光永星郎氏逝去(享年八十歳)
- [38]資本金十万円で電報通信社と日本広告株式会社を創立し表裏一体の形で通信と広告の併営を開始。新聞社へのニュース料金は貰い勘定、広告料金は代理店の支払いで収支の相殺勘定ができた。大正二年わが社の主唱で日本新聞協会設立、光永社長が理事長として運営。昭和十一年六月一日に日本電報通信社と新聞連合社の改組が実現し広告専門会社として再出発。昭和十五年十二月、光永真三専務が第二代社長に就任し四十年にわたる光永星郎社長時代は幕を閉じた。昭和二十年二月二十日、初代社長光永星郎氏逝去(享年八十歳)
参考文献3件
参考文献
- 電通残酷物語 社員が書いた電通マンと電通商法の内幕(1983)
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- 広告 23(5) 1982年9月号「日本の広告人(9)光永星郎 広告、通信兼営の推進者」山本武利 p34-37
事実根拠:出所(電通グループ)