パナソニック:系列販売網の完成と松下幸之助の逝去
1965年〜押し込まない販売と、地域で割り直した系列
松下電器産業の系列販売網は、1965年の時点で作り直された直後だった。前年の1964年、会長へ移っていた松下幸之助氏が営業本部長代行に就任し、伊豆の熱海に販売代理店の社長を集めて3日間の会議を開催した。争点は、販売店が松下へ手形を乱発し、決済が長期に延びていたことにあった。代理店側は松下の指導が悪いと非難したが、松下幸之助氏は3日目に自社の非を認めて謝罪した。会議の後、長期手形による決済という業界の慣習は消え、販売会社からの回収は月末の現金払いへ統一された。松下幸之助氏はあわせて、過当競争が起きないよう地域性を重視した販売制度を敷いた。この現金決済と地域割りの規律が、以後の25年にわたって販売網を律する土台になった。
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- [1]松下電器産業は1964年から1965年の不況期に販売制度を刷新し、その慣習が1976年時点でも踏襲されていた
- [6]松下幸之助氏は営業本部長代行に就任し、過当競争が起こらないよう地域性を重視した新販売制度を定めた
- [7]販売会社からの販売代金の回収は月末オールキャッシュで、流通機構に滞留在庫が積み上がらない状態が保たれていた
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- [2]松下幸之助氏は1964年に伊豆の熱海へ販売代理店の社長を集め、3日間の会議を開催した
- [3]会議の争点は販売店が松下へ手形を乱発し決済が長期化していた点にあり、松下側は現金決済への変更を求めた
- [4]販売代理店側は松下の指導が悪いと非難し、松下幸之助氏は3日目に自社の非を認めて謝罪した
- [5]会議の後、長期の手形決済という業界の慣習は姿を消した
この販売網の規律は、石油危機の後に試された。1973年の石油価格の急騰でメーカーは大きな原価上昇を抱え、松下電器産業も事業計画の縮小を迫られた。稼働率の低下と余剰人員を承知のうえで、1974年3月、他社に先がけて減産を宣言した。減産しなければ63に分かれた事業部が資金不足に陥り、本社が資金繰りに追われるという判断だった。市場占有率を保つために販売会社へ製品を押し込む策は採らず、価格へ転嫁できない原価の上昇はそのまま自社で負担した。高橋荒太郎会長は、閑散期こそ販売店を通じて消費者の要望を確かめる好機だと述べた。松下正治社長も1977年の年頭に、業界にもはや高度成長期の伸びは期待できないとの見方を示した。消費者の要望は多様化し、根強い原価上昇に悩む情勢が続くと見ていた。
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- [8]石油価格が一挙に4倍になり、メーカーは大きなコストアップ要因を抱えた
- [9]松下電器産業は不況克服のため事業計画の縮小修正を迫られた
- [10]松下電器産業は1974年3月に他社に先がけて減産を宣言した
- [11]減産しなければ63の事業部の資金ショートに本社が追われるため、一時的な収益減よりも資金優先策が採られた
- [12]売上を伸ばすために製品を無理に押し込む策は採らず、政府の要請と需給から値上げも行えずコストアップを自己負担した
- 日経ビジネス 1975年2月17日号
- [13]高橋荒太郎会長は、閑散期は手があくため消費者のニーズを満たしているかを検討する好機になると述べた
- 電気協会雑誌 1977年「松下電器産業株式会社 社長 松下正治」
- [14]松下正治社長は1977年の年頭に、業界に高度成長期のような驚異的な伸びは期待できない状況にあると述べた
- [15]松下正治社長は1977年の年頭に、消費者のニーズが多様化し根強いコストアップ要因に悩まされる情勢が続くと述べた
完成した販売網が軋み始めたのは1970年代の末だった。電化時代に作られたナショナル店会は小売店にとって負担が重くなり、系列を離れる動きが現れていた。諸経費の高騰とエアコンなど夏物商品の極端な不振が重なり、販売会社の経営にも陰りが見えた。1980年、松下電器産業は鹿児島と滋賀の販売会社を家電営業本部の直轄へ移し、東海・東京23区・三多摩へ同じ再編を広げた。最大の市場である東京では、21の家電販売会社と12の住宅設備機器会社が、4つの家電販売会社と2つの設備機器会社へ集約された。新会社の資本は松下が50%、従来の販売会社が50%を持ち、集約で余った管理部門の人員は営業へ振り向けられた。
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [16]1977年時点で松下電器のマーケティングが市場の動向と一致しなくなり、商品開発力の力強さが失われたとの指摘があった
- [17]電化時代のナショナル店会は小売店にとって負担が大きくなり、小売店側に系列を離れる動きがあった
- 日経ビジネス 1980年10月20日号
- [18]諸経費の高騰とエアコンなど夏物商品の極端な販売不振で、販売会社の経営に陰りが見え始めていた
- [19]松下電器産業は鹿児島・滋賀両県の販売会社を家電営業本部の直轄とし、東海地区・東京23区・三多摩地区でも相次いで実施した
- [20]東京地区の21の家電販売会社と12の住宅設備機器会社は、4つの家電販売会社と2つの設備機器会社に集約された
- [21]新会社の資本構成は松下50%・従来の販売会社50%で、合併で生じた間接部門の余剰人員は営業へ振り向けられた
参考文献[1]-[21]
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- [1]松下電器産業は1964年から1965年の不況期に販売制度を刷新し、その慣習が1976年時点でも踏襲されていた
- [6]松下幸之助氏は営業本部長代行に就任し、過当競争が起こらないよう地域性を重視した新販売制度を定めた
- [7]販売会社からの販売代金の回収は月末オールキャッシュで、流通機構に滞留在庫が積み上がらない状態が保たれていた
- [8]石油価格が一挙に4倍になり、メーカーは大きなコストアップ要因を抱えた
- [9]松下電器産業は不況克服のため事業計画の縮小修正を迫られた
- [10]松下電器産業は1974年3月に他社に先がけて減産を宣言した
- [11]減産しなければ63の事業部の資金ショートに本社が追われるため、一時的な収益減よりも資金優先策が採られた
- [12]売上を伸ばすために製品を無理に押し込む策は採らず、政府の要請と需給から値上げも行えずコストアップを自己負担した
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- [2]松下幸之助氏は1964年に伊豆の熱海へ販売代理店の社長を集め、3日間の会議を開催した
- [3]会議の争点は販売店が松下へ手形を乱発し決済が長期化していた点にあり、松下側は現金決済への変更を求めた
- [4]販売代理店側は松下の指導が悪いと非難し、松下幸之助氏は3日目に自社の非を認めて謝罪した
- [5]会議の後、長期の手形決済という業界の慣習は姿を消した
- 日経ビジネス 1975年2月17日号
- [13]高橋荒太郎会長は、閑散期は手があくため消費者のニーズを満たしているかを検討する好機になると述べた
- 電気協会雑誌 1977年「松下電器産業株式会社 社長 松下正治」
- [14]松下正治社長は1977年の年頭に、業界に高度成長期のような驚異的な伸びは期待できない状況にあると述べた
- [15]松下正治社長は1977年の年頭に、消費者のニーズが多様化し根強いコストアップ要因に悩まされる情勢が続くと述べた
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [16]1977年時点で松下電器のマーケティングが市場の動向と一致しなくなり、商品開発力の力強さが失われたとの指摘があった
- [17]電化時代のナショナル店会は小売店にとって負担が大きくなり、小売店側に系列を離れる動きがあった
- 日経ビジネス 1980年10月20日号
- [18]諸経費の高騰とエアコンなど夏物商品の極端な販売不振で、販売会社の経営に陰りが見え始めていた
- [19]松下電器産業は鹿児島・滋賀両県の販売会社を家電営業本部の直轄とし、東海地区・東京23区・三多摩地区でも相次いで実施した
- [20]東京地区の21の家電販売会社と12の住宅設備機器会社は、4つの家電販売会社と2つの設備機器会社に集約された
- [21]新会社の資本構成は松下50%・従来の販売会社50%で、合併で生じた間接部門の余剰人員は営業へ振り向けられた
1970年〜完全分権の事業部制と、借りない経営
松下電器産業の事業部は、社内の部門ではなく小さな独立会社として設計されていた。1976年の初頭には64を数え、それぞれが製品別に専門を細分され、損益と資金繰りの全責任を負った。本社は各事業部に内部資本金を割り当て、固定資本と標準運転資本を合わせた枠の内でのみ事業を回させた。材料は何日分まで、製品在庫は何日まで、売上債権は何日までという規則があり、これを超えれば手元資金が尽きた。資金が尽きても市中銀行から借りることは許されず、経理本部から実質の市中金利を払って借りるほかなかった。作りだめと押し込みは、訓示ではなく資金の制約によって止められた。人へ任せても経営が数字で見えるという設計思想は、創業者が病を得ていた1930年代に事業部制を敷いたときから変わらなかった。
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [22]事業部はもともと独立した会社のように全面的に権限を委譲され、全責任を持って経営する単位とされた
- [23]事業部の数は最高時の1976年初頭に64事業部へ達した
- [24]事業部には内部資本金が置かれ、固定資本と標準運転資本を合計した額が割り当てられた
- [26]事業部は外部からの借り入れを禁じられ、必要資金は経理本部から実質市中金利で借りた
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- [25]材料の手持ち日数・製品の保有日数・売上債権の回収日数にルールがあり、超えると資金がショートする仕組みだった
- [27]事業部が資金ショートを起こす仕組みにより、作りだめなどの不自然な事態がチェックされた
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- [28]松下幸之助氏は自身が病弱だったため昭和の初めに事業部制を敷いて部下に任せたと述べ、事業部制なら人に任せても経営がガラス張りになると説明した
この分権を成り立たせたのは、本社が握った経理の系統だった。事業部は収益の60%を税金と配当として経理本部へ納め、残る40%だけを内部留保として再投資に使えた。製造部門が営業部門を通して売る価格は仕切値の70%と決められ、基準利益10%を営業と製造が折半する定めだった。毎月20日に経理を締め、25日までに決められた様式の決算を本社へ提出させた。仕入れの支払いは月末に全額現金で行う原則で、支払いを繰り延べて資金を融通する逃げ道は塞がれていた。この仕組みを動かしたのが経理社員と呼ばれる約1500人で、9年の職場内訓練を経て各事業部へ配された。関連会社は1966年の346社から1976年には668社へ増えたが、人は出さない・金は貸さない・物は買わないという3原則で突き放された。
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [29]668社の関連会社の管理を可能にしていたのは独自の経理システムと、経理本部の指揮下にある経理社員だった
- [30]事業部は収益の60%を税金と配当として経理本部へ支払い、残る40%が内部留保となった
- [31]製造部門が営業部門を通して売る価格は仕切値の70%で、製品の基準利益10%を営業部門と製造部門が折半した
- [32]事業部と関連会社は20日締めの月次決算を25日までに経理本部へ提出した
- [34]経理社員は約1500人で、9年間の職場内訓練を経て各事業部へ派遣され、本社に残るのは90人だった
- [35]関連会社は1966年の346社から1976年の668社へ増え、人は出さない・金は貸さない・物は買わないの3原則で運営された
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- [33]各事業部は月末オールキャッシュ払いのため、支払い延期で逃げることはできなかった
財務の型も同じ思想の上にあった。1973年度の連結決算で自己資本比率は46.0%に達した。ゼネラル・エレクトリックの40.5%、フィリップスの36.0%、日立製作所の24.1%をいずれも上回る水準だった。現金・預金は2416億円で資産合計の21.9%を占め、4社のうち借入金より預金が多いのは松下だけだった。高橋荒太郎会長は、資金力を競争の道具に使ってはならないと述べた。ある製品で得た利益を別の製品の専門メーカーとの競争に充てるのは不正競争だという考えだった。事業部を分けて独立採算に置いたのは、その歯止めを組織に組み込むためでもあった。ただしインフレの進行下では、厚く積んだ預金はそのまま実質価値が低下する資産でもあった。
- 日経ビジネス 1974年10月28日号
- [36]松下電器産業は自己資本経営を方針として堅持していた
- [37]1973年の連結決算で松下電器産業の自己資本比率は46.0%だった
- [38]1973年の連結決算の自己資本比率はGEが40.5%、フィリップスが36.0%、日立製作所が24.1%で、いずれも松下を下回った
- [39]松下の現金・預金は2416億円で資産合計の21.9%に達し、4社のうち借入金より預金が多いのは松下だけだった
- [43]松下は最大の預金者としてインフレで預金の価値が下がり損失を被る立場にあった
- 日経ビジネス 1975年2月17日号
- [40]高橋荒太郎会長は、資金力があるからといってそれを競争や暴力に使ってはならないと述べた
- [41]高橋荒太郎会長は、ある製品の利益を持ち出して他製品の専門メーカーと競争するのは不正競争だと述べた
- [42]高橋荒太郎会長は、事業部ごとに独立採算としているのは不正競争を防ぐためだと述べた
参考文献[22]-[43]
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [22]事業部はもともと独立した会社のように全面的に権限を委譲され、全責任を持って経営する単位とされた
- [23]事業部の数は最高時の1976年初頭に64事業部へ達した
- [24]事業部には内部資本金が置かれ、固定資本と標準運転資本を合計した額が割り当てられた
- [26]事業部は外部からの借り入れを禁じられ、必要資金は経理本部から実質市中金利で借りた
- [29]668社の関連会社の管理を可能にしていたのは独自の経理システムと、経理本部の指揮下にある経理社員だった
- [30]事業部は収益の60%を税金と配当として経理本部へ支払い、残る40%が内部留保となった
- [31]製造部門が営業部門を通して売る価格は仕切値の70%で、製品の基準利益10%を営業部門と製造部門が折半した
- [32]事業部と関連会社は20日締めの月次決算を25日までに経理本部へ提出した
- [34]経理社員は約1500人で、9年間の職場内訓練を経て各事業部へ派遣され、本社に残るのは90人だった
- [35]関連会社は1966年の346社から1976年の668社へ増え、人は出さない・金は貸さない・物は買わないの3原則で運営された
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- [25]材料の手持ち日数・製品の保有日数・売上債権の回収日数にルールがあり、超えると資金がショートする仕組みだった
- [27]事業部が資金ショートを起こす仕組みにより、作りだめなどの不自然な事態がチェックされた
- [33]各事業部は月末オールキャッシュ払いのため、支払い延期で逃げることはできなかった
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- [28]松下幸之助氏は自身が病弱だったため昭和の初めに事業部制を敷いて部下に任せたと述べ、事業部制なら人に任せても経営がガラス張りになると説明した
- 日経ビジネス 1974年10月28日号
- [36]松下電器産業は自己資本経営を方針として堅持していた
- [37]1973年の連結決算で松下電器産業の自己資本比率は46.0%だった
- [38]1973年の連結決算の自己資本比率はGEが40.5%、フィリップスが36.0%、日立製作所が24.1%で、いずれも松下を下回った
- [39]松下の現金・預金は2416億円で資産合計の21.9%に達し、4社のうち借入金より預金が多いのは松下だけだった
- [43]松下は最大の預金者としてインフレで預金の価値が下がり損失を被る立場にあった
- 日経ビジネス 1975年2月17日号
- [40]高橋荒太郎会長は、資金力があるからといってそれを競争や暴力に使ってはならないと述べた
- [41]高橋荒太郎会長は、ある製品の利益を持ち出して他製品の専門メーカーと競争するのは不正競争だと述べた
- [42]高橋荒太郎会長は、事業部ごとに独立採算としているのは不正競争を防ぐためだと述べた
1977年〜序列を飛び越えた社長人事と、創業者が退くまで動かなかったもの
型が完成した先に現れたのは硬直だった。1977年の時点で、松下電器産業が巨大化と高齢化につれて官僚臭を強め、組織が硬直しているとの指摘が出ていた。松下幸之助氏自身、終身雇用と事業部制の徹底によって社内から冒険する人間がいなくなったと認めていた。1977年2月、松下幸之助氏は松下正治社長・高橋荒太郎会長と3人で、序列25番手の取締役だった山下俊彦氏の社長起用を決め、年功の序列によらない経営陣の入れ替え。山下俊彦氏は松下電子工業でフィリップスの管理手法を学び、赤字の関連会社ウエスト電気で長期の労働争議を自ら収めた現場の経営者だった。二度断ったが押し切られ、就任にあたって相談役の権威を後ろ盾に使わせてほしいと求めた。松下幸之助氏は後年、この人事を自分自身の冒険だったと語った。
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- [44]松下幸之助相談役は、素直な人間ばかりで型破りの人材がいないと述べた
- [46]松下幸之助氏は、終身雇用や事業部制の徹底で松下の人間は冒険しなくなったと述べた
- [49]松下幸之助氏は、山下俊彦氏を社長にしたのは自分自身の冒険だったと述べた
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [45]1977年時点で、松下電器が巨大化・老齢化するにつれ官僚臭が強まり硬直化しているとの指摘があった
- 日経ビジネス 1977年1月31日号
- [47]山下俊彦氏は松下電子工業でフィリップスの経理・管理手法に触れ、出向先のウエスト電気で続いた労働争議を自力で収拾した
- [48]山下俊彦氏は社長就任を二度固辞した末に受け、相談役の権威を後ろ盾とすることと週1〜2日の関与を条件に求めた
山下俊彦氏が就任して最初に絞ったのは収益だった。就任直前の1976年11月期の税込み利益率は6.5%で、目標の10%を大きく下回っていた。松下電器産業単独の売上高は年2兆円に達していたが、利益率は徐々に低下しており、巨大化そのものが転落の第一歩だという認識に立っていた。事業部を営業利益率で4つの階級へ分け、下位の事業部が2年でランクを上げられなければ事業部長を交代させると決めた。数年のうちに下位2階級の事業部はほとんど姿を消した。あわせて、一つの事業部に入れば動かないという慣行を崩すため、課長への登用条件に3つ以上の職種と職場の経験を課した。事業部の上に乗っていた事業本部は廃され、事業部は社長の直轄へ置かれた。1年きざみだった事業計画には3年の中期計画を課し、1981年からは長期の構想づくりに着手させた。
- 日経ビジネス 1981年11月2日号
- [50]山下俊彦氏は収益マインド1本に絞って社内へ訴え、その手段として組織の活性化を採った
- [52]松下電器単独の売上高は年2兆円に達し、山下俊彦氏は企業の巨大化は転落の第一歩だと述べた
- [53]事業部は営業利益率で4ランクに分けられ、下位は2年でランクアップできなければ事業部長を交代させる方針が採られた
- [54]1981年時点で下位2ランクの事業部はほとんどなくなっていた
- [55]課長への登用条件として3つ以上の職種・職場の経験が課され、事業部間の異動が促された
- [56]松下電器は事業部の上に立つ事業本部を廃止した
- [57]山下俊彦氏は従来1年計画だった事業運営に3年の中期計画を課し、1981年から長期ビジョンの作成に着手させた
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [51]1976年11月期の松下電器産業(単独)の税込み利益率は6.5%で、10%の目標を大きく下回った
それでも、事業部制そのものには手が付かなかった。1984年には事業部を部門別に統括する本部制を敷いた。1987年には5つあった営業本部を顧客と地域で括り直して3つにまとめ、翌1988年には松下電器貿易を吸収合併した。いずれも事業部制を残したまま弱点を補強する策で、組織の原理を変えるものではなかった。1986年に社長へ就任した谷井昭雄氏は、家電で培った強さが方向転換の妨げになりうるとし、力が細ってからでは変われないと述べた。事業部は独立の意識が強く、会社が潰れても事業部が残ればよいとまで言われる壁を抱えていた。創業者の松下幸之助氏が死去したのは1989年4月で、型を作り替える仕事は次の世代へ残された。
- Decide 1988年5月号 岩淵明男
- [58]本部制の導入も横断的な重点事業分野の設定も事業部制という組織そのものを変えたわけではなく、補強にとどまった
- [59]1984年11月、事業部を部門別に集める本部制を敷いた
- [60]1987年11月、家電・設備機器・特機・情報システム・電子部品の5営業本部を、顧客・地域別にリビング・システム・インダストリーの3営業本部へ再編した
- パナソニック 有価証券報告書【沿革】
- [61]松下電器産業は1988年4月に松下電器貿易を合併した
- [62]松下電器産業は1988年4月に松下電器貿易を合併した
- [65]創業者の松下幸之助氏は1989年4月に逝去した
- 日経ビジネス 1987年6月8日号
- [63]谷井昭雄氏は、強ければ強いほど方向を変えるには大きなエネルギーが必要で、力が細ってからでは変われないと述べた
- [64]松下の事業部は独立採算意識が徹底し、会社が潰れても事業部が残ればよいと言われるほど全体との調和を欠く面があった
参考文献[44]-[65]
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- [44]松下幸之助相談役は、素直な人間ばかりで型破りの人材がいないと述べた
- [46]松下幸之助氏は、終身雇用や事業部制の徹底で松下の人間は冒険しなくなったと述べた
- [49]松下幸之助氏は、山下俊彦氏を社長にしたのは自分自身の冒険だったと述べた
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- [45]1977年時点で、松下電器が巨大化・老齢化するにつれ官僚臭が強まり硬直化しているとの指摘があった
- [51]1976年11月期の松下電器産業(単独)の税込み利益率は6.5%で、10%の目標を大きく下回った
- 日経ビジネス 1977年1月31日号
- [47]山下俊彦氏は松下電子工業でフィリップスの経理・管理手法に触れ、出向先のウエスト電気で続いた労働争議を自力で収拾した
- [48]山下俊彦氏は社長就任を二度固辞した末に受け、相談役の権威を後ろ盾とすることと週1〜2日の関与を条件に求めた
- 日経ビジネス 1981年11月2日号
- [50]山下俊彦氏は収益マインド1本に絞って社内へ訴え、その手段として組織の活性化を採った
- [52]松下電器単独の売上高は年2兆円に達し、山下俊彦氏は企業の巨大化は転落の第一歩だと述べた
- [53]事業部は営業利益率で4ランクに分けられ、下位は2年でランクアップできなければ事業部長を交代させる方針が採られた
- [54]1981年時点で下位2ランクの事業部はほとんどなくなっていた
- [55]課長への登用条件として3つ以上の職種・職場の経験が課され、事業部間の異動が促された
- [56]松下電器は事業部の上に立つ事業本部を廃止した
- [57]山下俊彦氏は従来1年計画だった事業運営に3年の中期計画を課し、1981年から長期ビジョンの作成に着手させた
- Decide 1988年5月号 岩淵明男
- [58]本部制の導入も横断的な重点事業分野の設定も事業部制という組織そのものを変えたわけではなく、補強にとどまった
- [59]1984年11月、事業部を部門別に集める本部制を敷いた
- [60]1987年11月、家電・設備機器・特機・情報システム・電子部品の5営業本部を、顧客・地域別にリビング・システム・インダストリーの3営業本部へ再編した
- パナソニック 有価証券報告書【沿革】
- [61]松下電器産業は1988年4月に松下電器貿易を合併した
- [62]松下電器産業は1988年4月に松下電器貿易を合併した
- [65]創業者の松下幸之助氏は1989年4月に逝去した
- 日経ビジネス 1987年6月8日号
- [63]谷井昭雄氏は、強ければ強いほど方向を変えるには大きなエネルギーが必要で、力が細ってからでは変われないと述べた
- [64]松下の事業部は独立採算意識が徹底し、会社が潰れても事業部が残ればよいと言われるほど全体との調和を欠く面があった
1965年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1965年11月期 | 単体 | 2,173 | n/a | n/a | 134 | n/a | n/a | n/a |
| 1966年11月期 | 単体 | 2,963 | +36.4% | n/a | 186 | n/a | n/a | n/a |
| 1967年11月期 | 単体 | 4,035 | +36.2% | n/a | 256 | n/a | n/a | n/a |
| 1968年11月期 | 単体 | 5,317 | +31.8% | n/a | 357 | n/a | n/a | n/a |
| 1969年11月期 | 単体 | 6,885 | +29.5% | n/a | 471 | n/a | n/a | n/a |
| 1970年11月期 | 単体 | 7,388 | +7.3% | n/a | 819 | 461 | 6.2% | n/a |
| 1971年11月期 | 単体 | 7,489 | +1.4% | n/a | 721 | 408 | 5.4% | n/a |
| 1972年11月期 | 単体 | 8,543 | +14.1% | n/a | 836 | 464 | 5.4% | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 10,408 | +21.8% | n/a | 900 | 493 | 4.7% | n/a |
| 1974年11月期 | 単体 | 11,612 | +11.6% | n/a | 751 | 351 | 3.0% | n/a |
| 1975年11月期 | 単体 | 10,659 | ▲8.2% | n/a | 439 | 328 | 3.1% | n/a |
| 1976年11月期 | 単体 | 13,106 | +23.0% | 557 | 841 | 413 | 3.2% | n/a |
| 1977年11月期 | 単体 | 14,345 | +9.5% | n/a | 976 | 486 | 3.4% | n/a |
| 1978年11月期 | 単体 | 15,980 | +11.4% | n/a | 1,032 | 568 | 3.6% | n/a |
| 1979年11月期 | 単体 | 17,344 | +8.5% | 73 | 1,166 | 655 | 3.8% | n/a |
| 1980年11月期 | 単体 | 20,152 | +16.2% | n/a | 1,362 | 731 | 3.6% | n/a |
| 1981年11月期 | 単体 | 23,462 | +16.4% | n/a | 1,705 | 836 | 3.6% | n/a |
| 1982年11月期 | 単体 | 24,735 | +5.4% | n/a | 1,718 | 956 | 3.9% | n/a |
| 1983年11月期 | 単体 | 27,188 | +9.9% | n/a | 1,891 | 974 | 3.6% | n/a |
| 1984年11月期 | 単体 | 32,578 | +19.8% | n/a | 2,350 | 1,019 | 3.1% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
12件
- パナソニック 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1974年10月28日号
- 日経ビジネス 1975年2月17日号
- 証券アナリストジャーナル 1976年14巻5号 樋野正二
- 日経ビジネス 1977年3月14日号
- 日経ビジネス 1977年1月31日号
- 日経ビジネス 1980年10月20日号
- 日経ビジネス 1981年11月2日号
- 日経ビジネス 1983年10月3日号
- 日経ビジネス 1987年6月8日号
- Decide 1988年5月号 岩淵明男
- 電気協会雑誌 1977年「松下電器産業株式会社 社長 松下正治」