竹内製作所:TAKEUCHI MFG.(U.S.)設立による米国進出とクローラーローダーの開発
1978年〜トーメン・IHIへのOEMも自社生産に転じ、全量輸出へ切り換えた竹内ブランド
1975年5月に始めたヤンマーディーゼル向けのOEMは、ヤンマーディーゼルがミニバックホーの自社生産へ移ったことで、受注の減少が見込まれた。竹内製作所は次の供給先に商社のトーメンを選び、「トーメン・ジョブ」の銘柄で生産と販売を続けた。トーメン経由の販売ではアフターサービスの体制に不備が生じ、供給先を石川島播磨重工業へ替えてIHIの銘柄で出荷した。石川島播磨重工業も大型機の販売が伸び悩んだ時期に入ると、ミニバックホーを自社で手がけるようになった。設計を自社で握ったまま供給先を2度替えても、販路を相手の判断に依存する構造は変わらなかったとみられる。
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [1]1975年5月、ヤンマーディーゼルへのミニショベルのOEM生産を開始
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [2]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [3]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [4]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [5]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
OEMの供給先がそろって自社で生産・販売するようになったため、社長の竹内明雄氏は受注の減少が続くと判断し、竹内の名で自ら販売すると決めた。国内の取引先からは『竹内なんて聞いたこともない』と受け止められ、商談の相手にされなかった。ミニバックホーを最初に開発した会社でありながら、竹内製作所は国内では後発のメーカーとして扱われた。竹内明雄氏は1988年刊の坂城町の工業史で、自社がミニバックホーで国内外の先駆けとなったと振り返った。竹内明雄氏は、銘柄を重んじる日本の市場では名前が浸透しない限り参入できないと結論づけ、自社の名で販売に転じた当初を最も苦しかった時期に挙げた。
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [6]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [7]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [8]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [10]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [9]竹内明雄が1988年刊の町史で、国内及び世界のミニバックホー最先発メーカーとして生産を伸ばしたと回想
国内市場への参入を断念した竹内明雄氏は、ミニバックホーの販売をすべて輸出へ振り向ける方針を決めた。竹内製作所のミニショベルの輸出開始は1978年1月である。竹内明雄氏は1988年刊の坂城町の工業史でも、昭和53年の輸出開始を独立後の節目の1つに挙げた。輸出の代金は信用状(L/C)で決済したため、竹内製作所は不渡りの損失を受けずに済んだ。1998年時点で輸出は売上の85%前後を占め、国内向けの販売は小規模にとどまった。与信の負担が軽い輸出は、国内に販売網を持たない専業メーカーにとって参入しやすい市場だったと推察される。
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [11]国内ブランド不浸透を受け全量輸出へ切り換え、L/C取引で不渡りなし、1998年の輸出比率は約85%で国内は細々
- [14]国内ブランド不浸透を受け全量輸出へ切り換え、L/C取引で不渡りなし、1998年の輸出比率は約85%で国内は細々
- [15]国内ブランド不浸透を受け全量輸出へ切り換え、L/C取引で不渡りなし、1998年の輸出比率は約85%で国内は細々
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [12]1978年1月、ミニショベルの輸出を開始
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [13]昭和53年(1978年)に輸出を開始し、のちに米欧に現地法人を設立
参考文献[1]-[15]
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [1]1975年5月、ヤンマーディーゼルへのミニショベルのOEM生産を開始
- [12]1978年1月、ミニショベルの輸出を開始
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [2]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [3]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [4]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [5]ヤンマーの自社生産で取引減少を見込みトーメン(トーメン・ジョブ)へ、アフターサービス体制の問題からIHIブランドへ供給先を移し、IHIも大型不振期にミニを自社生産化
- [6]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [7]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [8]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [10]OEM先の自社生産で先細りと判断し竹内ブランドで自販に転じたが「聞いたこともない」と相手にされず後発扱い、ブランド志向の国内では浸透しないと市場に入れないと判断
- [11]国内ブランド不浸透を受け全量輸出へ切り換え、L/C取引で不渡りなし、1998年の輸出比率は約85%で国内は細々
- [14]国内ブランド不浸透を受け全量輸出へ切り換え、L/C取引で不渡りなし、1998年の輸出比率は約85%で国内は細々
- [15]国内ブランド不浸透を受け全量輸出へ切り換え、L/C取引で不渡りなし、1998年の輸出比率は約85%で国内は細々
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [9]竹内明雄が1988年刊の町史で、国内及び世界のミニバックホー最先発メーカーとして生産を伸ばしたと回想
- [13]昭和53年(1978年)に輸出を開始し、のちに米欧に現地法人を設立
1979年〜TAKEUCHI MFG.(U.S.)の設立と、円高の赤字に耐えた米国残留
竹内製作所は輸出開始の翌年にあたる1979年2月、米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.),LTD.を設立。竹内明雄氏は1998年の取材で、米国へ早い時期に進出した日本の同業として自社を挙げ、子会社の設立から20年が経ったと説明した。1988年刊の坂城町の工業史でも、竹内明雄氏は輸出の開始から米国と欧州での現地法人の設立までを一続きの歩みとして記している。トーメン経由の販売ではアフターサービスの体制に不備が出た経緯があり、海外でも同じ問題を抱える余地があった。商社を介さずに現地の販売店と直接取引し、補修や部品供給の窓口を自前で持つ狙いがあったと思われる。
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [16]1979年2月、米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.),LTD.を設立
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [17]米国にいち早く進出し昭和54年2月に子会社設立から約20年、トーメン経由ではアフターサービス体制に問題
- [19]米国にいち早く進出し昭和54年2月に子会社設立から約20年、トーメン経由ではアフターサービス体制に問題
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [18]輸出開始に続き米国・欧州に現地法人を設立できたと回想
竹内製作所は1981年1月、1トンから5トンまでのミニショベルのシリーズを揃えた。1984年4月には長野県埴科郡戸倉町(現・千曲市)に戸倉工場を新設し、坂城町の本社工場に次ぐ生産の場を加えた。竹内明雄氏は1998年の取材で、欧州では古い建物の内部だけを改装する工事が多く、ドアや階段を通れる小型機が好まれたと説明した。欧州では掘削と配管を別々の専門の作業者が担い、機械の稼働は年1600時間ほど。日本の稼働は年600〜1000時間程度で、欧州の使い方はそれを上回った。稼働の長い欧米の需要に応えるため、品揃えと生産能力を同じ時期に拡げたのだろう。
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [20]1981年1月にミニショベルのシリーズ(1〜5トン)完成、1984年4月に戸倉町に戸倉工場を新設
- [21]1981年1月にミニショベルのシリーズ(1〜5トン)完成、1984年4月に戸倉町に戸倉工場を新設
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [22]欧州は古い建物の内装改造が多く小型機が受けた、欧州の稼働は年約1600時間で日本の600〜1000時間を上回る
- [23]欧州は古い建物の内装改造が多く小型機が受けた、欧州の稼働は年約1600時間で日本の600〜1000時間を上回る
- [24]欧州は古い建物の内装改造が多く小型機が受けた、欧州の稼働は年約1600時間で日本の600〜1000時間を上回る
円高の局面で、米国に進出していた日本の同業各社は現地から撤退した。竹内製作所は米国の子会社を赤字のまま存続させ、撤退を見送った。本体も円高の時期には赤字を計上し、それまでの蓄えを取り崩して乗り切った。竹内明雄氏は1998年の取材で、『今になってみれば、あのとき撤退しなくてよかったと思っています』と当時の判断を振り返った。1998年時点で竹内製作所は1ドル110円程度までの円高に耐える体質を築き、100円でも採算がとれるよう合理化を進めた。米欧の顧客からは竹内の中古機を名指しで求める問い合わせが届いた。TAKEUCHI MFG.(U.S.),LTD.は現在も竹内製作所の連結子会社として存続している。撤退を見送ったことで、米国の利用者の声を直接受け取る経路が残ったと考えられる。
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [25]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [26]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [27]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [28]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [29]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [30]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [31]TAKEUCHI MFG.(U.S.),LTD.は現在も連結子会社
参考文献[16]-[31]
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [16]1979年2月、米国にTAKEUCHI MFG.(U.S.),LTD.を設立
- [20]1981年1月にミニショベルのシリーズ(1〜5トン)完成、1984年4月に戸倉町に戸倉工場を新設
- [21]1981年1月にミニショベルのシリーズ(1〜5トン)完成、1984年4月に戸倉町に戸倉工場を新設
- [31]TAKEUCHI MFG.(U.S.),LTD.は現在も連結子会社
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [17]米国にいち早く進出し昭和54年2月に子会社設立から約20年、トーメン経由ではアフターサービス体制に問題
- [19]米国にいち早く進出し昭和54年2月に子会社設立から約20年、トーメン経由ではアフターサービス体制に問題
- [22]欧州は古い建物の内装改造が多く小型機が受けた、欧州の稼働は年約1600時間で日本の600〜1000時間を上回る
- [23]欧州は古い建物の内装改造が多く小型機が受けた、欧州の稼働は年約1600時間で日本の600〜1000時間を上回る
- [24]欧州は古い建物の内装改造が多く小型機が受けた、欧州の稼働は年約1600時間で日本の600〜1000時間を上回る
- [25]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [26]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [27]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [28]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [29]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- [30]各社が円高で米国から引き揚げるなか赤字でも子会社を残し、本体も円高時に赤字で蓄えを取り崩した、1998年は1ドル110円まで耐える体質で100円での採算を目標に合理化、海外で竹内の中古を指定する引き合い
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [18]輸出開始に続き米国・欧州に現地法人を設立できたと回想
1986年〜世界で初めて出したクローラーローダーと、1988年からの神戸製鋼所向けOEM
竹内製作所は1986年9月にクローラーローダーを開発し、生産を始めた。この機種は、世界で初めて製造されたクローラーローダーとされる。当時の米国では、土砂の掘削と運搬にタイヤ式のスキッドステアローダーが使われた。粘土質の土が多い米国の現場では車輪がとられて故障が起き、雨でぬかるむと作業が数日止まった。竹内製作所が米国市場に投入したのは、米国のユーザーから集めた声を基にタイヤを履帯へ置き換えた機械である。クローラーローダーの販売は2003年2月期にOEM供給を含めて625台に達した。
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [32]1986年9月、クローラーローダーを開発し生産を開始
- 日経ビジネス 2003年6月2日号
- [33]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [34]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [35]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [36]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [37]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
竹内製作所は1988年3月、神戸製鋼所(現・コベルコ建機)向けにミニショベルのOEM生産を始めた。神戸製鋼所向けのOEM生産の期間は、1993年12月までの5年余りである。1978年に販売の軸を輸出へ移して以降、竹内製作所が自社の名で国内に売る台数は限られた。1998年の取材での竹内明雄氏の説明では、国内の販売は小規模に続けるにとどまる。竹内明雄氏は、ヤンマー向けを含むOEMの機種もすべて自社で設計したと明かした。国内の数量は他社の銘柄で確保し、自社の名は輸出先で育てる分担を選んだと推測される。
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [38]1988年3月、神戸製鋼所(現・コベルコ建機)へのミニショベルのOEM生産を開始(1993年12月まで)
- [39]1988年3月、神戸製鋼所(現・コベルコ建機)へのミニショベルのOEM生産を開始(1993年12月まで)
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [40]国内はブランドが浸透せず輸出中心に転じ、1998年時点も国内は細々、OEM機種も設計はすべて自社
- [41]国内はブランドが浸透せず輸出中心に転じ、1998年時点も国内は細々、OEM機種も設計はすべて自社
- [42]国内はブランドが浸透せず輸出中心に転じ、1998年時点も国内は細々、OEM機種も設計はすべて自社
欧州での竹内製作所の販売は、1つの国に1社だけディーラーを置く方式である。竹内明雄氏は、1社に任せると手が回らない面がある一方、管理しやすく成果も上がったと評価した。欧州で需要が最も大きいドイツでは、同国最大のリース会社であるコムレントをディーラーに据えた。1990年の東西ドイツ統一の直後は旧東側の土木工事が多く、ショベルの需要も旺盛だった。1988年刊の坂城町の工業史には、竹内製作所が米国に加えて欧州にも現地法人を設けたとの記述がある。ドイツとオーストリアではディーラーがリース業も兼ね、販売台数の拡大につながった。1998年までには、国土の広いフランスに限って例外的にディーラーを2社に増やした。
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [43]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [44]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [45]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [46]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [48]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [49]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [47]1988年時点で米国・欧州に現地法人を設立していた
参考文献[32]-[49]
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- [32]1986年9月、クローラーローダーを開発し生産を開始
- [38]1988年3月、神戸製鋼所(現・コベルコ建機)へのミニショベルのOEM生産を開始(1993年12月まで)
- [39]1988年3月、神戸製鋼所(現・コベルコ建機)へのミニショベルのOEM生産を開始(1993年12月まで)
- 日経ビジネス 2003年6月2日号
- [33]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [34]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [35]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [36]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- [37]86年に世界初のクローラーローダー、米国の粘土質現場でスキッドステアローダーの車輪が取られる問題からユーザー情報を基に開発、2003年2月期はOEM含め625台
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- [40]国内はブランドが浸透せず輸出中心に転じ、1998年時点も国内は細々、OEM機種も設計はすべて自社
- [41]国内はブランドが浸透せず輸出中心に転じ、1998年時点も国内は細々、OEM機種も設計はすべて自社
- [42]国内はブランドが浸透せず輸出中心に転じ、1998年時点も国内は細々、OEM機種も設計はすべて自社
- [43]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [44]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [45]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [46]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [48]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- [49]欧州は1国1ディーラー制(フランスのみ2社)、ドイツは最大のリース会社コムレントがディーラー、東西統一当時は需要が良かった、独墺はディーラーがリースも兼業し販売が伸びた
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
- [47]1988年時点で米国・欧州に現地法人を設立していた
1978年〜1994年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1978年08月期 | 単体 | 45 | n/a | 4 | 8.9% | n/a |
| 1979年08月期 | 単体 | 69 | +53.3% | 3 | 4.3% | n/a |
| 1980年08月期 | 単体 | 81 | +17.4% | 4 | 4.9% | n/a |
| 1981年08月期 | 単体 | 82 | +1.2% | 3 | 3.7% | n/a |
| 1982年08月期 | 単体 | 76 | ▲7.3% | 1 | 1.3% | n/a |
| 1983年08月期 | 単体 | 81 | +6.6% | 2 | 2.5% | n/a |
| 1984年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:東商信用録 中部版 昭和56年版、長野県会社年鑑 1985年版
出典・参考
4件
- 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
- 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
- 日経ビジネス 2003年6月2日号
- 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」