山下俊彦の社長抜擢——序列を越えた「25段跳び」

創業者はなぜ序列25番手を選んだか——「偉くない社長」が引き受けた決断経営

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時期 1977年2月
意思決定者 松下幸之助 創業者。松下正治社長・高橋荒太郎会長と諮り、取締役の山下俊彦を社長に抜擢
論点 経営体制と世代交代
概要
1977年2月、松下電器産業は取締役の山下俊彦を社長に据えた。序列で25番手からの「25段跳び」とも言われた抜擢で、創業者の松下幸之助が松下正治社長・高橋荒太郎会長と諮って決めた。同族でも純粋な実力主義でもない、専門経営者に創業者の権威を後ろ盾として付ける二重統治の始まりとなった経営判断。
背景
1961年に松下正治が社長に就任して以降、松下は世界的な家電メーカーへと膨張し、幸之助は会長から相談役へ退きつつ求心力を保っていた。1970年代に入り、巨大化した組織を誰に託すかが問われるなか、山下俊彦は松下電子工業でフィリップス流の管理手法を学び、赤字子会社ウエスト電気の再建で修羅場を踏んだ現場派として頭角を現していた。
内容
幸之助は正治社長・高橋会長と3人で山下の起用を決め、山下は一度は固辞したものの押し切られて引き受けた。就任にあたり「相談役の権威をバックにしないと何もできない」として週1〜2日の関与を求め、幸之助は「達者な間はなんぼでもやる」と応じた。山下は就任直後の1978年、3総括事業本部を廃して事業部を社長直結とし、権力基盤を固めた。
含意
「決心したからには泣き言はいいません」と語った山下の決断経営は、以後の谷井・森下・中村へと続く専門経営者登用の型をつくった。同時に、外から実力者を抜擢しつつ創業者の権威を残した二重統治は、後年まで創業家と専門経営者の綱引きとして松下=パナソニックの統治に残った。
筆者の見解

二重統治という型

山下抜擢のいちばんの妙味は、能力本位で序列の外から実力者を引き上げながら、創業者の権威を「バックの権威」として残した点にある。純粋な実力主義でも同族経営でもない、専門経営者が実務を握り創業者が後ろ盾となる二重統治の型が、ここで生まれたとみることができる。固辞する山下が求めた条件が、この二重性を最もよく物語っていた。後ろ盾なしには務まらないという自己認識こそが、松下の統治の輪郭を決めたといえる。

この二重性は、山下ひとりの代で終わらなかった。専門経営者の系譜が続く一方で、経営が揺らぐたびに創業家の名が呼び戻される場面が繰り返された。1993年に森下洋一社長が組織改革に着手したときには、幸之助の孫を求める「本家返り」の待望論が社内に浮かんだ。創業者の権威を制度に組み込んだ山下の抜擢は、その後の松下=パナソニックが長く抱える創業家と専門経営者の綱引きの、出発点にあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

巨大化する松下と世代交代の課題

1961年に松下正治が社長に就いてから、松下電器は世界有数の家電メーカーへと膨れ上がっていた。創業者の松下幸之助は会長からさらに相談役へと退いたが、経営への求心力は少しも衰えていなかった。世界最大級の規模となった組織を、次にどの世代へ、どのような人物に託すのか。1970年代の松下には、創業者の威光に頼らずに動く経営体制をどう築くかという課題が、静かに横たわっていた[1]

白羽の矢が立った山下俊彦は、生え抜きの現場派であった。1938年に入社し、松下電子工業へ移って、技術提携先である世界最先端のフィリップスの経理手法・管理手法を学んだ。さらに赤字続きの関連会社ウエスト電気へ常務で出向し、家族まで巻き込む激しい労使紛争を収めて再建を果たした。クーラー事業部長を経て1974年1月に取締役となった山下は、修羅場をくぐった実務家として社内で頭角を現していた[2]

決断

25段跳びの抜擢

1977年、幸之助は正治社長・高橋荒太郎会長と3人で相談し、取締役の山下を社長に据えることを決めた。序列で言えば25番手からの起用で、後に「25段跳び」と語り継がれる劇的な人事であった。山下自身は、松下電器ほどの代表的企業がこれほど極端な人事をとる背景はないとして、本気で固辞した。相談役に一度は承知してもらえたものの、周囲はすでに人事を織り込んで動いていた[3][4]

幸之助は組合の委員長にまで根回しして賛意を取り付け、断る余地を塞いでいった。押し切られた山下が出した条件は、身の丈に合わせた実際的なものであった。自分のような後ろ盾のない者が務まるはずはない、相談役の権威をバックにしなければ何もできない——そう述べて、週に1、2日は経営に関与してほしいと求めた。幸之助は「それであれば達者な間はなんぼでもやる」と応じ、専門経営者と創業者の二人三脚が始まった[5]

「決心したからには泣き言はいいません」

引き受けると腹を決めた山下は、就任にあたっての心境を「開き直り」と表現した。いったん決心したら泣き言は言わない。これから失敗することもあるかもしれないが、その失敗も堂々として犯す。責任を回避したり逃げたりせずに、自分で努力してやった結果として引き受ける——就任前のインタビューで語られたその言葉は、決めたことをやり抜く決断経営の宣言であった[6]

一方で山下は、権力の座に就いてなお自らを「偉くない社長」と称した。社長のポストは社会的に評価される偉い地位だが、座っている自分は素寒貧である、その感覚を持ち続けたい、と述べた。従業員や幹部の悩みを聞ける社長でありたいと願い、経営については「百パーセント安全な事業ばかりでは企業のバイタリティーは生まれない、3割は危険な仕事でもやらねばならない」との考えを示していた[7]

結果

事業部の社長直結と決断経営への移行

就任からほどなく、山下は組織へ手を入れた。1978年、無線・電化機器・産業機器の3総括事業本部を廃止し、事業部を社長に直結させた。分厚い中間層を取り払って、社長が現場の事業部を直接に見る体制へ切り替えたことで、山下はいち早く自らの権力基盤を固めた。序列を越えて据えられた新社長は、指揮系統そのものを組み替えることで、抜擢の正統性を実績で埋めにいった[8]

山下の登用は、創業者から専門経営者への世代交代を象徴する出来事となり、以後の谷井昭雄・森下洋一・中村邦夫へと続くプロ経営者登用の型をかたちづくった。もっとも、組織のかたちそのものは一度で定まったわけではない。1984年には事業本部制が復活し、事業部制と事業本部制の間で組織は振り子のように揺れ続けた。1933年に幸之助が生んだ事業部制は、その後も導入と回帰を繰り返していくことになる[9]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号「決心したからには泣き言はいいません 山下俊彦氏(松下電器産業次期社長)が語る“開き直り”の弁」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号「事業部制復活でも燃えぬ松下電器 肝心の営業部門、リストラ手つかず」
  • 松下電器産業 会社年鑑(単独業績)