第1章 年〜年

関西ペイント:関西ペイントの設立と東京工場の新設

1918年〜合資会社岩井本店の出資で尼崎に生まれた資本金50万円の顔料会社と、塗料と自主販売への転換

関西ペイントは1918年5月17日、資本金50万円で兵庫県川辺郡小田村(現在の尼崎市神崎)に設立された。前身は、玉水弘氏が1917年に西宮で創業し、従業員約20人で光明丹・弁柄・堅練ジンクペイントを製造した関西ペイント工業所である。玉水弘氏は資本力の乏しい無名の工場では資金の手当てにも苦労し、技術だけで工場を経営する限界を感じた。東京帝国大学助教授の田中芳雄氏がこの悩みを聞き、岩井商店社長の岩井勝次郎氏に玉水弘氏を紹介した。両者は合資会社岩井本店の出資で株式会社を興し、工業所の事業を譲り受けて玉水弘氏を専務取締役技師長とする方針で合意に至った。初代社長には岩井商店専務の安野譲氏が兼任で就任し、岩井勝次郎氏は相談役として後見した。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [1]1918年5月17日 関西ペイント株式会社が資本金50万円で尼崎に設立
    • [2]前身は1917年に玉水弘が西宮に創業した関西ペイント工業所(従業員約20人、光明丹・弁柄・堅練ジンクペイント)
  • 刊行社史「第一歩を踏み出す」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [3]玉水弘は資本の乏しい小企業で資金面に苦しみ、技術力だけでの工場経営に限界を感じた
    • [4]東京帝大助教授の田中芳雄が玉水に助言し、岩井勝次郎に紹介した
    • [5]岩井本店が投資して新会社を設立し、工業所の事業を譲渡、玉水を専務取締役技師長とすることで合意
    • [6]1918年5月15日の創立総会で社長に安野譲(岩井商店専務・兼任)、岩井勝次郎は相談役

関西ペイントは発足から半年で第1次世界大戦の終結に直面し、1919年4月期に2万9,000円余の欠損を計上した。製造品目は亜鉛華や鉛丹などの顔料が中心で、堅練ペイントやボイル油などの塗料は少量にとどまった。1919年2月には自前の出張所を閉じ、販売は岩井商店を総代理店とする全量委託。1920年の反動恐慌の後は3期続けて赤字となり、1921年10月期末の繰越欠損は18万5,000円余を数えた。従業員は1920年の152人から1921年末に62人へ減少し、会社の存続を危ぶむ声が社内外に広がった。幹部が相談役の岩井勝次郎氏に最終判断を求めると、岩井勝次郎氏は会社を存続させて再建を目指すよう求めた。

  • 刊行社史「下の経営危機」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [7]第2期(1918年11月〜1919年4月)に2万9,000円余の欠損、輸出休止と原料下落が要因
    • [10]第4〜6期(1920年4月期〜1921年4月期)連続欠損、1921年10月期の後期繰越欠損金18万5,000円余
    • [11]従業員は1920年152人から1921年末62人に減少、存続を危ぶむ風評が広まる
    • [12]幹部が勝次郎相談役に最終判断を求め、勝次郎は困難でも事業を成し遂げるよう答えた
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [8]製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く、堅練ペイント・ボイル油など塗料類は少量
  • 刊行社史「初期の事業展開」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [9]1919年2月 東梅田の出張所を閉鎖し、岩井商店を総代理店として製品販売を全面委託

岩井勝次郎氏は1922年8月、岩井商店の社員だった32歳の織田秋之助氏を常務取締役として派遣し、経営の全権を委ねた。織田秋之助常務は倉庫に滞留した亜鉛華の処分に着手し、生産と販売の重点を相場変動の大きい顔料から採算の取れる塗料へ移した。同年11月には岩井商店との総代理店契約と、堀田幸次郎商店との関西一手販売契約の解消。1923年3月の大阪出張所を皮切りに神戸・東京・福岡・名古屋へ出張所を開設し、特約店は1926年末に72店へ拡大した。販売に合わせた生産の計画化と計数管理も導入し、営業と工場の幹部が月例会議で予算と実績を突き合わせた。生産と販売を自社で一貫させたことで、需要家の要望を製品開発へ直接つなぐ体制が整ったと考えられる。

  • 刊行社史「経営危機への挑戦」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [13]1922年8月5日 岩井商店から32歳の織田秋之助が常務取締役として着任、代表取締役として経営の全権を委任
    • [15]1922年11月1日 岩井商店の総代理店契約と堀田幸次郎商店の関西一手販売契約を解消
    • [16]1923年3月大阪、8月神戸、1924年7月東京・8月福岡、1925年2月名古屋に出張所開設、特約店は1926年末72店
    • [17]予算統制を実施し営業部・工務部幹部の月例会議で予算・実績を比較検討
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [14]織田秋之助常務が品種の重点を相場変動の激しい顔料から安定的な塗料へ移行
参考文献[1]-[17]
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [1]1918年5月17日 関西ペイント株式会社が資本金50万円で尼崎に設立
    • [2]前身は1917年に玉水弘が西宮に創業した関西ペイント工業所(従業員約20人、光明丹・弁柄・堅練ジンクペイント)
    • [8]製造品目は亜鉛華・鉛丹など顔料類が多く、堅練ペイント・ボイル油など塗料類は少量
    • [14]織田秋之助常務が品種の重点を相場変動の激しい顔料から安定的な塗料へ移行
  • 刊行社史「第一歩を踏み出す」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [3]玉水弘は資本の乏しい小企業で資金面に苦しみ、技術力だけでの工場経営に限界を感じた
    • [4]東京帝大助教授の田中芳雄が玉水に助言し、岩井勝次郎に紹介した
    • [5]岩井本店が投資して新会社を設立し、工業所の事業を譲渡、玉水を専務取締役技師長とすることで合意
    • [6]1918年5月15日の創立総会で社長に安野譲(岩井商店専務・兼任)、岩井勝次郎は相談役
  • 刊行社史「下の経営危機」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [7]第2期(1918年11月〜1919年4月)に2万9,000円余の欠損、輸出休止と原料下落が要因
    • [10]第4〜6期(1920年4月期〜1921年4月期)連続欠損、1921年10月期の後期繰越欠損金18万5,000円余
    • [11]従業員は1920年152人から1921年末62人に減少、存続を危ぶむ風評が広まる
    • [12]幹部が勝次郎相談役に最終判断を求め、勝次郎は困難でも事業を成し遂げるよう答えた
  • 刊行社史「初期の事業展開」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [9]1919年2月 東梅田の出張所を閉鎖し、岩井商店を総代理店として製品販売を全面委託
  • 刊行社史「経営危機への挑戦」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [13]1922年8月5日 岩井商店から32歳の織田秋之助が常務取締役として着任、代表取締役として経営の全権を委任
    • [15]1922年11月1日 岩井商店の総代理店契約と堀田幸次郎商店の関西一手販売契約を解消
    • [16]1923年3月大阪、8月神戸、1924年7月東京・8月福岡、1925年2月名古屋に出張所開設、特約店は1926年末72店
    • [17]予算統制を実施し営業部・工務部幹部の月例会議で予算・実績を比較検討

1923年〜初の国産ラッカー「セルバ」と、関東の先発に挑んだ蒲田の東京工場

関西ペイントは1926年8月、国産初のラッカー「セルバ」の刷毛塗り用クリヤーNo.20と、希釈用のNo.21を発売した。研究の主導役は1923年入社の児玉正雄氏で、1924年に米国の化学雑誌でラッカーを知り、研究を提案したのが始まりである。織田秋之助常務は自動車の量産には速乾性の塗料が要ると判断し、原価高と開発の難しさを承知で着手を決めた。本来のラッカーは吹付用だったが、国内ではスプレーガンが製造も販売もされておらず、まず刷毛で塗れる品種から市場に出した。セルバは天然油脂を使わない国産ラッカーの第1号で、速乾性と塗膜の強さを兼ね備えた製品である。1929年1月には鉄道省の車両試験で、輸入ラッカーや漆と並べて総合で最優秀の判定を得た。

  • 刊行社史「新時代をひらくラッカ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [18]1926年8月 刷毛塗り用クリヤーラッカー「セルバNo.20」とうすめ液「セルバNo.21」を発売
    • [19]1923年入社の児玉正雄が1924年に米国化学雑誌でラッカーを知り研究を提案
    • [20]織田常務は自動車の大量生産に能率的な塗料が要るとみてラッカー国産化を決断
    • [21]国内でスプレーガンが製造・販売されていないため最初は刷毛塗り用として発売
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [22]国産ラッカー第1号のセルバは天然油脂を用いず速乾性と強い塗膜を実現
  • 刊行社史「づけるセルバ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [23]1929年1月 鉄道省の鋼製車両試験でセルバが輸入ラッカー・油性塗料・漆を抑え最優秀と判定

関西ペイントは1932年11月に東京市蒲田区南六郷町で約6,900m2の用地を取得し、1933年6月に東京工場の第1期工事を終えた。関東では先発メーカーが市場を押さえ、尼崎から送る製品は供給の迅速さを欠き、顧客の上積みが見込めなかった。建設を可能にしたのは、1930年上期に繰越欠損を解消して13年ぶりの配当を実施した業績の回復である。東京工場は1934年3月に本格操業へ移り、ラッカーやペイントを蒲田で作って関東の注文へ即納できるようになった。関東での販売はセルバを先頭に進め、東京支店の月平均売上高は1933年の約4万円から1934年に約8万円へ倍増した。1968年の企業史はこの工場の建設を、地方メーカーから脱する転機として位置づけた。

  • 刊行社史「全国的事業基盤の形成」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [24]1932年11月 東京市蒲田区南六郷町395番地に約6,900m2の用地を買収、1933年6月10日第1期工事落成
    • [25]関東は先発メーカーが市場を支配し、工場が遠隔地で製品供給に迅速性を欠き顧客獲得が困難
    • [27]1934年3月 東京工場が本格操業、各品種の現地生産で関東の即納体制を確立
    • [28]東京支店の売上高は1933年月平均約4万円から1934年約8万円に倍増
  • 刊行社史「累積欠損の解消と復配」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [26]1930年上期決算で繰越欠損金を消し年5%配当、13年目の復配
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [29]1933年 東京工場を建設してローカルメーカーから脱皮
参考文献[18]-[29]
  • 刊行社史「新時代をひらくラッカ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [18]1926年8月 刷毛塗り用クリヤーラッカー「セルバNo.20」とうすめ液「セルバNo.21」を発売
    • [19]1923年入社の児玉正雄が1924年に米国化学雑誌でラッカーを知り研究を提案
    • [20]織田常務は自動車の大量生産に能率的な塗料が要るとみてラッカー国産化を決断
    • [21]国内でスプレーガンが製造・販売されていないため最初は刷毛塗り用として発売
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [22]国産ラッカー第1号のセルバは天然油脂を用いず速乾性と強い塗膜を実現
    • [29]1933年 東京工場を建設してローカルメーカーから脱皮
  • 刊行社史「づけるセルバ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [23]1929年1月 鉄道省の鋼製車両試験でセルバが輸入ラッカー・油性塗料・漆を抑え最優秀と判定
  • 刊行社史「全国的事業基盤の形成」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [24]1932年11月 東京市蒲田区南六郷町395番地に約6,900m2の用地を買収、1933年6月10日第1期工事落成
    • [25]関東は先発メーカーが市場を支配し、工場が遠隔地で製品供給に迅速性を欠き顧客獲得が困難
    • [27]1934年3月 東京工場が本格操業、各品種の現地生産で関東の即納体制を確立
    • [28]東京支店の売上高は1933年月平均約4万円から1934年約8万円に倍増
  • 刊行社史「累積欠損の解消と復配」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [26]1930年上期決算で繰越欠損金を消し年5%配当、13年目の復配

1945年〜大阪・東京・名古屋での同時上場と、資本金を1億円から6億円へ増やした復興期

関西ペイントは1949年5月の証券取引所の再開と同時に、大阪・東京・名古屋の3取引所へ株式を上場した。前年の1948年10月には特別経理会社の指定を解かれ、資本金を1,300万円から3,500万円へ増やす再建整備計画も完了。計画の申請者は、特別管理人を務めた社長の山中鹿太郎氏や常務の佐々木善七氏らである。財閥解体で株式が大衆に分散するなか、復興資材としての塗料の評価と、戦後まもなく業界首位に立った成長力が投資家の注目を集めた。上場翌月の臨時株主総会では、3,500万円の資本金を1億円へ増やす増資を決めた。1957年版の年鑑の沿革では、資本金が1949年10月に1億円となったとの記載がある。

  • 刊行社史「上場と増資」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [30]1949年5月 証券取引所再開と同時に大阪・東京・名古屋の各証券取引所に上場
    • [33]財閥解体で持株が大衆に分散、復興資材として塗料の評価が高まり、業界首位の成長力が注目
    • [34]1949年6月の臨時株主総会で資本金3,500万円を1億円に増資決議
  • 刊行社史「前進のための戦後処理」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [31]1948年10月1日 特別経理会社の適用解除、資本金1,300万円を3,500万円に増資する再建整備計画
    • [32]企業再建整備計画の特別管理人は三和銀行頭取・柏木浩商店代表・山中鹿太郎社長・佐々木善七常務の4名
  • 株式会社年鑑 1957年版 関西ペイント
    • [35]沿革 1949年10月 資本金1億円に増資

関西ペイントは1953年8月に資本金を2億円、1954年10月に4億円へと、いずれも1対1の割当による増資を重ねた。1950年6月の朝鮮動乱で特需が生じ、1950年度の全国塗料生産量は前年度の3万8,800トンから8万4,500トンへ倍増した。関西ペイントは1952年2月、東京工場に工程順に階を重ねた鉄筋3階建てのペイント工場を完成させた。1953年から1954年にかけては尼崎と東京の両工場に合成樹脂塗料と合成樹脂の各工場を相次いで建設し、合成樹脂塗料の量産に備えた。自社の生産高は1950年度の約1万トンから1955年度の約2万トンへほぼ2倍に拡大した。増資で調達した資金は、油性塗料から合成樹脂塗料への転換に備えた設備に充当されたと推察される。

  • 株式会社年鑑 1955年版 関西ペイント
    • [36]沿革 1953年8月資本金2億円(1:1)、1954年10月資本金4億円(1:1)に増資
  • 刊行社史「朝鮮動乱と復興本格化」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [37]朝鮮動乱の特需で1950年度全国塗料生産量8万4,500トン、前年度3万8,800トンから倍増以上
    • [38]1952年2月 東京工場内に鉄筋コンクリート3階建のペイント工場完成
    • [39]1953年7月〜1954年6月 尼崎工場、1953年8月 東京工場に合成樹脂塗料工場・合成樹脂工場を完成
    • [40]生産高は1950年度約1万トンから1955年度約2万トンへほぼ2倍

岩井商店出身の佐々木善七氏は、本社営業部長と常務取締役総務部長を経て1955年4月に社長へ就任した。1933年5月に設立された東京支店の支配人として、東京工場の立ち上げを担ったのも佐々木善七氏である。1957年版の年鑑の沿革には、1957年1月に1対0.5の割当で増資し、資本金を4億円から6億円としたことが記された。1955年以降は建設と耐久消費財の需要が塗料の消費量を押し上げ、塗料の主流は油性から合成樹脂塗料へ移った。関西ペイントは1960年に平塚へ近代化工場を新設し、翌年には名古屋工場も新設した。1957年の増資は、合成樹脂塗料の時代の生産拠点を先に整えるための資金の手当てだったとみられる。

  • 日本企業要覧 1964年版 関西ペイント
    • [41]佐々木善七は1930年9月入社(岩井商店・徳山鉄板を経る)、本社営業部長、1947年12月常務取締役総務部長を経て1955年4月取締役社長に就任
  • 刊行社史「全国的事業基盤の形成」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [42]1933年5月 東京支店設立、佐々木善七が同支店の支配人に就任
  • 株式会社年鑑 1957年版 関西ペイント
    • [43]沿革 1957年1月 資本金6億円に増資(1:0.5)、社長 佐々木善七
  • 刊行社史「飛躍的な業容拡大へ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [44]1955年以降の建設・耐久消費財需要で塗料が大量消費され、主流は油性塗料から合成樹脂塗料へ
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [45]1960年 平塚に近代化工場を新設、翌1961年に名古屋工場を新設
参考文献[30]-[45]
  • 刊行社史「上場と増資」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [30]1949年5月 証券取引所再開と同時に大阪・東京・名古屋の各証券取引所に上場
    • [33]財閥解体で持株が大衆に分散、復興資材として塗料の評価が高まり、業界首位の成長力が注目
    • [34]1949年6月の臨時株主総会で資本金3,500万円を1億円に増資決議
  • 刊行社史「前進のための戦後処理」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [31]1948年10月1日 特別経理会社の適用解除、資本金1,300万円を3,500万円に増資する再建整備計画
    • [32]企業再建整備計画の特別管理人は三和銀行頭取・柏木浩商店代表・山中鹿太郎社長・佐々木善七常務の4名
  • 株式会社年鑑 1957年版 関西ペイント
    • [35]沿革 1949年10月 資本金1億円に増資
    • [43]沿革 1957年1月 資本金6億円に増資(1:0.5)、社長 佐々木善七
  • 株式会社年鑑 1955年版 関西ペイント
    • [36]沿革 1953年8月資本金2億円(1:1)、1954年10月資本金4億円(1:1)に増資
  • 刊行社史「朝鮮動乱と復興本格化」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [37]朝鮮動乱の特需で1950年度全国塗料生産量8万4,500トン、前年度3万8,800トンから倍増以上
    • [38]1952年2月 東京工場内に鉄筋コンクリート3階建のペイント工場完成
    • [39]1953年7月〜1954年6月 尼崎工場、1953年8月 東京工場に合成樹脂塗料工場・合成樹脂工場を完成
    • [40]生産高は1950年度約1万トンから1955年度約2万トンへほぼ2倍
  • 日本企業要覧 1964年版 関西ペイント
    • [41]佐々木善七は1930年9月入社(岩井商店・徳山鉄板を経る)、本社営業部長、1947年12月常務取締役総務部長を経て1955年4月取締役社長に就任
  • 刊行社史「全国的事業基盤の形成」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [42]1933年5月 東京支店設立、佐々木善七が同支店の支配人に就任
  • 刊行社史「飛躍的な業容拡大へ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
    • [44]1955年以降の建設・耐久消費財需要で塗料が大量消費され、主流は油性塗料から合成樹脂塗料へ
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
    • [45]1960年 平塚に近代化工場を新設、翌1961年に名古屋工場を新設

出典・参考

16件
出典・参考
  • 刊行社史「第一歩を踏み出す」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「下の経営危機」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「初期の事業展開」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「経営危機への挑戦」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「新時代をひらくラッカ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「づけるセルバ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「全国的事業基盤の形成」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「累積欠損の解消と復配」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「上場と増資」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「前進のための戦後処理」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「朝鮮動乱と復興本格化」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 刊行社史「飛躍的な業容拡大へ」(明日を彩る 関西ペイント六十年のあゆみ(1979))
  • 株式会社年鑑 1955年版 関西ペイント
  • 株式会社年鑑 1957年版 関西ペイント
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』(1968)関西ペイントの項
  • 日本企業要覧 1964年版 関西ペイント

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