住友商事:日本建設産業としての商社発足と住友商事への改称
1945年〜25年の禁令を解いた復員社員の受け皿づくり
住友財閥は1920年、総理事の鈴木馬左也氏が商社設立禁止を宣言し、以後25年にわたり商社事業への参入を自ら封じた。三井が三井物産を、三菱が三菱商事を擁して総合商社機能を確立するなかで、住友は商社を持たない財閥として事業を営んだ。のちに住友商事となる法人の母体も商社ではなく、1919年12月に大阪北港地帯の埋立と港湾修築を目的として設立された資本金3,500万円の大阪北港株式会社である。同社は1927年に住友合資の系列下へ入り、1944年11月に住友ビルディングを合併して社名を住友土地工務へ改め、翌12月には長谷部竹腰建築事務所の営業を譲り受けて、不動産経営と土木建築の設計監理を営む総合不動産会社となった。
- 住友商事社史
- [1]1920年 総理事 鈴木馬左也 商社設立禁止を宣言
- [2]三井は三井物産・三菱は三菱商事を擁するなか住友は商社を持たない財閥
- [4]1927年 住友合資の系列下へ編入
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [3]1919年12月 大阪北港株式会社 設立/資本金3,500万円・大阪北港地帯の埋立と港湾修築
- [5]1944年11月 住友ビルディングを合併し住友土地工務へ改称
- [6]1944年12月 長谷部竹腰建築事務所の営業を譲受し総合不動産会社となる
1945年8月の終戦で軍需が消滅し、復員した社員の受け皿確保が急務となったため、古田俊之助総理事が禁令の撤回を決断した。同年11月、住友土地工務は社名を日本建設産業へ改め、住友連系各社をはじめ各業界の大手生産会社の製品を扱う商事会社として新発足した。定款の事業目的には土木建築用資材その他各種製品の販売を加えている。社長を兼務していた住友本社常務理事の北澤敬二郎氏が辞任し、後任には竹腰健造専務が就任した。商事部門を主宰する人選では、住友本社の経理部と人事部が全職員から3人の候補を挙げ、住友金属工業取締役伸銅所副所長の田路舜哉氏に決まった。田路氏は12月11日に常務取締役へ就任し、3週間後の1946年1月1日付で営業部を開設できるよう組織と人事を整えた。
- 住友商事社史
- [7]古田俊之助総理事 商社設立禁令の撤回を決断
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [8]1945年11月 日本建設産業へ改称し商事会社として新発足
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商事部門の開設準備」
- [9]定款の事業目的に土木建築用資材その他各種製品の販売を追加
- [10]北澤敬二郎の社長辞任と竹腰健造専務の社長就任
- [11]商事部門の主宰者を全住友職員の3候補から選定/住友金属工業取締役伸銅所副所長 田路舜哉に決定
- [12]1945年12月11日 田路舜哉が常務取締役就任/1946年1月1日 営業部開設
本店は大阪に置いた。1945年末の在籍人員は270名だったが、1948年末までに住友本社と連系各社から復員・引揚者を含む350名が転入し、合計720名となった。転入者の内訳は住友本社159人、住友金属工業106人、住友電気工業32人が上位を占めた。営業部が最初に手がけたのは、爆撃で埋没した住友金属工業伸銅所のアルミニウム板やジュラルミン板、枕崎台風の高潮で水没した住友電気工業の電線類を掘り出し、洗浄と手直しを施して売る仕事だった。1947年1月に公職追放令が財界へ及ぶと、戦時中に常務取締役以上だった竹腰健造社長ら3名が該当し、3月27日の取締役会で田路氏が第2代社長に選ばれた。
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商事部門の開設準備」
- [13]本店は大阪に設置
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商社活動の開始」
- [14]1945年末の在籍270名/1948年末までに転入350名・合計720名
- [15]転入者内訳 住友本社159人・住友金属工業106人・住友電気工業32人
- [16]営業部の初仕事は被爆・水没した金属材と電線類の回収と再販
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「社長交替と事業活動の展開」
- [17]1947年1月 公職追放令の財界拡大/同年3月27日 田路舜哉が第2代社長に就任
参考文献[1]-[17]
- 住友商事社史
- [1]1920年 総理事 鈴木馬左也 商社設立禁止を宣言
- [2]三井は三井物産・三菱は三菱商事を擁するなか住友は商社を持たない財閥
- [4]1927年 住友合資の系列下へ編入
- [7]古田俊之助総理事 商社設立禁令の撤回を決断
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [3]1919年12月 大阪北港株式会社 設立/資本金3,500万円・大阪北港地帯の埋立と港湾修築
- [5]1944年11月 住友ビルディングを合併し住友土地工務へ改称
- [6]1944年12月 長谷部竹腰建築事務所の営業を譲受し総合不動産会社となる
- [8]1945年11月 日本建設産業へ改称し商事会社として新発足
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商事部門の開設準備」
- [9]定款の事業目的に土木建築用資材その他各種製品の販売を追加
- [10]北澤敬二郎の社長辞任と竹腰健造専務の社長就任
- [11]商事部門の主宰者を全住友職員の3候補から選定/住友金属工業取締役伸銅所副所長 田路舜哉に決定
- [12]1945年12月11日 田路舜哉が常務取締役就任/1946年1月1日 営業部開設
- [13]本店は大阪に設置
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商社活動の開始」
- [14]1945年末の在籍270名/1948年末までに転入350名・合計720名
- [15]転入者内訳 住友本社159人・住友金属工業106人・住友電気工業32人
- [16]営業部の初仕事は被爆・水没した金属材と電線類の回収と再販
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「社長交替と事業活動の展開」
- [17]1947年1月 公職追放令の財界拡大/同年3月27日 田路舜哉が第2代社長に就任
1949年〜上場と改称を経て固まった金ヘン商社の形
1949年8月、日本建設産業の名のまま大阪・東京の両証券取引所へ株式を上場した。1950年7月には土木建築の設計監理部門を日建設計工務として独立させ、不動産会社としての出自を切り離している。1952年3月に米国へNikken New York Inc.を設立して海外拠点を開設し、同年6月には社名を住友商事へ改めた。住友金属工業や住友金属鉱山などグループ各社の販売機能を担う役割から取扱品目は鉄鋼と非鉄金属に傾き、業界では"金ヘン商社"と呼ばれた。田路舜哉氏は1932年から6年間、住友上海洋行の支配人を務めており、発足時の役員のなかで唯一の商事経験者だった。
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [18]1949年8月 大阪・東京両証券取引所へ上場
- [19]1950年7月 土木建築の設計監理部門を日建設計工務として独立
- [20]1952年3月 米国にNikken New York Inc.を設立
- [21]1952年6月 社名を住友商事へ変更
- 住友商事社史
- [22]グループ各社の販売機能を担い鉄鋼・非鉄に傾斜/「金ヘン商社」の呼称
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「社長交替と事業活動の展開」
- [23]田路舜哉 1932年から6年間 住友上海洋行支配人/役員中で唯一の商事経験者
1950年6月に始まった朝鮮動乱は商社の取引を一変させたが、日本建設産業は思惑取引と先物売買を差し控え、実需取引を主体とする従来の方針を守った。輸入新三品と繊維品の下落で巨額の欠損を出し、無配当へ転じる商社が少なくないなかで、取扱商品の値下がりによる損害は軽微にとどまり、堅実な経営が認められて信用を増す結果となった。1950年上期から1951年下期までの総取扱高は441億9,000万円で、鉄鋼がおよそ40%、非鉄金属が18%、電線・電気機器が12%と続き、金属・機械・電線を合わせて78%を占めた。住友連系メーカーとの売買を中軸に置きながら、肥料・食糧・繊維へ取引を広げた結果である。繊維は住友に連系会社がなかったため、1949年11月に船場の又一から川口市右衛門専務を迎えて繊維部を新設した。
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「貿易商社への体制強化」
- [24]朝鮮動乱の好況期も思惑取引・先物売買を差し控え実需取引を主体とする方針を堅持
- [25]動乱の反動期に巨額欠損・無配当の商社が続出するなか当社の損害は軽微/堅実経営が信用を増大
- [26]1950年上期〜1951年下期の総取扱高441億9,000万円/鉄鋼約40%・非鉄金属18%・電線電気機器12%・金属機械電線で78%
- [27]住友連系メーカーとの売買を中軸に肥料・食糧・繊維など新分野へ取引を拡大
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「朝鮮戦争前後の住商」
- [28]1949年11月 繊維部を開設/住友に繊維の連系会社が無く又一の川口市右衛門専務を迎える
海外の拠点は入札の受注から作られた。1949年、インド政府による発電所用の電線類と碍子の国際入札に住友電気工業と組んで参加して落札し、その納入と受注促進のため1950年7月にボンベイへ初の駐在員を送った。翌1951年にカルカッタとサンフランシスコ、1952年にカラチとハンブルグへ駐在員事務所を置き、1955年3月までに海外店舗は15店を数えた。1951年11月の定時株主総会では定款の事業目的を改め、鉄鋼・非鉄金属から肥料・主要食糧・繊維原料・鉱産物まで10分類の輸出入と販売を掲げた。翌1952年に財閥の商号商標使用禁止の政令が廃止されると、6月1日から住友商事を名乗った。井桁の商標を取り戻したことで各業界の一流会社との取引が新しく開け、職員の採用や資金調達にも及んだ。
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「朝鮮戦争前後の住商」
- [29]1949年 インド政府の発電所用電線類・碍子の国際入札に住友電気工業と参加し落札/1950年7月 ボンベイへ初の駐在員派遣
- [30]1951年カルカッタ・サンフランシスコ/1952年カラチ・ハンブルグに駐在員事務所/1955年3月までに海外店舗15店
- [32]1952年 財閥の商号商標使用禁止等の政令の廃止/同年6月1日から住友商事を名乗る
- [33]住友商事への改称後 各業界の一流会社と新規取引が開け職員採用・資金調達にも好影響
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「貿易商社への体制強化」
- [31]1951年11月24日 第60期定時株主総会で定款の事業目的を変更/10分類の物資の輸出入及び販売を掲げ貿易商事会社として取扱品目を明確化
参考文献[18]-[33]
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [18]1949年8月 大阪・東京両証券取引所へ上場
- [19]1950年7月 土木建築の設計監理部門を日建設計工務として独立
- [20]1952年3月 米国にNikken New York Inc.を設立
- [21]1952年6月 社名を住友商事へ変更
- 住友商事社史
- [22]グループ各社の販売機能を担い鉄鋼・非鉄に傾斜/「金ヘン商社」の呼称
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「社長交替と事業活動の展開」
- [23]田路舜哉 1932年から6年間 住友上海洋行支配人/役員中で唯一の商事経験者
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「貿易商社への体制強化」
- [24]朝鮮動乱の好況期も思惑取引・先物売買を差し控え実需取引を主体とする方針を堅持
- [25]動乱の反動期に巨額欠損・無配当の商社が続出するなか当社の損害は軽微/堅実経営が信用を増大
- [26]1950年上期〜1951年下期の総取扱高441億9,000万円/鉄鋼約40%・非鉄金属18%・電線電気機器12%・金属機械電線で78%
- [27]住友連系メーカーとの売買を中軸に肥料・食糧・繊維など新分野へ取引を拡大
- [31]1951年11月24日 第60期定時株主総会で定款の事業目的を変更/10分類の物資の輸出入及び販売を掲げ貿易商事会社として取扱品目を明確化
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「朝鮮戦争前後の住商」
- [28]1949年11月 繊維部を開設/住友に繊維の連系会社が無く又一の川口市右衛門専務を迎える
- [29]1949年 インド政府の発電所用電線類・碍子の国際入札に住友電気工業と参加し落札/1950年7月 ボンベイへ初の駐在員派遣
- [30]1951年カルカッタ・サンフランシスコ/1952年カラチ・ハンブルグに駐在員事務所/1955年3月までに海外店舗15店
- [32]1952年 財閥の商号商標使用禁止等の政令の廃止/同年6月1日から住友商事を名乗る
- [33]住友商事への改称後 各業界の一流会社と新規取引が開け職員採用・資金調達にも好影響
1956年〜横割りの採算制から商品本部制への組み替え
1956年11月の株主総会後の取締役会で社長の交替が決まり、田路舜哉氏が会長へ、津田久氏が社長に就任した。田路氏が率いた11年で、月間の取扱高はゼロから約70億円へ、資本金は4,150万円から24倍の10億円へ広がり、10指に入る商社としての基礎ができていた。だが同年5月の店所長会議で示された自己評価は厳しく、業界内の地位は11位、とりわけ貿易の取扱いが少ないことが課題に挙げられている。掲げた方針は三つで、合併は主体性を失わず大きな損害を負わないことを条件に、当面は自力で取扱高を増やす。貿易は重点を東京へ置き、東京支社長へ決裁権限を委譲する。そして採算制と与信管理制度は根本的に変えないが、取扱高を増やすうえで必要なら損失を覚悟して与信上のリスクを冒すとした。
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「基礎作りの完成」
- [34]1956年11月 株主総会後の取締役会で社長交替を決定/田路舜哉が会長・津田久が社長に就任
- [36]1956年5月 店所長会議/当社の地位は業界11位・貿易取扱いが少ないことを課題として明示
- [37]1956年5月 店所長会議の基本方針/合併しても主体性を失わず大きな損害を負わないことを条件とし当面は自力で取扱高の増大に努める
- [38]1956年5月 店所長会議の基本方針/貿易関係機構は業務の重点を東京に置き東京支社長へ貿易関連の決裁権限を委譲
- [39]1956年5月 店所長会議の基本方針/採算制と与信管理制度は根本的に変えず取扱高増大に必要な場合は損失を覚悟し与信上のリスクを冒す積極拡大方針
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「業容の拡大と管理部門の発展」
- [35]田路社長の11年で月取扱高ゼロから約70億円/資本金4,150万円から24倍の10億円
海外では1958年のドイツ住友商事に始まり、1960年に住友商事タイランド、1961年にオーストラリア・カナダ・テキサスの3社を設けた。1962年3月にはベルギーのブルフィナと提携し、ブリュッセルにエクイトラを置いた。規模を広げる支えとなったのは増資と人の投入である。資本金は1960年7月1日の倍額増資で20億円から40億円となり、1961年10月1日に30億円を加えて70億円に、1967年6月には105億円まで膨らんだ。人員は1960年3月の2,001人が1966年9月に4,155人となり、新規の採用に加え、経験者を途中から迎える採用にも注力した。商社が欧州経済共同体の域内に現地資本との合弁で設立した最初の商事会社だった。1958年まで赤字が続いた貿易部門は、1959年以降の取引増で収益が伸び、1961年から安定した。
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「業容の拡大と管理部門の発展」
- [40]1958年ドイツ住友商事・1960年住友商事タイランド・1961年住友商事オーストラリア/カナダ/テキサスを設立/1962年3月ブルフィナと提携しブリュッセルにエクイトラを設立
- [41]1960年7月1日 資本金20億円から40億円へ有償倍額増資/1961年10月1日 30億円増資で資本金70億円
- [43]在籍人員 1960年3月2,001人→1962年9月3,396人→1966年9月4,155人/新規採用に加え経験者の中途採用
- [44]エクイトラは商社がEECに現地資本と合弁で設立した最初の商事会社
- [45]貿易部門は1958年まで赤字/1959年以降の貿易取引増で収益増・1961年から安定した収益
- 読売新聞(1967年2月8日)
- [42]資本金 1956年12月10億円→1967年6月105億円
商いの採算の単位は支店と課であり、店別・部課別の責任制度を社内では横割りと呼んだ。1件ごとの取引で利益を上げるため支店長と課長の採算意識は厳しくなり、取引の規模が小さい時代には堅実な経営に効いたが、複数の支店・部課の協力が要る商いや、当面は多額の経費を要する事業では、その採算意識が実行を阻んだ。1962年12月、大阪・東京の営業部門を一体として商品本部制を導入し、鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産の9本部を置いた。1967年度の事業構成は金属52%、機械17%、物資燃料12%、化学品9%、食品8%、不動産その他2%となり、取扱高は約7,900億円に達した。1970年8月には相互貿易を合併している。責任の置き場を地域から商品へ移したことが、金属に寄った品揃えを広げる条件になった。
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「業容の拡大と管理部門の発展」
- [46]採算の単位は支店および課/店別・部課別の責任制度を社内で横割りと呼んだ
- [47]横割りは支店長・課長の採算意識を厳しくし取引規模の小さい時代には堅実経営に寄与したが部門横断の商い・多額の経費を要する事業の実行を困難にした
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [48]1962年12月 商品本部制を導入し9本部(鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産)を設置
- [50]1970年8月 相互貿易を合併
- 読売新聞(1967年2月8日)
- [49]1967年度事業構成 金属52%・機械17%・物資燃料12%・化学品9%・食品8%・不動産その他2%/取扱高 約7,900億円/東京神田の住友商事ビルが3年で手狭に
参考文献[34]-[50]
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「基礎作りの完成」
- [34]1956年11月 株主総会後の取締役会で社長交替を決定/田路舜哉が会長・津田久が社長に就任
- [36]1956年5月 店所長会議/当社の地位は業界11位・貿易取扱いが少ないことを課題として明示
- [37]1956年5月 店所長会議の基本方針/合併しても主体性を失わず大きな損害を負わないことを条件とし当面は自力で取扱高の増大に努める
- [38]1956年5月 店所長会議の基本方針/貿易関係機構は業務の重点を東京に置き東京支社長へ貿易関連の決裁権限を委譲
- [39]1956年5月 店所長会議の基本方針/採算制と与信管理制度は根本的に変えず取扱高増大に必要な場合は損失を覚悟し与信上のリスクを冒す積極拡大方針
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「業容の拡大と管理部門の発展」
- [35]田路社長の11年で月取扱高ゼロから約70億円/資本金4,150万円から24倍の10億円
- [40]1958年ドイツ住友商事・1960年住友商事タイランド・1961年住友商事オーストラリア/カナダ/テキサスを設立/1962年3月ブルフィナと提携しブリュッセルにエクイトラを設立
- [41]1960年7月1日 資本金20億円から40億円へ有償倍額増資/1961年10月1日 30億円増資で資本金70億円
- [43]在籍人員 1960年3月2,001人→1962年9月3,396人→1966年9月4,155人/新規採用に加え経験者の中途採用
- [44]エクイトラは商社がEECに現地資本と合弁で設立した最初の商事会社
- [45]貿易部門は1958年まで赤字/1959年以降の貿易取引増で収益増・1961年から安定した収益
- [46]採算の単位は支店および課/店別・部課別の責任制度を社内で横割りと呼んだ
- [47]横割りは支店長・課長の採算意識を厳しくし取引規模の小さい時代には堅実経営に寄与したが部門横断の商い・多額の経費を要する事業の実行を困難にした
- 読売新聞(1967年2月8日)
- [42]資本金 1956年12月10億円→1967年6月105億円
- [49]1967年度事業構成 金属52%・機械17%・物資燃料12%・化学品9%・食品8%・不動産その他2%/取扱高 約7,900億円/東京神田の住友商事ビルが3年で手狭に
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- [48]1962年12月 商品本部制を導入し9本部(鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産)を設置
- [50]1970年8月 相互貿易を合併
筆者考察
住友商事は、商社を持たないという25年の方針を自ら破って生まれた会社である。母体は埋立と港湾修築のために作られた大阪北港であり、終戦の年まで不動産経営と設計監理を営んでいた。商事の素人ばかりが集まった会社が最初に売ったのは、爆撃で埋まった伸銅所のアルミニウム板と、高潮で水没した電線だった。掘り出して洗い、手直しをして売る。この出発点は、住友連系メーカーの製品を引き受けるという役割と重なって、鉄鋼と非鉄に偏った品揃えを作り、金ヘン商社という呼び名を定着させた。何を売るかは選べず、住友という商号すら1952年まで名乗れなかった。条件を選べない会社が、条件のほうを作り替えていく過程がこの章にあたる。
田路舜哉が社長を務めた11年は、選べない条件のもとで確実な取引地盤を積む時間だった。朝鮮動乱の好況では思惑取引を見送り、多くの商社が欠損を出した反動期に損害を軽微にとどめて信用を得た。だがその堅実さは、支店と課ごとに採算を締める横割りの制度に支えられており、複数の部門にまたがる商いや、当面は経費のかさむ事業を遠ざける性質も併せ持っていた。1962年の商品本部制は、責任の置き場を地域から商品へ移す改造であり、金属に寄った品揃えを広げる条件を作った。素人の集団が10年で10指に入り、さらに10年で取扱高を兆の単位へ運んだ背景には、この二度の組み替えがある。
- 半期合算の単体売上高。出所は上場会社総覧(1956年版・1959年版)と会社年鑑(1963年版・1967年版・1971年版・1976年版)。
1945年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 277 | n/a | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 351 | +26.8% | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 306 | ▲12.9% | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 404 | +32.2% | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 723 | +78.8% | 12 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 823 | +13.9% | 12 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 1,030 | +25.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 1,534 | +49.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 1,966 | +28.1% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 2,643 | +34.5% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 2,730 | +3.3% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 3,736 | +36.8% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 4,562 | +22.1% | n/a | n/a | 12 | 0.3% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 5,023 | +10.1% | 58 | 23 | 13 | 0.3% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 6,352 | +26.5% | n/a | n/a | 15 | 0.2% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 7,950 | +25.2% | n/a | n/a | 17 | 0.2% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 10,284 | +29.3% | n/a | n/a | 21 | 0.2% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 13,149 | +27.9% | 136 | 55 | 26 | 0.2% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 15,465 | +17.6% | n/a | 65 | 32 | 0.2% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 18,704 | +20.9% | n/a | 43 | 25 | 0.1% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
10件
- 住友商事 有価証券報告書【沿革】
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「貿易商社への体制強化」
- 住友商事株式会社史(住友商事、1972年)「業容の拡大と管理部門の発展」
- 住友商事社史
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商事部門の開設準備」
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「商社活動の開始」
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「社長交替と事業活動の展開」
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「朝鮮戦争前後の住商」
- 私の住友昭和史(津田久 編著/東洋経済新報社、1988年)「基礎作りの完成」
- 読売新聞(1967年2月8日)