ゼンリン:善隣出版社・日本住宅地図出版の吸収合併とZmap電子地図の開発
1974年〜別府の観光案内図に始まる住宅地図と、北九州で株式会社にした善隣
1974年3月、住宅地図と各種地図・図書の企画出版を目的として、株式会社善隣を組織変更により北九州市小倉区に設立した(資本金10百万円)。事業の起点は1948年、大迫忍氏の父が大分県別府市で手がけた観光案内の作製にある。別府市の観光課と提携して史跡の案内図を刷り、旅館や商店、さらに一般の住宅まで書き加えて内容を広げた。本業の観光文化宣伝社が振るわず、事業は地図へ全面的に移った。1954年の小倉市(現北九州市)への本社移転後は各地の地図業者を吸収し、1979年には全国をほぼ網羅。金沢・千葉・名古屋で同種の事業を起こした父の元同僚も、規模の拡大につれて合流した。各地から合流した事業の企画と製作を1つの法人に集約する狙いが、組織変更の背景にあったとみられる。
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [1]1974年3月 住宅地図・各種地図・図書等の企画出版を目的に株式会社善隣を北九州市小倉区に設立(組織変更・資本金10百万円)
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106
- [2]1948年に大迫忍氏の父が創業。当初の主な仕事は大分・別府温泉の観光案内の作製で、やがて地図に絞った
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [3]別府市観光課と提携した史跡の案内図から旅館・商店・一般の家へと記載を広げた。本業の観光文化宣伝社が不振で地図に全面移行。金沢・千葉・名古屋で同種事業を始めた父の元同僚が後に合流
- [4]別府市観光課と提携した史跡の案内図から旅館・商店・一般の家へと記載を広げた。本業の観光文化宣伝社が不振で地図に全面移行。金沢・千葉・名古屋で同種事業を始めた父の元同僚が後に合流
- [6]別府市観光課と提携した史跡の案内図から旅館・商店・一般の家へと記載を広げた。本業の観光文化宣伝社が不振で地図に全面移行。金沢・千葉・名古屋で同種事業を始めた父の元同僚が後に合流
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [5]1954年に本社を小倉市へ移転。各地の地図業者を吸収して商圏を広げ、1979年に全国をほぼ網羅
1966年、中央大学に在学中の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、東日本の住宅地図づくりを担った。東京市場の事情は{q1}というものだった。そこで地方都市を1つずつ仕上げて余力を蓄える順をとり、埼玉県の熊谷・所沢・川越・飯能・入間で一軒ずつ調べながら地図を売り歩いた。1地区の地図を作るたびに40万〜50万円の利益が出たものの、その大半を次の地区の製作に充当した。1968年には父の元部下と共同で東京・神奈川を除く地域を受け持つ会社を設け、大迫忍氏は仙台と北海道に拠点を新設する役目を負った。大学卒業後に善隣出版社へ入社してからも、大迫忍氏は東日本の責任者として業績を拡大した。1974年、大迫忍氏は取締役に就任し、経営陣に加わった。
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [7]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [8]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [9]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [11]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106
- [10]1地区の地図ごとに40万〜50万円の利益が出たがほぼ全額を次の地区の製作に投入。1968年4月に善隣出版社へ入社後も東日本エリアの責任者を続け業績を伸ばした
- [12]1地区の地図ごとに40万〜50万円の利益が出たがほぼ全額を次の地区の製作に投入。1968年4月に善隣出版社へ入社後も東日本エリアの責任者を続け業績を伸ばした
- 日経ビジネス 1996年11月25日号 p140-142
- [13]1968年中央大学文学部卒業後に善隣出版社入社、1974年取締役
- [14]1968年中央大学文学部卒業後に善隣出版社入社、1974年取締役
1977年、地図に書き込む文字を手書きから活字に切り換えた。製作を急ぐほど人手が要り、人を増やすと『ページごとに字が違うことや、若い人は字を知らないし、また汚ない』という問題が生じるためである。改訂が重なる年賀状の配達期にはトレース部門がまひし、1人に1ページずつ割り振り、100人で1日のうちに仕上げる作業もあった。活字は当初タイプで試したものの使えず、写植に改めて1軒ずつ貼り込む方式に落ち着いた。1975年にはコンピューター化も構想した。ただ、当時の機械は円・三角・直線しか描けず、地形図の不連続な曲線を扱えなかった。写植への切り換えは品質をそろえる当座の策にとどまり、根本の解決は機械の性能の向上に委ねられたと推察される。
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [15]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [16]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [18]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [19]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [20]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [17]改訂を急ぐ時は1人1ページで100人がかり1日で仕上げることもあり、年賀状配達期にはトレース部門がまひ状態
参考文献[1]-[20]
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [1]1974年3月 住宅地図・各種地図・図書等の企画出版を目的に株式会社善隣を北九州市小倉区に設立(組織変更・資本金10百万円)
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106
- [2]1948年に大迫忍氏の父が創業。当初の主な仕事は大分・別府温泉の観光案内の作製で、やがて地図に絞った
- [10]1地区の地図ごとに40万〜50万円の利益が出たがほぼ全額を次の地区の製作に投入。1968年4月に善隣出版社へ入社後も東日本エリアの責任者を続け業績を伸ばした
- [12]1地区の地図ごとに40万〜50万円の利益が出たがほぼ全額を次の地区の製作に投入。1968年4月に善隣出版社へ入社後も東日本エリアの責任者を続け業績を伸ばした
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [3]別府市観光課と提携した史跡の案内図から旅館・商店・一般の家へと記載を広げた。本業の観光文化宣伝社が不振で地図に全面移行。金沢・千葉・名古屋で同種事業を始めた父の元同僚が後に合流
- [4]別府市観光課と提携した史跡の案内図から旅館・商店・一般の家へと記載を広げた。本業の観光文化宣伝社が不振で地図に全面移行。金沢・千葉・名古屋で同種事業を始めた父の元同僚が後に合流
- [6]別府市観光課と提携した史跡の案内図から旅館・商店・一般の家へと記載を広げた。本業の観光文化宣伝社が不振で地図に全面移行。金沢・千葉・名古屋で同種事業を始めた父の元同僚が後に合流
- [7]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [8]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [9]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [11]1966年に学生の大迫忍氏が東京事務所の駐在員となり、埼玉県熊谷・所沢・川越・飯能・入間を調査・販売。東京は全域を作らないと売れず2〜3年かかるため地方都市を先に作った。1968年に父の元部下と東京・神奈川以外を担う会社を作り、大迫忍氏は仙台・北海道の開設を担当
- [15]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [16]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [18]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [19]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- [20]1977年から地図の文字を手書きから活字へ。人手を増やすと字がページごとに違い読みにくくなった。タイプは不適で写植に替え一軒ずつ貼った。1975年にコンピューター化を考えたが当時のハードは地形図の曲線を描けなかった
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [5]1954年に本社を小倉市へ移転。各地の地図業者を吸収して商圏を広げ、1979年に全国をほぼ網羅
- [17]改訂を急ぐ時は1人1ページで100人がかり1日で仕上げることもあり、年賀状配達期にはトレース部門がまひ状態
- 日経ビジネス 1996年11月25日号 p140-142
- [13]1968年中央大学文学部卒業後に善隣出版社入社、1974年取締役
- [14]1968年中央大学文学部卒業後に善隣出版社入社、1974年取締役
1980年〜父の急逝で継いだ大迫忍氏と、善隣出版社・日本住宅地図出版の吸収合併
1980年、創業者である父の急逝を受けて、大迫忍氏が2代目社長に就任した。父は病で伏せることが多く、その3年前から大迫忍氏が実質的に経営を担った。ワンマンの創業者を失い、会社の存続を危ぶむ声も上がった。それでも大迫忍氏が専務を務める東京の別会社は総売上の7割以上を占め、主要な幹部も大迫忍氏が自ら採用した人材だった。代替わりの影響は『父が死んだときもほとんど影響なかったですね』という程度にとどまった。1975年には関西支社から持ち出された白紙手形100枚の回収を父から一任され、大迫忍氏が2年半で1枚残らず取り戻した。父の代に多かった支出を抑え、就任1年目には父の時代の3倍の利益を確保。売上の主力と危機の処理の双方で実績を積んでいたことが、代替わりの動揺を抑えたと思われる。
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106
- [21]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [22]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [26]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [28]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [23]父がワンマンで死去時に潰れるとの声。東京の別会社(大迫忍氏が専務)が総売上の7割以上を占め、主要幹部は大迫忍氏が採用
- [24]父がワンマンで死去時に潰れるとの声。東京の別会社(大迫忍氏が専務)が総売上の7割以上を占め、主要幹部は大迫忍氏が採用
- [25]父がワンマンで死去時に潰れるとの声。東京の別会社(大迫忍氏が専務)が総売上の7割以上を占め、主要幹部は大迫忍氏が採用
- 日経ビジネス 1996年11月25日号 p140-142
- [27]1975年に幹部が代表印のある白紙手形100枚を暴力団に流す事件があり回収に奔走
1981年、日立製作所と各10人程度の技術者を出して、住宅地図製作システムの共同開発を始めた。昭和40年代末に発売された版下の自動製図装置を導入したものの、『2億円をはたいて買ってみたものの,描画精度などが不十分で、ほんの補助程度にしか使えませんでした』という結果に終わった。各メーカーにも完全な装置はなく、自社で改良を重ねるうちに、地図向けのCAD/CAM装置を開発したい日立製作所が共同開発を持ちかけた。1982年にコンピューター化を最終的に決める際には、約600人の社員の賛否が二分。反対派は日立製作所への地図製作のノウハウの流出と、合理化による人員削減を懸念した。大迫忍氏は、細かな作図を担う熟練社員の高齢化と、対象範囲の拡大による作業量の増加を理由に、反対を押し切った。
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [29]昭和40年代末に自動製図装置を2億円で購入したが描画精度が不十分。どのメーカーにも完全な装置はなく自社で改良。日立製作所から共同開発の声がかかり、1981年に両社10人程度の技術者で開発開始
- [30]昭和40年代末に自動製図装置を2億円で購入したが描画精度が不十分。どのメーカーにも完全な装置はなく自社で改良。日立製作所から共同開発の声がかかり、1981年に両社10人程度の技術者で開発開始
- [31]昭和40年代末に自動製図装置を2億円で購入したが描画精度が不十分。どのメーカーにも完全な装置はなく自社で改良。日立製作所から共同開発の声がかかり、1981年に両社10人程度の技術者で開発開始
- 日経ビジネス 1996年11月25日号 p140-142
- [32]1982年に地図製作のコンピューター化を決める際、社員約600人の社内が割れた。反対派は日立製作所へのノウハウ提供と人員削減を懸念。大迫忍氏はベテランの高齢化と作業量の増大を理由に押し切った
- [33]1982年に地図製作のコンピューター化を決める際、社員約600人の社内が割れた。反対派は日立製作所へのノウハウ提供と人員削減を懸念。大迫忍氏はベテランの高齢化と作業量の増大を理由に押し切った
- [34]1982年に地図製作のコンピューター化を決める際、社員約600人の社内が割れた。反対派は日立製作所へのノウハウ提供と人員削減を懸念。大迫忍氏はベテランの高齢化と作業量の増大を理由に押し切った
1983年7月に善隣の商号をゼンリンへ改め、翌8月には販売を担う善隣出版社と日本住宅地図出版を吸収合併した。製造と販売に分かれていた3社が1つになり、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪など全国の事業所を引き継いだ。新しい社名には、それまで商標として使ってきた「ゼンリン」を充てた。直接の目的は管理部門の簡素化で、従業員950人余りに対し、現地調査の臨時要員は年間延べ13万人を数えた。磁気テープに収めた地図を売る新事業の開始も目前で、商品構成と営業の手法の変化が見込まれた。1983年12月期の売上高見込みは、販売2社と旧善隣の単純合計で88億2700万円だった。新事業で営業の組み立てが変わる前に、製造から販売までの意思決定を一本化しておく必要があったと考えられる。
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [35]1983年7月 善隣をゼンリンに商号変更。8月 善隣出版社と日本住宅地図出版を吸収合併し、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪ほか全国の事業所を引き継ぐ
- [36]1983年7月 善隣をゼンリンに商号変更。8月 善隣出版社と日本住宅地図出版を吸収合併し、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪ほか全国の事業所を引き継ぐ
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106
- [37]社長就任から3年後、3つに分かれていた会社を1つに統一し生産から販売まで一体化
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [38]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- [39]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- [40]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- [41]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
参考文献[21]-[41]
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106
- [21]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [22]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [26]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [28]1980年に父の急逝に伴い2代目社長に就任。その3年前から実質的に社長。関西支社から持ち逃げされた白紙手形100枚を判断を任され2年半で1人で回収。父時代より支出を抑え就任1年目に利益3倍
- [37]社長就任から3年後、3つに分かれていた会社を1つに統一し生産から販売まで一体化
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [23]父がワンマンで死去時に潰れるとの声。東京の別会社(大迫忍氏が専務)が総売上の7割以上を占め、主要幹部は大迫忍氏が採用
- [24]父がワンマンで死去時に潰れるとの声。東京の別会社(大迫忍氏が専務)が総売上の7割以上を占め、主要幹部は大迫忍氏が採用
- [25]父がワンマンで死去時に潰れるとの声。東京の別会社(大迫忍氏が専務)が総売上の7割以上を占め、主要幹部は大迫忍氏が採用
- 日経ビジネス 1996年11月25日号 p140-142
- [27]1975年に幹部が代表印のある白紙手形100枚を暴力団に流す事件があり回収に奔走
- [32]1982年に地図製作のコンピューター化を決める際、社員約600人の社内が割れた。反対派は日立製作所へのノウハウ提供と人員削減を懸念。大迫忍氏はベテランの高齢化と作業量の増大を理由に押し切った
- [33]1982年に地図製作のコンピューター化を決める際、社員約600人の社内が割れた。反対派は日立製作所へのノウハウ提供と人員削減を懸念。大迫忍氏はベテランの高齢化と作業量の増大を理由に押し切った
- [34]1982年に地図製作のコンピューター化を決める際、社員約600人の社内が割れた。反対派は日立製作所へのノウハウ提供と人員削減を懸念。大迫忍氏はベテランの高齢化と作業量の増大を理由に押し切った
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [29]昭和40年代末に自動製図装置を2億円で購入したが描画精度が不十分。どのメーカーにも完全な装置はなく自社で改良。日立製作所から共同開発の声がかかり、1981年に両社10人程度の技術者で開発開始
- [30]昭和40年代末に自動製図装置を2億円で購入したが描画精度が不十分。どのメーカーにも完全な装置はなく自社で改良。日立製作所から共同開発の声がかかり、1981年に両社10人程度の技術者で開発開始
- [31]昭和40年代末に自動製図装置を2億円で購入したが描画精度が不十分。どのメーカーにも完全な装置はなく自社で改良。日立製作所から共同開発の声がかかり、1981年に両社10人程度の技術者で開発開始
- [38]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- [39]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- [40]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- [41]1983年8月の合併は管理部門の簡素化が直接の目的。ブランドの「ゼンリン」を社名に。従業員950人余り、臨時要員年間延べ13万人。磁気テープの新システムで商品構成と営業手法が変わる新事業を控えた。1983年12月期売上高見込み88億2700万円(販社2社と旧善隣の単純合計)
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [35]1983年7月 善隣をゼンリンに商号変更。8月 善隣出版社と日本住宅地図出版を吸収合併し、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪ほか全国の事業所を引き継ぐ
- [36]1983年7月 善隣をゼンリンに商号変更。8月 善隣出版社と日本住宅地図出版を吸収合併し、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪ほか全国の事業所を引き継ぐ
1984年〜日立製作所と組んだ住宅地図製作自動化システムと、40万ページの原図を入れるZmap電子地図
1984年5月、日立製作所との共同開発により「住宅地図製作自動化システム」を確立し、あわせて「住宅地図情報利用システム」も開発した。地形図を土台に世帯主名を載せれば住宅地図になり、利用者ごとの属性を重ねれば専用の地図が得られる。それまでの業務用地図は需要家ごとに一から版を起こしており、費用と時間がかさんだ。電算化の出発点は、『それらを需要家ごとに版を作るのではムダがありますから、コンピュータで処理すれば共用できる』という発想にある。1984年3月時点で東京都分の4分の1のデータ入力を終え、1986年の正式発売を計画した。電電公社やNHK、大手運輸業、郵政省を販売先に見込み、電算化への投資は累計約80億円と見込んだ。
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [42]1984年5月 日立製作所と共同で住宅地図製作自動化システムを確立し、住宅地図情報利用システムを開発
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [43]地形図に氏名を入れれば住宅地図、ユーザーごとに属性を加えれば専用地図。需要家ごとに一から版を起こすとコストが高く時間がかかるため、コンピューターで共用する発想から始めた
- [44]地形図に氏名を入れれば住宅地図、ユーザーごとに属性を加えれば専用地図。需要家ごとに一から版を起こすとコストが高く時間がかかるため、コンピューターで共用する発想から始めた
- [45]地形図に氏名を入れれば住宅地図、ユーザーごとに属性を加えれば専用地図。需要家ごとに一から版を起こすとコストが高く時間がかかるため、コンピューターで共用する発想から始めた
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [46]1984年3月時点で東京都のデータの4分の1を入力済み、1986年に正式発売の計画。販売先に電電公社・NHK・大手運輸業・郵政省。電算化投資は累計約80億円の見通し
- [47]1984年3月時点で東京都のデータの4分の1を入力済み、1986年に正式発売の計画。販売先に電電公社・NHK・大手運輸業・郵政省。電算化投資は累計約80億円の見通し
1985年11月、日立製作所・写研と共同で、文字・図形情報を入れた磁気テープから印刷用の刷版を直接作る「レーザー製版システム」を開発した。1984年3月時点では、プロッターが描く白地図の上に、ワープロで印字した文字を人手で切り貼りし、写真製版に掛けていた。このため図形と文字を同時に処理できるよう、システムの改良を重ねた。1986年4月時点でも写植は主流のままで、1軒ずつ貼る作業が残っていた。最新の手法は、コンピューターで描いた地形図とワープロで打った文字をパソコン上で合成するものだった。貼り込みの手作業を省かなければ、製作の自動化の効果が印刷の手前で止まるため、製版まで直結させたのだろう。
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [48]1985年11月 日立製作所・写研と共同で、文字・図形情報を入力した磁気テープから直接刷版を作るレーザー製版システムを開発
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [49]1984年3月時点でプロッターの白地図にワープロの文字を手で切り貼りして写真製版。図形と文字を同時に処理できるよう改良中
- [50]1984年3月時点でプロッターの白地図にワープロの文字を手で切り貼りして写真製版。図形と文字を同時に処理できるよう改良中
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [51]1986年4月時点で写植が主流で一軒ずつ貼る。最新手法はコンピューターの地形図とワープロの文字をパソコンで合成
- [52]1986年4月時点で写植が主流で一軒ずつ貼る。最新手法はコンピューターの地形図とワープロの文字をパソコンで合成
1986年11月、地図情報を収めたデータベース「Zmap電子地図」とソフトウエア「Zmap-PC」を開発した。同年4月の時点で、トレーシングペーパーに描いた原図約40万ページのうち入力を終えたのは東京都内で、福岡・横浜・川崎が作業中だった。全原図の入力完了までには、なお5年ほどを見込んだ。その完了を待たず代表的な業種を選んで応用プログラムを作り、宅配便の車に積んで集配先を地図に表示する仕組みも実験段階で仕上げた。地域の広い都市銀行では費用が膨らむため、営業範囲の狭い信用金庫向けに、ハード込みで月5万円までのリースとする製品を開発中だった。最も簡単なシステムは月10万円程度のリースで、ディスクは東京都で年100万円程度と設定した。Zmap電子地図の発売は、東京都23区を対象とする1988年1月を待つことになる。
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [53]1986年11月 地図情報データベース「Zmap電子地図」とソフト「Zmap-PC」を開発。1988年1月 東京都23区から発売開始
- [59]1986年11月 地図情報データベース「Zmap電子地図」とソフト「Zmap-PC」を開発。1988年1月 東京都23区から発売開始
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [54]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [55]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [56]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [57]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [58]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
参考文献[42]-[59]
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- [42]1984年5月 日立製作所と共同で住宅地図製作自動化システムを確立し、住宅地図情報利用システムを開発
- [48]1985年11月 日立製作所・写研と共同で、文字・図形情報を入力した磁気テープから直接刷版を作るレーザー製版システムを開発
- [53]1986年11月 地図情報データベース「Zmap電子地図」とソフト「Zmap-PC」を開発。1988年1月 東京都23区から発売開始
- [59]1986年11月 地図情報データベース「Zmap電子地図」とソフト「Zmap-PC」を開発。1988年1月 東京都23区から発売開始
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- [43]地形図に氏名を入れれば住宅地図、ユーザーごとに属性を加えれば専用地図。需要家ごとに一から版を起こすとコストが高く時間がかかるため、コンピューターで共用する発想から始めた
- [44]地形図に氏名を入れれば住宅地図、ユーザーごとに属性を加えれば専用地図。需要家ごとに一から版を起こすとコストが高く時間がかかるため、コンピューターで共用する発想から始めた
- [45]地形図に氏名を入れれば住宅地図、ユーザーごとに属性を加えれば専用地図。需要家ごとに一から版を起こすとコストが高く時間がかかるため、コンピューターで共用する発想から始めた
- [51]1986年4月時点で写植が主流で一軒ずつ貼る。最新手法はコンピューターの地形図とワープロの文字をパソコンで合成
- [52]1986年4月時点で写植が主流で一軒ずつ貼る。最新手法はコンピューターの地形図とワープロの文字をパソコンで合成
- [54]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [55]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [56]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [57]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- [58]1986年4月時点で原図約40万ページを入力中、東京都内が完了し福岡・横浜・川崎を作業中、完了に約5年。宅急便向け車載システムを実験。信用金庫向けにハード込み月5万円までのリース。最も簡単なシステムは月約10万円、ディスクは東京都で年約100万円
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- [46]1984年3月時点で東京都のデータの4分の1を入力済み、1986年に正式発売の計画。販売先に電電公社・NHK・大手運輸業・郵政省。電算化投資は累計約80億円の見通し
- [47]1984年3月時点で東京都のデータの4分の1を入力済み、1986年に正式発売の計画。販売先に電電公社・NHK・大手運輸業・郵政省。電算化投資は累計約80億円の見通し
- [49]1984年3月時点でプロッターの白地図にワープロの文字を手で切り貼りして写真製版。図形と文字を同時に処理できるよう改良中
- [50]1984年3月時点でプロッターの白地図にワープロの文字を手で切り貼りして写真製版。図形と文字を同時に処理できるよう改良中
出典・参考
5件
- ゼンリン 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1984年3月5日号 p64-68
- 商工ジャーナル 12(4) 1986年4月号 p81-87
- 日経ビジネス 1996年11月25日号 p140-142
- 日経ビジネス 1998年3月30日号 p104-106