ヤマトホールディングス の歴史

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創業 1919年
創業者 小倉康臣
創業地 東京市京橋区
創業
1919年11月、小倉康臣氏が東京市京橋区で資本金10万円、車両4台の大和運輸を創立した。荷馬車が主流の大正期の都心で、輸入トラック4台の機動力を差別化要因として商業貨物へ参入した。1929年4月には東京〜横浜間に定期便を開設し、日本で最初の路線トラック事業を始める。1949年5月に東京証券取引所の再開とともに株式を上場し、1950年3月に通運事業、1951年1月に航空貨物、1952年1月に海上貨物の取扱へ広げた。ただし1960年代の長距離路線への参入は日本通運と西濃運輸に5年遅れ、関西での知名度の低さから荷主の獲得も進まず、路線トラックでは三番手にとどまった。
決断
自ら作った市場を、自ら縮める側へ移った。1973年のニューヨーク視察でUPSの集配を見た小倉昌男氏は、個人間の宅配需要が2倍止まりで設備過剰に悩まされないと読み、1976年1月20日に電話1本・翌日配達・運賃明瞭の宅急便を始めた。初日の取扱個数は11個だった。郵便小包は官業が独占していたため、1981年4月からは郵便小包の官業独占に対抗し、約20年にわたり規制の変更を求め続ける。市場が育ちきったあとに現れたのは逆の問題で、EC荷物の急増が単価を下げ、再配達が現場を圧迫した。2017年4月、ヤマトは荷物の総量規制と27年ぶりの全面値上げを実施し、年約8000万個の抑制と平均15%の値上げに踏み切る。同年の経常利益は前期の694億円から348億円へ半減した。取扱個数を増やすほど利益が減る関係を、ヤマトは値上げと引き受けの制限で断ち切った。
現況
宅急便を運ぶ本体が、利益をほとんど生まなくなっている。2026年3月期の連結売上高は1兆8656億円、営業利益は283億円。売上の8割を占めるエクスプレス事業は1兆5579億円を売り上げながら営業利益は23億円で、利益率は0.1%にとどまる。同じ期に、売上1646億円のコントラクト・ロジスティクス事業が62億円、売上975億円のグローバル事業が81億円、売上220億円のモビリティ事業が52億円を稼いだ。宅配以外の3事業は売上の合計こそ2842億円と全体の15%だが、利益では196億円と本体の8倍を出した。エクスプレス事業は従業員15万7902人を抱えながら、4事業の利益合計219億円のうち1割しか生んでいない。
競合
30年争った相手に配達を委ね、その相手から訴えられた。1994年に始めたクロネコメール便は郵便事業の領域と重なり、信書の定義をめぐる対立が長く続く。2015年3月に同便を廃止したあとも構図は変わらなかったが、2024年4月からのドライバーの時間外労働の上限規制で、自社網だけで運ぶ前提が崩れた。2023年6月、ヤマトは日本郵政と持続可能な物流サービスの推進で基本合意し、同年10月にクロネコゆうパケットを開始、2024年1月にクロネコDM便を廃止する。2024年10月に業績悪化を理由として委託数の見直しを申し入れると、同年12月23日に日本郵便が約120億円の損害賠償を求めて提訴した。アマゾンジャパンとの取引を縮小して単価を守った佐川急便が高単価の法人小口に残ったのに対し、自社の車両で全国を覆う前提を降りたヤマトの原価は、他社の配送網をいくらで使えるかに左右される。
ヤマトホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 11個の荷物から始まった個人宅配市場の創出 (1919年〜)

路線トラック三番手からの脱出という構想

1919年、小倉康臣氏が東京市京橋区で大和運輸を創立した。資本金10万円、車両わずか4台からの出発ながら、創業直後から三越呉服店の商品配送や日本橋魚河岸の鮮魚輸送を請け負い、都心の商業貨物輸送で事業基盤を固めた。[1]1929年には東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始し[2]、戦後は1949年に東京証券取引所へ上場した[3]。1950年代に通運事業、航空貨物取扱、海上貨物取扱[4]と事業領域を広げ、1958年には美術品の梱包輸送にも進出し、法人向けの総合輸送業者としての顔を整えた。1978年の日経ビジネスは『戦前は日本一のトラック会社』[引用元]と伝えたように、戦前戦後を通じて業態の軸は法人荷主を相手にした商業貨物にあった。

  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1919年11月 小倉康臣が東京市京橋区で大和運輸を創立(資本金10万円・車両4台)
    • [2]1929年 東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始
    • [3]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [4]1950年代に通運(1950/3)・航空貨物(1951/1)・海上貨物(1952/1)取扱へ事業領域を拡大、1958年に美術品梱包輸送に進出

しかし1960年代に長距離路線輸送へ参入した際、関西での知名度の低さが響き、荷主獲得で日本通運や西濃運輸の後塵を拝した。小倉昌男氏は後に『5年の遅れは痛かった。新規開業の挨拶に回っても、すでに主な荷主は同業者に抑えられ、貨物が集まらないのには頭を抱えてしまった』[引用元]小倉昌男『経営学』1999)と振り返った。[5]路線トラック事業は参入順に主要荷主を押さえた会社が有利な構造であり、後発の大和運輸が大口の法人荷主を奪い取るのは容易ではなかった。三番手の位置から抜け出せないまま1970年代に入ると業績は低迷し、オイルショックの影響も重なって経営は厳しさを増した。1971年に社長へ就任した2代目の小倉昌男氏は[6]、法人の大口荷物を奪い合うのではなく、誰も手をつけていない個人の小口荷物にこそ活路があるという構想を温め始めた。

  • 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
    • [5]1960年代の長距離路線参入で関西の知名度の低さから荷主獲得が日本通運・西濃運輸に後れた(小倉昌男の回想)
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【役員の状況】
    • [6]1971年 2代目社長に小倉昌男が就任
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1919年11月 小倉康臣が東京市京橋区で大和運輸を創立(資本金10万円・車両4台)
    • [2]1929年 東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便を開始
    • [3]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [4]1950年代に通運(1950/3)・航空貨物(1951/1)・海上貨物(1952/1)取扱へ事業領域を拡大、1958年に美術品梱包輸送に進出
  • 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
    • [5]1960年代の長距離路線参入で関西の知名度の低さから荷主獲得が日本通運・西濃運輸に後れた(小倉昌男の回想)
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【役員の状況】
    • [6]1971年 2代目社長に小倉昌男が就任

宅急便──「電話1本で翌日届く」仕組みの設計

1973年、小倉昌男氏はニューヨークで視察を行い、UPSの小型トラックが1ブロックを1台で受け持つ緻密な集配モデルを目にし、個人向け小口宅配の採算性の確信を得た[7]。小倉社長は『一般個人から個人への宅配需要はせいぜい2倍止まりだろうと推定されるから、過大な設備コストに悩まされることはないと思う』[引用元]小倉昌男『経営学』1999)と、需要の平準化が採算性の核心であると見抜いていた。1975年8月、小倉社長は『宅急便開発要領』[8]を社内に発表した。ハブ・アンド・スポーク型の全国集配ネットワークを構築し、取扱店を全国に設けて荷物の密度を高めて採算を成り立たせる構想である。1976年1月20日、電話1本で集荷し翌日配達、運賃は安くて明瞭というコンセプトを掲げて宅急便のサービスを開始したが、初日の取扱個数はわずか11[9]個にとどまった。それでも10年で年間個数は3億個規模へ跳ね上がる[10]

  • 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
    • [7]1973年 小倉昌男がニューヨーク視察でUPSの集配モデルを見て個人向け小口宅配の採算性を確信
    • [8]1975年8月 小倉社長が「宅急便開発要領」を社内発表
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1976年1月20日 宅急便のサービスを開始(電話1本・翌日配達・運賃明瞭)/初日(集計開始)の取扱個数11個
  • ヤマト運輸 宅急便のあゆみ
    • [10]宅急便の年間取扱個数が10年で3億個規模へ拡大

当時、運輸省は路線トラック事業の免許制を維持し、新規路線の認可には数年を要した。小倉社長は行政訴訟も辞さない姿勢で全国の路線免許を取得し、街の酒屋や米屋を取扱店として組み込み独自のネットワークを築いた。1981年に東証一部へ指定替え[11]、1982年には『ヤマト運輸』へ商号変更し[12]、1980年代半ばには宅急便の年間取扱個数が3億個を超えた。路線トラックで三番手に甘んじた会社が、個人向け宅配という市場の創出者へ立ち位置を変えた。法人の大口を諦めて個人の小口に賭けた判断が、日本の物流業界の勢力図を塗り替えた。新規路線の認可を勝ち取るごとに荷物の密度が高まり、密度の上昇がさらに採算性を押し上げる。小倉社長が狙った好循環は、免許行政との粘り強い交渉のうえに初めて成り立つ仕組みでもあった。

  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1981年9月 東証一部へ指定替え
    • [12]1982年10月 大和運輸からヤマト運輸へ商号変更
  • 小倉昌男『経営学』(日経BP, 1999)
    • [7]1973年 小倉昌男がニューヨーク視察でUPSの集配モデルを見て個人向け小口宅配の採算性を確信
    • [8]1975年8月 小倉社長が「宅急便開発要領」を社内発表
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1976年1月20日 宅急便のサービスを開始(電話1本・翌日配達・運賃明瞭)/初日(集計開始)の取扱個数11個
    • [11]1981年9月 東証一部へ指定替え
    • [12]1982年10月 大和運輸からヤマト運輸へ商号変更
  • ヤマト運輸 宅急便のあゆみ
    • [10]宅急便の年間取扱個数が10年で3億個規模へ拡大

クール宅急便と全国ネットワーク完成による物流インフラ化

1987年に日経ビジネスはヤマト運輸を『物流革命の旗手[13]』(日経ビジネス 1987/11/9)と呼び、『宅配便市場で快走してきたヤマト運輸の秘密は、利益の確保を二の次に、あくまでも顧客の利便性を追求してきたからだ』[引用元]と述べた。1996年、日本初の低温管理宅配サービス『クール宅急便』を開始した。同時に年末年始営業を導入し、365日体制へ移行した。[14]温度管理輸送の導入は宅急便を単なる荷物配送から食品流通のインフラへ広げ、生鮮食品のギフト配送や産地直送ビジネスの基盤となった。2003年には小笠原諸島へのサービス開始で宅急便の全国ネットワークが完成し[15]、同年にはクロネコメール便の全国展開も始まった。宅急便は個人の荷物市場から食品やメール便の領域へ用途を広げ、同社の物流インフラとしての性格を強めた。

  • 日経ビジネス(1987年11月9日, 日経BP)
    • [13]1987年の日経ビジネスがヤマト運輸を「物流革命の旗手」と呼んだ
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1996年 日本初の低温管理宅配サービス「クール宅急便」を開始、年末年始営業導入で365日体制へ移行
    • [15]2003年 小笠原諸島へのサービス開始で宅急便の全国ネットワークが完成、クロネコメール便の全国展開も開始

グループ再編も並行した。ヤマトロジスティクスやヤマトグローバルフレイトなどの機能別子会社を整備し、デリバリー事業以外の物流領域へ展開[16]を広げた。2005年11月に純粋持株会社制へ移行してヤマトホールディングスへ商号変更し、BIZ-ロジ事業、e-ビジネス事業、フィナンシャル事業などを含む6事業セグメント体制を整えた[17]。宅急便の発明から30年で、大和運輸は路線トラック会社から総合物流グループへ転じ、個人向け宅配市場の創出者という自己像を企業構造そのものに焼き付けた。

  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [16]ヤマトロジスティクス等の機能別子会社を整備しデリバリー事業以外の物流領域へ展開
    • [17]2005年11月 純粋持株会社制へ移行しヤマトホールディングスへ商号変更(6事業セグメント体制)
  • 日経ビジネス(1987年11月9日, 日経BP)
    • [13]1987年の日経ビジネスがヤマト運輸を「物流革命の旗手」と呼んだ
  • ヤマトホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1996年 日本初の低温管理宅配サービス「クール宅急便」を開始、年末年始営業導入で365日体制へ移行
    • [15]2003年 小笠原諸島へのサービス開始で宅急便の全国ネットワークが完成、クロネコメール便の全国展開も開始
    • [16]ヤマトロジスティクス等の機能別子会社を整備しデリバリー事業以外の物流領域へ展開
    • [17]2005年11月 純粋持株会社制へ移行しヤマトホールディングスへ商号変更(6事業セグメント体制)

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ヤマトホールディングスの沿革1919〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1919〜1996年11個の荷物から始まった個人宅配市場の創出ヤマトホールディングス創業——東京京橋のトラック4台から日本初の路線トラック便へ

1919年11月、小倉康臣氏が東京市京橋区で資本金10万円・トラック4台の大和運輸株式会社を設立した。荷馬車・大八車が主流の都心商業貨物に貨物自動車の輸送を持ち込み、三越呉服店・日本橋魚河岸・銀座の商業集積に近い立地で都心の法人配送に特化した。1929年には東京-横浜間で日本初の路線トラック定期便『大和便』を運行し、戦前は日本一のトラック会社と呼ばれる規模へ育っていった。

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★★★
東京-横浜間で定期便を開始★★
東京証券取引所に上場
通運事業に参入
航空貨物取扱を開始
海上貨物取扱を開始
美術品梱包輸送事業に参入
国内航空貨物の取扱を開始
国際航空混載貨物の取扱を開始
小倉昌男宅急便事業の創業——路線トラック三番手からの個人宅配市場への転換

1976年1月20日、大和運輸(現ヤマトホールディングス)は関東一円を対象に、電話1本で家庭まで集荷に伺い翌日に届ける『宅急便』のサービスを開始した。長距離路線で日本通運・西濃運輸に後れを取り三番手に沈んでいた同社が、小倉昌男社長の主導で法人の商業貨物から個人向け小口宅配へ主軸を移した経営判断である。

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★★★
小倉昌男極東リースを設立
小倉昌男米国法人YAMATO TRANSPORT U.S.A.を設立
小倉昌男郵便小包の官業独占に対する、宅急便による約20年の規制対抗

大和運輸(後のヤマト運輸)の小倉昌男社長は、1981年の日経ビジネス誌上で宅急便が郵便小包や国鉄小荷物という官業を『食う』秘密を語り、以後約20年にわたり郵便事業の独占という規制環境に対し、価格・サービス面での対抗と行政・世論への働きかけを重ねた。1989年の郵便料金批判、1992年のフェア競争要求、1997年のメール便参入、1999年の公正取引委員会への提訴、2002年の信書便法案への参入断念まで、規制対抗という経営の型が世代を超えて引き継がれた。

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★★★
小倉昌男ヤマト運輸に商号変更
小倉昌男ヤマトコレクトサービスを設立
小倉昌男欧州拠点としてオランダヤマト運輸を設立
小倉昌男「クール宅急便」を開始、365日営業へ
1997〜2018年EC拡大と宅配クライシスから読む収益構造の転換小倉昌男クロネコメール便の全国展開、宅急便全国ネットワーク完成★★
小倉昌男純粋持株会社制へ移行、ヤマトHDに商号変更★★
瀬戸薫初の純損失を計上★★
瀬戸薫ヤマト運輸のエキスプレス事業を分割
瀬戸薫ヤマトロジスティクスを国内・国際物流に分割
木川眞総合物流ターミナル「羽田クロノゲート」を竣工★★
木川眞クロネコメール便を廃止★★
山内雅喜宅急便運賃27年ぶり全面値上げと総量規制による収益再建

2017年、ヤマトホールディングスは、EC急増による宅配現場の負荷増と経常利益の半減を受け、宅急便の荷受け量を抑える総量規制と、27年ぶりとなる運賃の全面値上げに踏み切った経営判断。ヤマトホールディングスの山内雅喜社長とヤマト運輸の長尾裕社長が主導した。

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★★★
山内雅喜宅急便運賃の27年ぶり全面値上げと総量規制の方針を提示★★
2019〜2023年競合との握手──One ヤマトから日本郵政協業へ長尾裕長尾裕氏が社長に就任
長尾裕グループ7社をヤマト運輸に統合(One ヤマト)★★
長尾裕日本郵便との投函サービス協業と、その履行をめぐる提訴への転化

2023年6月、ヤマトホールディングスは日本郵政と持続可能な物流サービスの推進に向けて基本合意し、郵便受けに投函する小型荷物・メール便の配達業務を日本郵便へ順次移管した。長年、信書規制をめぐり対立してきた相手との協業であったが、2024年に履行をめぐる調整がこじれ、2024年12月に日本郵便がヤマトを提訴する事態に至った。

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★★★
長尾裕クロネコDM便を廃止
長尾裕エクスプレス事業が営業赤字に転落
出典・参考

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