パナソニック:門真への本社移転と事業部制の採用
1933年〜門真への移転と、製品別に編成した三つの事業部
1933年5月、松下幸之助氏は大阪府北河内郡門真町に新しい本店と工場を建て、移転と同時に組織を製品別の事業部へ改めた。門真の敷地には本店とラジオ工場、フェノール樹脂を扱う第12工場、店員養成所と店員寮が建った。松下電気器具製作所は創業から15年で従業員1,800人を擁する中堅企業に育っていた。体が弱かった松下幸之助氏は自分一人の力に限界があると早くから自覚し、他人へ仕事を任せる行き方を身につけていた。その行き方を組織の制度へ置き換え、各事業部長に製造から販売までの損益責任を負わせることで、自主責任経営への組織の組み替え。当時は大企業でも事業部制を採った例がなく、個人企業から脱したばかりの製作所が先に参入した。
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1933年5月に門真へ本社を移転し、事業部制を採用した
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [2]門真地区には本店とラジオ工場、フェノール工場である第12工場、店員養成所・店員寮が完成した
- [3]1933年の門真進出時、松下電器製作所は従業員1,800人を擁する中堅企業に成長していた
- [5]1933年当時は大企業でも事業部制を採用した例がなく、個人企業から脱しつつあった松下電器製作所が採用した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [4]体が弱かった松下幸之助氏は自分一人の力に限界があると自覚し、他人に仕事を任せる行き方を学びとっていた
第一事業部はラジオ、第二事業部はランプと乾電池、第三事業部は配線器具・合成樹脂・電熱器を受け持った。この割り振りは、配線器具に始まってランプ・乾電池・電熱器・ラジオへと品目を増やしてきた松下電気器具製作所の製品構成をそのまま基準にしたものである。各事業部は傘下に工場と出張所を抱え、新製品を生むところから作り、売り、損益を締めるところまでを一貫して自ら担い、独立して採算をとった。品目ごとに責任者を置いて数字で成果を測らせるほうが、市場も技術も違う品を一人で扱うより動きが速い、という判断があった。1934年1月、松下幸之助氏は従業員へ、言われたとおり忠実に働くだけでは足りず、どの仕事も一つの経営とみなしてこそ工夫や新たな発見が出てくると説いた。
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [6]1933年5月の事業部制では、ラジオを第一事業部、ランプ・乾電池を第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器を第三事業部とした
- [8]各事業部は工場と出張所を持ち、製品の開発から生産・販売・収支までを一貫して担当する独立採算の事業体となった
- [9]1934年1月、松下幸之助氏は従業員に対し、仕事を忠実にやるだけでは充分でないと述べた
- [10]松下幸之助氏は、どんな仕事でも一つの経営と観念するところに適切な工夫ができ新発見が生まれると述べた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [7]松下電気器具製作所は1918年の創業後、配線器具からランプ・乾電池・電熱器・ラジオへと製品分野を拡大した
当時の配線器具は絶縁性と価格から陶磁器製の器台が多く使われ、第三事業部は京都の北村陶器所から磁器台を仕入れていた。産地での自社生産へ切り替えるため、1935年10月には瀬戸市へ瀬戸陶器工場を開設した。同じ月に電線管を扱うコンヂット部を創設し、品目を配線から配管へ広げた。1934年6月には松下化学工業所を設立し、フェノール樹脂製の食器・文房具の生産にも入った。同じ年、松下幸之助氏は関西に小型モーターの作り手がいないこと自体を無限の市場と読んだ。住友と提携し、資本金100万円の傍系電動機会社を設立した。分けた事業部は与えられた製品の内側に留まらず、材料と設備の調達まで自ら取りに行った。
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [11]配線器具には絶縁性と価格から陶磁器製の器台が多く使われ、第三事業部は京都の北村陶器所から磁器台を仕入れていた
- [12]産地で自社生産するため、1935年10月に瀬戸市へ瀬戸陶器工場を開設した
- [13]1935年10月にコンヂット部を創設し、松下コンヂットの名で電線管を発売した
- [14]1934年6月に松下化学工業所を設立し、フェノール樹脂製の食器・文房具の生産を始めた
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人1』, 1980年)
- [15]1934年、松下幸之助氏は関西に小型モーターの製造業者がいないことを無限の市場があることだと判断した
- [16]住友と提携し、資本金100万円の傍系電動機会社を設立した
参考文献[1]-[16]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1933年5月に門真へ本社を移転し、事業部制を採用した
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [2]門真地区には本店とラジオ工場、フェノール工場である第12工場、店員養成所・店員寮が完成した
- [3]1933年の門真進出時、松下電器製作所は従業員1,800人を擁する中堅企業に成長していた
- [5]1933年当時は大企業でも事業部制を採用した例がなく、個人企業から脱しつつあった松下電器製作所が採用した
- [6]1933年5月の事業部制では、ラジオを第一事業部、ランプ・乾電池を第二事業部、配線器具・合成樹脂・電熱器を第三事業部とした
- [8]各事業部は工場と出張所を持ち、製品の開発から生産・販売・収支までを一貫して担当する独立採算の事業体となった
- [9]1934年1月、松下幸之助氏は従業員に対し、仕事を忠実にやるだけでは充分でないと述べた
- [10]松下幸之助氏は、どんな仕事でも一つの経営と観念するところに適切な工夫ができ新発見が生まれると述べた
- [11]配線器具には絶縁性と価格から陶磁器製の器台が多く使われ、第三事業部は京都の北村陶器所から磁器台を仕入れていた
- [12]産地で自社生産するため、1935年10月に瀬戸市へ瀬戸陶器工場を開設した
- [13]1935年10月にコンヂット部を創設し、松下コンヂットの名で電線管を発売した
- [14]1934年6月に松下化学工業所を設立し、フェノール樹脂製の食器・文房具の生産を始めた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- [4]体が弱かった松下幸之助氏は自分一人の力に限界があると自覚し、他人に仕事を任せる行き方を学びとっていた
- [7]松下電気器具製作所は1918年の創業後、配線器具からランプ・乾電池・電熱器・ラジオへと製品分野を拡大した
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人1』, 1980年)
- [15]1934年、松下幸之助氏は関西に小型モーターの製造業者がいないことを無限の市場があることだと判断した
- [16]住友と提携し、資本金100万円の傍系電動機会社を設立した
1935年〜九つの分社への改組と、樹脂技術による民需の拡大
1935年12月、松下電器製作所は松下電器産業株式会社へ改組し、事業部制を分社制へ進めた。事業部門別に九つの系列会社が設けられ、統轄会社である産業本社の公称資本金は1,000万円であった。松下幸之助氏は産業本社の社主となって全社の上に立ち、配線器具の事業を受け継いだ松下電器株式会社でも社長を務めた。各社の資本金は、ラジオと部品を扱う松下無線、乾電池とランプの松下乾電池がそれぞれ500万円、配線器具の松下電器、電熱器具の松下電熱がそれぞれ200万円だった。産業本社の分まで合わせると総資本金は2,610万円にのぼる。株式会社にした理由を、松下幸之助氏は資本や人材を外から集めるためではないと明言し、経営の実態を世に開くことこそ公明正大という精神にかなうと説明した。
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [17]1935年12月、松下電器製作所は松下電器産業株式会社へ改組し、事業部制を分社制へ発展させた
- [19]松下幸之助氏は産業本社の社主として全社を統帥する地位に就き、松下電器株式会社の社長を兼務した
- [20]9分社の公称資本金は松下無線500万円、松下乾電池500万円、松下電器200万円、松下電熱200万円などであった
- [21]産業本社を含む総資本金は2,610万円であった
- [22]松下幸之助氏は、資本を他に求めるとか人材を他から求める必要性から改組したのではないと世間に明らかにした
- [23]松下幸之助氏は改組の趣旨を、経営の実情を世間に公表するのが公明正大の精神に合致すると述べた
- 株式会社年鑑 1950年版「松下電器産業」
- [18]昭和10年12月、松下電器製作所の各事業部門ごとに9株式会社を設立し、その統轄会社として資本金1,000万円で松下電器産業を設立した
分社となった配線器具部門は、配線器具・合成樹脂・電線管の三つを継承した。1934年に着手したユリア樹脂の研究は、1936年に業界で初めて製品化に至った。色調と成形性でフェノール樹脂に優る特性を生かし、まず電気スタンドに使われた。1936年5月には構内に小型捲線工場を建て、信号器具の生産をここへ集約した。月間販売高は1936年6月の20万円から、同じ年の12月には30万円まで伸びた。本社工場では設備も入れ替えている。手作業のハンドプレスは100トン水圧機5基に置き換わり、金型の材料には特殊鋼が使われ、熱源も重油をやめてスチームにした。1937年12月には、ナショナル商標の書体が統一され、どの商品にも同一のものを用いることが決まった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「松下電工」
- [24]1935年12月に発足した松下電器株式会社は、配線器具・合成樹脂・電線管の部門を継承し、資本金200万円・払込92万円であった
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [25]1934年に研究を始めたユリア樹脂は、1936年に業界で初めて製品化された
- [26]ユリア樹脂は多彩な色調と成形性でフェノール樹脂より優れ、最初に電気スタンドとして発売された
- [27]1936年5月に構内へ小型捲線工場を建設し、信号器具の生産をすべてここへ移した
- [28]月間販売高は1936年6月の20万円から同年12月に30万円へ達した
- [29]本社工場にハンドプレスに代わる100トン水圧機5基を据えつけ、金型に特殊鋼を用い、熱源を重油からスチームに切り替えた
- [30]1937年12月、松下電器はナショナル商標の字体を統一し、すべての商品について同一書体を使用することを定めた
1938年、国家総動員法の制定で戦時体制は急速に強化され、物資の統制が始まった。同じ年の1月、松下電器株式会社は軍需用の仮栓の発注を受け、初めて軍需生産に手を染めた。平和産業を志向する会社が進みたい道ではなかったが、当時の日本の産業に選択は許されなかった。積層板の製造計画は、軍の需要に応じるために着手したものだった。ところが成形に要る3,000トンの水圧機を、軍需に追われる機械メーカーはどこも請け負わなかった。これに先立ち、太平洋戦争が広がるにつれ、軍から求められる軍需品の生産を少しずつ受けざるを得なくなっていた。水圧機づくりは手がけたことのない領域だったが、自分で作る以外に手はなかった。統制下では、民需向けに蓄えた樹脂と成形の技術が、軍に差し出せる資産に数えられるようになっていった。
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [31]1938年の国家総動員法の制定により戦時体制が急速に強化され、物資の統制が始まった
- [32]1938年1月、松下電器株式会社は軍需用の仮栓の発注を受け、初めて軍需生産に着手した
- [33]軍需生産は平和産業を意図する松下電器の進みたい道ではなかったが、当時の日本の産業に選択は許されなかった
- [34]積層板の製造に必要な3,000トン水圧機は、軍需生産に追われた機械メーカーが製造を引き受けなかった
- [36]3,000トン水圧機の製造は未経験の分野であったが、自家製作するほかに道は残らなかった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「松下電工」
- [35]太平洋戦争の拡大に伴い、軍の要請に基づいて逐次軍需生産を余儀なくされた
参考文献[17]-[36]
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [17]1935年12月、松下電器製作所は松下電器産業株式会社へ改組し、事業部制を分社制へ発展させた
- [19]松下幸之助氏は産業本社の社主として全社を統帥する地位に就き、松下電器株式会社の社長を兼務した
- [20]9分社の公称資本金は松下無線500万円、松下乾電池500万円、松下電器200万円、松下電熱200万円などであった
- [21]産業本社を含む総資本金は2,610万円であった
- [22]松下幸之助氏は、資本を他に求めるとか人材を他から求める必要性から改組したのではないと世間に明らかにした
- [23]松下幸之助氏は改組の趣旨を、経営の実情を世間に公表するのが公明正大の精神に合致すると述べた
- [25]1934年に研究を始めたユリア樹脂は、1936年に業界で初めて製品化された
- [26]ユリア樹脂は多彩な色調と成形性でフェノール樹脂より優れ、最初に電気スタンドとして発売された
- [27]1936年5月に構内へ小型捲線工場を建設し、信号器具の生産をすべてここへ移した
- [28]月間販売高は1936年6月の20万円から同年12月に30万円へ達した
- [29]本社工場にハンドプレスに代わる100トン水圧機5基を据えつけ、金型に特殊鋼を用い、熱源を重油からスチームに切り替えた
- [30]1937年12月、松下電器はナショナル商標の字体を統一し、すべての商品について同一書体を使用することを定めた
- [31]1938年の国家総動員法の制定により戦時体制が急速に強化され、物資の統制が始まった
- [32]1938年1月、松下電器株式会社は軍需用の仮栓の発注を受け、初めて軍需生産に着手した
- [33]軍需生産は平和産業を意図する松下電器の進みたい道ではなかったが、当時の日本の産業に選択は許されなかった
- [34]積層板の製造に必要な3,000トン水圧機は、軍需生産に追われた機械メーカーが製造を引き受けなかった
- [36]3,000トン水圧機の製造は未経験の分野であったが、自家製作するほかに道は残らなかった
- 株式会社年鑑 1950年版「松下電器産業」
- [18]昭和10年12月、松下電器製作所の各事業部門ごとに9株式会社を設立し、その統轄会社として資本金1,000万円で松下電器産業を設立した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「松下電工」
- [24]1935年12月に発足した松下電器株式会社は、配線器具・合成樹脂・電線管の部門を継承し、資本金200万円・払込92万円であった
- [35]太平洋戦争の拡大に伴い、軍の要請に基づいて逐次軍需生産を余儀なくされた
1939年〜海軍の指定工場となり、社名まで軍需へ塗り替えられるまで
1939年7月の組織改正で、海軍向けの電気小兵器を受け持つ特殊電機部と、陸軍向け砲弾の信管などを受け持つ金属工業部が生まれた。これより前の1939年1月には、自社で作った3,000トン水圧機2基が完成しており、積層板の試作品も海軍の規格試験を通っていた。松下電器株式会社が海軍購買名簿に正式に載り、指定工場の扱いを受けたのは1940年8月である。納めた品は大半が飛行機の治具板と艦船の配電盤向けで、1943年には月産30トンと設備をいっぱいに回しても注文をこなせず、資材や機械の入手が細るなかでも軍への生産だけは続いた。1942年6月には国家総動員法に基づき、本社工場が陸海軍の共同管理下に置かれた。製品別に切ったはずの区分は、需要家の軍種別へ置き換わっていった。
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [37]1939年7月の組織変更で、海軍用電気小兵器・交流通信兵器を担う特殊電機部と、陸軍用砲弾の信管・治具等を担う金属工業部を新設した
- [38]自家製作した3,000トン水圧機2基は1939年1月に完成し、積層板の試作品は海軍の規格試験に合格した
- [39]1940年8月、松下電器株式会社は海軍購買名簿へ正式に登録され、海軍の指定工場となった
- [40]積層板の納入品のほとんどは飛行機の治具板と艦船の配電盤用で、1943年には月産30トンのフル生産でも需要に追いつかなかった
- [42]1942年6月、国家総動員法にもとづき松下電器株式会社の本社工場は陸海軍共同管理下に置かれた
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人1』, 1980年)
- [41]統制時代から戦時にかけて資材や機械が次第に不足するなかで、軍向けの生産は継続された
1940年1月5日、松下幸之助氏は大阪中央電気クラブで初めての経営方針発表会を開催し、『今後、軍需産業がふえるだろうが、全国およそ7万の販売店や一般国民の日常生活を思うと平和産業をゆるがせにはできない』と述べた。1943年5月、松下電器株式会社は航空工業部を新設して関目工場を開設した。積層板で積んだ成形の技術を生かし、飛行機の木製プロペラと航空機用強化木の製造へ入った。同年8月18日、生産物資の支給を円滑に受けるという会社運営上の必要から、社名は松下航空工業株式会社へ変更された。翌1944年4月、資本金は2,275万円へ増額された。工場の配置も軍が決め、1943年の生産拡充命令によって津と北条に兵器製造所を新設した。配線器具から始まった分社の名は、資材の配給を受ける都合で書き換えられた。
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [43]1943年5月、航空工業部の新設により関目工場を開設した
- [44]関目工場では積層板製造の経験を生かし、飛行機の木製プロペラと航空機用強化木の製造を始めた
- [45]1943年8月18日、生産物資の支給を円滑に受ける会社運営上の必要から、社名を松下航空工業株式会社へ変更した
- [47]1943年に軍の生産拡充命令で津兵器製造所と北条兵器製造所を新設した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「松下電工」
- [46]1943年8月に松下航空工業へ改称し、1944年4月に資本金を2,275万円へ増額した
終戦までに水に浮かんだ木造船は56隻を数えた。木製飛行機の方は月産200機まで上げる計画だったが、仕上がったのは3機だけだった。造船は松下造船、飛行機は松下飛行機が受け持ち、両社はともに1943年に設立されている。1944年には松下航空工業の主力工場が残らず軍需工場の指定を受け、管理は軍需省に移った。どちらの会社も松下電器が本来手がけてきた事業とは縁のない領域であり、そのことが戦後に財閥の指定を受ける主な理由となった。同年11月、産業本社は無線・乾電池・蓄電池・電気工業の4分社を吸収合併し、本社直轄の製造所制へ改めた。資本金は4,600万円となり、この体制のまま終戦を迎えた。1933年に分けて任せた組織は、統制の下で外から組み替えられた。
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人1』, 1980年)
- [48]木造船は終戦までに56隻を進水させた
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [49]木製飛行機は当初月産50機、順次200機へ引き上げる予定であったが、終戦までに完成したのは3機であった
- [50]1943年4月に松下造船株式会社、同年10月に松下飛行機株式会社が設立された
- [51]1944年、松下航空工業の主力工場はすべて軍需工場に指定され、管理も軍需省へ移った
- [52]松下飛行機と松下造船は松下電器本来の事業から完全に離れた分野であり、戦後の松下電器の財閥指定の大きな原因ともなった
- [53]1944年11月、産業本社は無線・乾電池・蓄電池・電気工業の4分社を吸収合併し、直轄の製造所制をとった
- 株式会社年鑑 1950年版「松下電器産業」
- [54]4分社の吸収合併により資本金は4,600万円となり、この体制のまま終戦を迎えた
参考文献[37]-[54]
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- [37]1939年7月の組織変更で、海軍用電気小兵器・交流通信兵器を担う特殊電機部と、陸軍用砲弾の信管・治具等を担う金属工業部を新設した
- [38]自家製作した3,000トン水圧機2基は1939年1月に完成し、積層板の試作品は海軍の規格試験に合格した
- [39]1940年8月、松下電器株式会社は海軍購買名簿へ正式に登録され、海軍の指定工場となった
- [40]積層板の納入品のほとんどは飛行機の治具板と艦船の配電盤用で、1943年には月産30トンのフル生産でも需要に追いつかなかった
- [42]1942年6月、国家総動員法にもとづき松下電器株式会社の本社工場は陸海軍共同管理下に置かれた
- [43]1943年5月、航空工業部の新設により関目工場を開設した
- [44]関目工場では積層板製造の経験を生かし、飛行機の木製プロペラと航空機用強化木の製造を始めた
- [45]1943年8月18日、生産物資の支給を円滑に受ける会社運営上の必要から、社名を松下航空工業株式会社へ変更した
- [47]1943年に軍の生産拡充命令で津兵器製造所と北条兵器製造所を新設した
- [49]木製飛行機は当初月産50機、順次200機へ引き上げる予定であったが、終戦までに完成したのは3機であった
- [50]1943年4月に松下造船株式会社、同年10月に松下飛行機株式会社が設立された
- [51]1944年、松下航空工業の主力工場はすべて軍需工場に指定され、管理も軍需省へ移った
- [52]松下飛行機と松下造船は松下電器本来の事業から完全に離れた分野であり、戦後の松下電器の財閥指定の大きな原因ともなった
- [53]1944年11月、産業本社は無線・乾電池・蓄電池・電気工業の4分社を吸収合併し、直轄の製造所制をとった
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人1』, 1980年)
- [41]統制時代から戦時にかけて資材や機械が次第に不足するなかで、軍向けの生産は継続された
- [48]木造船は終戦までに56隻を進水させた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「松下電工」
- [46]1943年8月に松下航空工業へ改称し、1944年4月に資本金を2,275万円へ増額した
- 株式会社年鑑 1950年版「松下電器産業」
- [54]4分社の吸収合併により資本金は4,600万円となり、この体制のまま終戦を迎えた
出典・参考
6件
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 松下電工六十年史(松下電工株式会社, 1978年)
- 株式会社年鑑 1950年版「松下電器産業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「松下電工」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968年)
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人1』, 1980年)