第1章 年〜年

三井化学:東洋高圧工業の設立と三井石油化学工業の岩国工場操業

1933年〜コークスで硫安をつくる東洋高圧と、染料・薬品を分離した三井化学工業

東洋高圧工業は1933年4月1日、三井鉱山が大牟田に建てる硫安工場の担い手として、資本金2,000万円で発足した。当時の硫安の国内消費は年約85万tに対し国内生産は65万tで、不足分は輸入に依存していた。三井鉱山は同年2月、原料をコークス炉ガスに代えてコークスとし、1,400万円を投じて年産12万tの設備をつくる方針を固めた。水素はデュポンの加圧触媒転化法に拠ることにし、30万ドルの導入費に対して硫安1t当たりの原価が約11円下がる見通しを立てた。会長の牧田環氏が後年振り返ったとおり、技術面だけなら会社を分ける理由はなかった。それでも三池窒素の増設ではなく別会社を選んだのは、新しい工業に4年間認められる所得税と営業税の免除が狙いで、103万円の差が出ると試算されていた。

  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井東圧化学(1968年)
    • [1]三井鉱山が三池染料工業所のコークスを原料とする硫安製造へ進むのを機に、1933年4月、資本金2,000万円で東洋高圧工業が設立された
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [2]1933年2月の東洋高圧の創立趣意書は、硫安の年間消費約85万tに対し国内生産は65万tで、約20万tが不足していると記した
    • [3]三井鉱山は1933年2月、三池窒素に隣接して硫安年産12万tの設備を所要資金1,400万円で建設することを決め、コークス炉ガスでは供給に限りがあるため原料をコークスへ転換した
    • [4]三井鉱山はデュポンの加圧触媒転化法の特許を30万ドルで購入し、コークス炉ガス法に比べ硫安1t当たり約11円の原価低下を見込んだ
    • [5]東洋高圧の会長には三井合名理事の牧田環が就き、牧田はのちに本来は別会社を設ける必要はなかったと回想した
    • [6]別会社とした最大の理由は新規工業に与えられた4年間の所得税・営業税の免除を受けるためで、三池窒素で増設した場合との差は3年分103万円と見込まれた

三井化学工業は1941年4月、三井鉱山の化学部門と目黒研究所を切り離し、資本金8,000万円で設立された。発端は1940年8月に置かれた三井総元方で、その企画部委員会が同年10月4日に新会社の設立を答申した。答申は、三池染料工業所も東洋高圧も三井鉱山の機構のもとでは伸びる余地が尽きたとみた。化学部門をまとめて独立させれば、三菱重工業や住友金属工業に並ぶ化学会社を組めるという読みだった。三井物産と三井鉱山が化学に投じた額は、この時点で合わせて1億3,707万円に積み上がっていた。資本金は当初1億円の計画だったが、大蔵・商工両省が有機合成と医薬品の新規事業を認めず、8,000万円に減らして発足した。会長には、三井同族のなかで化学工業に関心が深く、設立に大きく関わった三井高修氏が就任した。

  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』三井化学工業(1955年)
    • [7]三井化学工業は1941年4月、三井鉱山の化学部門と目黒研究所が分離して資本金8,000万円で設立された
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [8]三井財閥は1940年8月26日に三井総元方を設け、その企画部委員会は同年10月4日、三井化学工業(仮称)の設立を三井総元方議長に答申した
    • [9]答申は、三池染料工業所と東洋高圧工業の事業が三井鉱山の機構下では飽和状態にあり、将来の発展を期しがたいとした
    • [10]答申は、化学部門を分離し同種の関係会社を統合すれば、三菱重工業・住友金属工業に劣らない規模の化学会社を組成できるとした
    • [11]三井財閥の化学事業への累積投資額は三井物産6,075万円、三井鉱山7,632万円、合計1億3,707万円に達していた
    • [12]大蔵・商工両省は有機合成事業と医薬品事業の2,250万円分を認めず、資本金を1億円から8,000万円へ減額するよう指示し、発起人会はこれを受け入れた
    • [13]三井化学の取締役会長には、三井同族のなかで化学工業にとくに関心を持ち設立に大きな役割を果たした三井高修が就任した

大牟田の工場は1945年8月7日の爆撃で水道と送電を断たれ、終戦直前のアンモニア生産は平時の1割に低下していた。食糧増産のため肥料の増産が国策となるなか、常務の石毛郁治氏が1947年2月8日、公職追放で空席となった社長に就任した。北海道の砂川工場では建設中の硫酸工場が賠償に指定され、行き場を失うアンモニアを肥料用の尿素に振り向けることにした。それまで薬品用に日産数tしか作られていなかった尿素を硫安並みの値で量産する計画で、1948年8月に製品が出た。1950年11月には大牟田工業所にも年産1万5,000tの尿素設備が完成し、北海道分を加えた尿素の能力は年産3万3,000tに達した。尿素はこの後、東洋高圧の主要な収益源となった。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書』石毛郁治(東洋高圧工業社長)
    • [14]1945年8月7日の爆撃で大牟田の工場は水道と送電部を失って停止し、終戦直前のアンモニア生産は10%にまで落ちていた
    • [15]食糧増産の要請から肥料増産が国策となり、柴田社長の公職追放が決まった1947年2月8日、常務の石毛郁治が社長に就いた
    • [17]従来は日産1〜2tの合成管による薬品用尿素しかなかったが、硫安と同じ値段の尿素を造る計画に踏み切り、1948年8月に製品を得た
  • 『日本産業史』第2巻 化学「化学-肩で風切る肥料」(日本経済新聞社、1994年)
    • [16]東洋高圧の砂川工場(北海道)では未完成の硫酸工場が賠償指定となったため、アンモニアの用途として尿素技術を肥料用の大量生産に適用することにした
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [18]1950年11月6日、大牟田工業所に年産1万5,000tの尿素製造設備が完成し、北海道工業所と合わせた尿素生産能力は年産3万3,000tとなった
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井東圧化学(1968年)
    • [19]東洋高圧は1948年に尿素肥料の工業化に成功し、尿素肥料はその後収益を支える大きな柱となった
参考文献[1]-[19]
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井東圧化学(1968年)
    • [1]三井鉱山が三池染料工業所のコークスを原料とする硫安製造へ進むのを機に、1933年4月、資本金2,000万円で東洋高圧工業が設立された
    • [19]東洋高圧は1948年に尿素肥料の工業化に成功し、尿素肥料はその後収益を支える大きな柱となった
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [2]1933年2月の東洋高圧の創立趣意書は、硫安の年間消費約85万tに対し国内生産は65万tで、約20万tが不足していると記した
    • [3]三井鉱山は1933年2月、三池窒素に隣接して硫安年産12万tの設備を所要資金1,400万円で建設することを決め、コークス炉ガスでは供給に限りがあるため原料をコークスへ転換した
    • [4]三井鉱山はデュポンの加圧触媒転化法の特許を30万ドルで購入し、コークス炉ガス法に比べ硫安1t当たり約11円の原価低下を見込んだ
    • [5]東洋高圧の会長には三井合名理事の牧田環が就き、牧田はのちに本来は別会社を設ける必要はなかったと回想した
    • [6]別会社とした最大の理由は新規工業に与えられた4年間の所得税・営業税の免除を受けるためで、三池窒素で増設した場合との差は3年分103万円と見込まれた
    • [8]三井財閥は1940年8月26日に三井総元方を設け、その企画部委員会は同年10月4日、三井化学工業(仮称)の設立を三井総元方議長に答申した
    • [9]答申は、三池染料工業所と東洋高圧工業の事業が三井鉱山の機構下では飽和状態にあり、将来の発展を期しがたいとした
    • [10]答申は、化学部門を分離し同種の関係会社を統合すれば、三菱重工業・住友金属工業に劣らない規模の化学会社を組成できるとした
    • [11]三井財閥の化学事業への累積投資額は三井物産6,075万円、三井鉱山7,632万円、合計1億3,707万円に達していた
    • [12]大蔵・商工両省は有機合成事業と医薬品事業の2,250万円分を認めず、資本金を1億円から8,000万円へ減額するよう指示し、発起人会はこれを受け入れた
    • [13]三井化学の取締役会長には、三井同族のなかで化学工業にとくに関心を持ち設立に大きな役割を果たした三井高修が就任した
    • [18]1950年11月6日、大牟田工業所に年産1万5,000tの尿素製造設備が完成し、北海道工業所と合わせた尿素生産能力は年産3万3,000tとなった
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』三井化学工業(1955年)
    • [7]三井化学工業は1941年4月、三井鉱山の化学部門と目黒研究所が分離して資本金8,000万円で設立された
  • 日本経済新聞社『私の履歴書』石毛郁治(東洋高圧工業社長)
    • [14]1945年8月7日の爆撃で大牟田の工場は水道と送電部を失って停止し、終戦直前のアンモニア生産は10%にまで落ちていた
    • [15]食糧増産の要請から肥料増産が国策となり、柴田社長の公職追放が決まった1947年2月8日、常務の石毛郁治が社長に就いた
    • [17]従来は日産1〜2tの合成管による薬品用尿素しかなかったが、硫安と同じ値段の尿素を造る計画に踏み切り、1948年8月に製品を得た
  • 『日本産業史』第2巻 化学「化学-肩で風切る肥料」(日本経済新聞社、1994年)
    • [16]東洋高圧の砂川工場(北海道)では未完成の硫酸工場が賠償指定となったため、アンモニアの用途として尿素技術を肥料用の大量生産に適用することにした

1951年〜名古屋の有機合成と、出資8社の三井石油化学工業が岩国に建てたエチレン2万トン

三井化学工業は1951年4月、名古屋に8億6,000万円を投じた塩化ビニル工場を動かし、タール系の有機合成にアセチレン系を加えた。塩化ビニルは戦後、ゴムや皮革、繊維の代わりとして使い道が急に広がり、戦時中に合成ゴムで積んだアセチレン化学の経験も生かせた。1949年6月に三池染料工業所で月産1.5tの試験生産を始め、翌月には米国のAFEと技術情報の契約を結んだ。本格工場を大牟田に置かなかったのは、九州では余剰電力が乏しくカーバイドを確保しにくいうえ、輸送の条件も悪かったからだった。全国6か所を比べた末に大同製鋼星崎東工場の跡を選び、カーバイドは揖斐川電気から全量を受ける契約を結んだ。本格生産に入った1951年には、国内の塩化ビニルメーカーは18社に達していた。

  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』三井化学工業(1955年)
    • [20]三井化学工業は1951年4月、合成樹脂工業に進出するため8億6,000万円を投じて名古屋市に塩化ビニール工場を建設し、タール系に加えアセチレン系有機合成工業へ進出する態勢を整えた
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [21]塩化ビニルはゴム・皮革・繊維・塗料・金属などの分野で使用量が急増しており、三井化学は戦時中の合成ゴム生産でアセチレン系有機合成の経験を蓄積していた
    • [22]三井化学は1949年6月に三池染料工業所で塩化ビニルの月産1.5t試験生産を始め、同年7月27日に米国AFEと技術情報導入の契約を結んだ
    • [23]三池染料工業所のある九州は余剰電力が少なくカーバイドの確保に難点があり、輸送条件にも問題があったため、新立地を検討した
    • [24]三井化学は候補6地区を比較して1949年9月21日に大同製鋼星崎東工場を新立地と決め、同年12月7日に揖斐川電気とカーバイド全量供給の契約を結んだ
    • [25]三井化学が名古屋工業所で塩化ビニルの本格生産を始めた1951年に、国内の塩化ビニルメーカーは18社に達していた

三井石油化学工業は1955年7月1日、三井系7社と興亜石油の出資により資本金2億5,000万円で発足した。起点は、三井化学工業社長の石田健氏が1954年末からの欧州行きで結んだチーグラー法ポリエチレンの独占特許契約で、特許料は120万ドルに上った。原料のエチレンを石油の分解で得るには装置だけで巨額の資金が要り、三井化学工業の単独事業ではリスクが大きいと判断された。通産省も岩国で先行していた三池合成の計画に対し、三井化学工業・東洋高圧との共同事業化を強く求めた。三井化学工業は1955年3月に単独での企業化をやめ、三井系各社の共同事業に切り替えた。発起人代表には石田健社長が立ち、新会社の社長を兼ねた。

  • 日本経済新聞社『私の三井昭和史』8章「化学部門での新分野挑戦」(1986年)
    • [26]三井化学・三井鉱山・三井金属・三池合成・東洋高圧・東洋レーヨン・三井銀行の三井系7社と興亜石油の計8社の出資(資本金2億5,000万円)で、1955年7月1日に三井石油化学工業が設立された
    • [27]三井化学社長の石田健は1954年11月に欧州へ渡り、西ドイツでチーグラー法ポリエチレンの独占的な特許契約を結び、特許料は120万ドル(4億3,200万円)だった
    • [28]石油からエチレンを採るには装置だけで巨額の資金がかかりリスクも大きいため、三井化学の単独事業より別会社で三井の総力をあげるほうがよいと判断された
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [29]通産省は三池合成を中心とする岩国の石油化学計画を前向きに評価しつつ、三井化学および東洋高圧との共同事業化の必要性を強く求めた
    • [30]三井化学は1955年3月、ポリエチレンを単独で企業化する方針を改め、三井系各社の共同事業として総合石油化学計画を進めることを決めた
  • 読売新聞(1955年4月12日)
    • [31]三井石油化学は石田健を代表として設立する方針で、旧岩国燃料廠に工場敷地を予定していた

三井石油化学工業は1958年4月、山口県岩国の旧陸軍燃料廠の跡地で、総合石油化学工場の操業に入った。国内初となるこの工場の用地は、1955年8月26日の閣議決定で31万9,000m2の払い下げが決まっていた。隣の興亜石油から分解原料油と熱分解ガスを受けられることが、岩国を選んだ前提だった。操業時のエチレン能力は年産2万tで、そこから誘導品までを一つの工場で一貫してつくる構成をとった。技術の大半は外から入れ、エチレン・プロピレンは米国ストーン・アンド・ウェブスター社、ポリエチレンはチーグラーの特許に拠った。工場は従業員600人足らずで年100億円を生産する見込みだったという。

  • 新日本経済 1958年5月号
    • [32]三井石油化学工業岩国工場は1958年4月21日にプラントの大部分を完成して操業に入り、石油化学の総合的大工場とされた
    • [37]岩国工場は従業員600人足らずで年間100億円の生産が上がるとされた
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [33]岩国旧陸軍燃料廠の払い下げは1955年8月26日の閣議決定に基づき31万9,000m2で決着し、1958年4月からわが国最初の総合石油化学工場が生産を始めた
    • [34]岩国計画は興亜石油から分解原料油および熱分解ガスを受け入れてエチレンを生産し、これを原料にポリエチレンを生産するものだった
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井石油化学工業(1968年)
    • [35]岩国工場が1958年4月にスタートしたときのエチレン年産能力は2万tだった
  • 『証券』1962年「新規上場会社紹介 三井石油化学工業」
    • [36]三井石油化学は米国ストーン・アンド・ウェブスター社からエチレン・プロピレン等の製造技術、西独チーグラー博士からポリエチレン製造特許など20件以上の使用契約を結んでいた
参考文献[20]-[37]
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』三井化学工業(1955年)
    • [20]三井化学工業は1951年4月、合成樹脂工業に進出するため8億6,000万円を投じて名古屋市に塩化ビニール工場を建設し、タール系に加えアセチレン系有機合成工業へ進出する態勢を整えた
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [21]塩化ビニルはゴム・皮革・繊維・塗料・金属などの分野で使用量が急増しており、三井化学は戦時中の合成ゴム生産でアセチレン系有機合成の経験を蓄積していた
    • [22]三井化学は1949年6月に三池染料工業所で塩化ビニルの月産1.5t試験生産を始め、同年7月27日に米国AFEと技術情報導入の契約を結んだ
    • [23]三池染料工業所のある九州は余剰電力が少なくカーバイドの確保に難点があり、輸送条件にも問題があったため、新立地を検討した
    • [24]三井化学は候補6地区を比較して1949年9月21日に大同製鋼星崎東工場を新立地と決め、同年12月7日に揖斐川電気とカーバイド全量供給の契約を結んだ
    • [25]三井化学が名古屋工業所で塩化ビニルの本格生産を始めた1951年に、国内の塩化ビニルメーカーは18社に達していた
    • [29]通産省は三池合成を中心とする岩国の石油化学計画を前向きに評価しつつ、三井化学および東洋高圧との共同事業化の必要性を強く求めた
    • [30]三井化学は1955年3月、ポリエチレンを単独で企業化する方針を改め、三井系各社の共同事業として総合石油化学計画を進めることを決めた
    • [33]岩国旧陸軍燃料廠の払い下げは1955年8月26日の閣議決定に基づき31万9,000m2で決着し、1958年4月からわが国最初の総合石油化学工場が生産を始めた
    • [34]岩国計画は興亜石油から分解原料油および熱分解ガスを受け入れてエチレンを生産し、これを原料にポリエチレンを生産するものだった
  • 日本経済新聞社『私の三井昭和史』8章「化学部門での新分野挑戦」(1986年)
    • [26]三井化学・三井鉱山・三井金属・三池合成・東洋高圧・東洋レーヨン・三井銀行の三井系7社と興亜石油の計8社の出資(資本金2億5,000万円)で、1955年7月1日に三井石油化学工業が設立された
    • [27]三井化学社長の石田健は1954年11月に欧州へ渡り、西ドイツでチーグラー法ポリエチレンの独占的な特許契約を結び、特許料は120万ドル(4億3,200万円)だった
    • [28]石油からエチレンを採るには装置だけで巨額の資金がかかりリスクも大きいため、三井化学の単独事業より別会社で三井の総力をあげるほうがよいと判断された
  • 読売新聞(1955年4月12日)
    • [31]三井石油化学は石田健を代表として設立する方針で、旧岩国燃料廠に工場敷地を予定していた
  • 新日本経済 1958年5月号
    • [32]三井石油化学工業岩国工場は1958年4月21日にプラントの大部分を完成して操業に入り、石油化学の総合的大工場とされた
    • [37]岩国工場は従業員600人足らずで年間100億円の生産が上がるとされた
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井石油化学工業(1968年)
    • [35]岩国工場が1958年4月にスタートしたときのエチレン年産能力は2万tだった
  • 『証券』1962年「新規上場会社紹介 三井石油化学工業」
    • [36]三井石油化学は米国ストーン・アンド・ウェブスター社からエチレン・プロピレン等の製造技術、西独チーグラー博士からポリエチレン製造特許など20件以上の使用契約を結んでいた

1959年〜大竹の第2号プラントと上場、千葉のエチレン12万トンと浮島石油化学

三井石油化学工業は1961年3月、岩国に隣接する広島県大竹市の旧海兵団用地で第二次計画の建設を始め、1962年に完成させた。二度の計画で投じた設備資金は417億円に達し、岩国・大竹の能力はエチレン系製品で年8万tとなった。1961年度の売上高は131.4億円で、三菱油化の102.6億円を上回り業界首位に立った。一方で1962年3月期末の長期借入金は166億9,222万円と、資本金40億円の4倍を超えた。同年10月5日に東京・大阪両証券取引所の第二部へ上場し、公募を含む増資で資本金を50億円とした。同じ年の経済誌は、岩国・大竹を参加企業が少なく四日市より小ぶりなコンビナートと評した。借入に依存した設備拡張を続けるため、株式市場からの資本調達に踏み切ったと推察される。

  • 『証券』1962年「新規上場会社紹介 三井石油化学工業」
    • [38]三井石油化学は1961年3月、岩国地区工場に隣接する広島県大竹市の旧海兵団用地約8万坪を中心に第二次事業計画の建設を始め、1962年3月に完成して操業を開始した
    • [39]第1次・第2次の事業計画で総額417億円の設備資金を投じ、岩国・大竹地区にエチレン系で年8万t、プロピレン系・芳香族系で各約6万tの製造能力を持つ総合石油化学センターを建設した
    • [40]三井石油化学の売上高は1959年度94.6億円、1961年度131.4億円で、三菱油化102.6億円、日本石油化学58.9億円を上回り業界第1位だった
    • [41]1962年3月期の貸借対照表で長期借入金は166億9,222万円、資本金は40億円だった
    • [42]三井石油化学は1962年10月5日に東京・大阪証券取引所第二部に上場し、同月の公募を含む増資で資本金を50億円とした
  • ダイヤモンド 1962年2月15日号
    • [43]三井グループの岩国・大竹地区コンビナートは参加企業が少なく規模も小さく、三菱の四日市コンビナートとは差があると評された

三井石油化学工業は1967年3月、千葉県市原市の千葉工場でエチレン年産12万tの設備を動かし始めた。製品需要の半分以上が関東にあり、需要地で作れば岩国大竹から運ぶより輸送を合理化できた。用地は三井物産の勧めで五井姉崎の埋立地に決め、1961年5月に東洋レーヨンなどと並んで千葉県と分譲契約を結んだ。12万tは当時の国内で最大の規模で、西の岩国大竹と東の千葉の2拠点から製品を出せるようになった。ところが同年6月、通産省はエチレン設備の基準を年産30万tへ引き上げた。この局面で舵を取った社長は、東洋レーヨン出身の岩永巌氏だった。三井石油化学工業は単独での増設を避け、1967年11月に日本石油化学と折半で浮島石油化学を設立した。

  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井石油化学工業(1968年)
    • [44]千葉工場は千葉県市原市に建設され、1967年3月に第一期計画が完成して操業を開始し、エチレン製造設備は年産12万tだった
    • [45]千葉工場は同社製品の半分以上の需要を持つ関東地区に位置し、輸送の合理化が図られた
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業(1995年)
    • [46]三井石油化学は三井物産の推奨で千葉県五井姉崎の埋立地への進出を決め、1961年5月に東洋レーヨン・三井物産など三井グループ各社とともに千葉県と埋め立て分譲契約を結んだ
    • [47]千葉工場のエチレン年産12万tは当時日本最大のプラントで、これにより三井石油化学は東西に供給基地を持つ体制を整えた
    • [50]三井石油化学は単独での設備拡張を避け、1967年11月に日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立した
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [48]通産省は1967年6月にエチレン30万t基準を決定した
  • 『日本企業要覧』1967年版 三井石油化学工業
    • [49]岩永巌は東洋レーヨンの常務取締役・代表取締役副社長を経て三井石油化学工業の取締役社長を務めていた

三井化学工業は1962年4月に三池合成を合併し、戦時中に分かれていた三井系の石炭化学を一つに戻した。東洋高圧も1963年3月の長期経営計画で、三井系化学の合同を前提に堺での総合石油化学に注力する方針を定めた。ところが1965年の不況で三井化学工業の業績が悪化し、1966年11月29日に東洋高圧会長の石毛郁治氏が三井化学工業の社長に就任した。1967年6月に通産省がエチレン30万t基準を定めると、泉北の計画には誘導品まで含む巨額の投資と企業規模が必要になった。同月20日、東洋高圧社長の野村末一氏らと石毛郁治社長らが会談して合併に基本合意し、7月に基本覚書を交わした。三井化学工業は石油化学を別会社に出したことで自らの成長を鈍らせたと、1968年刊の企業史は評した。

  • 日本経済新聞社『私の三井昭和史』8章「化学部門での新分野挑戦」(1986年)
    • [51]三井化学は1962年4月に三池合成と合併し、戦時中に軍の命令で別会社とされコールタール化学を手がけていた同社との一本化は自然の成り行きだった
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [52]東洋高圧が1963年3月に決めた長期経営計画は、三井系化学企業の合同を前提に総合化学企業への脱皮を目指し、堺で総合的な石油化学事業を展開することを基本とした
    • [53]三井化学は1965年の不況で業績が悪化し、その再建のため東洋高圧会長の石毛郁治が1966年11月29日に三井化学の社長に就任した
    • [54]1967年6月の通産省のエチレン30万t基準により、大阪石油化学の計画は練り直しとなり、誘導品を総合的に企業化する巨額の投資と企業規模の拡大が必要になった
    • [55]1967年6月20日、東洋高圧の野村末一社長・末吉俊雄副社長と三井化学の石毛郁治社長らが会談して合併に基本合意し、同年7月に基本覚書に調印した
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井東圧化学(1968年)
    • [56]三井化学が三井石油化学工業の設立で石油化学の分野を独立分離させたことは、結果的に同社の成長にブレーキをかけたとされた
参考文献[38]-[56]
  • 『証券』1962年「新規上場会社紹介 三井石油化学工業」
    • [38]三井石油化学は1961年3月、岩国地区工場に隣接する広島県大竹市の旧海兵団用地約8万坪を中心に第二次事業計画の建設を始め、1962年3月に完成して操業を開始した
    • [39]第1次・第2次の事業計画で総額417億円の設備資金を投じ、岩国・大竹地区にエチレン系で年8万t、プロピレン系・芳香族系で各約6万tの製造能力を持つ総合石油化学センターを建設した
    • [40]三井石油化学の売上高は1959年度94.6億円、1961年度131.4億円で、三菱油化102.6億円、日本石油化学58.9億円を上回り業界第1位だった
    • [41]1962年3月期の貸借対照表で長期借入金は166億9,222万円、資本金は40億円だった
    • [42]三井石油化学は1962年10月5日に東京・大阪証券取引所第二部に上場し、同月の公募を含む増資で資本金を50億円とした
  • ダイヤモンド 1962年2月15日号
    • [43]三井グループの岩国・大竹地区コンビナートは参加企業が少なく規模も小さく、三菱の四日市コンビナートとは差があると評された
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井石油化学工業(1968年)
    • [44]千葉工場は千葉県市原市に建設され、1967年3月に第一期計画が完成して操業を開始し、エチレン製造設備は年産12万tだった
    • [45]千葉工場は同社製品の半分以上の需要を持つ関東地区に位置し、輸送の合理化が図られた
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業(1995年)
    • [46]三井石油化学は三井物産の推奨で千葉県五井姉崎の埋立地への進出を決め、1961年5月に東洋レーヨン・三井物産など三井グループ各社とともに千葉県と埋め立て分譲契約を結んだ
    • [47]千葉工場のエチレン年産12万tは当時日本最大のプラントで、これにより三井石油化学は東西に供給基地を持つ体制を整えた
    • [50]三井石油化学は単独での設備拡張を避け、1967年11月に日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立した
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
    • [48]通産省は1967年6月にエチレン30万t基準を決定した
    • [52]東洋高圧が1963年3月に決めた長期経営計画は、三井系化学企業の合同を前提に総合化学企業への脱皮を目指し、堺で総合的な石油化学事業を展開することを基本とした
    • [53]三井化学は1965年の不況で業績が悪化し、その再建のため東洋高圧会長の石毛郁治が1966年11月29日に三井化学の社長に就任した
    • [54]1967年6月の通産省のエチレン30万t基準により、大阪石油化学の計画は練り直しとなり、誘導品を総合的に企業化する巨額の投資と企業規模の拡大が必要になった
    • [55]1967年6月20日、東洋高圧の野村末一社長・末吉俊雄副社長と三井化学の石毛郁治社長らが会談して合併に基本合意し、同年7月に基本覚書に調印した
  • 『日本企業要覧』1967年版 三井石油化学工業
    • [49]岩永巌は東洋レーヨンの常務取締役・代表取締役副社長を経て三井石油化学工業の取締役社長を務めていた
  • 日本経済新聞社『私の三井昭和史』8章「化学部門での新分野挑戦」(1986年)
    • [51]三井化学は1962年4月に三池合成と合併し、戦時中に軍の命令で別会社とされコールタール化学を手がけていた同社との一本化は自然の成り行きだった
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井東圧化学(1968年)
    • [56]三井化学が三井石油化学工業の設立で石油化学の分野を独立分離させたことは、結果的に同社の成長にブレーキをかけたとされた

出典・参考

13件
出典・参考
  • 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』三井化学工業(1955年)
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井東圧化学(1968年)
  • 経済春秋社『企業の歴史(明治百年)』三井石油化学工業(1968年)
  • 『日本産業史』第2巻 化学「化学-肩で風切る肥料」(日本経済新聞社、1994年)
  • 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業(1995年)
  • 新日本経済 1958年5月号
  • ダイヤモンド 1962年2月15日号
  • 読売新聞(1955年4月12日)
  • 日本経済新聞社『私の三井昭和史』8章「化学部門での新分野挑戦」(1986年)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書』石毛郁治(東洋高圧工業社長)
  • 『証券』1962年「新規上場会社紹介 三井石油化学工業」
  • 『日本企業要覧』1967年版 三井石油化学工業

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