第1章 年〜年

三菱マテリアル:九十九商会の炭坑租借と吉岡鉱山の買収

1871年〜紀州の萬歳・音河炭坑の租借と、備中の銅山・吉岡鉱山の買収

岩崎彌太郎氏が率いた九十九商会は、1871年5月から15年の期限で紀伊国新宮藩の萬歳・音河の2炭山を租借した。発端は、九十九商会が1870年12月に汽船快順丸を75,000ドルで新宮藩に売り渡した取引である。新宮藩が払えたのは内金2千ドルだけで、残る代金と利子の計79,000ドル余の見返りに炭山の租借権を与えた。炭山は熊野川を約10里さかのぼる奥地にあり、1874年8月には洪水で音河の貯炭40万斤を失って稼行を止めた。紀州の炭坑は条件に乏しく、発展の余地を残さないまま小規模に終わった。燃料炭の確保を狙った進出というより、汽船代金の回収手段として始まった事業とみられる。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱山業への進出
    • [1]1871年5月から15年期限で新宮藩の萬歳・音河両炭山の租借権を九十九商会が得た
    • [2]1870年12月に快順丸を新宮藩へ75,000ドルで転売、内金2千ドルのみで残金・利子79,000ドル余の代償が炭山租借、社史は新宮藩側の意向と推察
    • [3]1870年12月に快順丸を新宮藩へ75,000ドルで転売、内金2千ドルのみで残金・利子79,000ドル余の代償が炭山租借、社史は新宮藩側の意向と推察
    • [4]炭山は熊野川を約10里遡る地で運輸不便、1874年8月洪水で音河の貯炭40万斤流失・同月稼行を止めた
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
    • [5]紀州炭坑は条件に恵まれず事業として微弱で、発展を見ずに終わった

社長の岩崎彌太郎氏は1873年12月、備中国川上郡吹屋村の吉岡鉱山を1万円で買収し、三菱の金属鉱山経営を始めた。吉岡は元禄初期に年70万斤の銅を産出した、江戸時代の中国地方で第1の銅山である。交渉には管事の川田小一郎氏が赴き、旧松山藩主の板倉家を代表する山田方谷氏らと条件をまとめた。買収と同じ1873年、鉱業の法規を初めて体系化した、政府による日本坑法の発布。産銅は1871年の9千斤余から三菱の経営下の1874年に22万斤余へ回復し、104坪だった借区も同年3月に4,161坪の増区となった。鉱山を任された近藤廉平氏の進言を受け、岩崎彌太郎氏は鉱山事業を一家の事業として拡大する意向を示した。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
    • [6]1873年12月に岩崎彌太郎が吉岡鉱山を買収、譲渡金1万円、三菱の金属鉱山経営の嚆矢
    • [7]吉岡は元禄初期に年産70万斤、徳川時代に中国筋第1の銅山
    • [8]買収交渉は管事川田小一郎が担い、旧松山藩主板倉家代表の山田方谷らと折衝
    • [10]産銅は1871年9千斤余、三菱経営下の1874年22万斤余、譲受け時の借区104坪に1874年3月4,161坪の増区を許可
    • [11]近藤廉平が鉱山事業の有望を説き、岩崎彌太郎は一家の事業として鉱山に力を入れる意向を示した
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第4節 明治初期における鉱業の情勢
    • [9]1873年に政府が日本坑法を発布し、初めて体系的な鉱業法規を制定

三菱は吉岡に続き、1874年に青森県の尾太銅山・八光鉛山と福島県の大平銀山の借区を工部省に申請し、許可を得た。政府は1869年に幕藩による鉱山の独占を解き、官営の佐渡・生野・小坂を除いて民間の開発を認めていた。1874年9月に弘前へ鉱山出張所を置いた東北の計画は、成果を上げないまま1876年12月限りで廃止となった。1876年には佐渡・生野両鉱山の払下げを政府に請願したが、許可されなかった。一方で吉岡の周辺では、1877年に彌高鉱山、1879年に笹ケ畝・青瀧、1880年に隣接する北方鉱山を買収した。遠隔地の小鉱山を2年余で打ち切り、吉岡の近くに鉱区を集める方針に移ったと推察される。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
    • [12]1874年に尾太(銅)・八光(鉛)・大平(銀)の借区を工部省に申請し許可
    • [14]1874年9月に弘前に鉱山出張所を置いた東北地方鉱山開発の計画は2か年余で1876年12月限り廃止
    • [15]工部省沿革報告の1876年の条に、岩崎彌太郎の生野・佐渡払下げ請願を聴さずとある
    • [16]1877年に彌高鉱山、1879年に笹ケ畝・青瀧、1880年に隣接の北方鉱山を買収
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第4節 明治初期における鉱業の情勢
    • [13]1869年の開坑規則で佐渡・生野・小坂以外の鉱山の民間開発を許した
参考文献[1]-[16]
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱山業への進出
    • [1]1871年5月から15年期限で新宮藩の萬歳・音河両炭山の租借権を九十九商会が得た
    • [2]1870年12月に快順丸を新宮藩へ75,000ドルで転売、内金2千ドルのみで残金・利子79,000ドル余の代償が炭山租借、社史は新宮藩側の意向と推察
    • [3]1870年12月に快順丸を新宮藩へ75,000ドルで転売、内金2千ドルのみで残金・利子79,000ドル余の代償が炭山租借、社史は新宮藩側の意向と推察
    • [4]炭山は熊野川を約10里遡る地で運輸不便、1874年8月洪水で音河の貯炭40万斤流失・同月稼行を止めた
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
    • [5]紀州炭坑は条件に恵まれず事業として微弱で、発展を見ずに終わった
    • [6]1873年12月に岩崎彌太郎が吉岡鉱山を買収、譲渡金1万円、三菱の金属鉱山経営の嚆矢
    • [7]吉岡は元禄初期に年産70万斤、徳川時代に中国筋第1の銅山
    • [8]買収交渉は管事川田小一郎が担い、旧松山藩主板倉家代表の山田方谷らと折衝
    • [10]産銅は1871年9千斤余、三菱経営下の1874年22万斤余、譲受け時の借区104坪に1874年3月4,161坪の増区を許可
    • [11]近藤廉平が鉱山事業の有望を説き、岩崎彌太郎は一家の事業として鉱山に力を入れる意向を示した
    • [12]1874年に尾太(銅)・八光(鉛)・大平(銀)の借区を工部省に申請し許可
    • [14]1874年9月に弘前に鉱山出張所を置いた東北地方鉱山開発の計画は2か年余で1876年12月限り廃止
    • [15]工部省沿革報告の1876年の条に、岩崎彌太郎の生野・佐渡払下げ請願を聴さずとある
    • [16]1877年に彌高鉱山、1879年に笹ケ畝・青瀧、1880年に隣接の北方鉱山を買収
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第4節 明治初期における鉱業の情勢
    • [9]1873年に政府が日本坑法を発布し、初めて体系的な鉱業法規を制定
    • [13]1869年の開坑規則で佐渡・生野・小坂以外の鉱山の民間開発を許した

1881年〜後藤象二郎氏から譲り受けた高島炭坑と、筑豊の新入・鯰田の買収

三菱は1881年3月31日、後藤象二郎氏から長崎港外の高島炭坑を譲り受けた。高島は1874年1月に官営となり、同年11月に55万円で後藤象二郎氏へ払下げられた炭坑である。後藤象二郎氏は払下げの即納金を英国商社ジャーディン・マジスンから借りて納め、のちに販売権まで同社側に握られた。福沢諭吉氏が1878年秋から譲渡を仲介し、三菱は後藤象二郎氏の負債と営業勘定の総額971,600円余を引き受けた。副社長の岩崎彌之助氏は、自社船による高島からの直接輸出で費用を省けることや、冬季に停泊する汽船を石炭輸送に充てられることを利点に挙げた。譲受けで三菱は海運の燃料を確保し、海外への石炭販売で収益を得て、九州の炭坑経営への足掛りを築いた。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(後藤より三菱への高島譲渡)
    • [17]1881年3月31日に売渡証書を作成し、高島炭坑の後藤象二郎から岩崎彌太郎への譲渡が完了
    • [20]福沢諭吉が1878年秋から斡旋、後藤の諸負債・営業勘定総額971,600円余を三菱が引受け
    • [21]岩崎彌之助は自社船で高島から直接輸出する費用節減や、冬季に停泊する船の石炭輸送への充当などを利点として列記
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(佐賀藩とグラバーの契約・後藤象二郎時代の高島)
    • [18]高島は1874年1月から官行、同年11月に55万円で後藤象二郎へ払下げ、即納金はJ.M.から借入、1879年に販売権もJ.M.側に移った
    • [19]高島は1874年1月から官行、同年11月に55万円で後藤象二郎へ払下げ、即納金はJ.M.から借入、1879年に販売権もJ.M.側に移った
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(譲渡の完了とその意義)
    • [22]高島譲受けで三菱は海運業の燃料を得て海外への石炭販売で利益を上げ、九州の炭砿経営の足掛りを得た

三菱は1885年9月、共同運輸との合併で日本郵船が創立されたのに伴い、海運事業を閉鎖した。1886年3月、社長の岩崎彌之助氏は吉岡鉱山・高島炭坑・長崎造船所を擁する三菱社の設立を政府に届け出た。三菱社は1888年11月の事務取扱規程で鉱山課を設け、金属鉱山と炭坑の支配と産物の販売を一括した。筑豊では1889年3月に新入炭坑を235,000円で取得し、同年4月には麻生太吉氏から日産20t余の鯰田炭坑も三菱社の所有となった。1890年8月には高島に近い端島を鍋島孫六郎氏から10万円で譲り受け、1891年から採炭を開始。社史は1888年の三池炭坑の払下げで三井に後れを取ったことが、筑豊への注力を促したとみている。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章 生成期(第4節 三菱社鉱山課の設置)
    • [23]1885年9月日本郵船創立で三菱は海運事業を閉鎖、1886年3月に高島炭坑・吉岡鉱山・長崎造船所等を擁する三菱社を政府に届出
    • [24]1885年9月日本郵船創立で三菱は海運事業を閉鎖、1886年3月に高島炭坑・吉岡鉱山・長崎造船所等を擁する三菱社を政府に届出
    • [25]1888年11月の本社事務取扱規程で金属鉱山・炭坑の支配と産物売捌きを担う鉱山課を置いた
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章第2節 高島炭坑の経営と端島・新入・鯰田等各炭坑の買収と経営
    • [26]1889年3月に三野村利助と235,000円で新入炭坑の譲渡契約、同年4月に麻生太吉から日産20t余の鯰田炭坑を譲受け、1890年8月に端島を鍋島孫六郎から10万円で譲受け1891年から採炭、社史は1888年の三池払下げ失敗が筑豊注力の契機と推測
    • [27]1889年3月に三野村利助と235,000円で新入炭坑の譲渡契約、同年4月に麻生太吉から日産20t余の鯰田炭坑を譲受け、1890年8月に端島を鍋島孫六郎から10万円で譲受け1891年から採炭、社史は1888年の三池払下げ失敗が筑豊注力の契機と推測
    • [28]1889年3月に三野村利助と235,000円で新入炭坑の譲渡契約、同年4月に麻生太吉から日産20t余の鯰田炭坑を譲受け、1890年8月に端島を鍋島孫六郎から10万円で譲受け1891年から採炭、社史は1888年の三池払下げ失敗が筑豊注力の契機と推測
参考文献[17]-[28]
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(後藤より三菱への高島譲渡)
    • [17]1881年3月31日に売渡証書を作成し、高島炭坑の後藤象二郎から岩崎彌太郎への譲渡が完了
    • [20]福沢諭吉が1878年秋から斡旋、後藤の諸負債・営業勘定総額971,600円余を三菱が引受け
    • [21]岩崎彌之助は自社船で高島から直接輸出する費用節減や、冬季に停泊する船の石炭輸送への充当などを利点として列記
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(佐賀藩とグラバーの契約・後藤象二郎時代の高島)
    • [18]高島は1874年1月から官行、同年11月に55万円で後藤象二郎へ払下げ、即納金はJ.M.から借入、1879年に販売権もJ.M.側に移った
    • [19]高島は1874年1月から官行、同年11月に55万円で後藤象二郎へ払下げ、即納金はJ.M.から借入、1879年に販売権もJ.M.側に移った
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(譲渡の完了とその意義)
    • [22]高島譲受けで三菱は海運業の燃料を得て海外への石炭販売で利益を上げ、九州の炭砿経営の足掛りを得た
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章 生成期(第4節 三菱社鉱山課の設置)
    • [23]1885年9月日本郵船創立で三菱は海運事業を閉鎖、1886年3月に高島炭坑・吉岡鉱山・長崎造船所等を擁する三菱社を政府に届出
    • [24]1885年9月日本郵船創立で三菱は海運事業を閉鎖、1886年3月に高島炭坑・吉岡鉱山・長崎造船所等を擁する三菱社を政府に届出
    • [25]1888年11月の本社事務取扱規程で金属鉱山・炭坑の支配と産物売捌きを担う鉱山課を置いた
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章第2節 高島炭坑の経営と端島・新入・鯰田等各炭坑の買収と経営
    • [26]1889年3月に三野村利助と235,000円で新入炭坑の譲渡契約、同年4月に麻生太吉から日産20t余の鯰田炭坑を譲受け、1890年8月に端島を鍋島孫六郎から10万円で譲受け1891年から採炭、社史は1888年の三池払下げ失敗が筑豊注力の契機と推測
    • [27]1889年3月に三野村利助と235,000円で新入炭坑の譲渡契約、同年4月に麻生太吉から日産20t余の鯰田炭坑を譲受け、1890年8月に端島を鍋島孫六郎から10万円で譲受け1891年から採炭、社史は1888年の三池払下げ失敗が筑豊注力の契機と推測
    • [28]1889年3月に三野村利助と235,000円で新入炭坑の譲渡契約、同年4月に麻生太吉から日産20t余の鯰田炭坑を譲受け、1890年8月に端島を鍋島孫六郎から10万円で譲受け1891年から採炭、社史は1888年の三池払下げ失敗が筑豊注力の契機と推測

1893年〜三菱合資会社の設立と、佐渡・生野の払下げを経た鉱業部の独立

泡沫会社の倒産が相次いだ1890年の不況を経て、1893年7月の商法施行で事業会社は株式・合名・合資のいずれかの会社組織を求められた。三菱社は1893年12月、鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産と業務を新設の三菱合資会社へ譲渡した。資本金は500万円で、岩崎彌之助氏と岩崎久彌氏が250万円ずつ出資し、会社の目的の筆頭に鉱山稼行を掲げた。岩崎彌之助氏は岩崎久彌氏を社長に据え、自身は事業を監督する監務に退いた。1894年1月時点の場所別の資本額は尾去沢55万円・吉岡42万円・高島33万円で、上位は鉱山と炭坑である。海運を失った三菱は、合資会社の中核に鉱業を据えたと考えられる。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章 進展期(第1節 明治後期における鉱業の情勢)
    • [29]1893年7月商法施行で事業会社は組織変更を迫られ、1890年の不況による泡沫会社倒産もあり組織・資本の堅実さが要請された
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第4節 合資会社時代初期の組織変更
    • [30]三菱社は1893年12月に鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産業務一切を三菱合資会社に譲渡
    • [31]三菱合資会社契約書:資本総額500万円、岩崎彌之助・岩崎久彌が各250万円、目的の筆頭は鉱山稼行・鉱物売買
    • [32]岩崎彌之助は岩崎久彌を社長とし自らは監務に退いた、1894年1月1日現在の資本額は尾去沢55万円・吉岡42万円・高島33万円など
    • [33]岩崎彌之助は岩崎久彌を社長とし自らは監務に退いた、1894年1月1日現在の資本額は尾去沢55万円・吉岡42万円・高島33万円など

三菱合資会社社長の岩崎久彌氏は1896年9月16日の入札で、宮内省御料局の佐渡・生野両鉱山と大阪製煉所を落札した。落札額は173万円で当局の予定価格150万円を上回り、同年11月1日から三菱の経営に移った。御料局は1889年度以降7年間の収益が年平均101,000円にとどまり、未償還の興業費も874,000円に上ると説明した。両鉱山は、岩崎彌太郎氏が1876年に払下げを請願して退けられた鉱山である。1897年3月の金本位制の採用後、佐渡の産金は1898年前後の50貫内外から1909年の132貫へ増加した。社史はこの払下げを金属鉱業の基盤形成の画期と位置づけている。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第2節 佐渡・生野両鉱山,大阪製煉所の払下げ
    • [34]1896年9月16日の入札で三菱合資会社業務担当社員岩崎久彌が落札、予定150万円に対し173万円、11月1日から三菱の経営
    • [35]1896年9月16日の入札で三菱合資会社業務担当社員岩崎久彌が落札、予定150万円に対し173万円、11月1日から三菱の経営
    • [36]御料局は1889年度以降7か年の収益が年平均101,000円、3作業局の興業費未償還額874,000円を払下げの理由とした
    • [38]1897年3月の貨幣法改正で金本位制、佐渡の金産額は1898〜1899年の50貫内外から1909年132貫へ
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
    • [37]1876年の岩崎彌太郎による生野・佐渡払下げ請願は許可されなかった
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章 生成期(概観)
    • [39]1896年の佐渡・生野両鉱山と大阪製煉所の払下げは金属鉱業の基盤形成に大きな意義を持つ

三菱合資会社は日清戦争後の筑豊の開発に合わせ、1895年3月に上山田鉱区を9万円で買収した。同年11月には田川郡の糒鉱区の買収に着手し、方城炭坑として1896年1月に採炭を始めた。1898年9月に5万円で牧山の骸炭製造所を、1900年11月に唐津の相知炭坑を385,000円で取得した。1906年7月には生産を担う鉱山部と販売を担う営業部の統合による、鉱業部の新設。1907年の株価暴落に始まる不況で、1908年の合資会社の純益は1906年の58%にあたる1,748,000円へ低下した。合資会社は1908年10月に各部の独立採算制を採り、鉱業部に資本金1,500万円を割り当てた。

  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第3節 炭砿経営と上山田・方城・相知各炭坑,牧山骸炭製造所の買収
    • [40]1895年3月22日に上山田鉱区を9万円で買収、同年11月に糒鉱区の買収を伺い出て方城炭坑とし1896年1月採炭着手、1898年9月牧山骸炭製造所を5万円で買収、1900年11月相知炭坑を385,000円で譲受け
    • [41]1895年3月22日に上山田鉱区を9万円で買収、同年11月に糒鉱区の買収を伺い出て方城炭坑とし1896年1月採炭着手、1898年9月牧山骸炭製造所を5万円で買収、1900年11月相知炭坑を385,000円で譲受け
    • [42]1895年3月22日に上山田鉱区を9万円で買収、同年11月に糒鉱区の買収を伺い出て方城炭坑とし1896年1月採炭着手、1898年9月牧山骸炭製造所を5万円で買収、1900年11月相知炭坑を385,000円で譲受け
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第4節 合資会社時代初期の組織変更
    • [43]1906年7月、鉱山部・営業部に分かれていた生産・販売を統合して鉱業部を設置
  • 三菱鉱業社史(1976) 第4章 確立期(「事業部」制の採用)
    • [44]1907年の株式暴落後の不況で1908年純益1,748,000円と1906年の58%、1908年10月に各部独立採算を採用し鉱業部の資本金を1,500万円、超過投資は社長認許
    • [45]1907年の株式暴落後の不況で1908年純益1,748,000円と1906年の58%、1908年10月に各部独立採算を採用し鉱業部の資本金を1,500万円、超過投資は社長認許
参考文献[29]-[45]
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章 進展期(第1節 明治後期における鉱業の情勢)
    • [29]1893年7月商法施行で事業会社は組織変更を迫られ、1890年の不況による泡沫会社倒産もあり組織・資本の堅実さが要請された
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第4節 合資会社時代初期の組織変更
    • [30]三菱社は1893年12月に鉱山・造船所・土地家屋・各支店の財産業務一切を三菱合資会社に譲渡
    • [31]三菱合資会社契約書:資本総額500万円、岩崎彌之助・岩崎久彌が各250万円、目的の筆頭は鉱山稼行・鉱物売買
    • [32]岩崎彌之助は岩崎久彌を社長とし自らは監務に退いた、1894年1月1日現在の資本額は尾去沢55万円・吉岡42万円・高島33万円など
    • [33]岩崎彌之助は岩崎久彌を社長とし自らは監務に退いた、1894年1月1日現在の資本額は尾去沢55万円・吉岡42万円・高島33万円など
    • [43]1906年7月、鉱山部・営業部に分かれていた生産・販売を統合して鉱業部を設置
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第2節 佐渡・生野両鉱山,大阪製煉所の払下げ
    • [34]1896年9月16日の入札で三菱合資会社業務担当社員岩崎久彌が落札、予定150万円に対し173万円、11月1日から三菱の経営
    • [35]1896年9月16日の入札で三菱合資会社業務担当社員岩崎久彌が落札、予定150万円に対し173万円、11月1日から三菱の経営
    • [36]御料局は1889年度以降7か年の収益が年平均101,000円、3作業局の興業費未償還額874,000円を払下げの理由とした
    • [38]1897年3月の貨幣法改正で金本位制、佐渡の金産額は1898〜1899年の50貫内外から1909年132貫へ
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
    • [37]1876年の岩崎彌太郎による生野・佐渡払下げ請願は許可されなかった
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章 生成期(概観)
    • [39]1896年の佐渡・生野両鉱山と大阪製煉所の払下げは金属鉱業の基盤形成に大きな意義を持つ
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第3節 炭砿経営と上山田・方城・相知各炭坑,牧山骸炭製造所の買収
    • [40]1895年3月22日に上山田鉱区を9万円で買収、同年11月に糒鉱区の買収を伺い出て方城炭坑とし1896年1月採炭着手、1898年9月牧山骸炭製造所を5万円で買収、1900年11月相知炭坑を385,000円で譲受け
    • [41]1895年3月22日に上山田鉱区を9万円で買収、同年11月に糒鉱区の買収を伺い出て方城炭坑とし1896年1月採炭着手、1898年9月牧山骸炭製造所を5万円で買収、1900年11月相知炭坑を385,000円で譲受け
    • [42]1895年3月22日に上山田鉱区を9万円で買収、同年11月に糒鉱区の買収を伺い出て方城炭坑とし1896年1月採炭着手、1898年9月牧山骸炭製造所を5万円で買収、1900年11月相知炭坑を385,000円で譲受け
  • 三菱鉱業社史(1976) 第4章 確立期(「事業部」制の採用)
    • [44]1907年の株式暴落後の不況で1908年純益1,748,000円と1906年の58%、1908年10月に各部独立採算を採用し鉱業部の資本金を1,500万円、超過投資は社長認許
    • [45]1907年の株式暴落後の不況で1908年純益1,748,000円と1906年の58%、1908年10月に各部独立採算を採用し鉱業部の資本金を1,500万円、超過投資は社長認許

出典・参考

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出典・参考
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱山業への進出
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第1節 三菱の鉱業への志向/第2節 吉岡鉱山の買収
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第4節 明治初期における鉱業の情勢
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(後藤より三菱への高島譲渡)
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(佐賀藩とグラバーの契約・後藤象二郎時代の高島)
  • 三菱鉱業社史(1976) 第1章第3節 高島炭坑の譲受け(譲渡の完了とその意義)
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章 生成期(第4節 三菱社鉱山課の設置)
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章第2節 高島炭坑の経営と端島・新入・鯰田等各炭坑の買収と経営
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章 進展期(第1節 明治後期における鉱業の情勢)
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第4節 合資会社時代初期の組織変更
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第2節 佐渡・生野両鉱山,大阪製煉所の払下げ
  • 三菱鉱業社史(1976) 第2章 生成期(概観)
  • 三菱鉱業社史(1976) 第3章第3節 炭砿経営と上山田・方城・相知各炭坑,牧山骸炭製造所の買収
  • 三菱鉱業社史(1976) 第4章 確立期(「事業部」制の採用)

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