パナソニック:松下幸之助の松下電気器具製作所創業と「ナショナル」商標
1918年〜大阪電灯を辞めて改良ソケットに賭けた百円足らず
松下幸之助氏は、九歳で丁稚奉公に出て火鉢店と自転車店を経たのち、電気の仕事へ移った人物である。自転車店で六年を過ごしたのち、電車の普及で自転車の需要が細ると読んで転業を決めた。1910年10月に大阪電灯の幸町営業所へ内線係の見習工として入り、三カ月で配線工事の担当者へ昇進した。20歳から夜学へ通ったものの、尋常小学校を中退した松下幸之助氏には口頭筆記の授業が追えず中途で挫折した。1917年春には最年少で検査員へ昇格したが、実働二、三時間で済む職には熱が入らなかった。その少し前から手がけていた改良ソケットの試作品は上司に採用されず、かえって自ら事業を起こす意志が固まった。1917年6月、七年勤めた大阪電灯を辞め、翌1918年3月に改良ソケットを製品にするための独立。
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [1]松下幸之助氏は9歳で丁稚奉公に出て火鉢店と自転車店を経たのち、電気事業へ転じた
- [2]松下幸之助氏は自転車店での六年の奉公の末、電車の普及で自転車の需要が減り電気事業が有望になると読んで転業を決意した
- [4]20歳から夜学へ通ったが、三角を除く全科目が口頭筆記であったため尋常小学校を中退した松下幸之助氏は追いつけず中途で挫折した
- [5]24歳の春に検査員へ昇格したが、実働二、三時間で済む役に回ると仕事の熱が入らず物足りなさを持てあました
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [3]松下幸之助氏は1910年10月に大阪電灯幸町営業所へ内線係見習工として入社し、三カ月目に内線工事担当者へ昇進した
- [6]1917年春に最年少で検査員へ昇進する少し前からソケットの改良に着手していたが、試作品は上司に採用されず、事業家として立つ意志が湧き起こった
独立したときの手元資金は、退職金33円20銭と会社の積立金42円、貯金20円ほどを合わせて百円に満たなかった。作業場は住んでいた大阪市東成区猪飼野の借家の一部屋で、二畳と四畳半の半分を土間にして充てた。義弟の井植歳男氏と大阪電灯時代の同僚二人を加えた四人でソケットの製造を始めた。同僚の林氏はその友人から100円を借りて資金を継ぎ足したが、完成した品は十日間で10円足らずしか売れなかった。売り先の見当がつかず、同僚二人は自活の道を求めて離れ、松下幸之助氏夫妻は着物を残らず質屋へ入れた。改良した製品を作る力と、それを買い手へ届ける経路とは、まったく別の資源であった。
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [7]1917年6月に大阪電灯を退社した時点の松下幸之助氏の手元資金は、退職金33円20銭・会社の積立金42円・貯金20円ほどで、100円に満たなかった
- [9]最初の作業場は大阪市東成区猪飼野の借家の一部屋で、義弟の井植歳男氏と大阪電灯時代の同僚二人を加えてソケット製造を開始したが、完成したソケットは十日間で10円足らずしか売れなかった
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [8]松下幸之助氏は借家の二畳と四畳半の半分を土間にして作業場とした
- [10]元同僚の林氏と義弟の井植歳男氏が加わり、林氏の友人から100円を借りて資金とした
- [11]ソケットの不振で各自が自活の道を求めようとの声が出て松下幸之助氏と井植歳男氏だけが残り、夫妻は着物を全部質屋に入れる窮状にあった
ソケットが売れないなかで事業をつないだのは、扇風機の碍盤という下請の注文であった。川北電気から碍盤1,000枚を請け負った松下幸之助氏は、井植歳男氏と徹夜で仕上げて年内に納め、80円の利益を得た。碍盤の注文はその後も続いたため事業の継続を断念せずに済み、翌1918年の正月には2,000枚の第二回の注文が入った。同年3月、家賃16円50銭の借家へ移り、3月7日に大阪市此花区大開町で松下電気器具製作所を興した。碍盤の下請を続けるかたわら、自ら改良設計したアタッチメントプラグの製造に入った。下請の工賃が、理念を試すための時間を買ったのであった。
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [12]ソケットづくりが失敗に終わって行き悩んでいたところへ、川北電気から扇風機の碍盤1,000枚の製造注文が来た
- [13]松下幸之助氏と義弟の井植歳男氏は碍盤の製造を徹夜で続けて約束の年内に完納し、80円の利益を得た
- [15]1918年の正月早々に第二回として碍盤2,000枚の注文を受け、ソケットの失敗から立ち直った
- [18]松下電気器具製作所は扇風機碍盤の下請生産をするかたわら、松下幸之助氏が自ら改良設計したアタッチメントプラグの製造を開始した
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [14]碍盤の注文が続いたため事業を継続でき、翌1918年に大開町の家へ移った
- [16]松下幸之助氏は家賃16円50銭の大開町の家へ移った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
- [17]1918年3月7日に松下幸之助氏が大阪市大開町に松下電気器具製作所を創立した
参考文献[1]-[18]
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [1]松下幸之助氏は9歳で丁稚奉公に出て火鉢店と自転車店を経たのち、電気事業へ転じた
- [2]松下幸之助氏は自転車店での六年の奉公の末、電車の普及で自転車の需要が減り電気事業が有望になると読んで転業を決意した
- [4]20歳から夜学へ通ったが、三角を除く全科目が口頭筆記であったため尋常小学校を中退した松下幸之助氏は追いつけず中途で挫折した
- [5]24歳の春に検査員へ昇格したが、実働二、三時間で済む役に回ると仕事の熱が入らず物足りなさを持てあました
- [8]松下幸之助氏は借家の二畳と四畳半の半分を土間にして作業場とした
- [10]元同僚の林氏と義弟の井植歳男氏が加わり、林氏の友人から100円を借りて資金とした
- [11]ソケットの不振で各自が自活の道を求めようとの声が出て松下幸之助氏と井植歳男氏だけが残り、夫妻は着物を全部質屋に入れる窮状にあった
- [14]碍盤の注文が続いたため事業を継続でき、翌1918年に大開町の家へ移った
- [16]松下幸之助氏は家賃16円50銭の大開町の家へ移った
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [3]松下幸之助氏は1910年10月に大阪電灯幸町営業所へ内線係見習工として入社し、三カ月目に内線工事担当者へ昇進した
- [6]1917年春に最年少で検査員へ昇進する少し前からソケットの改良に着手していたが、試作品は上司に採用されず、事業家として立つ意志が湧き起こった
- [7]1917年6月に大阪電灯を退社した時点の松下幸之助氏の手元資金は、退職金33円20銭・会社の積立金42円・貯金20円ほどで、100円に満たなかった
- [9]最初の作業場は大阪市東成区猪飼野の借家の一部屋で、義弟の井植歳男氏と大阪電灯時代の同僚二人を加えてソケット製造を開始したが、完成したソケットは十日間で10円足らずしか売れなかった
- [12]ソケットづくりが失敗に終わって行き悩んでいたところへ、川北電気から扇風機の碍盤1,000枚の製造注文が来た
- [13]松下幸之助氏と義弟の井植歳男氏は碍盤の製造を徹夜で続けて約束の年内に完納し、80円の利益を得た
- [15]1918年の正月早々に第二回として碍盤2,000枚の注文を受け、ソケットの失敗から立ち直った
- [18]松下電気器具製作所は扇風機碍盤の下請生産をするかたわら、松下幸之助氏が自ら改良設計したアタッチメントプラグの製造を開始した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
- [17]1918年3月7日に松下幸之助氏が大阪市大開町に松下電気器具製作所を創立した
1922年〜採算に合う製品だけを出す方針と、砲弾型ランプの実演販売
大開町で最初に当たったのはアタッチメントプラグであった。初めて四、五人を雇い入れたのは、注文が捌ききれなくなったためである。松下幸之助氏が古電球の口金を転用して原価を下げ、市価より3割安く売り出した品に買い手が殺到した。次に出した二灯用差込みプラグは実用新案を得て関東方面にも売れ、月5,000個を作るまでになり、1918年の暮れには従業員が20人を上回った。拡張の元手は、大阪の吉田商店に一手販売を任せる契約で得た保証金3,000円である。その間、空いた隣の家を借りて工場に替え、機械も買い足したが、それでも注文量には届かなかった。1922年7月には大開町で約330平方メートルの土地を借り、工場と事務所を建てている。
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [19]松下電気器具製作所が製造した最初の製品は、松下幸之助氏が自ら改良設計したアタッチメントプラグであった
- [23]空き家になった隣家を借り受けて工場とし機械設備も増設したにもかかわらず、応じきれないほどの注文が殺到した
- [24]1922年7月、大開町1丁目73に約330平方メートルの土地を借り、約230平方メートルの工場と82平方メートルの事務所・住居を建てて第1次本店・工場とした
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [20]大開町で最初に手がけたアタッチメントプラグは古電球の口金を応用して市価の3割安とし、注文に応じ切れず初めて四、五人を雇った
- [22]二灯用差込みプラグは大阪の吉田商店と3,000円の保証金で一手販売契約を結び、その資金を工場拡張にあてた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
- [21]二灯用差込みプラグは実用新案をとって売り出され、関東方面へも販路が伸びて月産5,000個に達し、従業員は1918年末に20人を超えた
1922年の松下電気器具製作所は製品を月産1万5,000円分まで伸ばし、従業員は50人となっていた。配線器具は十数種を揃えていたが、当時の主力品であるキーソケットには手を出していなかった。価格競争が激しいうえ製品としても研究し尽くされ、独自の改良の余地がなく採算が合わなかったためである。取引先からは発売を求める声が強く、配線器具の作り手としての体面もあったが、松下幸之助氏は『あせったり、面目にこだわったりしてはならない。仕事はどこまでも成り立つ基礎の上に立たねばならない』という信念から無理な発売を控えた。同じころ松下幸之助氏は、事業の不振は運ではなく経営の進め方が当を得ていないためだと同業者へ語っていた。売れている市場ではなく、自らの改良が価格へ転嫁できる市場だけを選んだのが、この時期の製品選択であった。
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [25]1922年には製品は月産1万5,000円を超え、従業員も50人となっていた
- [26]当時の松下の配線器具は十数種を発売していたが、主力商品となるキーソケットはまだ発売していなかった
- [27]キーソケットは価格競争が激しく製品的にも研究しつくされていて独自の改良の余地がなく、発売しても採算が合わなかった
- [28]取引先から強い発売の要望があり配線器具メーカーとしての面目からも発売したかったが、松下幸之助氏は無理な発売を差し控えた
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [29]松下幸之助氏は同業者に対し、商売がうまくいかないのは運ではなく経営の進め方が当を得ていないからだと述べた
1923年3月、松下幸之助氏は砲弾型の電池式自転車ランプを考案し発売した。砲弾型のランプは、百個近い試作に半年を費やした末にできあがり、三十時間から五十時間は点灯し続けた。比べる相手となる当時の自転車の灯火は、ろうそくや石油ランプがほとんどで、電池式は二、三時間で切れるうえに壊れやすかった。粗悪な電池式に痛い目を見ていた問屋はどこも引き受けず、在庫が2,000個まで積み上がった。そこで松下幸之助氏は大阪市内の自転車店を次々に訪ね、ランプを置いていった。店に求めたのは、自分で三十時間以上灯してみて、得心がいけば取引するという条件だけだった。店頭で直に見せるこのやり方で、二、三カ月のうちに月2,000個が売れ、一年たつと月産は1万個に届いた。
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [30]1923年3月に砲弾型電池式ランプを考案発売した
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [31]1922年に着手した自転車ランプは半年・百個近い試作を経て砲弾型となり、電池は三十〜五十時間もった
- [33]砲弾型ランプは問屋がどこも扱わず在庫2,000個を抱えた
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [32]当時の自転車用灯火はろうそくか石油ランプが大部分で、電池式のものも寿命は二、三時間と短く故障が多かった
- [34]松下幸之助氏は三十時間以上の点灯試験をして納得できたら取引してもらうという条件で、大阪市内の自転車店にランプを預けて歩いた
- [35]自転車店へ直接預ける宣伝策により二、三カ月後には月2,000個が売れるようになり、一年後には月産1万個に達した
参考文献[19]-[35]
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [19]松下電気器具製作所が製造した最初の製品は、松下幸之助氏が自ら改良設計したアタッチメントプラグであった
- [23]空き家になった隣家を借り受けて工場とし機械設備も増設したにもかかわらず、応じきれないほどの注文が殺到した
- [24]1922年7月、大開町1丁目73に約330平方メートルの土地を借り、約230平方メートルの工場と82平方メートルの事務所・住居を建てて第1次本店・工場とした
- [25]1922年には製品は月産1万5,000円を超え、従業員も50人となっていた
- [26]当時の松下の配線器具は十数種を発売していたが、主力商品となるキーソケットはまだ発売していなかった
- [27]キーソケットは価格競争が激しく製品的にも研究しつくされていて独自の改良の余地がなく、発売しても採算が合わなかった
- [28]取引先から強い発売の要望があり配線器具メーカーとしての面目からも発売したかったが、松下幸之助氏は無理な発売を差し控えた
- [32]当時の自転車用灯火はろうそくか石油ランプが大部分で、電池式のものも寿命は二、三時間と短く故障が多かった
- [34]松下幸之助氏は三十時間以上の点灯試験をして納得できたら取引してもらうという条件で、大阪市内の自転車店にランプを預けて歩いた
- [35]自転車店へ直接預ける宣伝策により二、三カ月後には月2,000個が売れるようになり、一年後には月産1万個に達した
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [20]大開町で最初に手がけたアタッチメントプラグは古電球の口金を応用して市価の3割安とし、注文に応じ切れず初めて四、五人を雇った
- [22]二灯用差込みプラグは大阪の吉田商店と3,000円の保証金で一手販売契約を結び、その資金を工場拡張にあてた
- [29]松下幸之助氏は同業者に対し、商売がうまくいかないのは運ではなく経営の進め方が当を得ていないからだと述べた
- [31]1922年に着手した自転車ランプは半年・百個近い試作を経て砲弾型となり、電池は三十〜五十時間もった
- [33]砲弾型ランプは問屋がどこも扱わず在庫2,000個を抱えた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
- [21]二灯用差込みプラグは実用新案をとって売り出され、関東方面へも販路が伸びて月産5,000個に達し、従業員は1918年末に20人を超えた
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [30]1923年3月に砲弾型電池式ランプを考案発売した
1927年〜ナショナルの商標と、生産者の使命の宣言
1927年4月、松下電気器具製作所は砲弾型を改良した角型ランプを発売し、ここからナショナルの商標を使い始めた。商標そのものは1925年6月29日に、M矢マークに次いで登録されていた。1928年4月には練りもの配線器具専門の第3工場を、11月にはランプ組立の東京分工場を開設した。同じ年に月の販売額は10万円を超え、従業員は300人に達した。1929年3月には研究部を新設して商号を松下電器製作所へ改めた。1930年にはラジオ部門への進出と同時に乾電池を直営とし、翌1931年9月には競合であった小森乾電池を買収して第八工場とした。製品ごとの名で売る段階から、作り手の名で売る段階へ移ったのがこの数年であった。
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [36]1927年4月に「ナショナル」の商標を制定した
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [37]砲弾型ランプを改良した角型ランプに「ナショナル」と命名し、1925年6月29日にM矢マークに次いで商標として登録した
- [38]1928年4月に練りもの配線器具専門の第3工場を此花区上福島に、11月にランプ組立の東京分工場を東京市芝浜松町に開設した
- [39]1928年には松下電気器具製作所の月販売額が10万円を突破し、従業員も300人に達した
- [40]1929年3月に将来の発展に備えて研究部を新設し、社名を「松下電器製作所」と改めた
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [41]1930年にラジオ界への進出と同時に乾電池を直営にし、下請の岡田乾電池だけでは間に合わず提携した小森乾電池を1931年9月に買収して第八工場とした
1929年末、政府の緊縮政策で製品の売れ行きは半減し、倉庫に入りきらない在庫が積み上がった。病床にあった松下幸之助氏は、従業員を半減してはどうかと相談を受けた。氏が決めたのは、生産を即日半減するかわりに従業員を一人も減らさない案であった。工場は半日勤務とし、日給は全額を支給したうえで、休日を廃して全員で在庫の販売に当たった。在庫は二カ月ほどで売り切れ、工場の稼働は元へ戻った。同じ年、松下幸之助氏はこの不況のなかで得た経営観を、経営者の社会に対する責任として綱領と信条に明文化した。雇用を減らさずに在庫を捌いたこの二カ月が、従業員を費用ではなく販売の担い手として扱う筋道を確かめさせたとみられる。
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [42]1929年末に政府の引締政策で経済界の活動が苦しくなり、松下の製品の売行きは半減して倉庫に入りきらないほどの在庫がたまった
- [43]松下幸之助氏は病で床についており、従業員を半減してはどうかとある人から相談を受けた
- [44]松下幸之助氏は生産を即日半減するが従業員は一人も減らさないという方針を決めた
- [45]工場は半日勤務としながら従業員には日給の全額を支給し、休日を廃止して全員でストック品の販売に努めた
- [46]在庫はわずか二カ月ばかりのうちに全部売り尽くされ、工場の稼働を元へ復すことができた
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [47]1929年、不況のなかで得た経営観として、経営者の社会に対する責任を明文化した松下電器製作所の「綱領」および「信条」を制定した
松下幸之助氏がこのころ抱えていたのは、世間の通念どおりの商売では物足りないという反省であった。生産者の使命は何かを夜半まで考え続けた末に行き着いたのは、この世の貧しさを克服することだという信念であった。価のある水道の水を道端で飲んでも誰もとがめないのは、水が豊富だからである。生産者の務めは世に物資を満たし、不自由を無くすることにあると松下幸之助氏は考えた。1932年5月5日、松下幸之助氏は全従業員を前に『今日ここに、松下電器製作所の遠大な使命を諸君に明らかにし、真の創業に入る記念すべきこの5月5日を創業記念日と制定し、以後毎年この日を記念日として厳粛なる式典を挙行することにする。そして本年を創業命知第1年とする』と述べた。使命の達成には250年をかけ、25年を一節として十節で完成させるという時間の枠も置いた。翌1933年7月、松下幸之助氏は産業報国をはじめとする遵奉すべき五つの精神を掲げた。
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [48]松下幸之助氏は、世間の通念通りの商売ではもの足りないという反省を抱いていた
- [49]生産者の使命は何かを連日夜おそくまで考えた結果、この世の貧しさを克服することだという信念が生まれた
- [50]水道の水はもとより価のあるものだが、道端の水道を人が飲んでもだれもとがめないのは水が豊富だからである
- [51]生産者はこの世に物資を満たし、不自由を無くすることが務めであると松下幸之助氏は考え、1932年5月5日を会社の創業記念日とした
- [53]使命の達成を250年目と決め、25年を一節として十節で完成することにした
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [52]1932年5月5日、松下幸之助氏は全従業員を集めた式典で松下電器製作所の使命を明らかにし、この日を創業記念日と制定した
- [54]1933年7月27日、松下幸之助氏は「われらの遵奉すべき松下精神」として産業報国・公明正大・和親一致・力闘向上・礼節を尽すの5精神を明示した
参考文献[36]-[54]
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- [36]1927年4月に「ナショナル」の商標を制定した
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- [37]砲弾型ランプを改良した角型ランプに「ナショナル」と命名し、1925年6月29日にM矢マークに次いで商標として登録した
- [38]1928年4月に練りもの配線器具専門の第3工場を此花区上福島に、11月にランプ組立の東京分工場を東京市芝浜松町に開設した
- [39]1928年には松下電気器具製作所の月販売額が10万円を突破し、従業員も300人に達した
- [40]1929年3月に将来の発展に備えて研究部を新設し、社名を「松下電器製作所」と改めた
- [47]1929年、不況のなかで得た経営観として、経営者の社会に対する責任を明文化した松下電器製作所の「綱領」および「信条」を制定した
- [52]1932年5月5日、松下幸之助氏は全従業員を集めた式典で松下電器製作所の使命を明らかにし、この日を創業記念日と制定した
- [54]1933年7月27日、松下幸之助氏は「われらの遵奉すべき松下精神」として産業報国・公明正大・和親一致・力闘向上・礼節を尽すの5精神を明示した
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [41]1930年にラジオ界への進出と同時に乾電池を直営にし、下請の岡田乾電池だけでは間に合わず提携した小森乾電池を1931年9月に買収して第八工場とした
- [42]1929年末に政府の引締政策で経済界の活動が苦しくなり、松下の製品の売行きは半減して倉庫に入りきらないほどの在庫がたまった
- [43]松下幸之助氏は病で床についており、従業員を半減してはどうかとある人から相談を受けた
- [44]松下幸之助氏は生産を即日半減するが従業員は一人も減らさないという方針を決めた
- [45]工場は半日勤務としながら従業員には日給の全額を支給し、休日を廃止して全員でストック品の販売に努めた
- [46]在庫はわずか二カ月ばかりのうちに全部売り尽くされ、工場の稼働を元へ復すことができた
- [48]松下幸之助氏は、世間の通念通りの商売ではもの足りないという反省を抱いていた
- [49]生産者の使命は何かを連日夜おそくまで考えた結果、この世の貧しさを克服することだという信念が生まれた
- [50]水道の水はもとより価のあるものだが、道端の水道を人が飲んでもだれもとがめないのは水が豊富だからである
- [51]生産者はこの世に物資を満たし、不自由を無くすることが務めであると松下幸之助氏は考え、1932年5月5日を会社の創業記念日とした
- [53]使命の達成を250年目と決め、25年を一節として十節で完成することにした
出典・参考
4件
- パナソニックホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)【沿革】
- 松下電工60年史(松下電工株式会社, 1978)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「松下電器産業」の項
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)