吉田秀雄
経歴1928〜1963年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1928年主要役職の状況(推定含む目安)1963年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 電通(旧・日本電報通信社) | 1928 | 入社 | ||
| 1947 | 社長 | ||||
| 1963 | 社長 死去 |
中興ストーリー
中興ストーリー
電通は創立35年目の1936年、通信部門を国策の同盟通信社へ移し、連合の広告部を吸収して広告だけを扱う会社になった。戦災で本社は廃墟に近く、終戦のころの社員は本社と支社を合わせて百名ほどまで減少していた。新聞と雑誌の復興とともに業績は上向き、1947年ごろには社員が九百名に増加していた。1947年6月、上田碩三氏が辞任し、1928年の入社以来営業部門を歩いてきた常務取締役の吉田秀雄氏が第4代社長に就任した。広告業は銀行融資の順位で最下位の丙種に指定されており、新社長が最初に取り組んだのは資金の手当てだった。
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [1]電通は創立以来三十五年。改組の目的は内外の通信を国策通信社一本へしぼることにあり、電通の通信部門は連合と合併して同盟通信社を創設し、電通は連合の広告部を吸収して広告専門会社となった
- [4]昭和二十二年六月、社長上田碩三は一身上の都合によって辞任、常務取締役吉田秀雄が第四代の社長に就任。同社長は昭和三年入社以来営業部門の中枢
- [5]新社長が第一番に手をつけねばならぬことは金づくり。広告業種は丙種に指定され銀行の融資は最下位。日本新聞広告同業組合理事長の肩書で日銀・大蔵省を訪ね、広告代理業の役割を説いた。もう一つは民間放送の開拓
- この人吉田秀雄 電通創立70周年記念(電通, 1971)
- [2]戦災で電通本社は廃墟に等しかった。終戦時には本社・支社を合わせて百名そこそこに減った社員が、その後九百名に上った
- [3]戦災で電通本社は廃墟に等しかった。終戦時には本社・支社を合わせて百名そこそこに減った社員が、その後九百名に上った
吉田秀雄氏は日本新聞広告同業組合の理事長として日銀や大蔵省を訪ね、広告代理業が産業の発展に果たす役割を説いて回った。そのうえで経営資源を集中したのが、新聞と雑誌の外にある放送という媒体である。1951年6月29日、民間放送の予備免許を受けた16社の代表を本社8階のホールに招き、日本民間放送連盟の名称や会則を決めて、事務局を電通の社内に置いた。同じ年に本社と支社へラジオ局・ラジオ部を設け、録音スタジオを用意して開局に備えた。1951年9月1日に大阪と名古屋の2局が民間放送の第一声を放ち、翌1952年には11局が開局した。
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [6]新社長が第一番に手をつけねばならぬことは金づくり。広告業種は丙種に指定され銀行の融資は最下位。日本新聞広告同業組合理事長の肩書で日銀・大蔵省を訪ね、広告代理業の役割を説いた。もう一つは民間放送の開拓
- [7]新社長が第一番に手をつけねばならぬことは金づくり。広告業種は丙種に指定され銀行の融資は最下位。日本新聞広告同業組合理事長の肩書で日銀・大蔵省を訪ね、広告代理業の役割を説いた。もう一つは民間放送の開拓
- [8]昭和二十六年六月二十九日、予備免許を受けた十六社の代表を電通本社八階ホールに招いて日本民間放送連盟の設立をはかり、名称・会長・会則を決定、事務局を電通内に設けた。同年、本社・支社にラジオ局・ラジオ部を置き、録音スタジオを構築
- [9]昭和二十六年六月二十九日、予備免許を受けた十六社の代表を電通本社八階ホールに招いて日本民間放送連盟の設立をはかり、名称・会長・会則を決定、事務局を電通内に設けた。同年、本社・支社にラジオ局・ラジオ部を置き、録音スタジオを構築
- [10]二十六年九月一日、大阪と名古屋の両局が民間放送の第一声を放った。民放五局の開局につづき、二十七年には十一の民間放送が開局
次の手はテレビである。1952年7月に日本テレビ放送網へ予備免許が下りると、電通は同時にテレビ部を新設した。放送広告の効果を測る仕組みも自前で用意し、社員の考案した視聴記録装置ビデオメータを試作したうえで、1962年9月に視聴率調査の会社ビデオ・リサーチを設立した。社内向けには、商業放送の目途がついたころに「鬼十則」を書いて全社員に配った。
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [11]二十七年七月、NTVに予備免許がおりると同時に、電通はテレビ部を新設
- [12]社員の考案によるビデオメータ(ラジオ・テレビの視聴記録装置)の試作品が完成。昭和三十七年九月、このシステムによる調査会社㈱ビデオ・リサーチを設立
- この人吉田秀雄 電通創立70周年記念(電通, 1971)
- [13]商業放送の目鼻がついて一息つく間もなく、「鬼十則」を執筆して全社員に配布した
1960年10月から翌年3月までの半年で、電通のラジオ・テレビの取扱高は104億円に上り、続く半年は16%増の120億円に達した。米誌アドバタイジング・エージの推計では、1959年度の電通は世界の広告会社で6位、米国を除けば首位であり、翌年度からは5位に上がった。昭和30年代は新聞・雑誌・ラジオ・テレビの4媒体が日本の広告費の8割近くを占め、電通の取扱高は1955年の147億円から10年で6倍強に増加した。新聞広告の取次から、放送を含む媒体を総合して扱う広告会社へ形を変えたように見える。
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [14]ラジオ・テレビの取扱高は、三十五年十月から翌年三月までは百四億円、三十六年四月から九月までは一六%増の百二十億円
- [15]米誌「アドバタイジング・エージ」は三十四年度世界主要広告会社の取扱高を推計し、電通を世界第六位(米国を除けば第一位)と発表。翌年からは世界第五位
- [16]昭和三十年代の日本の全広告費の八〇パーセント近くを四媒体(新聞、雑誌、ラジオ、テレビ)が占めた。電通の取扱高も三十年の一四七億から、この十年間に六倍強に伸びた
- [17]ラジオ・テレビの取扱高は、三十五年十月から翌年三月までは百四億円、三十六年四月から九月までは一六%増の百二十億円
1961年11月の株主総会で、日比野恒次氏が社長代理を兼ねる副社長に就任した。吉田秀雄氏は胃癌の診断を受けて東大病院への入退院を重ね、1963年1月27日に社長在任のまま59歳で死去した。翌2月、日比野恒次氏が第5代社長に就任した。
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- [18]三十六年十一月の定時株主総会で新役員が決まり、社長吉田秀雄、副社長日比野恒次(社長代理)
- [20]歴代社長欄 第4代社長吉田秀雄/現社長日比野恒次 昭和38年2月就任
- この人吉田秀雄 電通創立70周年記念(電通, 1971)
- [19]東大病院に入院し、主治医より役員全員に胃癌の診断が伝えられる。一月二十七日午前零時五十五分永眠。享年五十九歳
参考文献2件
参考文献
- 20世紀と共に 電通略史(電通, 1968)
- この人吉田秀雄 電通創立70周年記念(電通, 1971)
事実根拠:出所(電通グループ)