第3章 年〜年

パナソニック:制限会社指定からの再建と熱海会談での販売網刷新

1946年〜七つの制限が封じた資産と、組合が守った経営陣

松下幸之助氏は、敗戦後に進駐軍の占領政策で財閥指定をはじめ七つの制限が課せられ、経済活動はおろか資産も動かせなくなったと振り返っている。指定は本体にとどまらず、1935年に配線器具部門を担って分社した松下電工へも及んだ。軍需生産を行ったことと本体が財閥指定を受けたことを理由に、制限会社・特別経理会社・賠償工場・過度経済力集中排除の四つを重ねて受けた。輸出部門を分離した松下電器貿易は系列から切り離され、復帰は1951年8月まで待たされた。松下電工は配線器具生産の主力であった明石工場を1945年に焼失しており、立ち直りの遅れの最大の原因はそこにあった。製品別に分社を積み上げた戦前の構えが、そのまま解体の対象名簿になった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [1]敗戦後、進駐軍の占領政策によって松下電器産業には財閥指定をはじめ七つの制限が課され、経済活動も資産の移動もできなくなった
  • 証券 1954年
    • [2]松下電工は、1935年12月に松下電器産業が設立された際、松下電器製作所の配線器具・合成樹脂電線管の製造販売部門を担って発足した
    • [3]松下電工は、軍需会社であったことと松下電器産業が財閥指定を受けたことにより、制限会社・特別経理会社・賠償工場・過度経済力集中排除の諸指定を受けた
    • [5]松下電工は1945年に配線器具生産の主力工場であった明石工場を焼失し、それが立ち直りの遅れた最大の原因となった
  • 証券 1962年
    • [4]松下電器製作所の輸出部が1935年8月に独立して設立された松下電器貿易は、1951年8月に松下電器系列へ復帰した

最初の財閥指定に対して松下幸之助氏は松下は財閥ではないと反論を続け、指定は未解決のまま1949年末に解除された。だが財閥指定に続いて公職追放のA級に置かれ、軍需生産を指導した以上は社長退陣に抗議の余地がないと本人も腹を決めかけた。分社した松下電工が太平洋戦争下で手がけた航空機用補給器や木製プロペラも、軍需品の生産は全体の2〜3割にとどまっている。留任の運動に立ったのは、賃上げ争議を打ってきた当の労働組合であった。1万5,000人の従業員が一人ずつ署名捺印を取って政府と司令部へ訴えた。当時の商工大臣であった星島二郎氏も、この情勢下での社長擁護運動に驚いたという。一ヵ月後に指定はB級へ変わり、審査の結果、全重役が追放取止めとなった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [6]松下幸之助氏は最初の財閥指定に「断じて松下は財閥ではない」と主張し続け、指定は未解決のまま1949年末に解除された
    • [7]松下幸之助氏は財閥指定に続いて公職追放のA級に指定され、軍需生産を指導した以上は社長退陣に抗議の余地がないと考えていた
    • [9]松下幸之助氏の追放が発表されると、賃上げ争議も行っていた松下電器産業の労働組合が社長留任の運動に立った
    • [10]当時1万5,000人の従業員が一人ずつ署名捺印を取り、政府と司令部へ社長留任を嘆願した
    • [11]当時の商工大臣であった星島二郎氏は、この情勢下で社長擁護運動が起きたことに驚いた
    • [12]一ヵ月後に追放指定はB級へ変更され、審査の結果、全重役が追放取止めとなった
  • 証券 1954年
    • [8]松下電工は太平洋戦争下で航空機用補給器・通信機の一部・木製プロペラを生産して松下航空工業へ改称したが、軍需品の生産は2〜3割にとどまった

制限下の五年で松下電器産業の負債は10億円に達し、税金の滞納でも一時は最上位に数えられた。松下幸之助氏は、それまでどんな苦境でも避けてきた人員整理に踏み切り、従業員は3,500人まで減った。1950年に各種の制限が解かれると回復は速く、同年に27億円だった売上高は1955年に220億円、従業員も1万3,000人へ戻った。分社した各社も同じ軌道をたどり、松下電工は1951年5月に整備計画を完了した。ビル建築の盛行で電線管の引き合いが急増している。配線器具の同業には東芝のほかは二、三種類を手がける小メーカーしかなかった。再建の元手は設備でも資本でもなく、配線器具で全国生産高の5割を占める市場地位と、成型材料まで自給する体制であった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [13]占領下の五年で松下電器産業の負債は10億円に達し、税金の滞納でも一時最上位に数えられた
    • [14]松下幸之助氏はそれまで行わなかった人員整理を断行し、従業員は3,500人まで減少した
    • [15]1950年に各種の制限が解除され、同年の売上高27億円は1955年に220億円、従業員は1万3,000人へ回復した
  • 証券 1954年
    • [16]松下電工は1951年5月に整備計画を完了し、資本金4,000万円となった
    • [17]1951年ごろから電気器具の需要が漸増し、ビル建築の盛行によって電線管の引き合いが急増した
    • [18]配線器具の同業は東芝のほかは少人数で二、三種類を製造する小メーカーばかりであった
    • [19]松下電工の配線器具は全国生産高の5割を占め、成型材料のベークライトパウダーを自給して新式成型機とコンベアシステムを備えていた
参考文献[1]-[19]
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [1]敗戦後、進駐軍の占領政策によって松下電器産業には財閥指定をはじめ七つの制限が課され、経済活動も資産の移動もできなくなった
    • [6]松下幸之助氏は最初の財閥指定に「断じて松下は財閥ではない」と主張し続け、指定は未解決のまま1949年末に解除された
    • [7]松下幸之助氏は財閥指定に続いて公職追放のA級に指定され、軍需生産を指導した以上は社長退陣に抗議の余地がないと考えていた
    • [9]松下幸之助氏の追放が発表されると、賃上げ争議も行っていた松下電器産業の労働組合が社長留任の運動に立った
    • [10]当時1万5,000人の従業員が一人ずつ署名捺印を取り、政府と司令部へ社長留任を嘆願した
    • [11]当時の商工大臣であった星島二郎氏は、この情勢下で社長擁護運動が起きたことに驚いた
    • [12]一ヵ月後に追放指定はB級へ変更され、審査の結果、全重役が追放取止めとなった
    • [13]占領下の五年で松下電器産業の負債は10億円に達し、税金の滞納でも一時最上位に数えられた
    • [14]松下幸之助氏はそれまで行わなかった人員整理を断行し、従業員は3,500人まで減少した
    • [15]1950年に各種の制限が解除され、同年の売上高27億円は1955年に220億円、従業員は1万3,000人へ回復した
  • 証券 1954年
    • [2]松下電工は、1935年12月に松下電器産業が設立された際、松下電器製作所の配線器具・合成樹脂電線管の製造販売部門を担って発足した
    • [3]松下電工は、軍需会社であったことと松下電器産業が財閥指定を受けたことにより、制限会社・特別経理会社・賠償工場・過度経済力集中排除の諸指定を受けた
    • [5]松下電工は1945年に配線器具生産の主力工場であった明石工場を焼失し、それが立ち直りの遅れた最大の原因となった
    • [8]松下電工は太平洋戦争下で航空機用補給器・通信機の一部・木製プロペラを生産して松下航空工業へ改称したが、軍需品の生産は2〜3割にとどまった
    • [16]松下電工は1951年5月に整備計画を完了し、資本金4,000万円となった
    • [17]1951年ごろから電気器具の需要が漸増し、ビル建築の盛行によって電線管の引き合いが急増した
    • [18]配線器具の同業は東芝のほかは少人数で二、三種類を製造する小メーカーばかりであった
    • [19]松下電工の配線器具は全国生産高の5割を占め、成型材料のベークライトパウダーを自給して新式成型機とコンベアシステムを備えていた
  • 証券 1962年
    • [4]松下電器製作所の輸出部が1935年8月に独立して設立された松下電器貿易は、1951年8月に松下電器系列へ復帰した

1951年〜経営指導料を対価に据えたフィリップスとの条件交渉

財閥解体で三井・三菱・住友の系列が後退する一方、松下電器産業は配線器具メーカーから総合家電メーカーへの転換を急いでいた。だがテレビの心臓部であるブラウン管には高度な電子技術が要り、当時の松下に電子の蓄積は薄かった。のちに社長となる山下俊彦氏は、提携以前の会社を『町工場に毛の生えたような感じ』と振り返っている。松下幸之助氏は1951年、アメリカとヨーロッパを回って提携の相手を探した。選んだのは、1937年ごろから取引があり、戦争で中断したまま1948年末に取引再開を申し込んできていたオランダのフィリップスであった。日本にはアメリカの技術が流入する一方でヨーロッパの技術は乏しく、松下幸之助氏はそれが日本の技術発展に欠かせないと判断した。

  • 実業の世界 1961年1月号
    • [20]戦後の財閥解体で三井・三菱・住友が後退するなか、松下は配線器具メーカーから総合家電メーカーへの転換を進めていた
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号
    • [21]山下俊彦氏は、フィリップス提携以前の松下について電子技術の蓄積が薄かったと振り返った
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [22]松下幸之助氏は1951年にアメリカとヨーロッパを回り、電子分野でどの国のどのメーカーと技術提携するかを検討した
    • [23]フィリップスとの取引は1937年ごろからあり戦争で中断していたが、1948年末に同社から取引再開の申し込みがあった
    • [24]松下幸之助氏は、日本にはアメリカの技術が流入する一方でヨーロッパの技術が少なく、それが日本の技術発展に欠かせないと考えて提携先をフィリップスに決めた

フィリップスが示した条件は、新会社へのイニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料6%であった。松下幸之助氏は前の二つを受け入れる一方、技術指導料6%は受けなかった。合弁会社を日本で経営するのは松下電器産業であり、技術指導料を払うなら経営指導料を受け取ってよいという主張である。払うべきものは払う用意を示したうえで、販売力と経営力を対価に対等を求めた。交渉は決裂寸前まで進み、相手はこれ以上進まないなら打ち切ろうと言い出した。現地で折衝した専務の高橋荒太郎氏が粘り、技術を持たない側が経営力を対価に据えた条件交渉。技術指導料4.5%に対し経営指導料3%を松下側が受け取る条件で決着し、1952年10月18日に調印した。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [25]フィリップスは提携条件として、新会社へのイニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料6%を求めた
    • [26]松下幸之助氏はイニシャル・ペイメントと株式参加は受け入れたが、技術指導料6%には納得しなかった
    • [27]松下幸之助氏は、合弁会社の経営指導監督を松下電器産業が担う以上、技術指導料を払う代わりに経営指導料を受け取るべきだと要求した
    • [29]交渉は決裂寸前まで進み、フィリップス側は「これ以上話し合いが進まないなら打ち切ろう」と申し出た
    • [30]専務の高橋荒太郎氏が現地で折衝し、技術指導料4.5%をフィリップスへ支払う代わりに経営指導料3%を松下側が受け取る条件で決着、1952年10月18日に技術提携契約へ調印した
  • プレジデント 1973年10月号
    • [28]松下幸之助氏はイニシャル・ペイメントとロイヤリティを払う用意を示したうえで、松下の販売力・経営力を対価に「5分と5分、対等」と主張した

1952年12月、提携の産物として合弁会社の松下電子工業が発足した。大阪府高槻市に建てた新工場では、1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタの生産へ入った。松下電器産業は導入したブラウン管技術で1953年に白黒テレビを発売している。松下電工は1952年下期に蛍光灯器具の生産を始めたが、灯球の生産能力に縛られていた。1954年7月に松下電子工業の管球工場が稼働し、その制約が外れた。1952年に月産四千個だった蛍光灯器具は、1953年に二万四千個へ伸びている。松下電器産業の関係事業部は、これらの電子管や半導体を使ってラジオ・テレビの品質を世界的な水準まで高めた。提携で獲得したのは技術そのものより、部品の供給を自前で握る構造であった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [31]フィリップスとの技術提携の結果、1952年12月に合弁会社の松下電子工業が設立された
    • [32]松下電子工業は大阪府高槻市に新工場を建設し、1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタなど電子管・半導体の生産を開始した
    • [37]松下電器産業の関係事業部は、松下電子工業が生産する電子管や半導体を用いて、ラジオ・テレビなどエレクトロニクス応用機器の品質を世界的な水準まで高めた
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [33]松下電器産業はフィリップスとの提携で導入したブラウン管技術により、1953年に白黒テレビを発売した
  • 証券 1954年
    • [34]松下電工は1952年下期から蛍光灯器具の生産を始めたが、灯球の生産能力に制約される傾向があった
    • [35]1954年7月に松下電子工業の管球工場が稼働を始め、松下電工の蛍光灯器具は灯球の制約を離れた
    • [36]松下電工の蛍光灯器具は1952年に月産四千個だったものが1953年に二万四千個へ増加した
参考文献[20]-[37]
  • 実業の世界 1961年1月号
    • [20]戦後の財閥解体で三井・三菱・住友が後退するなか、松下は配線器具メーカーから総合家電メーカーへの転換を進めていた
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号
    • [21]山下俊彦氏は、フィリップス提携以前の松下について電子技術の蓄積が薄かったと振り返った
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [22]松下幸之助氏は1951年にアメリカとヨーロッパを回り、電子分野でどの国のどのメーカーと技術提携するかを検討した
    • [23]フィリップスとの取引は1937年ごろからあり戦争で中断していたが、1948年末に同社から取引再開の申し込みがあった
    • [24]松下幸之助氏は、日本にはアメリカの技術が流入する一方でヨーロッパの技術が少なく、それが日本の技術発展に欠かせないと考えて提携先をフィリップスに決めた
    • [25]フィリップスは提携条件として、新会社へのイニシャル・ペイメント55万ドル、株式参加30%、技術指導料6%を求めた
    • [26]松下幸之助氏はイニシャル・ペイメントと株式参加は受け入れたが、技術指導料6%には納得しなかった
    • [27]松下幸之助氏は、合弁会社の経営指導監督を松下電器産業が担う以上、技術指導料を払う代わりに経営指導料を受け取るべきだと要求した
    • [29]交渉は決裂寸前まで進み、フィリップス側は「これ以上話し合いが進まないなら打ち切ろう」と申し出た
    • [30]専務の高橋荒太郎氏が現地で折衝し、技術指導料4.5%をフィリップスへ支払う代わりに経営指導料3%を松下側が受け取る条件で決着、1952年10月18日に技術提携契約へ調印した
    • [31]フィリップスとの技術提携の結果、1952年12月に合弁会社の松下電子工業が設立された
    • [32]松下電子工業は大阪府高槻市に新工場を建設し、1954年から電球・蛍光灯・真空管・ブラウン管・トランジスタなど電子管・半導体の生産を開始した
    • [37]松下電器産業の関係事業部は、松下電子工業が生産する電子管や半導体を用いて、ラジオ・テレビなどエレクトロニクス応用機器の品質を世界的な水準まで高めた
  • プレジデント 1973年10月号
    • [28]松下幸之助氏はイニシャル・ペイメントとロイヤリティを払う用意を示したうえで、松下の販売力・経営力を対価に「5分と5分、対等」と主張した
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [33]松下電器産業はフィリップスとの提携で導入したブラウン管技術により、1953年に白黒テレビを発売した
  • 証券 1954年
    • [34]松下電工は1952年下期から蛍光灯器具の生産を始めたが、灯球の生産能力に制約される傾向があった
    • [35]1954年7月に松下電子工業の管球工場が稼働を始め、松下電工の蛍光灯器具は灯球の制約を離れた
    • [36]松下電工の蛍光灯器具は1952年に月産四千個だったものが1953年に二万四千個へ増加した

1956年〜販売網に溜まった赤字と、熱海での関係の再構築

制限が解けて六年目の1956年、松下幸之助氏は1月10日の経営方針発表会で五ヵ年計画を発表し、向こう五年で売上高を四倍にすると宣言した。事業部長の立場を、副社長の松下正治氏は社内の子会社を率いる社長になぞらえて説明した。1960年の時点で事業部は二十一あり、それぞれ工場を数個ずつ統括して損益を独立採算で負い、似た製品の事業部どうしの上には事業本部が置かれた。経営上の重い問題は、社長・副社長・専務の三人が毎朝九時半から十時半に集まって話し合った。将来の目標を外に向けて公然と示す一企業体は、当時ほかになかった。1933年に始めた製品別の組織は、戦時の統制と占領期の指定を経て、ふたたび会社の骨格に戻ってきた。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [38]松下幸之助氏は1956年1月10日の経営方針発表会で五ヵ年計画を発表し、向こう五年間で売上高を四倍にすると表明した
    • [43]当時は国や行政官庁を除けば、一企業体が将来の目標を外部へ発表する例はなかった
  • 野田経済 1960年
    • [39]副社長の松下正治氏は、事業部長を松下電器の内部における子会社の社長のようなもので大きな権限と責任を任されていると説明した
    • [40]1960年時点で松下電器産業の事業部は二十一を数え、工場を数個ずつまとめた事業部が独立採算で運営されていた
    • [41]事業部の上部機関として、類似製品の事業部をまとめた事業本部が置かれ、本社には国際本部・営業本部・管理本部・人事部があった
    • [42]1960年春から、社長・副社長・専務の三人が毎朝九時半から十時半まで重要な経営上の問題を合議していた

1935年に輸出部が分離して設立された松下電器貿易は、1962年10月に東京証券取引所第二部へ上場した。1962年3月期の販売実績は、輸出78%・輸入22%であった。売上高は82億4,484万円、輸出先は約80カ国、海外代理店は120社に及んだ。輸出品の83.7%は松下電器産業の製品で、ブランドはすべてナショナルに統一されていた。だが国内では、東京オリンピックを境に金融の引き締めが強化され、産業界は景気の後退と過剰設備の重荷に苦しんだ。日本特殊鋼や山陽特殊製鋼のような大企業までが倒産し、家電業界も不況の波をかぶった。松下電器産業の販売会社と代理店にも、市況の悪化で赤字へ転じるところが増えた。

  • 証券 1962年
    • [44]松下電器貿易は1962年10月3日に上場した
    • [45]松下電器貿易の1962年3月期の販売実績は輸出78%・輸入22%であった
    • [46]松下電器貿易の1962年3月期の売上高は82億4,484万円で、輸出先は約80カ国、海外代理店は120社を擁した
    • [47]松下電器貿易の輸出品の83.7%は松下電器産業の製品で、ブランドはすべてナショナルであった
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [48]東京オリンピックを境に景気の過熱に対する金融引き締めが強化され、産業界は景気後退と過剰設備の重荷に苦しんだ
    • [49]中小企業に加え日本特殊鋼や山陽特殊製鋼といった大企業までが倒産し、家電業界も不況の波をかぶった
    • [50]家電の市況悪化により、松下電器産業の販売会社・代理店にも赤字経営に落ち込むところが増えた

1964年7月、会長になって三年ほど過ぎていた松下幸之助氏は、三年半ぶりに熱海のニュー富士屋ホテルへ全国の販売会社・代理店の社長を集めた。会場で聞かされたのは、資本金500万円に対し1億5,000万円という資本金の30倍の欠損を抱えた販売会社の実情であった。もうかっている社を尋ねると手を挙げたのは30人ほどで、残る170人ほどは赤字であった。二日間の予定は一日延び、三日目に松下幸之助氏は『結局は松下電器が悪かった。この一語に尽きる』と全面的に非を認めた。松下電器産業はこの謝罪を起点に販売制度そのものを組み替え、販売会社との関係を組み替えた新販売制度。1965年2月からは、一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度が地域ごとに実施された。作る力を外から買った会社が、売る力だけは非を認めることからしか作り直せなかった。

  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [51]松下幸之助氏は会長就任から三年ほど過ぎた1964年7月、三年半ぶりに熱海のニュー富士屋ホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会を開いた
    • [52]懇談会では、資本金500万円に対し1億5,000万円という資本金の30倍の欠損を出している販売会社の実情が示された
    • [53]松下幸之助氏がもうかっている社に挙手を求めると30人ほどが手を挙げ、残る170人ほどは赤字であった
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
    • [54]熱海会談の後、1965年2月から一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度からなる新販売制度が地域ごとに実施された
参考文献[38]-[54]
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [38]松下幸之助氏は1956年1月10日の経営方針発表会で五ヵ年計画を発表し、向こう五年間で売上高を四倍にすると表明した
    • [43]当時は国や行政官庁を除けば、一企業体が将来の目標を外部へ発表する例はなかった
    • [48]東京オリンピックを境に景気の過熱に対する金融引き締めが強化され、産業界は景気後退と過剰設備の重荷に苦しんだ
    • [49]中小企業に加え日本特殊鋼や山陽特殊製鋼といった大企業までが倒産し、家電業界も不況の波をかぶった
    • [50]家電の市況悪化により、松下電器産業の販売会社・代理店にも赤字経営に落ち込むところが増えた
    • [51]松下幸之助氏は会長就任から三年ほど過ぎた1964年7月、三年半ぶりに熱海のニュー富士屋ホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会を開いた
    • [52]懇談会では、資本金500万円に対し1億5,000万円という資本金の30倍の欠損を出している販売会社の実情が示された
    • [53]松下幸之助氏がもうかっている社に挙手を求めると30人ほどが手を挙げ、残る170人ほどは赤字であった
  • 野田経済 1960年
    • [39]副社長の松下正治氏は、事業部長を松下電器の内部における子会社の社長のようなもので大きな権限と責任を任されていると説明した
    • [40]1960年時点で松下電器産業の事業部は二十一を数え、工場を数個ずつまとめた事業部が独立採算で運営されていた
    • [41]事業部の上部機関として、類似製品の事業部をまとめた事業本部が置かれ、本社には国際本部・営業本部・管理本部・人事部があった
    • [42]1960年春から、社長・副社長・専務の三人が毎朝九時半から十時半まで重要な経営上の問題を合議していた
  • 証券 1962年
    • [44]松下電器貿易は1962年10月3日に上場した
    • [45]松下電器貿易の1962年3月期の販売実績は輸出78%・輸入22%であった
    • [46]松下電器貿易の1962年3月期の売上高は82億4,484万円で、輸出先は約80カ国、海外代理店は120社を擁した
    • [47]松下電器貿易の輸出品の83.7%は松下電器産業の製品で、ブランドはすべてナショナルであった
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
    • [54]熱海会談の後、1965年2月から一地域一販社制・事業部直販制・新月販制度からなる新販売制度が地域ごとに実施された

1946年〜1964年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年11月期 単体 189 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年11月期 単体 251 +32.8% n/a n/a n/a n/a
1957年11月期 単体 373 +48.6% n/a n/a n/a n/a
1958年11月期 単体 483 +29.5% n/a n/a n/a n/a
1959年11月期 単体 653 +35.2% n/a n/a n/a n/a
1960年11月期 単体 1,054 +61.4% n/a n/a n/a n/a
1961年11月期 単体 1,355 +28.6% n/a n/a n/a n/a
1962年11月期 単体 1,877 +38.5% 196 n/a n/a n/a
1963年11月期 単体 2,201 +17.3% 129 n/a n/a n/a
1964年11月期 単体 2,071 ▲5.9% 129 n/a n/a n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

出典・参考

9件
出典・参考
  • パナソニックホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • パナソニックホールディングス「1965年(昭和40年)」(社史)
  • 実業の世界 1961年1月号
  • プレジデント 1973年10月号
  • 日経ビジネス 1977年1月31日号
  • 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
  • 証券 1954年
  • 野田経済 1960年
  • 証券 1962年

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