日本郵政:前島密の郵便創業と郵便貯金・為替の開始
1870年〜官用便の運送費を元手に組んだ東京・大阪間の新式郵便
前島密氏は1869年12月に民部省改正局の九等出仕を命じられ、翌1870年正月から勤めた。改正局は民部・大蔵両省が共管し、行政の規則を改めて立案する部局である。局の課題のうち駅逓の改革は租税に次ぐ位置にあり、その案を起こした前島密氏が同年5月に駅逓権正を兼ねて実施も任された。就任5日目、前島密氏は東京・京都間の官用の運送費が月平均約1,500両に上ることを書類から知った。官民の信書を合わせて東京・大阪間に毎日1便を出せば、月の収入は1,500両を超え、余剰で他区間へ網を広げられると見積もった。官用便の費用を需要の下限に置き、民間の信書を上乗せして採算を立てる設計だったとみられる。
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [1]前島密は1869年12月に民部省改正局九等出仕を命じられ、1870年正月5日に出仕した
- [2]改正局は民部・大蔵両省共管の特別局で、行政上の諸規則の改正と立案を扱った
- [4]前島密は1870年4月に租税権正、同年5月に駅逓権正の兼任を命じられた
- [5]駅逓権正就任5日目に、東京・京都間往復の官用運送賃が平均月額約1,500両であることを書類から知った
- [6]官民の通信物を東京・大阪間で毎日1回送り一定料金を取れば月収入は1,500両を超え、余剰で他区間の通信網を開けると構想し、政府に採られた
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [3]改正掛の課題で駅逓は租税に次ぐ2番目にあたり、立案した前島密に渋沢栄一が実行も任せた
前島密氏の布告案が定めたのは、郵便と郵便切手という名称、東京・大阪間の発着時刻、料金の4点であった。所要時間は東京・京都間を72時間、東京・大阪間を78時間と置いた。この値は、宿駅ごとの郵便袋の開閉と事務を自宅で家族や部下に模擬させ、その時間を測って積み上げたものにあたる。料金は距離に比例させるか全国で均一にするかを決めきれず、東海道の案だけを稟議して決裁を得た。実施は英国出張中の前島密氏に代わって駅逓正の杉浦譲氏が担い、1871年(明治4年)1月24日に布告した。布告では郵便箱を設け、切手を3種から48文を加えた4種に改めている。
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [7]前島密が建議した布告案は、郵便の名称・郵便切手の名称・東京大阪間の発着時間・料金の4点を定めた
- [12]前島密の英国出張中は杉浦譲が実施を担い、明治4年1月24日に国民向けに公布した
- [13]杉浦譲は郵便箱を設け、前島案の切手3種(500文・200文・100文)に48文を加えた
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [8]所要時間を東京・京都間72時間、東京・大阪間78時間と定めた
- [9]自宅で妻や駅逓司の下僚を各駅の取扱人に見立て、郵便袋の事務処理時間を測って平均を出した
- [11]料金は距離比例か全国均一かを決めきれず、東海道の郵便の具体案を稟議として上申し決裁を得た
- 郵政考古紀要 13 1988年「日本の近代化と前島密」小林正義
- [10]自宅の各部屋を継立場に見立てて模擬郵便物の処理時間を測り、東京・大阪間の所要時間を算出した
前島密氏は開業を待たず、1870年6月下旬に英国出張を命じられて米国経由で渡った。往路の米国船は政府から年50万ドルの補助を受ける郵便船で、前島密氏は船内での郵便物の扱いと消印の手順をそこで初めて知った。英国の郵政当局は応対に消極的で、前島密氏は書店で規則や文献を買い集めて調べを進めている。決めきれなかった料金は、遠近を問わず均一とするローランド・ヒル氏の方式が各国に広がっていると知り、均一制に確信を得た。郵便為替の事務は、自ら差出人と受取人になって流れを確かめた。切手の製造会社にも書簡を2通送り、製法から糊の付け方までを問い合わせた。
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [14]1870年6月下旬に英国出張を命じられ、横浜から米国船で米国経由で渡った
- [16]米国船は米国政府から年50万ドルの補助を受ける郵便船で、船内の郵便取扱いと消印をこのとき知った
- [19]遠近均一の郵便料金法をローランド・ヒルが発案し各国で採用されていると聞いた
- [21]郵便為替の差出人や受取人になって仕組みと事務を確かめた
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [15]前島密は明治3年6月に渡英した
- [17]英国の郵便局では当初応対されず、本屋をあさって資料を集めた
- [20]英国で資料を集め、料金均一制度に確信を得た
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [18]英国郵政局の人に会っても相手にされず、郵便規則や文献を集めた
- [22]英国の切手製造会社に手紙を2通出し、切手の製造から糊のつけ方まで質問した
参考文献[1]-[22]
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [1]前島密は1869年12月に民部省改正局九等出仕を命じられ、1870年正月5日に出仕した
- [2]改正局は民部・大蔵両省共管の特別局で、行政上の諸規則の改正と立案を扱った
- [4]前島密は1870年4月に租税権正、同年5月に駅逓権正の兼任を命じられた
- [5]駅逓権正就任5日目に、東京・京都間往復の官用運送賃が平均月額約1,500両であることを書類から知った
- [6]官民の通信物を東京・大阪間で毎日1回送り一定料金を取れば月収入は1,500両を超え、余剰で他区間の通信網を開けると構想し、政府に採られた
- [8]所要時間を東京・京都間72時間、東京・大阪間78時間と定めた
- [9]自宅で妻や駅逓司の下僚を各駅の取扱人に見立て、郵便袋の事務処理時間を測って平均を出した
- [11]料金は距離比例か全国均一かを決めきれず、東海道の郵便の具体案を稟議として上申し決裁を得た
- [14]1870年6月下旬に英国出張を命じられ、横浜から米国船で米国経由で渡った
- [16]米国船は米国政府から年50万ドルの補助を受ける郵便船で、船内の郵便取扱いと消印をこのとき知った
- [19]遠近均一の郵便料金法をローランド・ヒルが発案し各国で採用されていると聞いた
- [21]郵便為替の差出人や受取人になって仕組みと事務を確かめた
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [3]改正掛の課題で駅逓は租税に次ぐ2番目にあたり、立案した前島密に渋沢栄一が実行も任せた
- [7]前島密が建議した布告案は、郵便の名称・郵便切手の名称・東京大阪間の発着時間・料金の4点を定めた
- [12]前島密の英国出張中は杉浦譲が実施を担い、明治4年1月24日に国民向けに公布した
- [13]杉浦譲は郵便箱を設け、前島案の切手3種(500文・200文・100文)に48文を加えた
- [18]英国郵政局の人に会っても相手にされず、郵便規則や文献を集めた
- [22]英国の切手製造会社に手紙を2通出し、切手の製造から糊のつけ方まで質問した
- 郵政考古紀要 13 1988年「日本の近代化と前島密」小林正義
- [10]自宅の各部屋を継立場に見立てて模擬郵便物の処理時間を測り、東京・大阪間の所要時間を算出した
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [15]前島密は明治3年6月に渡英した
- [17]英国の郵便局では当初応対されず、本屋をあさって資料を集めた
- [20]英国で資料を集め、料金均一制度に確信を得た
1871年〜飛脚への委託論を退けた官営の堅持と新聞・海運への波及
1871年8月15日に帰国した前島密氏に対し、留守中に駅逓頭となった浜口儀兵衛氏は、郵便は飛脚に任せればよいという考えを示した。基盤だけを官が整え、運送は飛脚に委ねればよいとする意見は当時ほかにもあった。前島密氏は免官を覚悟して、自らを駅逓頭に任じるよう上申した。駅逓頭への任命は、帰国から3日後にあたる8月18日。この切り替えは飛脚と旧来の伝馬所・助郷の廃止を伴い、反発も強かったという。全国一律の料金で網を広げるには採算の悪い区間も引き受ける主体が要り、飛脚の請負では担えないと見たのだろう。
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [23]明治4年8月15日に帰国。留守中に駅逓頭となった浜口儀兵衛は、郵便は飛脚屋に任せればよいとの意見だった
- [26]免官覚悟で自分を駅逓頭に任命するよう上申した
- [27]帰国3日後の明治4年8月18日付で駅逓頭に任命された
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [24]二代目駅逓正の浜口は、あんなものは飛脚にやらせておけばよいと述べ、前島密が腹を立てたという
- [25]郵便は官業でなく基礎をつくって飛脚にやらせればよいという意見が出たが、前島密は官営を通した
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [28]新式郵便は伝馬所・助郷制度の廃止を伴い、飛脚にとって大きな問題で、個人的な攻撃もあったとされる
1871年12月に郵便線路を長崎まで延ばした際、新聞・雑誌の郵送料を重さにかかわらず1通48文と定めた。50里以内・2匁までの書状が200文であったから、新聞の料金はその4分の1に満たない。書籍と商品見本の料金も設け、1892年の小包制度に先立って荷物を運ぶ経路を開いた。前島密氏は1872年に郵便報知新聞の創刊を指導し、郵便で運ぶ中身そのものを増やした。運送の担い手としては、飛脚業者を集めて陸運元会社を設けている。汽船会社には郵便物の運送を条件に保護を与え、1872年冬には琉球との郵便定期航路を開いた。
- 郵政考古紀要 13 1988年「日本の近代化と前島密」小林正義
- [29]明治4年12月5日に郵便線路を長崎まで延長し、新聞は重量に関係なく1通48文とした
- [30]同時期の書状は50里以内・2匁まで200文であった
- [31]書籍類・見本品の賃銭を定め、小包制度(1892年)以前に実質的に荷物を送れた
- [32]郵便報知新聞は前島密が直接指導して創刊させた
- [34]かつての飛脚仲間を結集させ、郵便物を運送させるため陸運元会社を設立した
- [35]汽船会社に郵便物の運送を条件として保護を与えた
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [33]前島密は郵便取扱所を兼ねた日本橋の書店主に勧めて、報知新聞の前身「郵便報告」を明治5年に発行させた
- [36]帝国郵便蒸汽船会社を創立させ、明治5年冬に琉球との郵便定期航路を開いた
参考文献[23]-[36]
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [23]明治4年8月15日に帰国。留守中に駅逓頭となった浜口儀兵衛は、郵便は飛脚屋に任せればよいとの意見だった
- [26]免官覚悟で自分を駅逓頭に任命するよう上申した
- [27]帰国3日後の明治4年8月18日付で駅逓頭に任命された
- [33]前島密は郵便取扱所を兼ねた日本橋の書店主に勧めて、報知新聞の前身「郵便報告」を明治5年に発行させた
- [36]帝国郵便蒸汽船会社を創立させ、明治5年冬に琉球との郵便定期航路を開いた
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [24]二代目駅逓正の浜口は、あんなものは飛脚にやらせておけばよいと述べ、前島密が腹を立てたという
- [25]郵便は官業でなく基礎をつくって飛脚にやらせればよいという意見が出たが、前島密は官営を通した
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [28]新式郵便は伝馬所・助郷制度の廃止を伴い、飛脚にとって大きな問題で、個人的な攻撃もあったとされる
- 郵政考古紀要 13 1988年「日本の近代化と前島密」小林正義
- [29]明治4年12月5日に郵便線路を長崎まで延長し、新聞は重量に関係なく1通48文とした
- [30]同時期の書状は50里以内・2匁まで200文であった
- [31]書籍類・見本品の賃銭を定め、小包制度(1892年)以前に実質的に荷物を送れた
- [32]郵便報知新聞は前島密が直接指導して創刊させた
- [34]かつての飛脚仲間を結集させ、郵便物を運送させるため陸運元会社を設立した
- [35]汽船会社に郵便物の運送を条件として保護を与えた
1875年〜銀行の無い時代に郵便の窓口へ載せた為替と貯金
前島密氏は郵便為替を早くから構想したが、藩札が残って貨幣制度が統一されず、銀行も無い状態では、資金を全国で動かすことが難しかった。元手の資金も政府から出なかったため、前島密氏は自家の財産を充てたいとする請願を起こし、駅逓寮の職員もこれに連署した。請願は退けられたが、のちに大隈重信大蔵卿が10万円とされる資金を出したという。為替と貯金はともに前島密氏の在任中に始まり、各地の郵便局がその窓口となった。銀行網が整う前に、郵便の窓口網そのものを送金の経路に充てる構想だったと推察される。
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [37]為替制度は、藩札が残り金融・貨幣制度が統一されず、銀行も無いため、全国的な資金の移動が難しかった
- [38]政府が資金を出せず、前島家の財産を資金に充てたいとの請願を起こし、駅逓寮の職員が署名した
- [39]請願はそのときは通らなかったが、のちに大隈大蔵卿が10万円ほどの資金を出したという
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [40]貯金や為替は前島密の時から始まり、各地の郵便局を拠点とした
郵便貯金の開始は1875年で、前島密氏は東京近辺に預け所を5〜6か所置いた。初めは預ける人がなく、前島密氏は真中忠直氏とともに貯金発端資という呼び水の資金を設けている。集配人や出入りの植木職人に10銭・20銭を渡して預けさせ、利息が付く仕組みを身近な層から広めた。利率は年6分で、1人あたりの預入額には上限があった。英国では郵便為替と並んで郵便貯金も郵便事業の内にあり、前島密氏はその仕組みを滞在中に知っていた。同じ英国の例にならって生命保険と養老年金も始めようとしたが、死亡生残表が無く見送った。
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [41]貯金は明治8年に始まり、貯金預け所を東京近辺に5、6か所作った
- [42]預ける人がいないため、真中忠直と貯金発端資を始めた
- [43]駅逓寮の集配人や前島家出入りの植木職人に10銭・20銭を渡して預けさせ、利息が付くことを広めた
- [44]利率は年6分で、1人あたりの預け高に制限があった
- [46]振替貯金や為替は英国滞在の経験で知った
- [47]貯金と同時に英国にならい生命保険と養老年金を始めたかったが、死亡生残表が無くできなかった
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [45]英国では新聞・書籍・商品見本の郵送から郵便為替・郵便貯金までを郵便事業に含んでいた
参考文献[37]-[47]
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- [37]為替制度は、藩札が残り金融・貨幣制度が統一されず、銀行も無いため、全国的な資金の移動が難しかった
- [38]政府が資金を出せず、前島家の財産を資金に充てたいとの請願を起こし、駅逓寮の職員が署名した
- [39]請願はそのときは通らなかったが、のちに大隈大蔵卿が10万円ほどの資金を出したという
- [41]貯金は明治8年に始まり、貯金預け所を東京近辺に5、6か所作った
- [42]預ける人がいないため、真中忠直と貯金発端資を始めた
- [43]駅逓寮の集配人や前島家出入りの植木職人に10銭・20銭を渡して預けさせ、利息が付くことを広めた
- [44]利率は年6分で、1人あたりの預け高に制限があった
- [46]振替貯金や為替は英国滞在の経験で知った
- [47]貯金と同時に英国にならい生命保険と養老年金を始めたかったが、死亡生残表が無くできなかった
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- [40]貯金や為替は前島密の時から始まり、各地の郵便局を拠点とした
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- [45]英国では新聞・書籍・商品見本の郵送から郵便為替・郵便貯金までを郵便事業に含んでいた
出典・参考
4件
- 郵政 14(4) 1962年 春季増大号 座談会「前島密先生を語る」田倉八郎・小田嶽夫・西村尚治・荒巻伊勢雄ほか
- 貿易クレームと仲裁 14(7) 1967年「“ものごとの最初”ものがたり――郵便の父・前島密の生涯」石川実
- 逓信協会雑誌 889 1985年6月 座談会「郵便の父――前島密」篠原宏・小川常人・橋本暉夫・武田功
- 郵政考古紀要 13 1988年「日本の近代化と前島密」小林正義