第1章 年〜年

竹内製作所:自動車部品下請からのミニショベル開発とヤンマー向けOEM

1963年〜15歳で入った都筑製作所の14年と、旋盤1台を元手に6人で始めた竹内製作所

竹内明雄氏は1949年、15歳で都筑製作所に入社した。出身の村上村(現・坂城町)では約45人の同級生の半数が進学し、残りの大半は家の農業に入っており、勤めに出たのは竹内明雄氏を含めて2人だけだった。父はブリキ屋のかたわら農業も営んだものの、親子で取り組むほどの仕事量はなく、進学できる家計の余裕もなかった。都筑製作所の経営者は後年、入社した中学生2人をクラスで首位と評判の生徒だったといい、高校の夜学にも通ったものの、仕事との両立がかなわず1年ほどで断念した。家業にも進学にも行き先がなかったことが、機械加工の現場を職業の出発点にしたとみられる。

  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [1]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [2]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [3]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [4]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [6]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 都筑鑛作(都筑製作所常任相談役)の回想
    • [5]都筑製作所の経営者の回想:従業員9名の頃に入社した中学生2名はクラストップと評された生徒で、うち1人が竹内明雄

竹内明雄氏が自分の工場を持ちたいと考え始めたのは、22、23歳の頃である。当初の望みは、小さくても旋盤を使って自分で仕事を回すことにとどまった。都筑製作所は一時自社の商標の製品を持ち、近くの柳沢精機製作所も自社製品を開発しており、完成品を自社の名で出す夢はこの頃に芽生えたという。都筑製作所の経営者は、将来を尋ねた際に35歳を過ぎたら自分で工場をやりたいと答えた少年として竹内明雄氏を記憶し、24〜25歳の頃にはホンダ本社での優良企業の表彰に同行し、社長が自社でもこうした会社にしたいと口にするのを聞いたとされる。独立を打ち明けると、社長は結婚して信用を得てからにすべきだと諭した。勤め先の挑戦を間近で見た経験が、部品加工の先に自社製品を置く志向を育てたと推察される。

  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [7]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [8]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [9]勤め始めた頃の都筑製作所は自社商標の製品を持ち、柳沢精機製作所も自社製品を開発していた。最終製品・自社ブランドの夢は会社勤めの頃から持っていた
    • [11]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [12]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 都筑鑛作(都筑製作所常任相談役)の回想
    • [10]都筑製作所の経営者の回想:将来を尋ねると竹内明雄は35歳過ぎたら自分で工場をやりたいと答えた

その後、竹内明雄氏は1963年8月、29歳で独立し、坂城町に竹内製作所を設立した。資本金は300万円で、事業の出発点は自動車部品メーカーの下請である。独立に踏み切ったのは跡取りが生まれた年で、柳沢精機製作所から独立する人が出ていたことも理由になった。都筑製作所は退職金の代わりに旋盤を譲り、資金のうち150万円の借入では保証人を引き受け、設立から数年は受注の大半を都筑製作所から得て、兄を含む6人で工場を動かした。坂城町の工業史は、竹内製作所を先行企業で技術と経営を学んだ者が独立した企業の代表例に挙げた。元の勤め先の後ろ盾が、資金も販路も乏しい創業の危うさを和らげたと思われる。

  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1963年8月、坂城町に資本金300万円で竹内製作所を設立し、自動車部品メーカーの下請を開始
    • [14]1963年8月、坂城町に資本金300万円で竹内製作所を設立し、自動車部品メーカーの下請を開始
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [15]1963年(昭和38年)29歳で独立。子の誕生を機とし、柳沢精機製作所から独立する人がいたことも理由。退職金代わりに旋盤、借入150万円の保証人を都筑社長が引き受け、数年は都筑からの仕事中心、兄を含む6人で開始
    • [16]1963年(昭和38年)29歳で独立。子の誕生を機とし、柳沢精機製作所から独立する人がいたことも理由。退職金代わりに旋盤、借入150万円の保証人を都筑社長が引き受け、数年は都筑からの仕事中心、兄を含む6人で開始
    • [17]1963年(昭和38年)29歳で独立。子の誕生を機とし、柳沢精機製作所から独立する人がいたことも理由。退職金代わりに旋盤、借入150万円の保証人を都筑社長が引き受け、数年は都筑からの仕事中心、兄を含む6人で開始
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [18]竹内製作所は都筑製作所から独立し昭和38年に設立、坂城町のスピンアウト企業の代表例とされる
参考文献[1]-[18]
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [1]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [2]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [3]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [4]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [6]竹内明雄は1949年(昭和24年)15歳で都筑製作所に入社。村上村出身、同級生約45人の半数が進学、大半は家業の農業、就職は2人。父はブリキ屋で少し農業、一緒にする仕事も進学の余裕もなかった。夜学は1年ほどで断念
    • [7]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [8]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [9]勤め始めた頃の都筑製作所は自社商標の製品を持ち、柳沢精機製作所も自社製品を開発していた。最終製品・自社ブランドの夢は会社勤めの頃から持っていた
    • [11]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [12]竹内明雄は22、23歳頃に独立を考え始め、旋盤で今の仕事ができればという程度の望みだった。24、25歳頃ホンダ本社で優良企業表彰を受けた際、社長が自社でもやってみたいと話した。独立を相談すると、結婚もせず半人前だと諭された
    • [15]1963年(昭和38年)29歳で独立。子の誕生を機とし、柳沢精機製作所から独立する人がいたことも理由。退職金代わりに旋盤、借入150万円の保証人を都筑社長が引き受け、数年は都筑からの仕事中心、兄を含む6人で開始
    • [16]1963年(昭和38年)29歳で独立。子の誕生を機とし、柳沢精機製作所から独立する人がいたことも理由。退職金代わりに旋盤、借入150万円の保証人を都筑社長が引き受け、数年は都筑からの仕事中心、兄を含む6人で開始
    • [17]1963年(昭和38年)29歳で独立。子の誕生を機とし、柳沢精機製作所から独立する人がいたことも理由。退職金代わりに旋盤、借入150万円の保証人を都筑社長が引き受け、数年は都筑からの仕事中心、兄を含む6人で開始
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 都筑鑛作(都筑製作所常任相談役)の回想
    • [5]都筑製作所の経営者の回想:従業員9名の頃に入社した中学生2名はクラストップと評された生徒で、うち1人が竹内明雄
    • [10]都筑製作所の経営者の回想:将来を尋ねると竹内明雄は35歳過ぎたら自分で工場をやりたいと答えた
  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1963年8月、坂城町に資本金300万円で竹内製作所を設立し、自動車部品メーカーの下請を開始
    • [14]1963年8月、坂城町に資本金300万円で竹内製作所を設立し、自動車部品メーカーの下請を開始
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [18]竹内製作所は都筑製作所から独立し昭和38年に設立、坂城町のスピンアウト企業の代表例とされる

1963年〜自動車部品の下請から、世界で初めて出した全旋回型ミニバックホー

竹内製作所は設立から数年、機械部品の加工で操業をつないだ。受注の中心は自動車部品メーカーの下請仕事であり、工場は建築を人に頼む資金がなく、竹内明雄氏が自ら屋根を張り、板を打って建てた。事務所は何年もの間、工場のそばの自宅の応接間を改造して使った。金融機関からの借入と親戚からの借金でも資金は足りず、竹内明雄氏は自分の給料を5カ月ほど止めた。勤め人時代に受け取った取引先の株を換金して、資金繰りを持ちこたえた時期もあった。それでも最終製品を自社の名で出す夢は持ち続けており、下請の収入は自社製品へ進むための元手と位置づけていたと読める。

  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [19]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [21]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [22]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [23]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [24]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1963年の設立時、自動車部品メーカーの下請を開始

そして、竹内製作所は1971年9月、ミニショベルを開発して生産を始めた。竹内明雄氏は、大手に対抗し不況に耐えるには部品加工だけでなく自社製品が要ると考えた。当時は東京五輪を機に大型建機への関心が高まり、ショベルは油圧式ではなく機械式だった。その機体は、1998年時点の大型機と比べても3倍ほどの大きさがあり、竹内製作所は流れと逆に小型機を開発し、全旋回型のミニバックホーを世界で初めて量産に移した。1972年1月には坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設。大手のひしめく大型機ではなく競合のいない小型機に競争の焦点を置いたことが、下請の工場に参入の余地を与えたと考えられる。

  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1971年9月ミニショベルを開発し生産開始。1972年1月坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設
    • [30]1971年9月ミニショベルを開発し生産開始。1972年1月坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [26]大手に対抗し不況に対処するため自社製品の開発が必要と考え、昭和46年にミニ・バックホーを製品化。世界で初めて全旋回型のミニバックホーの生産を開始
    • [29]大手に対抗し不況に対処するため自社製品の開発が必要と考え、昭和46年にミニ・バックホーを製品化。世界で初めて全旋回型のミニバックホーの生産を開始
  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [27]東京五輪期は大型建機に関心が集まり、当時のショベルは機械式で今の大型の3倍ほどの大きさだった。その中で小型機を開発した
    • [28]東京五輪期は大型建機に関心が集まり、当時のショベルは機械式で今の大型の3倍ほどの大きさだった。その中で小型機を開発した

初期のミニバックホーは、大型機を見慣れた市場からおもちゃと呼ばれた。手本となる先行機がない機械だったため故障が多く、改良は試行錯誤の連続になった。竹内明雄氏は1998年の取材で、国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアだと自負を示した。坂城町の工業史は、全旋回型を世界で初めて量産した事業のリスクは大きかったと記す。竹内明雄氏の口癖は、『もし、事業がうまくいかなかったら、毎日2杯の御飯を1杯にし、使っているバイクを自転車に代えればいい』という言葉。生活の水準を下げれば費用も下がるという理屈で、事業の失敗に備える覚悟を示した。損失の上限を自分の暮らしの水準で見積もったことが、前例のない製品に経営資源を集中する決断を支えたと思われる。

  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [31]当社の機械はおもちゃだと言われた。世の中に無い機械なのでよく壊れ、試行錯誤の連続だった。国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアと自負
    • [32]当社の機械はおもちゃだと言われた。世の中に無い機械なのでよく壊れ、試行錯誤の連続だった。国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアと自負
    • [33]当社の機械はおもちゃだと言われた。世の中に無い機械なのでよく壊れ、試行錯誤の連続だった。国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアと自負
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [34]全旋回型の世界初の生産でリスクは大きかった。竹内社長は失敗したら御飯を2杯から1杯に、バイクを自転車に代えれば生活レベルを下げてコストダウンできると言う
    • [35]全旋回型の世界初の生産でリスクは大きかった。竹内社長は失敗したら御飯を2杯から1杯に、バイクを自転車に代えれば生活レベルを下げてコストダウンできると言う
    • [36]全旋回型の世界初の生産でリスクは大きかった。竹内社長は失敗したら御飯を2杯から1杯に、バイクを自転車に代えれば生活レベルを下げてコストダウンできると言う
参考文献[19]-[36]
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [19]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [21]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [22]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [23]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
    • [24]設立後数年は機械部品の加工。工場は自分で屋根・板を張って建て、事務所は自宅の応接間を改造。借入・親戚の借金でも足りず給料を5カ月ほど無しにし、前の会社で貰った取引先の株を換金してしのいだ
  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1963年の設立時、自動車部品メーカーの下請を開始
    • [25]1971年9月ミニショベルを開発し生産開始。1972年1月坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設
    • [30]1971年9月ミニショベルを開発し生産開始。1972年1月坂城町に村上工場(現・本社工場)を新設
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [26]大手に対抗し不況に対処するため自社製品の開発が必要と考え、昭和46年にミニ・バックホーを製品化。世界で初めて全旋回型のミニバックホーの生産を開始
    • [29]大手に対抗し不況に対処するため自社製品の開発が必要と考え、昭和46年にミニ・バックホーを製品化。世界で初めて全旋回型のミニバックホーの生産を開始
    • [34]全旋回型の世界初の生産でリスクは大きかった。竹内社長は失敗したら御飯を2杯から1杯に、バイクを自転車に代えれば生活レベルを下げてコストダウンできると言う
    • [35]全旋回型の世界初の生産でリスクは大きかった。竹内社長は失敗したら御飯を2杯から1杯に、バイクを自転車に代えれば生活レベルを下げてコストダウンできると言う
    • [36]全旋回型の世界初の生産でリスクは大きかった。竹内社長は失敗したら御飯を2杯から1杯に、バイクを自転車に代えれば生活レベルを下げてコストダウンできると言う
  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [27]東京五輪期は大型建機に関心が集まり、当時のショベルは機械式で今の大型の3倍ほどの大きさだった。その中で小型機を開発した
    • [28]東京五輪期は大型建機に関心が集まり、当時のショベルは機械式で今の大型の3倍ほどの大きさだった。その中で小型機を開発した
    • [31]当社の機械はおもちゃだと言われた。世の中に無い機械なのでよく壊れ、試行錯誤の連続だった。国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアと自負
    • [32]当社の機械はおもちゃだと言われた。世の中に無い機械なのでよく壊れ、試行錯誤の連続だった。国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアと自負
    • [33]当社の機械はおもちゃだと言われた。世の中に無い機械なのでよく壊れ、試行錯誤の連続だった。国内で最初にミニバックホーを開発したパイオニアと自負

1975年〜ヤンマーディーゼル向けのOEMと、双信工業から譲り受けた撹拌機

竹内製作所は1975年5月、ヤンマーディーゼルへのミニショベルのOEM生産を始めた。竹内明雄氏は後年、ミニバックホーの市場への進出はこのOEM供給が出発点だったと振り返った。竹内製作所には当時自力で販売する力がなく、機体にはヤンマーのエンジンを使っていた。このため、エンジンの供給元の販路に乗せる方が得策と判断した。ヤンマー向けの機体も、設計はすべて竹内製作所によるものである。竹内明雄氏は技術の経験が豊富だったと自負し、品質と性能は海外でも評価されていると語った。販路を他社に委ねても設計を手元に残したことが、後に自社ブランドで売る余地を残したとうかがえる。

  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1975年5月、ヤンマーディーゼルへのミニショベルのOEM生産を開始
  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [38]ミニ・バックホーの市場進出はヤンマー・ディーゼルへのOEM供給で出発。自力で販売する力がなく、ヤンマーのエンジンを使っていたのでそのルートを選んだ
    • [39]ミニ・バックホーの市場進出はヤンマー・ディーゼルへのOEM供給で出発。自力で販売する力がなく、ヤンマーのエンジンを使っていたのでそのルートを選んだ
    • [40]ミニ・バックホーの市場進出はヤンマー・ディーゼルへのOEM供給で出発。自力で販売する力がなく、ヤンマーのエンジンを使っていたのでそのルートを選んだ
    • [41]ヤンマー向けも設計は全て竹内製作所が担当。技術的経験は豊富で、品質・性能は海外でも評価されている(1998年の社長発言)
    • [42]ヤンマー向けも設計は全て竹内製作所が担当。技術的経験は豊富で、品質・性能は海外でも評価されている(1998年の社長発言)

OEMで出荷したミニバックホーの主な使い手は、水道工事業者と造園業者である。両業者は機体をスコップやツルハシの代わりに使い、井戸水から水道への切り替え工事が盛んになった。竹内製作所にはミニタイプの注文が殺到して生産が追いつかず、竹内明雄氏はOEMで大きな利益を得たと振り返った。竹内製作所はミニバックホーの最先発メーカーとして生産を拡大し、1978年には輸出も始めた。ただし、ヤンマーは後に自らミニバックホーの生産を始め、竹内製作所は取引の減少を見込んだ。販路を供給先に依存した成長は、供給先の内製化で揺らぐ構造を抱えていたと解される。

  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [43]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [44]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [45]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [47]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [46]国内及び世界のミニバックホーの最先発メーカーとして生産を伸ばし、昭和53年(1978年)に輸出を開始

竹内製作所は1976年3月、双信工業から営業譲渡を受け、撹拌機の製造と販売を始めた。工業用撹拌機は、水処理や大気汚染防止の市場に向けた公害防止機器にあたる。1977年9月には坂城町に千曲工場を新設し、撹拌機の製造工場に充てた。坂城町の工業史は、竹内製作所が不況に備えるためにも自社製品の開発が要ると考えていたと記す。撹拌機は1998年時点で業界2位の地位にあり、竹内明雄氏は輸出の拡大を掲げた。撹拌機事業は後の2018年6月、エムケー精工に譲渡された。ミニショベル1品目への依存を和らげ、景気に左右されにくい公害対策の需要を取り込む狙いだったと推量される。

  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1976年3月双信工業より営業譲渡を受け撹拌機の製造販売を開始。1977年9月千曲工場を新設し撹拌機製造工場とする。2018年6月に撹拌機事業をエムケー精工株式会社へ譲渡
    • [50]1976年3月双信工業より営業譲渡を受け撹拌機の製造販売を開始。1977年9月千曲工場を新設し撹拌機製造工場とする。2018年6月に撹拌機事業をエムケー精工株式会社へ譲渡
    • [53]1976年3月双信工業より営業譲渡を受け撹拌機の製造販売を開始。1977年9月千曲工場を新設し撹拌機製造工場とする。2018年6月に撹拌機事業をエムケー精工株式会社へ譲渡
  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [49]1976年に工業用撹拌機の製造販売を開始。公害防止機器として水処理・大気汚染防止の市場に供給。1998年時点で業界2位、今後は輸出に力を入れる
    • [52]1976年に工業用撹拌機の製造販売を開始。公害防止機器として水処理・大気汚染防止の市場に供給。1998年時点で業界2位、今後は輸出に力を入れる
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [51]大手に対抗し不況に対処するためにも自社製品の開発が必要と考えていた
参考文献[37]-[53]
  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1975年5月、ヤンマーディーゼルへのミニショベルのOEM生産を開始
    • [48]1976年3月双信工業より営業譲渡を受け撹拌機の製造販売を開始。1977年9月千曲工場を新設し撹拌機製造工場とする。2018年6月に撹拌機事業をエムケー精工株式会社へ譲渡
    • [50]1976年3月双信工業より営業譲渡を受け撹拌機の製造販売を開始。1977年9月千曲工場を新設し撹拌機製造工場とする。2018年6月に撹拌機事業をエムケー精工株式会社へ譲渡
    • [53]1976年3月双信工業より営業譲渡を受け撹拌機の製造販売を開始。1977年9月千曲工場を新設し撹拌機製造工場とする。2018年6月に撹拌機事業をエムケー精工株式会社へ譲渡
  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
    • [38]ミニ・バックホーの市場進出はヤンマー・ディーゼルへのOEM供給で出発。自力で販売する力がなく、ヤンマーのエンジンを使っていたのでそのルートを選んだ
    • [39]ミニ・バックホーの市場進出はヤンマー・ディーゼルへのOEM供給で出発。自力で販売する力がなく、ヤンマーのエンジンを使っていたのでそのルートを選んだ
    • [40]ミニ・バックホーの市場進出はヤンマー・ディーゼルへのOEM供給で出発。自力で販売する力がなく、ヤンマーのエンジンを使っていたのでそのルートを選んだ
    • [41]ヤンマー向けも設計は全て竹内製作所が担当。技術的経験は豊富で、品質・性能は海外でも評価されている(1998年の社長発言)
    • [42]ヤンマー向けも設計は全て竹内製作所が担当。技術的経験は豊富で、品質・性能は海外でも評価されている(1998年の社長発言)
    • [43]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [44]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [45]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [47]OEM時代、水道屋・造園屋がスコップやツルハシ代わりに使い、井戸水から水道への切替工事で注文が殺到、生産が追いつかず大きく儲けた。その後ヤンマー自身もミニ・バックホーを生産し、取引の先細りを見込んだ
    • [49]1976年に工業用撹拌機の製造販売を開始。公害防止機器として水処理・大気汚染防止の市場に供給。1998年時点で業界2位、今後は輸出に力を入れる
    • [52]1976年に工業用撹拌機の製造販売を開始。公害防止機器として水処理・大気汚染防止の市場に供給。1998年時点で業界2位、今後は輸出に力を入れる
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
    • [46]国内及び世界のミニバックホーの最先発メーカーとして生産を伸ばし、昭和53年(1978年)に輸出を開始
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか
    • [51]大手に対抗し不況に対処するためにも自社製品の開発が必要と考えていた

出典・参考

5件
出典・参考
  • 竹内製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 日本機械輸出組合「JMC journal」46巻10号(1998年11月)「竹内明雄社長に聴く――ミニ・バックホーと環境機器でさらなるグローバル化を」
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 竹内明雄「町の第二世代・独立、そしてバックホーメーカーへ」
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 都筑鑛作(都筑製作所常任相談役)の回想
  • 坂城町・坂城町商工会『坂城町工業発達史(テクノハートさかき)』(坂城町, 1988年12月) 第3章「スピンアウト」ほか

免責事項およびポリシー