第5章 年〜年

パナソニック:7800億円のMCA買収と事業部制の解体

1990年〜7800億円のソフト買収と、5年での撤退

1989年4月に創業者の松下幸之助氏が94歳で逝去し、松下電器産業はハイビジョン時代の主導権をめぐってソニーと競合した。高画質のAV機器を広めるには、それを映すソフトの支援が不可欠との見方が強まった。1977年に社長へ就任した山下俊彦氏、その後を継いだ谷井昭雄氏と、松下は二代続いてサラリーマン社長が経営の舵取りを担った。1990年12月、谷井昭雄氏は約61億ドル、当時の為替で約7800億円を投じた米MCAの買収に踏み切った。日本企業の海外買収では史上最高額で、もの作りに徹するという創業以来の方針を破る決断でもあった。社内では、故人の経営の遺産を否定した結果と受け止められた。

  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [1]1989年4月に創業者の松下幸之助氏が94歳で逝去した
    • [2]ハイビジョン時代にはハードを支えるソフトが不可欠と見られていた
    • [4]MCA買収は約61億ドル(約7800億円)で、日本企業の海外買収で史上最高額となり、「もの作りに徹する」創業以来の方針を破るものだった
    • [5]MCA買収は故・松下幸之助氏時代の経営の遺産を否定した結果と受け止められた
  • Decide 1992年10巻8号
    • [3]1977年に25人抜きで就任した山下俊彦氏、その後を継いだ谷井昭雄氏と、松下は二代続いてサラリーマン社長が経営の舵取りをしていた

MCAとの交渉を担ったのは平田雅彦副社長で、最後の決断は松下正治会長に仰がれたとされる。社内では、この買収がつまずけば松下グループの土台そのものが揺らぐと見られていた。他方、新株の発行を含む調達により手元の資金はたっぷり積まれていた。創業家である松下一族の持ち株は3400万株で発行済み株式の3.1%にとどまったが、その家の重みは持ち株の比率とは別のところにあった。谷井昭雄氏が掲げた狙いは、松下のハードとMCAのソフトを組み合わせた新しい価値の創出に置かれた。買収は、もの作り中心の企業文化に変革を起こす起爆剤としても位置づけられた。明快な狙いに対し、決裁の主体はこの買収で最後まで曖昧なままだったとみられる。

  • Decide 1992年10巻8号
    • [6]MCAとの交渉は平田雅彦副社長に任され、平田雅彦氏は最終的に松下正治会長の判断をあおいだ
    • [7]MCA買収費用は約7800億円で、失敗すれば松下グループの屋台骨を揺るがす問題と社内で受け止められ、エクイティ・ファイナンスで資金は潤沢にあった
    • [8]松下一族の松下電器保有株数は3400万株で、発行済み株式の3.1%にあたり、持ち株比率は低いが創業者ファミリーとしての存在感は大きかった
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [9]谷井昭雄社長は、松下のハードとMCAの映画などソフトを組み合わせて新しい価値を生み出したいと述べた
    • [10]MCA買収は、もの作り中心の松下の企業文化に変革を起こす起爆剤の役目を果たすと位置づけられた

松下はコンテンツ事業の経営ノウハウを持たず、MCA側も日本企業の傘下に入ることへ抵抗感を示した。森下洋一氏は1993年2月に社長へ就任してから、確執が表面化した1994年10月まで、MCA首脳陣と直接協議しなかった。ジュラシック・パークのゲーム化権をめぐり、松下はMCAを傘下の一部門とみなして不満を募らせた。才能を持つ個人が価値を決めるソフトの事業には、良い製品を安く大量に製造する松下の評価基準が適合しなかった。1995年6月、松下は持分の約80%を57億400万ドルでカナダのシーグラムへ譲渡し、5年に満たずに撤退した。急激な円高を考慮すると、損失は2000億円前後に達した可能性がある。

  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [11]松下はコンテンツ事業の経営ノウハウを持たず、MCA側は日本企業の傘下に入ることへの抵抗感を隠さず、期待されたシナジーは実現しなかった
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号
    • [12]森下洋一社長は1993年の就任以来、確執が表面化した1994年10月まで、MCA首脳陣とひざ詰めで話し合ったことがなかった
    • [13]「ジュラシック・パーク」のゲーム化権を巡り、MCAを傘下の一部門と考える松下は指示に従わないことへの不満を募らせた
    • [14]才能=ヒトが支配するソフトビジネスの論理を、松下は理解できなかった
  • Decide 1995年13巻2号
    • [15]1995年6月、松下はMCA株の80%を57億400万ドルでカナダのシーグラムへ売却することで合意した
    • [16]急激な円高・ドル安を考慮すると、松下は2000億円前後に上る損失を受けた可能性があるとみられた
参考文献[1]-[16]
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
    • [1]1989年4月に創業者の松下幸之助氏が94歳で逝去した
    • [2]ハイビジョン時代にはハードを支えるソフトが不可欠と見られていた
    • [4]MCA買収は約61億ドル(約7800億円)で、日本企業の海外買収で史上最高額となり、「もの作りに徹する」創業以来の方針を破るものだった
    • [5]MCA買収は故・松下幸之助氏時代の経営の遺産を否定した結果と受け止められた
    • [9]谷井昭雄社長は、松下のハードとMCAの映画などソフトを組み合わせて新しい価値を生み出したいと述べた
    • [10]MCA買収は、もの作り中心の松下の企業文化に変革を起こす起爆剤の役目を果たすと位置づけられた
  • Decide 1992年10巻8号
    • [3]1977年に25人抜きで就任した山下俊彦氏、その後を継いだ谷井昭雄氏と、松下は二代続いてサラリーマン社長が経営の舵取りをしていた
    • [6]MCAとの交渉は平田雅彦副社長に任され、平田雅彦氏は最終的に松下正治会長の判断をあおいだ
    • [7]MCA買収費用は約7800億円で、失敗すれば松下グループの屋台骨を揺るがす問題と社内で受け止められ、エクイティ・ファイナンスで資金は潤沢にあった
    • [8]松下一族の松下電器保有株数は3400万株で、発行済み株式の3.1%にあたり、持ち株比率は低いが創業者ファミリーとしての存在感は大きかった
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [11]松下はコンテンツ事業の経営ノウハウを持たず、MCA側は日本企業の傘下に入ることへの抵抗感を隠さず、期待されたシナジーは実現しなかった
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号
    • [12]森下洋一社長は1993年の就任以来、確執が表面化した1994年10月まで、MCA首脳陣とひざ詰めで話し合ったことがなかった
    • [13]「ジュラシック・パーク」のゲーム化権を巡り、MCAを傘下の一部門と考える松下は指示に従わないことへの不満を募らせた
    • [14]才能=ヒトが支配するソフトビジネスの論理を、松下は理解できなかった
  • Decide 1995年13巻2号
    • [15]1995年6月、松下はMCA株の80%を57億400万ドルでカナダのシーグラムへ売却することで合意した
    • [16]急激な円高・ドル安を考慮すると、松下は2000億円前後に上る損失を受けた可能性があるとみられた

1993年〜事業本部制の廃止と、20年ごとに揺れた組織の型

松下電器産業は家電不況と産業機器の低迷で3期連続の減益に沈み、1995年3月期には営業赤字も見込まれた。1994年3月期の単独売上高は4兆3496億円、経常利益は639億円で、経常利益率は1970年代の水準まで低下した。1984年に復活した事業本部制は組織の二重構造を生み、委員会と会議が膨れ上がって意思決定を鈍らせた。事業部長は会議の形骸化を『何かを決めるのではなく、報告だけの会議がほとんど』と評した。1993年11月には約25万台のIHジャー炊飯器のリコールで、公表まで2週間を要した。同年12月8日、森下洋一社長は事業本部の廃止と、社長が事業部を直接みる組織への組み替えに踏み切った。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [17]松下は家電不況などで3期連続の減益に沈み、1995年3月期には営業赤字も予想されていた
    • [19]1984年復活の事業本部制は組織の二重構造を生み、委員会と会議が膨れ上がって意思決定を鈍らせた
    • [20]事業部長は会議の形骸化を指摘していた
    • [21]1993年11月のIHジャー炊飯器リコール(約25万台)では、原因報告から公表まで2週間を要した
  • 日経ビジネス 1994年10月3日号
    • [18]1994年3月期の松下電器の単独売上高は4兆3496億円、経常利益は639億円で、経常利益率は1.5%と70年代の水準に落ち込んだ

松下の組織は20年周期で集中と分散を繰り返してきた。1933年に松下幸之助氏が導入した事業部制は、1950年に再導入され、1972年には事業本部制の廃止で強められた。1978年には山下俊彦社長の直轄となり、1984年にふたたび事業本部制へ戻った。1990年には事業本部が多額の社内資本金を持ち、本部長のスタッフは100人に膨らんだ。1991年には事業本部をさらに統括する部門制が加わり、役割の分担は不明確なまま組織だけが複雑化した。経営の主体はあくまで事業部という建前が貫かれたまま、二つの経営組織が同じ分野に併存した。社内は、森下洋一氏が山下俊彦氏の型を踏襲すると受け止めた。

  • 日経ビジネス 1994年10月3日号
    • [22]松下の組織は20年周期で集中と分散を繰り返してきた
    • [23]1933年に事業部制を導入、1950年に再導入、1972年に事業本部制を廃止して事業部制を強化、1978年に3総括事業本部を廃止して事業部を社長直轄、1984年に事業本部制を復活と推移した
    • [24]1978年に3総括事業本部を廃止して事業部を社長直轄とし、1984年に事業本部制を復活させた
    • [25]1990年に事業本部制が強化され、事業本部長のスタッフは100人に膨らみ、事業本部が支払手形まで発行するようになった
    • [26]1991年に導入した部門制は事業本部をさらに上位で統括する組織で、事業本部・事業部との役割分担が明確でなく、松下の組織をいたずらに複雑にした
    • [27]「経営の主体はあくまで事業部」という建前が貫かれ、事業本部と事業部の2つの経営組織が同じ分野に混在した
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [28]社内では森下洋一社長が、1977年就任直後に3総括事業本部を廃して事業部を直結させた山下俊彦氏の型を踏襲するとの声が上がった

森下洋一氏の基準は、呼び名ではなく、自己資本を持ち別会社のごとく完結できるかどうかに置かれた。だが事業部長と社長の間に置かれた事業担当は役割が定まらず、社内には処遇のためだけのポストとする評さえあった。生産部門の強化に着手する一方で、営業部門のリストラは手つかずに残った。全国2万5000店の系列店は、ディスカウンターの攻勢と家電不況で採算の重荷となった。1994年10月には組織の単純化を掲げながらマルチメディア全社推進本部を新設し、森下洋一氏自ら本部長を兼ねた。事業部と販売部門の接続という核心の課題に、この回帰は及ばなかった。

  • 日経ビジネス 1994年10月3日号
    • [29]森下洋一社長は、事業部制でも本部制でもカンパニー制でも呼び方は構わず、自己資本を持ち別会社のごとくそこで全てが完結できることが大事だと述べた
    • [30]事業本部長職の解消に合わせて設けた「事業担当」ポストは役割が不明確で、処遇のためだけのポストという見方が社内にあった
    • [33]1994年10月1日にマルチメディア全社推進本部を発足させ、森下洋一社長が自ら本部長を兼ねた
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [31]生産部門の強化に着手する一方で、営業部門のリストラは手つかずで残った
    • [32]全国2万5000店の系列店はディスカウンターの攻勢と家電不況でお荷物となり、営業体制の立て直しは事業部再建以上の急務だった
参考文献[17]-[33]
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [17]松下は家電不況などで3期連続の減益に沈み、1995年3月期には営業赤字も予想されていた
    • [19]1984年復活の事業本部制は組織の二重構造を生み、委員会と会議が膨れ上がって意思決定を鈍らせた
    • [20]事業部長は会議の形骸化を指摘していた
    • [21]1993年11月のIHジャー炊飯器リコール(約25万台)では、原因報告から公表まで2週間を要した
    • [28]社内では森下洋一社長が、1977年就任直後に3総括事業本部を廃して事業部を直結させた山下俊彦氏の型を踏襲するとの声が上がった
    • [31]生産部門の強化に着手する一方で、営業部門のリストラは手つかずで残った
    • [32]全国2万5000店の系列店はディスカウンターの攻勢と家電不況でお荷物となり、営業体制の立て直しは事業部再建以上の急務だった
  • 日経ビジネス 1994年10月3日号
    • [18]1994年3月期の松下電器の単独売上高は4兆3496億円、経常利益は639億円で、経常利益率は1.5%と70年代の水準に落ち込んだ
    • [22]松下の組織は20年周期で集中と分散を繰り返してきた
    • [23]1933年に事業部制を導入、1950年に再導入、1972年に事業本部制を廃止して事業部制を強化、1978年に3総括事業本部を廃止して事業部を社長直轄、1984年に事業本部制を復活と推移した
    • [24]1978年に3総括事業本部を廃止して事業部を社長直轄とし、1984年に事業本部制を復活させた
    • [25]1990年に事業本部制が強化され、事業本部長のスタッフは100人に膨らみ、事業本部が支払手形まで発行するようになった
    • [26]1991年に導入した部門制は事業本部をさらに上位で統括する組織で、事業本部・事業部との役割分担が明確でなく、松下の組織をいたずらに複雑にした
    • [27]「経営の主体はあくまで事業部」という建前が貫かれ、事業本部と事業部の2つの経営組織が同じ分野に混在した
    • [29]森下洋一社長は、事業部制でも本部制でもカンパニー制でも呼び方は構わず、自己資本を持ち別会社のごとくそこで全てが完結できることが大事だと述べた
    • [30]事業本部長職の解消に合わせて設けた「事業担当」ポストは役割が不明確で、処遇のためだけのポストという見方が社内にあった
    • [33]1994年10月1日にマルチメディア全社推進本部を発足させ、森下洋一社長が自ら本部長を兼ねた

2000年〜事業部制の解体と、電池への収益源の転換

デジタルスチルカメラではグループの3社が別々に製品を投入したが、シェアはほとんど取れなかった。分社や事業部が同じような製品を並行して抱える体制は実りがなく、重なった分だけ効率を下げる重荷になっていた。財務面で松下電器産業は、1992年3月期に2兆7549億円だった有利子負債を2001年3月期に1兆900億円まで減らした一方、10年前には3兆5000億円の開きがあった売上高でソニーに抜かれた。2000年6月に社長となった中村邦夫氏は、松下幸之助氏から受け継がれてきた事業部制も合わない分野では廃止すればよいと考え、2002年1月10日に14の事業ドメインへの集約と、グループ5社の完全子会社化を打ち出した。

  • 日経ビジネス 2002年1月28日号
    • [34]デジタルスチルカメラは九州松下電器・松下寿電子工業・本体の3社が別の製品を発売し、資源の集中に失敗して無視していい市場シェアに甘んじていた
    • [35]事業部や分社が似通った製品を同時に手がける社内競争は特筆すべき効果を生み出さず、重複による効率低下の方が重荷になっていた
    • [36]松下電器は92年3月期に2兆7549億円だった有利子負債額を2001年3月期には1兆900億円まで減らし、ほとんどすべての指標で財務体質を改善した
    • [37]10年前には3兆5000億円の差が開いていた売上高で、ついにソニーの逆転を許した
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
    • [38]中村邦夫氏は2000年6月に社長へ就任し、2001年からの中期経営計画で幸之助翁以来の事業部制を「そぐわない分野ではやめればいい」と否定した

事業部制は、松下幸之助氏が病弱で全事業にかかわれないために権限を譲る仕組みとして生まれた。松下幸之助氏が遺した事業部と分社の自主責任経営は侵してはならない領域とされ、松下はこの発想に縛られていた。開発から製造・販売までを握る事業部は、市場の成熟後、販売会社に在庫を押し付けるという害を目立たせていた。中村邦夫氏は工場を事業部の外に出して採算本位で運営させるとともに、約2万店の地域販売店に等しく与えていた支援をやめ、早期退職制度では約1万3000人が退社した。ブランドを2003年度にPanasonicへ統一し、3年で2200億円超のコストを減らした結果、2006年度に営業利益率5%という目標に到達した。

  • 日経ビジネス 2004年1月19日号
    • [39]事業部制は、幸之助翁の体が弱かったために権限委譲を進めたことによって誕生した制度だった
    • [41]事業部は開発・製造・販売のすべてで主導権を握ったが、市場が成熟するとメーカーの論理で製品を作り販売会社に在庫を押し込む弊害が目立った
    • [42]事業部から工場を切り離して採算性を重視させ、「共存共栄」で販売力を支えてきた約2万店の地域販売店への全店舗一律の支援を廃止した
    • [43]早期退職制度を導入して約1万3000人を削減した
    • [44]2003年度に事業部制解体の総仕上げとして14の事業ドメインごとの自主責任経営へ移行し、「Panasonic」をグローバルブランドに統一した
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号
    • [40]「事業部と分社による自主責任経営は幸之助翁の残した聖域」との認識から抜け出せず、松下電器は自縄自縛に陥っていた
  • 松下電器産業 アニュアル レポート 2007(2007年3月期)社長インタビュー
    • [45]「躍進21計画」では事業再編と構造改革の仕上げを推進し、2006年度に「営業利益率5%、連結CCMゼロ以上」という目標を達成した。全社コストバスターズ活動などにより3年間で2200億円を超える成果をあげた

2003年4月、松下は東芝とブラウン管事業の合弁会社を設立し、2007年3月に完全子会社としてMT映像ディスプレイへ商号を改めた。2007年1月に大坪文雄社長が発表した「GP3計画」は、大画面ではプラズマに優位性があるとの見立てに立った。松下は次の3年間で、プラズマの国内第5工場をはじめとする設備投資に1兆5千億円を投じる計画を立てた。2007年11月以降、松下は公正取引委員会・米国司法省・欧州委員会などの調査を受けた。2009年10月に処分を受けたMT映像ディスプレイは、排除措置命令と課徴金納付命令の取消請求へ進んだ。市場から退出した表示デバイスの法的処理と、次世代の表示デバイスへの集中投資が、同じ数年に重なった。

  • パナソニック 有価証券報告書 第103期(2010年3月期)連結財務諸表注記(偶発債務・訴訟等)
    • [46]2003年4月に東芝とブラウン管事業の合弁会社・松下東芝映像ディスプレイを設立し、2007年3月に完全子会社化して、その後MT映像ディスプレイへ商号を変更した
    • [50]2007年11月以降、パナソニックとMT映像ディスプレイはブラウン管事業に関する独占禁止法違反の可能性について公正取引委員会・米国司法省・欧州委員会等の調査を受けた
  • 松下電器産業 アニュアル レポート 2007(2007年3月期)社長インタビュー
    • [47]松下電器産業は2007年1月に、2007年度を初年度とする3ヵ年中期経営計画「GP3計画」を発表した
    • [48]2009年度に37型以上の薄型テレビの総需要は約5000万台へ拡大し、プラズマテレビと液晶テレビが半分ずつになるとみたうえで、大画面ではコスト競争力という面も含めプラズマテレビに優位性があると考えていた
    • [49]「GP3計画」の重点テーマ「継続的な選択と集中」として、今後3年間でプラズマディスプレイパネル国内第5工場をはじめとする設備投資に1兆5千億円、研究開発投資に1兆8千億円を投入する計画とした

2008年12月19日、パナソニックは三洋電機と資本・業務提携契約を締結し、公開買付けによる過半数取得と子会社化を定めた。三洋電機は太陽電池、二次電池、電子デバイス、業務用機器、AV機器などを手がけた。大坪文雄社長が掲げた狙いは、ソーラー事業の拡大と二次電池事業の強化、そして環境・エナジーを軸とするソリューション事業の創造であった。2009年12月、パナソニックは現金403,780百万円を投じた議決権50.2%の取得を終え、のれん514,419百万円を計上した。2011年4月1日には株式交換により三洋電機を完全子会社とした。配線器具と家電で積み上げてきた収益源を電池へ移す転換は、ここで始まった。

  • パナソニック 有価証券報告書 第102期(2009年3月期)【経営上の重要な契約等】
    • [51]2008年12月19日、パナソニックは三洋電機と資本・業務提携契約を締結し、国内外の競争法に基づく手続を終えたのち公開買付けにより過半数を取得して子会社化すると定めた
    • [52]三洋電機は太陽電池、二次電池、電子デバイス、業務用機器、AV機器及び電化機器等の製造販売を手がけていた
  • パナソニック 有価証券報告書 第103期(2010年3月期)注記「企業結合」
    • [53]取得の狙いは、ソーラー事業の拡大、二次電池事業の強化、コスト削減による三洋電機の経営体質の強化、環境・エナジー関連を中心とする総合的なソリューション事業の創造であった
  • パナソニック 有価証券報告書 第104期(2011年3月期)【経営上の重要な契約等】
    • [54]2011年4月1日、三洋電機株式1株にパナソニック株式0.115株を割り当てる株式交換により三洋電機を完全子会社とした
参考文献[34]-[54]
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号
    • [34]デジタルスチルカメラは九州松下電器・松下寿電子工業・本体の3社が別の製品を発売し、資源の集中に失敗して無視していい市場シェアに甘んじていた
    • [35]事業部や分社が似通った製品を同時に手がける社内競争は特筆すべき効果を生み出さず、重複による効率低下の方が重荷になっていた
    • [36]松下電器は92年3月期に2兆7549億円だった有利子負債額を2001年3月期には1兆900億円まで減らし、ほとんどすべての指標で財務体質を改善した
    • [37]10年前には3兆5000億円の差が開いていた売上高で、ついにソニーの逆転を許した
    • [40]「事業部と分社による自主責任経営は幸之助翁の残した聖域」との認識から抜け出せず、松下電器は自縄自縛に陥っていた
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
    • [38]中村邦夫氏は2000年6月に社長へ就任し、2001年からの中期経営計画で幸之助翁以来の事業部制を「そぐわない分野ではやめればいい」と否定した
  • 日経ビジネス 2004年1月19日号
    • [39]事業部制は、幸之助翁の体が弱かったために権限委譲を進めたことによって誕生した制度だった
    • [41]事業部は開発・製造・販売のすべてで主導権を握ったが、市場が成熟するとメーカーの論理で製品を作り販売会社に在庫を押し込む弊害が目立った
    • [42]事業部から工場を切り離して採算性を重視させ、「共存共栄」で販売力を支えてきた約2万店の地域販売店への全店舗一律の支援を廃止した
    • [43]早期退職制度を導入して約1万3000人を削減した
    • [44]2003年度に事業部制解体の総仕上げとして14の事業ドメインごとの自主責任経営へ移行し、「Panasonic」をグローバルブランドに統一した
  • 松下電器産業 アニュアル レポート 2007(2007年3月期)社長インタビュー
    • [45]「躍進21計画」では事業再編と構造改革の仕上げを推進し、2006年度に「営業利益率5%、連結CCMゼロ以上」という目標を達成した。全社コストバスターズ活動などにより3年間で2200億円を超える成果をあげた
    • [47]松下電器産業は2007年1月に、2007年度を初年度とする3ヵ年中期経営計画「GP3計画」を発表した
    • [48]2009年度に37型以上の薄型テレビの総需要は約5000万台へ拡大し、プラズマテレビと液晶テレビが半分ずつになるとみたうえで、大画面ではコスト競争力という面も含めプラズマテレビに優位性があると考えていた
    • [49]「GP3計画」の重点テーマ「継続的な選択と集中」として、今後3年間でプラズマディスプレイパネル国内第5工場をはじめとする設備投資に1兆5千億円、研究開発投資に1兆8千億円を投入する計画とした
  • パナソニック 有価証券報告書 第103期(2010年3月期)連結財務諸表注記(偶発債務・訴訟等)
    • [46]2003年4月に東芝とブラウン管事業の合弁会社・松下東芝映像ディスプレイを設立し、2007年3月に完全子会社化して、その後MT映像ディスプレイへ商号を変更した
    • [50]2007年11月以降、パナソニックとMT映像ディスプレイはブラウン管事業に関する独占禁止法違反の可能性について公正取引委員会・米国司法省・欧州委員会等の調査を受けた
  • パナソニック 有価証券報告書 第102期(2009年3月期)【経営上の重要な契約等】
    • [51]2008年12月19日、パナソニックは三洋電機と資本・業務提携契約を締結し、国内外の競争法に基づく手続を終えたのち公開買付けにより過半数を取得して子会社化すると定めた
    • [52]三洋電機は太陽電池、二次電池、電子デバイス、業務用機器、AV機器及び電化機器等の製造販売を手がけていた
  • パナソニック 有価証券報告書 第103期(2010年3月期)注記「企業結合」
    • [53]取得の狙いは、ソーラー事業の拡大、二次電池事業の強化、コスト削減による三洋電機の経営体質の強化、環境・エナジー関連を中心とする総合的なソリューション事業の創造であった
  • パナソニック 有価証券報告書 第104期(2011年3月期)【経営上の重要な契約等】
    • [54]2011年4月1日、三洋電機株式1株にパナソニック株式0.115株を割り当てる株式交換により三洋電機を完全子会社とした

1990年〜2011年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 74,499 n/a n/a 1,328 1.8% n/a
1993年03月期 連結 70,558 ▲5.3% n/a 384 0.5% n/a
1994年03月期 連結 66,235 ▲6.1% n/a 244 0.4% n/a
1995年03月期 連結 69,481 +4.9% n/a 904 1.3% n/a
1996年03月期 連結 67,948 ▲2.2% n/a ▲568 ▲0.8% n/a
1997年03月期 連結 76,759 +13.0% n/a 1,378 1.8% n/a
1998年03月期 連結 78,906 +2.8% n/a 936 1.2% n/a
1999年03月期 連結 76,401 ▲3.2% n/a 135 0.2% n/a
2000年03月期 連結 72,993 ▲4.5% n/a 997 1.4% n/a
2001年03月期 連結 76,815 +5.2% n/a 415 0.5% n/a
2002年03月期 連結 70,738 ▲7.9% n/a ▲4,277 ▲6.0% n/a
2003年03月期 連結 74,017 +4.6% n/a ▲194 ▲0.3% n/a
2004年03月期 連結 74,797 +1.1% n/a 421 0.6% n/a
2005年03月期 連結 87,136 +16.5% n/a 584 0.7% n/a
2006年03月期 連結 88,943 +2.1% 4,143 1,544 1.7% n/a
2007年03月期 連結 91,081 +2.4% 4,595 2,171 2.4% n/a
2008年03月期 連結 90,689 ▲0.4% 5,195 2,818 3.1% n/a
2009年03月期 連結 77,655 ▲14.4% 729 ▲3,789 ▲4.9% n/a
2010年03月期 連結 74,179 ▲4.5% 1,905 ▲1,034 ▲1.4% n/a
2011年03月期 連結 86,926 +17.2% 3,053 740 0.9% n/a

出所:会社年鑑、有価証券報告書

出典・参考

15件
出典・参考
  • パナソニック 有価証券報告書 第102期(2009年3月期)【経営上の重要な契約等】
  • パナソニック 有価証券報告書 第103期(2010年3月期)連結財務諸表注記(偶発債務・訴訟等)
  • パナソニック 有価証券報告書 第103期(2010年3月期)注記「企業結合」
  • パナソニック 有価証券報告書 第104期(2011年3月期)【経営上の重要な契約等】
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
  • Decide 1992年10巻8号
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
  • 日経ビジネス 1994年10月3日号
  • 日経ビジネス 1995年4月17日号
  • Decide 1995年13巻2号
  • 日経ビジネス 2001年1月1日号
  • 日経ビジネス 2002年1月28日号
  • 日経ビジネス 2004年1月19日号
  • 松下電器産業 アニュアル レポート 2007(2007年3月期)社長インタビュー

免責事項およびポリシー