ヤマトホールディングス:大和運輸の創立と東京-横浜間の定期便
1919年〜資本金10万円・トラック4台の大和運輸と、三越呉服店から一手に請けた配送
小倉康臣氏は1919年11月29日、資本金10万円の大和運輸株式会社を東京・京橋区で創立した。友人が持ち込んだトラック運送会社の設立目論見書を小倉康臣氏が譲り受け、その計画に沿って興した会社である。社長には義兄の谷村端四郎氏を置き、小倉康臣氏は常勤ただ1人の専務として経営全体を統括した。発足時の陣容は社員15名とトラック4台の購入契約で、12月23日に納車済みの2台で営業を始めた。当時の運賃はトラックが1日17〜18円、荷馬車が6円程度。小倉康臣氏は、後にヤマト運輸会長となる小倉昌男氏の父にあたる。会社組織のトラック専業者が他に無いなか、荷馬車の約3倍の運賃でも速さに対価を払う荷主がいると見て専業に絞ったのだろう。
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- [1]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [2]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [3]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [4]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [5]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [6]小倉昌男氏(1988年時点でヤマト運輸会長)は創業者小倉康臣氏の子
大和運輸は創業から4カ月後の1920年3月、戦後の反動恐慌に見舞われた。4台のトラックを休みなく走らせても利益が出ず、1921年には給与の支払いにも窮した。専務の小倉康臣氏はトラックの速さを活かせる仕事を開拓するほかないと考え、1921年6月に鮮魚の輸送を始めた。鮮魚は荷車で3時間の道のりを30分に縮めたが、鮮魚商が自らトラックを購入して仕事は続かなかった。次に小倉康臣氏は小口の雑貨を1台に積み合わせる計画を立て、1922年11月に横浜市内へ取扱店を設けて本社との定期輸送を始めた。同じ1922年に三越呉服店の家具を横浜へ運んだことが縁となり、1923年1月から三越の横浜方面送りを一手に引き受けた。この京浜間の積合せ輸送は、後に小倉康臣氏が定期便を構想する出発点にあたる。
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- [7]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [8]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [9]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [10]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [11]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [12]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [13]大震災前の東京-横浜間定期積合せ輸送が定期便構想のめばえとされる
1923年4月、三越呉服店が自家配送をやめたため、大和運輸は同店の市内配送をすべて受託した。1トン車4台を専属で出し、翌5月には追加の注文で専属車を9台に増やして社員1名を出向させた。同年9月1日の関東大震災では、専務の小倉康臣氏が三越本店の中庭にあった新車8台を含む12台を代々木の原へ移した。9月4日から車は官庁に徴用され、運賃は前払いの1日50円で、平時の相場15〜16円の3倍超。支払猶予令が出ても小倉康臣氏は予定どおりに支払い、仕入れも現金で済ませて信用を高めた。1924年1月には初の自社建物となる本社を木挽町に建て、1926年末の車両数は23台である。震災後の大和運輸は、デパート配送に引越や婚礼の荷を加えて経営を安定させた。
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- [14]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [15]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [16]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [17]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [18]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [19]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [20]デパート配送と引越荷・婚礼荷を中心とする業務拡大で経営が軌道にのった
参考文献[1]-[20]
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- [1]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [2]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [3]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [4]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [5]1919年11月29日創立総会・資本金10万円・社長谷村端四郎(義兄)・専務小倉八三郎(のち康臣)が唯一の常勤・社員15名・トラック4台契約・12月23日に2台で営業開始・トラック1日17〜18円対荷馬車6円程度・帝国運輸解散後の唯一の会社組織トラック専業
- [7]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [8]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [9]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [10]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [11]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [12]1920年3月反動恐慌・1921年給与支払いに窮す・1921年6月鮮魚輸送(3時間→30分)・1922年11月横浜取扱店で小口積合せ定期輸送・1923年1月三越呉服店の横浜方面送りを一手に契約
- [14]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [15]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [16]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [17]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [18]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- [19]1923年4月三越の自家配送取り止めで市内配送を全面受託(専属4台→5月9台)・8月に計13台・震災で12台を代々木へ避難・徴用運賃1日50円前払い(相場15〜16円)・モラトリアム下でも期日払い・1924年1月自社本社・1926年末23台
- 日経ビジネス 1988年10月24日号
- [6]小倉昌男氏(1988年時点でヤマト運輸会長)は創業者小倉康臣氏の子
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [13]大震災前の東京-横浜間定期積合せ輸送が定期便構想のめばえとされる
- [20]デパート配送と引越荷・婚礼荷を中心とする業務拡大で経営が軌道にのった
1924年〜ロンドンで見た定期便に倣う東京-横浜の大和便と、戦時統制で入った日通資本
経営が安定した後も、専務の小倉康臣氏は貸切中心の運送に限界を感じていた。一般貸切の収入のうち、一時は70%が引越。小倉康臣氏はその理由を『貸切運送は,宿命的に片荷をまぬがれず,その上事業に主体性がない』と後年振り返っている。1927年11月、小倉康臣氏はロンドンの万国自動車運輸会議にトラック輸送部門の民間代表として出席した。会議後の視察で小倉康臣氏が注目したのは、ロンドンからバーミンガムやグラスゴーへ定期便を出すカーターパターソン社である。同社は幹線をトラックで運び、集荷と配達は幌馬車の巡回で受け持ち、戸口から戸口まで一貫して運んでいた。帰国した小倉康臣氏は、東京を中心とする関東一円に小口混載の定期便網を敷く方針を固めた。自ら路線と時刻を決める定期便なら、片荷を避けて需要を直接開拓できると判断したと推察される。
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [21]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [23]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [24]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [25]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [26]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [27]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- [22]1926年3月以降、デパート関係を除く一般貸切収入の70%を一時引越が占めた
大和運輸は1929年6月、東京-横浜間でトラックの定期積合せ輸送を始め、同じ月のうちに小田原まで延ばした。時刻と経路を定めて荷を積み合わせる方式で、後に道路運送法が路線事業に課す3条件を先に満たしていた。同年6月に横浜・常盤町、10月に東京・木挽町の事業所を完成させた。沿線のタバコ店や雑貨店を取次店にし、荷があれば「桜にY」の三角旗を掲げてもらう仕組みは、カーターパターソン社の掛札に倣った。1930年の横須賀線・館林線・高崎線に続き、大和運輸は毎年路線を加えた。1935年末には路線営業キロ1081.6km、車両151台、営業所48カ所の網が関東一円に揃った。収入は1929年度の292千円に対し、1936年には756千円である。売上高は1941年1月期に1,731,276円、車両は246台に達した。
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [28]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [29]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [30]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [31]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [32]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [33]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [34]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- ヤマト運輸70年史(1991)3章「戦時体制下の大和運輸」
- [35]表3-1 売上高1936年2月-1937年1月期756,002円→1940年2月-1941年1月期1,731,276円、車両151台→246台
鉄道省の構想は、大和運輸を中核に模範的なトラック会社をつくり、資金は半官半民の日本通運から入れるものである。専務の小倉康臣氏は、通運業者の資本が入ればトラック事業が小運送に従属しかねないと懸念した。鉄道省がトラック事業を小運送に従属させないと示したため、小倉康臣氏は受け入れを決め、1940年4月30日に日通と覚書を結んだ。この日通資本は、当局の指導で模範会社のモデルとして入ったものである。1942年12月には関東の路線事業の統合主体に指定され、大和運輸は同業の買収を進めた。一方、1941年8月の陸運統制令で50kmを超える運送とデパート商品の配送が禁じられ、大和便は遠隔地の営業所を閉じた。大和便は1945年4月に開店休業となり、社の主力は中島飛行機武蔵野製作所の疎開輸送に回った。
- ヤマト運輸70年史(1991)3章「戦時体制下の大和運輸」
- [36]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [37]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [38]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [40]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [41]1941年8月陸運統制令(50km制限・デパート商品配送禁止)・1943年10月以降営業所休止・1945年4月開店休業・同年2月中島飛行機武蔵野製作所疎開輸送(光輸送隊)
- [42]1941年8月陸運統制令(50km制限・デパート商品配送禁止)・1943年10月以降営業所休止・1945年4月開店休業・同年2月中島飛行機武蔵野製作所疎開輸送(光輸送隊)
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- [39]戦時中、当局の指導で模範的トラック会社のモデルケースとして日通資本を導入
参考文献[21]-[42]
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [21]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [23]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [24]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [25]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [26]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [27]貸切主体の運送に限界・片荷と主体性の欠如(小倉康臣の述懐)・1927年11月ロンドン万国自動車運輸会議に民間代表で出席・カーターパターソン社(集荷配達は幌馬車・幹線はトラック)・関東一円の小口混載定期便網を方針化
- [28]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [29]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [30]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [31]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [32]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [33]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- [34]1929年6月京浜線開始・同月小田原延長・横浜6月/東京10月に拠点完成・専用伝票と独自運賃・「桜にY」三角旗の取次店・1935年末関東一円1081.6km/14系統/151台/48カ所・収入1929年度292千円→1936年756千円
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- [22]1926年3月以降、デパート関係を除く一般貸切収入の70%を一時引越が占めた
- ヤマト運輸70年史(1991)3章「戦時体制下の大和運輸」
- [35]表3-1 売上高1936年2月-1937年1月期756,002円→1940年2月-1941年1月期1,731,276円、車両151台→246台
- [36]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [37]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [38]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [40]鉄道省が大和運輸中核の模範会社を構想・政府投資に代え日通資本・小倉康臣は小運送への従属を懸念・鉄道省の二元助成の言明で受け入れ・1940年4月30日覚書・1942年12月28日関東の統合主体に指定
- [41]1941年8月陸運統制令(50km制限・デパート商品配送禁止)・1943年10月以降営業所休止・1945年4月開店休業・同年2月中島飛行機武蔵野製作所疎開輸送(光輸送隊)
- [42]1941年8月陸運統制令(50km制限・デパート商品配送禁止)・1943年10月以降営業所休止・1945年4月開店休業・同年2月中島飛行機武蔵野製作所疎開輸送(光輸送隊)
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- [39]戦時中、当局の指導で模範的トラック会社のモデルケースとして日通資本を導入
1946年〜日通資本を離れて果たした東証上場と、通運・航空・海上貨物への進出
大和運輸は1946年9月1日の小田原線を皮切りに大和便を再開し、区域の業務も戻して、1年余りで復旧の見通しをつけた。営業拠点は1946年度末の11店所から1949年度末には88店所を数える。小倉康臣氏は1947年3月、社長制を採って自ら社長に就任し、日野光雄氏と川瀬直治氏を常務に昇格させた。川瀬直治氏は1940年に合併した川瀬商会の社長だった人物である。小倉康臣氏は、模範会社のための日通資本が終戦で意義を失ったと判断し、株式の買い戻しを交渉させた。資本金を185万円から500万円に増資して新株を公開株とし、旧株は1948年に1株70円で全株を取得した。1948年11月には資本金を1000万円へ倍額増資することを決めた。1949年5月に東京証券取引所へ20万株を上場し、大和便網の再建資金を市場から調達した。
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- [43]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [44]1946年9月1日小田原線で大和便再開・営業拠点21年度末11店所→24年度末88店所
- [45]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [47]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [48]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [49]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [50]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- ヤマト運輸70年史(1991)3章「戦時体制下の大和運輸」
- [46]1940年9月30日に川瀬商会(川瀬直治社長)と合併契約、川瀬直治は1941年1月取締役、のち常務
社長の小倉康臣氏は1946年11月、10トンの試作車で箱根越えを試し、長距離トラック運行の可否を確かめた。車両の性能と道路の状態から長距離運行は当面見送り、関東一円の網の拡充と事業の多角化に力を向けた。関東一円は、大和便が1935年末に路線網を完成させた範囲である。運輸省が1948年11月に小運送業の複数制実施要綱を決めると、大和運輸は通運事業への参入を決めた。関東より遠い荷は、鉄道を使う利用運送で運ぶ方針である。1949年12月27日に汐留・秋葉原・飯田町の3駅で通運免許を受け、1950年3月15日に汐留駅で営業を始めた。小口混載に重点を置いた通運は1952年に黒字となり、1955年には全社収入の20%を超えた。
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- [51]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [52]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [54]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [55]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [56]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [57]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [53]1935年末に関東一円の定期路線網を確立
大和運輸は1947年9月、中央終戦連絡事務局の指示で、駐留軍人の帰国に伴う家財の梱包と輸送を元請けで始めた。倉庫・梱包・船積みを伴うこの仕事が、通関や航空、海上貨物へ出る素地である。航空の代理店にはIATAの認可が要ったため、まず1950年9月に東京税関の貨物取扱人免許を取った。1951年1月に台湾の民航空運公司と代理店契約を結び、1955年3月にIATA貨物代理店の資格を得た。海上貨物は1952年に扱いを始め、1953年9月に横浜税関の免許を取って高島埠頭出張所を開設した。1953年7月には梱包・航空・海運を統轄する事業部を本社に設けた。1958年8月には美術梱包課を新設し、同年10月に「ゴッホ展」の輸送を受注した。陸・鉄道・空・海の輸送を1社で扱う体制は、1950年代のうちに整ったとみられる。
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- [58]1947年9月CLO指示で駐留軍家財の梱包・保管・輸送を元請け(越前堀作業所)・通関、航空代理店、海上貨物進出の素地・1953年7月梱包・航空・海運を統轄する事業部
- [59]1947年9月CLO指示で駐留軍家財の梱包・保管・輸送を元請け(越前堀作業所)・通関、航空代理店、海上貨物進出の素地・1953年7月梱包・航空・海運を統轄する事業部
- [60]IATA代理店認可が必要・1950年9月東京税関貨物取扱人免許・1951年1月CAT代理店契約・1955年3月IATA貨物代理店・1952年海上貨物・1953年9月横浜税関免許と高島埠頭出張所
- [61]IATA代理店認可が必要・1950年9月東京税関貨物取扱人免許・1951年1月CAT代理店契約・1955年3月IATA貨物代理店・1952年海上貨物・1953年9月横浜税関免許と高島埠頭出張所
- [62]IATA代理店認可が必要・1950年9月東京税関貨物取扱人免許・1951年1月CAT代理店契約・1955年3月IATA貨物代理店・1952年海上貨物・1953年9月横浜税関免許と高島埠頭出張所
- [63]1947年9月CLO指示で駐留軍家財の梱包・保管・輸送を元請け(越前堀作業所)・通関、航空代理店、海上貨物進出の素地・1953年7月梱包・航空・海運を統轄する事業部
- [64]1958年6月ローマ展受注・8月美術梱包課新設・10月ゴッホ展受注
参考文献[43]-[64]
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- [43]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [44]1946年9月1日小田原線で大和便再開・営業拠点21年度末11店所→24年度末88店所
- [45]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [47]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [48]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [49]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [50]1年余で復旧見通し・1947年3月社長制採用で小倉康臣が社長、日野・川瀬が常務・日通資本の買い戻し(185万→500万円増資、旧株1株70円、1948年完了)・1948年11月1000万円へ倍額増資決議・1949年5月東証に20万株上場
- [51]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [52]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [54]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [55]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [56]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [57]1946年11月10トン試作車で箱根越え試運転→長距離運行保留・1948年11月複数制実施要綱・関東以遠は鉄道利用運送の方針・米軍経由で情報・1949年12月27日3駅免許・1950年3月15日汐留開業・1952年黒字・1955年全社収入の20%超
- [58]1947年9月CLO指示で駐留軍家財の梱包・保管・輸送を元請け(越前堀作業所)・通関、航空代理店、海上貨物進出の素地・1953年7月梱包・航空・海運を統轄する事業部
- [59]1947年9月CLO指示で駐留軍家財の梱包・保管・輸送を元請け(越前堀作業所)・通関、航空代理店、海上貨物進出の素地・1953年7月梱包・航空・海運を統轄する事業部
- [60]IATA代理店認可が必要・1950年9月東京税関貨物取扱人免許・1951年1月CAT代理店契約・1955年3月IATA貨物代理店・1952年海上貨物・1953年9月横浜税関免許と高島埠頭出張所
- [61]IATA代理店認可が必要・1950年9月東京税関貨物取扱人免許・1951年1月CAT代理店契約・1955年3月IATA貨物代理店・1952年海上貨物・1953年9月横浜税関免許と高島埠頭出張所
- [62]IATA代理店認可が必要・1950年9月東京税関貨物取扱人免許・1951年1月CAT代理店契約・1955年3月IATA貨物代理店・1952年海上貨物・1953年9月横浜税関免許と高島埠頭出張所
- [63]1947年9月CLO指示で駐留軍家財の梱包・保管・輸送を元請け(越前堀作業所)・通関、航空代理店、海上貨物進出の素地・1953年7月梱包・航空・海運を統轄する事業部
- [64]1958年6月ローマ展受注・8月美術梱包課新設・10月ゴッホ展受注
- ヤマト運輸70年史(1991)3章「戦時体制下の大和運輸」
- [46]1940年9月30日に川瀬商会(川瀬直治社長)と合併契約、川瀬直治は1941年1月取締役、のち常務
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- [53]1935年末に関東一円の定期路線網を確立
出典・参考
5件
- ヤマト運輸70年史(1991)1章「大和運輸の創業」
- ヤマト運輸70年史(1991)2章「大和便の開始と発展」
- ヤマト運輸70年史(1991)3章「戦時体制下の大和運輸」
- ヤマト運輸70年史(1991)4章「戦後の復興と業務の多角化」
- 日経ビジネス 1988年10月24日号