第1章 年〜年

東洋製罐グループホールディングス:東洋製罐の創立と東洋鋼鈑による民間ブリキの生産

1917年〜米国で缶詰を学んだ高碕達之助氏の分業化構想と、資本金50万円で大阪に設立した東洋製罐

高碕達之助氏は明治44年から大正4年まで米大陸に滞在し、缶詰工業と製缶業の研究に取り組んだ。東洋水産での失敗以来抱えていた缶詰事業への疑問に、この研究が答えを出した。水産物の缶詰工場で缶まで自作する方式は適さず、製缶と缶詰は別の事業に分けるべきだという結論である。缶の原料は腐敗しないため通年で生産でき、缶詰は漁期に合わせて臨時工を雇えば足りると高碕達之助氏は考えた。当時の日本では缶詰業者が空缶を旧式の手作業で自家製造し、輸出品に求められる水準に達していなかった。高碕達之助氏は製缶の分業化と缶型の規格統一を目的に、製缶専業の会社の設立を企図した。季節に縛られない製缶を独立させれば、工場の稼働を年間で平準化できると見たのだろう。

  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [1]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [2]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [3]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [4]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [5]当時の空缶は缶詰業者が旧式の手工業で自製し国際的商品の資格を欠いた。高碕は米国視察の結果、製缶の分業化と缶型の標準化・規格統一のため製缶会社を企図
    • [6]当時の空缶は缶詰業者が旧式の手工業で自製し国際的商品の資格を欠いた。高碕は米国視察の結果、製缶の分業化と缶型の標準化・規格統一のため製缶会社を企図

高碕達之助氏は大正4年3月の帰国後、輸出食品を扱う会社の社長だった小野金六氏や大阪の缶詰問屋に出資を説いて回った。自らもできる限りの借金をし、資本金50万円で会社の設立に着手した。東洋製罐は1917年6月25日に創立し、本社と大阪工場を大阪市に設けた。創業に当たっては小林一三氏に相談役として加わってもらい、経営の助言と協力を得た。工場用地には大阪北部の古い学校を2万円で取得し、1,000坪の敷地に建つ300坪の校舎へ機械を据え付けた。東洋製罐の設立は、小野金六氏と小林一三氏の2人の支えを得て実現した。缶詰問屋を出資者に迎えたことで、東洋製罐は創業時から主要な顧客を株主に持つ資本構成になったとみられる。

  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [7]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [8]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [10]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [12]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [9]1917年6月25日 東洋製罐創立、本社並びに大阪工場を大阪市に設置
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [11]大正6年6月大阪に創立。高碕達之助が小林一三・小野金六の協力を得て創立
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [13]小野金六・小林一三らの援助と協力のもとに旧東洋製缶を設立

東洋製罐は1919年3月に自動製缶設備を使った製缶に着手した。会社銀行八十年史は、旧東洋製缶を国内で初めてサニタリー式の空缶を大量生産した製缶会社と位置づける。同じ1919年には函館にも工場を置き、缶詰業者の求めに応じて産地へ拠点を広げ始めた。企業の歴史 明治百年は、1920年2月に水産講習所の製缶機を借りて製缶を始めたと記し、立ち上げの時期は資料で異なる。高碕達之助氏は製品をできるだけ安く売り、償却後の利益を従業員・株主・消費者へ3分の1ずつ還元する原則を定めた。『安く、いい品を、消費者の希望する時期に供給する』という創業者の方針は、1966年の時点でも経営の軸として引き継がれていた。規格のそろった缶を安価に供給したことで、缶詰業者に自家製缶をやめる理由を与えたと推察される。

  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1919年3月 自動製缶設備による製缶を開始
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [15]わが国最初のサニタリー式空缶を量産する製缶会社として発足。缶詰業者の要望で函館(大正8年)に工場設置
    • [16]わが国最初のサニタリー式空缶を量産する製缶会社として発足。缶詰業者の要望で函館(大正8年)に工場設置
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [17]大正9年2月に水産講習所の製缶機を借用して製缶を開始
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [18]償却後の残りを三等分し従業員・株主・消費者に返す原則。製品はできるだけ安く売る
  • オール大衆 1966「わが社はこの手で不況を撃退――住友セメントと東洋製罐の場合」
    • [19]創業者・高碕達之助前社長の経営鉄則「安く、いい品を、消費者の希望する時期に供給する」が経営を一貫している
参考文献[1]-[19]
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [1]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [2]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [3]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [4]高碕は米大陸で缶詰工業・製缶業を研究し、製缶業と缶詰業は分けるべきとの結論を得た(原料は腐らず、缶詰は漁期に臨時工で足りる)。東洋水産の失敗以来の疑問が解けた
    • [7]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [8]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [10]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [12]大正4年3月帰国後、輸出食品会社社長の小野金六や大阪の缶詰問屋を説き、自らも借金して資本金50万円で東洋製罐を設立(大正6年)。小林一三に相談役として参加を仰ぎ、古い学校(千坪の土地・三百坪の建物)を2万円で取得し機械を据え付けた
    • [18]償却後の残りを三等分し従業員・株主・消費者に返す原則。製品はできるだけ安く売る
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [5]当時の空缶は缶詰業者が旧式の手工業で自製し国際的商品の資格を欠いた。高碕は米国視察の結果、製缶の分業化と缶型の標準化・規格統一のため製缶会社を企図
    • [6]当時の空缶は缶詰業者が旧式の手工業で自製し国際的商品の資格を欠いた。高碕は米国視察の結果、製缶の分業化と缶型の標準化・規格統一のため製缶会社を企図
    • [13]小野金六・小林一三らの援助と協力のもとに旧東洋製缶を設立
    • [15]わが国最初のサニタリー式空缶を量産する製缶会社として発足。缶詰業者の要望で函館(大正8年)に工場設置
    • [16]わが国最初のサニタリー式空缶を量産する製缶会社として発足。缶詰業者の要望で函館(大正8年)に工場設置
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [9]1917年6月25日 東洋製罐創立、本社並びに大阪工場を大阪市に設置
    • [14]1919年3月 自動製缶設備による製缶を開始
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [11]大正6年6月大阪に創立。高碕達之助が小林一三・小野金六の協力を得て創立
    • [17]大正9年2月に水産講習所の製缶機を借用して製缶を開始
  • オール大衆 1966「わが社はこの手で不況を撃退――住友セメントと東洋製罐の場合」
    • [19]創業者・高碕達之助前社長の経営鉄則「安く、いい品を、消費者の希望する時期に供給する」が経営を一貫している

1920年〜東京工場の新設と、広島・台湾・名古屋・戸畑の製缶4社の合併

東洋製罐は1920年9月に東京工場を完成させ、操業を始めた。自動製缶の開始から1年半での、2拠点目の完成。各地の工場は、缶詰業者から寄せられた要望を受けて新設したものだった。1919年の函館に続き、1921年には小樽にも工場を置いた。大正9年ごろから北洋漁業が盛んになり、北洋向けの空缶の需要は大きく膨らんだ。東洋製罐は北洋の缶詰業者の要請を受け、1921年に小樽工場を分離して北海製缶倉庫を新たに設立した。同時に函館工場は廃止し、北海道の供給は北海製缶倉庫に移った。東京で東日本の需要に自社工場で応じる一方、北洋では現地の缶詰業者が関わる別会社に供給を委ねたと推測される。

  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1920年9月 東京工場を設置
    • [22]1920年9月 東京工場を設置
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [21]大正9年9月東京工場が完成、操業を開始
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [23]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [24]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [25]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [26]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [27]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止

東洋製罐は1924年5月に広島製缶を、1925年3月に台湾製缶を合併した。工場の設置年は広島が大正12年、台湾の高雄が大正14年とされ、広島は合併の年より1年早い。合併で東洋製罐は瀬戸内と台湾に、既存の設備と取引先を持つ工場を得た。同じ1925年には鮭・鱒・蟹の缶詰需要の増加に応じ、日本製缶を函館に設けた。日本製缶の出資者は東洋製罐と北海製缶倉庫、それに地元の缶詰業者だった。高碕達之助氏は競争相手の存在を、自らの努力を正しく評価してくれるものとして歓迎する考えも示していた。自前の工場建設だけでなく、合併と地元業者との共同出資を使い分けたことで、産地への進出を早めたと考えられる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [28]大正13年5月広島製缶、14年3月台湾製缶を合併
    • [30]大正13年5月広島製缶、14年3月台湾製缶を合併
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [29]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [31]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [32]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [33]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [34]事業の原則として、競争者が多いのはよいことで、自分の勉強ぶりを批評してくれるのは競争者だけだとした

東洋製罐は1930年7月に名古屋製缶倉庫を、1933年9月に戸畑製缶を合併した。有価証券報告書の沿革は、1933年9月を戸畑工場の設置としている。会社銀行八十年史は戸畑の工場を昭和4年、青森の工場を昭和5年の設置とする。1927年ごろには、楕円の上辺・下辺・全体でT・Y・Oを表すキャン・マークを定めた。これで東洋製罐の工場は大阪・東京から広島・高雄・戸畑・青森まで広がり、名古屋にも拠点を得た。1941年の大合同の時点でも、広島・戸畑・高雄は工場として一覧に並んでいた。北の青森から南の高雄まで工場を置いたことで、漁期の異なる各産地へ空缶を届ける供給網が昭和初期に整った可能性が高い。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [35]昭和5年7月名古屋製缶倉庫、8年9月戸畑製缶を合併。昭和2年ごろ楕円の上辺T・下辺Y・楕円Oで東洋を示すキャン・マークを制定
    • [38]昭和5年7月名古屋製缶倉庫、8年9月戸畑製缶を合併。昭和2年ごろ楕円の上辺T・下辺Y・楕円Oで東洋を示すキャン・マークを制定
    • [39]昭和5年7月名古屋製缶倉庫、8年9月戸畑製缶を合併。昭和2年ごろ楕円の上辺T・下辺Y・楕円Oで東洋を示すキャン・マークを制定
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [36]1933年9月 戸畑工場を設置
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [37]戸畑(昭和4年)・青森(5年)に工場設置。昭和16年の合同後の工場は小樽・函館・青森・東京・清水・大阪・広島・戸畑・高雄・釜山
    • [40]戸畑(昭和4年)・青森(5年)に工場設置。昭和16年の合同後の工場は小樽・函館・青森・東京・清水・大阪・広島・戸畑・高雄・釜山
    • [41]戸畑(昭和4年)・青森(5年)に工場設置。昭和16年の合同後の工場は小樽・函館・青森・東京・清水・大阪・広島・戸畑・高雄・釜山
参考文献[20]-[41]
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1920年9月 東京工場を設置
    • [22]1920年9月 東京工場を設置
    • [36]1933年9月 戸畑工場を設置
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [21]大正9年9月東京工場が完成、操業を開始
    • [28]大正13年5月広島製缶、14年3月台湾製缶を合併
    • [30]大正13年5月広島製缶、14年3月台湾製缶を合併
    • [35]昭和5年7月名古屋製缶倉庫、8年9月戸畑製缶を合併。昭和2年ごろ楕円の上辺T・下辺Y・楕円Oで東洋を示すキャン・マークを制定
    • [38]昭和5年7月名古屋製缶倉庫、8年9月戸畑製缶を合併。昭和2年ごろ楕円の上辺T・下辺Y・楕円Oで東洋を示すキャン・マークを制定
    • [39]昭和5年7月名古屋製缶倉庫、8年9月戸畑製缶を合併。昭和2年ごろ楕円の上辺T・下辺Y・楕円Oで東洋を示すキャン・マークを制定
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [23]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [24]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [25]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [26]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [27]缶詰業者の要望で函館(大正8年)・東京(9年)・小樽(10年)などに工場設置。大正9年ごろより北洋漁業の隆盛で空缶需要が増え、北洋缶詰業者の要請により10年小樽工場を分離して北海製缶倉庫を設立、函館工場は廃止
    • [29]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [31]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [32]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [33]広島(大正12年)・高雄(14年)に工場設置。大正14年、鮭・鱒・蟹缶詰の需要に応じ、旧東洋製缶・北海製缶倉庫・地元缶詰業者の共同出資で函館に日本製缶を設立
    • [37]戸畑(昭和4年)・青森(5年)に工場設置。昭和16年の合同後の工場は小樽・函館・青森・東京・清水・大阪・広島・戸畑・高雄・釜山
    • [40]戸畑(昭和4年)・青森(5年)に工場設置。昭和16年の合同後の工場は小樽・函館・青森・東京・清水・大阪・広島・戸畑・高雄・釜山
    • [41]戸畑(昭和4年)・青森(5年)に工場設置。昭和16年の合同後の工場は小樽・函館・青森・東京・清水・大阪・広島・戸畑・高雄・釜山
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [34]事業の原則として、競争者が多いのはよいことで、自分の勉強ぶりを批評してくれるのは競争者だけだとした

1934年〜ブリキの自給を狙った資本金500万円の東洋鋼鈑と、下松で始めた民間初のブリキ

東洋製罐は1934年4月11日、自社へブリキを供給する会社として東洋鋼鈑を設立した。資本金は500万円で、出資者は東洋製罐とその従業員、それに缶詰業者である。本社は大阪に置き、工場は山口県下松に建設した。高碕達之助氏は創業から10年のころ、株主を従業員・消費者・出資者の3者で構成すべきだと書き残していた。大阪の相場師による株の買い占めを警戒し、従業員と缶詰業者に過半の株を持たせる方針。資金のない従業員には増資株を割り当て、借金をしてでも保有させる考えだった。東洋鋼鈑の出資構成は、この株主観を原料の会社にも当てはめたものと思われる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋鋼鈑」
    • [42]昭和9年4月、東洋製缶へブリキを供給するため、同社・同社従業員・缶詰業者の共同出資で資本金500万円で設立。本社大阪、工場山口県下松
    • [44]昭和9年4月、東洋製缶へブリキを供給するため、同社・同社従業員・缶詰業者の共同出資で資本金500万円で設立。本社大阪、工場山口県下松
    • [45]昭和9年4月、東洋製缶へブリキを供給するため、同社・同社従業員・缶詰業者の共同出資で資本金500万円で設立。本社大阪、工場山口県下松
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋鋼鈑」
    • [43]設立 昭和9年4月11日。東洋製缶ほか缶詰業者の共同出資、資本金500万円。本社大阪、工場下松
    • [46]設立 昭和9年4月11日。東洋製缶ほか缶詰業者の共同出資、資本金500万円。本社大阪、工場下松
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [47]東洋製罐十周年の所感で、株主は従業員と消費者と出資者であるべきとした。株屋の買い占めに対し、従業員・缶詰消費者・缶詰業者で過半数を持つ方針。金のない従業員には増資株を割り当て借金してでも持たせる
    • [48]東洋製罐十周年の所感で、株主は従業員と消費者と出資者であるべきとした。株屋の買い占めに対し、従業員・缶詰消費者・缶詰業者で過半数を持つ方針。金のない従業員には増資株を割り当て借金してでも持たせる
    • [49]東洋製罐十周年の所感で、株主は従業員と消費者と出資者であるべきとした。株屋の買い占めに対し、従業員・缶詰消費者・缶詰業者で過半数を持つ方針。金のない従業員には増資株を割り当て借金してでも持たせる

東洋鋼鈑は米国製の熱間二段圧延機を輸入して下松工場に据え付け、1935年2月に操業を始めた。東洋製罐が出資した会社の工場で、空缶の主原料を圧延する生産がこうして動き出した。同じ1935年7月には、東洋製罐の株式を大阪証券取引所に上場。高碕達之助氏は利益からまず償却を積み、新しい機械の購入に充てる原則を掲げていた。そのうえで配当は一般の会社並みとし、従業員の最低生活を保障する給与を払うとした。上場の直前に原料会社への出資を終えており、市場からの資金調達で製缶と鋼板の設備更新を支えるねらいがあったとうかがえる。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋鋼鈑」
    • [50]米国製ブリキ製造機械(熱間二段圧延機)を輸入し、翌10年2月操業開始
    • [52]米国製ブリキ製造機械(熱間二段圧延機)を輸入し、翌10年2月操業開始
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋鋼鈑」
    • [51]工場は山口県下松で、昭和10年操業に入った
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [53]1935年7月 大阪証券取引所に株式を上場
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [54]利益はまず償却して新しい機械を買う資金とし、残りで一般並みの配当、従業員には最低生活を保障する給料
    • [55]利益はまず償却して新しい機械を買う資金とし、残りで一般並みの配当、従業員には最低生活を保障する給料

東洋鋼鈑は1937年6月に資本金を1,500万円へ増やし、米国製の可逆式四段の冷間圧延設備を一式輸入した。目的は品質の向上とコストの低減、生産力の増強にあり、設備の稼働は1938年9月である。1938年7月には鉄鋼配給統制が始まり、原料資材の入手は次第に難しくなった。それでも東洋鋼鈑の生産量は年を追って増えた。東洋製罐も1937年2月に清水工場、1938年9月に大阪浦江工場を新設した。1939年の国内の缶詰生産は1,600万函を超え、製缶3社の支援で朝鮮製缶・明光堂・広島製缶・鶴見製缶が生まれた。需要の拡大と原料の統制が重なり、乱立した製缶会社を一つにまとめる条件が1940年までにそろったようだ。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋鋼鈑」
    • [56]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
    • [58]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
    • [59]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
    • [60]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋鋼鈑」
    • [57]昭和12年6月1,500万円に増資、米国製可逆式四段冷間圧延設備を輸入、13年9月運転開始
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1937年2月 清水工場を設置
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [62]昭和12年2月清水工場、13年9月大阪浦江工場を新設
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [63]缶詰生産は昭和14年に1,600万函を超えた。昭和13、14年の缶詰最盛期に製缶3社の援助で朝鮮製缶・明光堂・広島製缶・鶴見製缶が設立。16年戦時統制経済の強化で製缶事業も統合の必要に迫られた
参考文献[42]-[63]
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋鋼鈑」
    • [42]昭和9年4月、東洋製缶へブリキを供給するため、同社・同社従業員・缶詰業者の共同出資で資本金500万円で設立。本社大阪、工場山口県下松
    • [44]昭和9年4月、東洋製缶へブリキを供給するため、同社・同社従業員・缶詰業者の共同出資で資本金500万円で設立。本社大阪、工場山口県下松
    • [45]昭和9年4月、東洋製缶へブリキを供給するため、同社・同社従業員・缶詰業者の共同出資で資本金500万円で設立。本社大阪、工場山口県下松
    • [50]米国製ブリキ製造機械(熱間二段圧延機)を輸入し、翌10年2月操業開始
    • [52]米国製ブリキ製造機械(熱間二段圧延機)を輸入し、翌10年2月操業開始
    • [56]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
    • [58]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
    • [59]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
    • [60]昭和12年6月、品質向上・コスト低減・生産力増強のため資本金を1,500万円に増額し米国製可逆式四段冷間圧延機を輸入、13年9月運転開始。13年7月鉄鋼配給統制実施で原料資材の入手が困難になったが生産は逐次増加
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋鋼鈑」
    • [43]設立 昭和9年4月11日。東洋製缶ほか缶詰業者の共同出資、資本金500万円。本社大阪、工場下松
    • [46]設立 昭和9年4月11日。東洋製缶ほか缶詰業者の共同出資、資本金500万円。本社大阪、工場下松
    • [51]工場は山口県下松で、昭和10年操業に入った
    • [57]昭和12年6月1,500万円に増資、米国製可逆式四段冷間圧延設備を輸入、13年9月運転開始
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
    • [47]東洋製罐十周年の所感で、株主は従業員と消費者と出資者であるべきとした。株屋の買い占めに対し、従業員・缶詰消費者・缶詰業者で過半数を持つ方針。金のない従業員には増資株を割り当て借金してでも持たせる
    • [48]東洋製罐十周年の所感で、株主は従業員と消費者と出資者であるべきとした。株屋の買い占めに対し、従業員・缶詰消費者・缶詰業者で過半数を持つ方針。金のない従業員には増資株を割り当て借金してでも持たせる
    • [49]東洋製罐十周年の所感で、株主は従業員と消費者と出資者であるべきとした。株屋の買い占めに対し、従業員・缶詰消費者・缶詰業者で過半数を持つ方針。金のない従業員には増資株を割り当て借金してでも持たせる
    • [54]利益はまず償却して新しい機械を買う資金とし、残りで一般並みの配当、従業員には最低生活を保障する給料
    • [55]利益はまず償却して新しい機械を買う資金とし、残りで一般並みの配当、従業員には最低生活を保障する給料
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [53]1935年7月 大阪証券取引所に株式を上場
    • [61]1937年2月 清水工場を設置
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
    • [62]昭和12年2月清水工場、13年9月大阪浦江工場を新設
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
    • [63]缶詰生産は昭和14年に1,600万函を超えた。昭和13、14年の缶詰最盛期に製缶3社の援助で朝鮮製缶・明光堂・広島製缶・鶴見製缶が設立。16年戦時統制経済の強化で製缶事業も統合の必要に迫られた

出典・参考

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出典・参考
  • 東洋製罐グループホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋製罐」
  • 会社銀行八十年史(1955)「東洋鋼鈑」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋製罐」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「東洋鋼鈑」
  • 私の履歴書 高碕達之助(1980 経済人1 収録)
  • オール大衆 1966「わが社はこの手で不況を撃退――住友セメントと東洋製罐の場合」

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