日本ゼオン:合成ゴムの国産第1号と自社抽出技術による原料自給
1955年〜合成ゴム国策会社案に抗して取った単独企業化の認可
塩化ビニル樹脂の市況が生産過剰に傾き、1957年下期以降は操業短縮が続いた。その最中に日本ゼオンが進めていたのが、第二の柱となる合成ゴムの国産化である。着想は単独のものではない。1955年末、古河鉱業・古河電気工業・旭電化・富士電機・富士通信機・横浜護謨・日本軽金属・日本ゼオンの古河系8社が石油化学工業の企業化を共同で計画し、うち4社の名義でポリエチレン・合成ゴム・合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通商産業省へ提出していた。ところがポリエチレンで技術導入を予定していた米フィリップス・ペトロリアムの背信によって、この計画は根本からの変更を迫られた。残ったのが合成ゴムだった。
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [1]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [2]古河系八社(古河鉱業、古河電工、旭電化、富士電機、富士通信機、横浜ゴム、日本軽金属、日本ゼオン)では、共同して石油化学工業の企業化を計画、三十年末、古河電工、横浜ゴム、旭電化、日本ゼオンの四社名義でポリエチレン、合成ゴム、合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通産省に提出した
- [3]ポリエチレンについて、技術導入を予定していた米フィリップス・ベトロリアム社の背信行為によって、この計画は根本から変更を余儀なくされることになった
1956年5月、横浜護謨と共同で合成ゴムの企業化計画書を作り直して通商産業省へ提出した。第一期で「GR-S」とそのラテックスを計6,600トン年産し、第二期でこれを1万5,000トンへ増やす、原料のブタジエンは日本石油化学から受ける、所要資金は10億円という内容だった。三菱油化と山陽化学も企業化計画を出しており、三社競願となった。同年10月、通商産業省は三社の計画をいずれも白紙に戻し、石油化学・化学工業・ゴム工業の三業界が協力する新会社に政府も出資し、日本開発銀行の低利融資で助成するという構想を示した。合成ゴム国策会社案である。古河系はこれに強い不満を示し、単独で当初の計画どおり踏み切ることを確認して、1957年3月にグッドリッチ・ケミカルと技術援助契約を結んだ。導入するのは同社の合成ゴム製造技術だった。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [4]三十一年五月、横浜ゴム、日本ゼオン共同の線で合成ゴムの企業化計画書を作成、通産省に提出した
- [5]第一期計画として「GR-S」三三〇〇トン、同ラテックス三三〇〇トン、計六六〇〇トン(いずれも年間)をつくり、第二期計画ではこれを一万五〇〇〇トンにふやし、原料ブタジエンは日本石油化学より供給を受け、第一期計画の所要資金は一〇億円とする
- [6]当時、三菱油化および山陽化学の両社も、それぞれ合成ゴムの企業化計画を通産省に提出していた。三社競願の形になった
- [7]通産省は、三十一年十月、「三社の計画をいずれも白紙にかえし、石油化学、化学工業およびゴム工業の三つの業界が協力して、合成ゴムを生産する新会社を設立する方向に指導していきたい、新会社には政府も一部出資し、また、開発銀行より低利の融資も行ない、助成する」と表明した
- [8]日本ゼオンなど古河系では、この構想に強い不満をもち、あくまで単独で当初の計画どおり踏みきることを確認、三十二年三月、GC社と合成ゴムに関する技術援助契約を締結した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [9]これはグッドリッチ・ケミカル社の合成ゴム製造技術を導入したもの
日本ゼオンは、日本ゴム工業会に民間の会社も一社は要るとする決議を出させ、通商産業省の諒解を得ようと力を注いだ。その見返りに担ったのが、特殊ゴムを造る会社という役割である。一方の国策会社案は、日本開発銀行の出資に大蔵省が難色を示し国会の審議も滞ったものの、1957年5月に付帯決議を付けて成立し、翌6月に合成ゴム製造事業特別措置法として公布された。同年11月には、資本金25億円の国策会社日本合成ゴムが発足した。通商産業省は、開発資金を一切支援しない代わりに自前の資金で進めるなら口を出さないという姿勢へ転じ、両者の計画を並べて認めた。合成ゴムの需要が伸び続けるなか、日本ゼオンは国産第1号として同分野へ参入した。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [10]ゴム工業会でも、民間会社が一社くらいあったほうがベターである、というふうな決議を取りつけたり、通産省にも諒解をうるために力をつくしました
- [11]そのかわり、うちは特殊ゴムの生産会社ということになった
- [12]通産省の国策会社案は、当初大蔵省が開銀出資をめぐって難色を示し、また、国会審議でも難航した。しかし、三十二年五月、付帯決議づきで国会を通過し、翌六月、「合成ゴム製造事業特別措置法」として公布、施行された
- [13]同年十一月、国策会社として「日本合成ゴム」(社長石橋正二郎、当初資本金二五億円)が誕生した
- [14]通産省は「開発資金などの面倒はいっさいみない、古河系が自己資金でやる分には干渉しない」と態度を変え、結局、国策会社と古河系の計画を並行的に認めることにした
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月
- [15]昭和34年に、当時次第に増え続けていた合成ゴム需要の動向を背景に、当社は国産第1号として合成ゴム分野に進出した
参考文献[1]-[15]
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- [1]その後好調に増産を重ねてきたが、市況は生産過剰の傾向となり、32年下期以降は操業短縮を余儀なくされた
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [2]古河系八社(古河鉱業、古河電工、旭電化、富士電機、富士通信機、横浜ゴム、日本軽金属、日本ゼオン)では、共同して石油化学工業の企業化を計画、三十年末、古河電工、横浜ゴム、旭電化、日本ゼオンの四社名義でポリエチレン、合成ゴム、合成繊維など一連の石油化学製品の生産をもくろむ計画書を通産省に提出した
- [3]ポリエチレンについて、技術導入を予定していた米フィリップス・ベトロリアム社の背信行為によって、この計画は根本から変更を余儀なくされることになった
- [4]三十一年五月、横浜ゴム、日本ゼオン共同の線で合成ゴムの企業化計画書を作成、通産省に提出した
- [5]第一期計画として「GR-S」三三〇〇トン、同ラテックス三三〇〇トン、計六六〇〇トン(いずれも年間)をつくり、第二期計画ではこれを一万五〇〇〇トンにふやし、原料ブタジエンは日本石油化学より供給を受け、第一期計画の所要資金は一〇億円とする
- [6]当時、三菱油化および山陽化学の両社も、それぞれ合成ゴムの企業化計画を通産省に提出していた。三社競願の形になった
- [7]通産省は、三十一年十月、「三社の計画をいずれも白紙にかえし、石油化学、化学工業およびゴム工業の三つの業界が協力して、合成ゴムを生産する新会社を設立する方向に指導していきたい、新会社には政府も一部出資し、また、開発銀行より低利の融資も行ない、助成する」と表明した
- [8]日本ゼオンなど古河系では、この構想に強い不満をもち、あくまで単独で当初の計画どおり踏みきることを確認、三十二年三月、GC社と合成ゴムに関する技術援助契約を締結した
- [10]ゴム工業会でも、民間会社が一社くらいあったほうがベターである、というふうな決議を取りつけたり、通産省にも諒解をうるために力をつくしました
- [11]そのかわり、うちは特殊ゴムの生産会社ということになった
- [12]通産省の国策会社案は、当初大蔵省が開銀出資をめぐって難色を示し、また、国会審議でも難航した。しかし、三十二年五月、付帯決議づきで国会を通過し、翌六月、「合成ゴム製造事業特別措置法」として公布、施行された
- [13]同年十一月、国策会社として「日本合成ゴム」(社長石橋正二郎、当初資本金二五億円)が誕生した
- [14]通産省は「開発資金などの面倒はいっさいみない、古河系が自己資金でやる分には干渉しない」と態度を変え、結局、国策会社と古河系の計画を並行的に認めることにした
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [9]これはグッドリッチ・ケミカル社の合成ゴム製造技術を導入したもの
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月
- [15]昭和34年に、当時次第に増え続けていた合成ゴム需要の動向を背景に、当社は国産第1号として合成ゴム分野に進出した
1959年〜外部調達の原料能力に縛られた川崎工場の月産700トン
川崎工場の用地は1957年4月、東日本の石油化学の集積地である川崎地区で、旭化成と旭ダウの工場に隣接する埋立地1万9,000坪を入手して確保した。同年10月には本社内に岸野佐吉社長を委員長とする川崎工場臨時建設委員会を置き、1958年7月の地鎮祭を経て建屋の建設に入った。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担し、グッドリッチ・ケミカルからは工場建設と運転指導の技師が来日した。建屋は同年12月にほぼ完成し、1959年1月から屋内機器の据付と配管工事にかかる。第一期の建設を終えたのが同年5月、生産を始めたのが7月で、合成ゴムの企業化はこの工場の建設から始まった。日本合成ゴムの生産開始より半年以上早い国産第1号だった。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [16]川崎工場は、三十二年四月、東日本の一大石油化学センター・川崎地区の旭化成および旭ダウ工場に隣接する埋立用地(当初一万九〇〇〇坪)を入手した
- [17]同年十月、本社内に「川崎工場臨時建設委員会」(委員長岸野社長)を設置し、本格的建設に着手した
- [18]三十三年七月地鎮祭を挙行、ついで建屋建設にはいった。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担した。この間にはGC社からA・メルビー、J・T・ノーマンなどが工場建設および運転指導技師として来日した
- [19]建屋建設は十二月にほぼ完成、翌三十四年一月から屋内機器の据付けと配管工事にかかった
- [20]川崎工場は、昭和三十四年五月、第一期建設計画を終え、認可をもらって、川崎工場で合成ゴムの生産をはじめたのが三十四年の七月であった
- [22]日本合成ゴムの生産開始より半年以上早かったから、国産第一号です
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [21]営業の第二の柱である合成ゴムの企業化に進出したのは三四年の川崎工場の建設にはじまる
第一次計画の年産能力は8,400トンで、「GR-S」ドライ1,800トン、同ラテックス3,000トン、「ハイカー」3,000トン、「ハイカー2007」6,000トンという内訳だった。第二次計画で1万5,000トン、将来は3万トンとする青写真がありながら、当初を月産700トンに抑えたのは原料の供給先の能力に合わせたためである。川崎工場はブタジエンを日本石油化学と東燃石油化学から、スチレンを旭ダウから、アクリロニトリルを旭化成から買い入れて、汎用ゴムのSBRのほか特殊ゴムのハイスチレンゴムとNBRを生産した。石油化学コンビナートの一員として主原料をパイプラインで受ける立地は、調達の手間を省く一方で、自社の生産規模を他社の設備能力の内側に置くことを意味した。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [23]年産能力を第一次計画で八四〇〇トン(「GR-S」ドライ一八〇〇トン、同ラテックス三〇〇〇トン、「ハイカー」三〇〇〇トン、「ハイカー二〇〇七」六〇〇〇トン)とすることに決まっていた
- [24]第二次計画で一万五〇〇〇トン、将来三万トンとすることに決まっていた。当初八四〇〇トン(月産七〇〇トン)と小さくしたのは、原料供給先の能力に合わせたものである
- [26]川崎地区石油化学コンビナートの一員として、同コンビナート内から主原料のブタジエン、スチレン、アクリロニトリルをパイプラインで供給を受けている
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [25]日本石油化学、東燃石油化学からブタジエン、旭ダウからスチレン、旭化成からアクリルニトリルを買い入れ汎用ゴムSBRをはじめ、特殊ゴムHS、NBRを生産した
川崎工場の建設と同時に、その工場内へ中央研究所を新設した。日本ゼオンは創立とほぼ同時に古河電気工業の大井研究所へ人を出向させて場所を借り、研究をさせていたが、1959年7月、川崎に小規模な研究所を作って出向者を呼び戻した。当初の人員は30人ほどで、これが後の研究所の母体となる。塩化ビニルの物性や加工応用の研究開発、需要家への技術サービスがその仕事だった。米国の資本が当初35%入り、外国人技師が一切を指導したことから外国系会社という印象が長く残った。しかし15年の技術契約のうちグッドリッチの技術に頼ったのは最初の6年から7年の間だけだったと、古我周二社長は後年振り返っている。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [27]このときには、同工場内に中央研究所を新設するとともに
- [28]会社創立とほぼ同時に、古河電工の大井研究所にゼオンの人間を出向させて、場所を借りて研究をやらせた。川崎工場ができたときに、小規模ながら研究所をつくって、そこへ出ていた人を呼びかえした。三十四年七月のことである
- [29]はじめは三〇人くらいでした。それが、現在の研究所の母体となったわけです
- [31]アメリカの資本が当初は三五%はいっていましたし、また、外人がきてすべてを指導したというような関係で、外国系会社というイメージが長かった
- [32]塩ビにしても、一五年の技術契約の間で、グッドリッチの技術におんぶしたのは最初の六~七年の間だけ
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [30]三四年七月一日に中央研究所を建設し、塩ビの物性、加工応用の研究開発など需要者への技術サービスを行なってきた
参考文献[16]-[32]
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [16]川崎工場は、三十二年四月、東日本の一大石油化学センター・川崎地区の旭化成および旭ダウ工場に隣接する埋立用地(当初一万九〇〇〇坪)を入手した
- [17]同年十月、本社内に「川崎工場臨時建設委員会」(委員長岸野社長)を設置し、本格的建設に着手した
- [18]三十三年七月地鎮祭を挙行、ついで建屋建設にはいった。工事は鹿島建設と竹中工務店が分担した。この間にはGC社からA・メルビー、J・T・ノーマンなどが工場建設および運転指導技師として来日した
- [19]建屋建設は十二月にほぼ完成、翌三十四年一月から屋内機器の据付けと配管工事にかかった
- [20]川崎工場は、昭和三十四年五月、第一期建設計画を終え、認可をもらって、川崎工場で合成ゴムの生産をはじめたのが三十四年の七月であった
- [22]日本合成ゴムの生産開始より半年以上早かったから、国産第一号です
- [23]年産能力を第一次計画で八四〇〇トン(「GR-S」ドライ一八〇〇トン、同ラテックス三〇〇〇トン、「ハイカー」三〇〇〇トン、「ハイカー二〇〇七」六〇〇〇トン)とすることに決まっていた
- [24]第二次計画で一万五〇〇〇トン、将来三万トンとすることに決まっていた。当初八四〇〇トン(月産七〇〇トン)と小さくしたのは、原料供給先の能力に合わせたものである
- [26]川崎地区石油化学コンビナートの一員として、同コンビナート内から主原料のブタジエン、スチレン、アクリロニトリルをパイプラインで供給を受けている
- [27]このときには、同工場内に中央研究所を新設するとともに
- [28]会社創立とほぼ同時に、古河電工の大井研究所にゼオンの人間を出向させて、場所を借りて研究をやらせた。川崎工場ができたときに、小規模ながら研究所をつくって、そこへ出ていた人を呼びかえした。三十四年七月のことである
- [29]はじめは三〇人くらいでした。それが、現在の研究所の母体となったわけです
- [31]アメリカの資本が当初は三五%はいっていましたし、また、外人がきてすべてを指導したというような関係で、外国系会社というイメージが長かった
- [32]塩ビにしても、一五年の技術契約の間で、グッドリッチの技術におんぶしたのは最初の六~七年の間だけ
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [21]営業の第二の柱である合成ゴムの企業化に進出したのは三四年の川崎工場の建設にはじまる
- [25]日本石油化学、東燃石油化学からブタジエン、旭ダウからスチレン、旭化成からアクリルニトリルを買い入れ汎用ゴムSBRをはじめ、特殊ゴムHS、NBRを生産した
- [30]三四年七月一日に中央研究所を建設し、塩ビの物性、加工応用の研究開発など需要者への技術サービスを行なってきた
1965年〜ナフサ由来の自社抽出技術による原料調達の内製化
川崎工場は敷地が3万坪足らずで、年産3万トンの設備を入れると一杯になった。特殊ゴムに加えて汎用ゴムへ参入するには別の土地が要る。横浜の根岸埋立地、川崎の浮島、木更津と候補地を探した末、大蔵省の斡旋もあって1964年に徳山で着工し、1965年11月、汎用合成ゴムの量産専門工場として徳山工場を新設した。この工場の最大の特色は、自社開発の抽出技術で主原料のブタジエンを自給したことである。ナフサ分解で得られるBB留分を原料に、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するGPB法がそれで、徳山工場の建設と同時に年産4万5,000トンの自己抽出設備を備えた。海外で開発された方法より経費が安く純度も高いこの技術は、生産技術の最高の賞である大河内記念生産特賞を受けた。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [33]川崎は土地が三万坪たらずで年産三万トンの設備をすればいっぱいになってしまう
- [34]新工場の候補地を求めて、当時、横浜の根岸の埋立地とか、川崎の浮島とか、木更津とかあちこち探し回った。けっきょく土地がないということで、大蔵省のあっせんもあり、現在の徳山工場を三十九年にはじめることになった
- [35]四十年十一月、第二の合成ゴム工場として徳山工場を新設した。最初から汎用合成ゴムの量産工場として建設された
- [36]当工場の最大の特色は、自社開発による独自のブタジエン抽出技術を開花させ、主原料ブタジエンを自給していることである
- [37]GPB法は、ナフサ分解によってえられるBB溜分を原料として、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するという方法である
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [38]川崎工場ではブタジエンを他から供給を受けていたが、この開発で徳山工場では年産四万五〇〇〇トンの自己抽出を行なっている
- [39]GPB法は生産、技術に関する最高の賞"大河内記念生産特賞"を受けたもので、海外で開発された方法にくらべても経費が安く、ブタジエンの純度も高い
塩化ビニルの側でも炭化水素源を石油化学へ移した。GPA法は、ナフサを分解してエチレンとアセチレンを取り、エチレンは塩素と反応させて二塩化エチレンに、アセチレンは二塩化エチレンの熱分解で得た塩化水素と反応させて塩ビモノマーにする方法で、従来の合成設備と二塩化エチレン設備をそのまま使える点に特色があった。1960年8月に高岡工場内へパイロットプラントを建て、工業化試験を重ねたうえで第四次増設を機に原料部門を全面的に切り替えることとし、1967年11月、小矢部川対岸の二上地区に建設費43億円のGPAプラントを完成させた。同年3月には蒲原工場の塩ビ設備を高岡へ集約して蒲原を閉鎖し、高岡は塩ビモノマー年産13万トンの工場となった。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [40]GPA法というのは、ナフサを分解してエチレンとアセチレンをとり、エチレンは塩素と反応させてEDCとし、アセチレンは塩化水素(EDCの熱分解によってえられる)と反応させて塩ビモノマーをつくるという方法である。従来の合成設備およびEDC設備は、そのまま利用しうるところに大きな特色がある
- [41]三十五年八月には高岡工場内にバイロットプラントを建設、さらに慎重な工業化試験を積み重ねてきた
- [42]第四次増設に着手するに際し、まず、塩化ビニールモノマーの原料転換をはかることとし、GPAプラントを四十二年十一月に完成した。このGPAプラント(建設費四三億円)は、小矢部川対岸の二上地区に建設された
- [44]高岡工場は、ナフサ分解によって塩ビを製造する最新鋭工場として、塩ビモノマー年産能力一三万トンを誇る世界屈指の塩ビ工場となった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [43]四二年には塩ビの体質強化もはかって、蒲原工場を閉鎖し、高岡工場での一工場集中量産体制を整えた
二上プラントは定期修理明けで運転を戻したばかりだったが、コンプレッサー室からガスが漏れて爆発が起き、従業員3名が殉職、数名が負傷し、生産設備も傷んだ。1968年9月のこの事故は、原料を一系統に集約したことの代償だった。水島工場はまだ稼働前で、高岡工場が全面的に止まったことは、そのまま日本ゼオンの塩化ビニル樹脂生産がすべて途絶えることを意味した。供給責任を果たすため、被害のなかったカーバイド法の荻布プラントを富山県知事の許可のもと10月11日に稼働させた。ただ、割高なカーバイドを原料とするうえモノマーの能力が足りず重合部門の操業率が下がり、原価はかさんだ。塩化ビニルの第二工場は高岡に拡充の余地がないことから瀬戸内海の水島地区で計画されており、1969年に完成する。
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [45]八月中旬から約一カ月間の定期修理を終えて、運転を再開した直後、コンプレッサー室でのガス洩れによる爆発事故が起こった。従業員三名が殉職したほか、数名が負傷し、生産設備にもかなりの損傷をうけた
- [46]高岡工場は、この事故発生と同時に、一時その操業を全面的に停止した。このときにはまだ水島工場は動いていない。高岡工場の操業停止は日本ゼオンとしては、塩化ビニール樹脂生産の全面停止である
- [47]従来のカーバイド法による塩化ビニール樹脂の製造工場である荻布プラントは、まったくの無傷である。富山県知事の許可をえて、十月十一日、その操業を再開した。このプラントでは、割高なカーバイドを使ううえ、モノマーの能力不足から重合部門の低操業率を招き、塩化ビニール樹脂のコスト高は免れない
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [48]塩ビは高岡工場がすでに拡充の余地がないことから、第二工場の建設が計画されている。瀬戸内海水島地区に、四四年操業の予定で建設されることになった
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月
- [49]蒲原工場が土地、原料確保の問題から生産の拡大をはかることが困難となったため、同工場を閉鎖して、昭和44年に、岡山県の水島に塩ビの第二工場として水島工場を建設した
自社技術の確立は資本の構成にも及んだ。創立当初35%を占めていたグッドリッチの出資比率は漸次下がり、1970年に20%、1971年の時点では完全な日本資本の会社となっていた。塩化ビニルの技術契約は1966年に終了して以降は独自の展開に移り、合成ゴムの汎用ゴムについての契約も1972年に満期を迎える予定だった。一方でGPB法は外へ出ていった。国内では千葉ブタジエン・東燃石油化学・岡山ブタジエンへ供与し、海外ではソビエト連邦・オランダ・アメリカの有力化学会社5社と技術契約を結んだ。イソプレンモノマーの抽出技術であるGPI法も1968年12月に国産第1号として企業化の認可を得て、水島で工場の建設が進んでいた。導入する側から供与する側へ回った12年だった。
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月
- [50]創立当初、グッドリッチの資本は35%を占めていたが、漸次減少して昨年で20%、現在では完全な日本資本の会社となっている
- [51]塩化ビニールについては1966年に技術契約が終了して、その後は当社独自の展開をはかっている。合成ゴムについても汎用ゴムとしての契約が72年に満期となる
- [52]GPB法の技術については、国内では千葉ブタジエン、東燃石油化学、岡山ブタジエンに供与している。海外ではソ連、オランダ、アメリカ等の有力化学会社5社と技術契約をした
- [54]モノマー関係の工場は今年9月末に完成させ、ポリマー部門も10月末完成の計画のもとに、現在水島でその建設を進めている
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [53]日本ゼオンでは、わが国での一番乗りとして、すでに四十三年十二月、政府からこの企業化の認可を受けた
参考文献[33]-[54]
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- [33]川崎は土地が三万坪たらずで年産三万トンの設備をすればいっぱいになってしまう
- [34]新工場の候補地を求めて、当時、横浜の根岸の埋立地とか、川崎の浮島とか、木更津とかあちこち探し回った。けっきょく土地がないということで、大蔵省のあっせんもあり、現在の徳山工場を三十九年にはじめることになった
- [35]四十年十一月、第二の合成ゴム工場として徳山工場を新設した。最初から汎用合成ゴムの量産工場として建設された
- [36]当工場の最大の特色は、自社開発による独自のブタジエン抽出技術を開花させ、主原料ブタジエンを自給していることである
- [37]GPB法は、ナフサ分解によってえられるBB溜分を原料として、安価で高純度のブタジエンを直接抽出蒸留するという方法である
- [40]GPA法というのは、ナフサを分解してエチレンとアセチレンをとり、エチレンは塩素と反応させてEDCとし、アセチレンは塩化水素(EDCの熱分解によってえられる)と反応させて塩ビモノマーをつくるという方法である。従来の合成設備およびEDC設備は、そのまま利用しうるところに大きな特色がある
- [41]三十五年八月には高岡工場内にバイロットプラントを建設、さらに慎重な工業化試験を積み重ねてきた
- [42]第四次増設に着手するに際し、まず、塩化ビニールモノマーの原料転換をはかることとし、GPAプラントを四十二年十一月に完成した。このGPAプラント(建設費四三億円)は、小矢部川対岸の二上地区に建設された
- [44]高岡工場は、ナフサ分解によって塩ビを製造する最新鋭工場として、塩ビモノマー年産能力一三万トンを誇る世界屈指の塩ビ工場となった
- [45]八月中旬から約一カ月間の定期修理を終えて、運転を再開した直後、コンプレッサー室でのガス洩れによる爆発事故が起こった。従業員三名が殉職したほか、数名が負傷し、生産設備にもかなりの損傷をうけた
- [46]高岡工場は、この事故発生と同時に、一時その操業を全面的に停止した。このときにはまだ水島工場は動いていない。高岡工場の操業停止は日本ゼオンとしては、塩化ビニール樹脂生産の全面停止である
- [47]従来のカーバイド法による塩化ビニール樹脂の製造工場である荻布プラントは、まったくの無傷である。富山県知事の許可をえて、十月十一日、その操業を再開した。このプラントでは、割高なカーバイドを使ううえ、モノマーの能力不足から重合部門の低操業率を招き、塩化ビニール樹脂のコスト高は免れない
- [53]日本ゼオンでは、わが国での一番乗りとして、すでに四十三年十二月、政府からこの企業化の認可を受けた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- [38]川崎工場ではブタジエンを他から供給を受けていたが、この開発で徳山工場では年産四万五〇〇〇トンの自己抽出を行なっている
- [39]GPB法は生産、技術に関する最高の賞"大河内記念生産特賞"を受けたもので、海外で開発された方法にくらべても経費が安く、ブタジエンの純度も高い
- [43]四二年には塩ビの体質強化もはかって、蒲原工場を閉鎖し、高岡工場での一工場集中量産体制を整えた
- [48]塩ビは高岡工場がすでに拡充の余地がないことから、第二工場の建設が計画されている。瀬戸内海水島地区に、四四年操業の予定で建設されることになった
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月
- [49]蒲原工場が土地、原料確保の問題から生産の拡大をはかることが困難となったため、同工場を閉鎖して、昭和44年に、岡山県の水島に塩ビの第二工場として水島工場を建設した
- [50]創立当初、グッドリッチの資本は35%を占めていたが、漸次減少して昨年で20%、現在では完全な日本資本の会社となっている
- [51]塩化ビニールについては1966年に技術契約が終了して、その後は当社独自の展開をはかっている。合成ゴムについても汎用ゴムとしての契約が72年に満期となる
- [52]GPB法の技術については、国内では千葉ブタジエン、東燃石油化学、岡山ブタジエンに供与している。海外ではソ連、オランダ、アメリカ等の有力化学会社5社と技術契約をした
- [54]モノマー関係の工場は今年9月末に完成させ、ポリマー部門も10月末完成の計画のもとに、現在水島でその建設を進めている
筆者考察
日本ゼオンが合成ゴムで国産第1号を取れたのは、技術が早かったからではなく、国の設計図に乗らなかったからである。1956年に通商産業省が示した構想は、石油化学・化学工業・ゴム工業の三業界が協力する一社に政府が出資し、日本開発銀行が低利で融資するというもので、申請していた三社の計画はいったん白紙に戻された。古河系はそこで降りず、自己資金でやる分には干渉しないという言質を取り、日本ゴム工業会からは民間が一社あってよいとする決議を取り付けた。引き換えに背負ったのが特殊ゴムという狭い持ち場である。国策会社の日本合成ゴムが資本金25億円と国の保護を得て立ち上がった横で、日本ゼオンは保護を持たないまま、半年早く生産を始めた。
日本ゼオンが川崎工場を月産700トンで出発させたのは、需要が小さかったからではない。ブタジエンを日本石油化学と東燃石油化学から、スチレンを旭ダウから、アクリロニトリルを旭化成から買う構えでは、自社の生産規模を他社の設備能力の内側にしか置けなかった。GPB法とGPA法は、この天井を自前で外すための技術である。1965年の徳山工場では年産4万5,000トンのブタジエンを自ら抽出し、1967年に完成した二上プラントはナフサから塩ビモノマーを作った。合成ゴムの年産能力は1959年の8,400トンから1971年には23万トンへ届く。買う相手の能力が上限だった会社が、その上限を自分で決める会社に変わった12年だった。
1959年〜1971年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1959年03月期 | 単体 | 36 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 69 | +91.7% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 100 | +44.9% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 110 | +10.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 120 | +9.1% | n/a | n/a | 9 | 7.5% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 140 | +16.7% | n/a | n/a | 8 | 5.7% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 163 | +16.4% | n/a | n/a | 7 | 4.3% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 170 | +4.3% | 21 | 11 | 7 | 4.1% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 206 | +21.2% | n/a | n/a | 8 | 3.9% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 236 | +14.6% | n/a | n/a | 8 | 3.4% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 257 | +8.9% | n/a | n/a | 5 | 1.9% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 340 | +32.3% | 43 | 26 | 8 | 2.4% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 401 | +17.9% | n/a | 22 | 9 | 2.2% | n/a |
出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算
出典・参考
4件
- 日本軽金属二十年史(1959年)「日本ゼオンの設立」
- 産業フロンティア物語(1968年)「合成樹脂・合成ゴム〈日本ゼオン〉」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本ゼオン」
- 証券アナリストジャーナル 1971年2月