三井化学:三井東圧化学の発足とエチレン設備の縮小・浮島への集約
1968年〜東洋高圧と三井化学工業の合併で生まれた三井東圧化学と、泉北コンビナート
三井東圧化学は、1968年10月1日に東洋高圧工業が三井化学工業を吸収合併し、商号を改めて発足した。旧三井化学の株式1株に新会社の株式1株を割り当て、社長には東洋高圧の野村末一氏が就任した。合併前の主な収益源は東洋高圧が化学肥料、三井化学が石炭系の化学品で、どちらもナフサ分解の設備を自前で持っていなかった。1967年6月にエチレン設備の新設基準が年産30万トンへ引き上げられ、両社の首脳はその直後の6月20日に早期合併で合意した。別々に投資するより、同じ三井系として一体で石油化学に参入するほうが効率的だという判断だった。発足時の売上高は、化学会社のなかで三菱化成、住友化学に次ぐ3位に並んだ。
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [1]1968年4月24日調印の合併契約で、東洋高圧工業が存続して三井化学工業が解散し、1968年10月1日に三井東圧化学株式会社へ商号を変えた
- [2]合併比率は三井化学株1株に東洋高圧の新株1株で、新会社は野村末一社長、末吉俊雄・平山威両副社長の体制で発足した
- [4]通産省は1967年にエチレン新設の認可基準を年産30万トンへ引き上げ、同年6月20日に東洋高圧・三井化学の5首脳が早期合併で基本合意した
- [6]合併後の売上高は化学会社のなかで三菱化成、住友化学に次ぐ第3位となった
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- [3]合併前の東洋高圧の主力製品は肥料、三井化学の主力は石炭系の化学製品で、両社とも石油化学への進出を迫られていた
- [5]両社の合併は、別々に石油化学へ投資するより三井系として共同で乗り出すほうが効率的という判断によるものだった
合併で得た規模は、大阪・泉北に築く石油化学コンビナートへ振り向けられた。中核の大阪石油化学は関西石油化学グループとの共同出資で、年産30万トンのエチレン計画は1968年4月8日に通産省の認可を得た。認可に先立ち、三井化学・東洋高圧・三井石油化学工業など三井系5社は、両社の早期合併と三井石化との連携強化を通産省に約束していた。三井石化も1968年11月に泉北酸化エチレンへ70%を出資し、計画に加わった。泉北の各社は1970年4月に営業運転へ入り、5月14日に合同完工式を挙行した。一方で三井東圧はグループ内の競合を避けるためポリエチレンへ進出できず、余るエチレンを外へ売り、足りないプロピレンを他社から融通された。
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [7]合併の最大の課題は大阪石油化学を中心とする泉北のエチレン30万トン計画の実現で、旧両社がともに果たせなかった総合石油化学への進出を意味した
- [8]大阪石油化学は三井・関西石油化学両グループの共同出資会社で、エチレン30万トン計画は1968年4月8日に通産省の認可を受けた
- [9]1967年10月、三井化学・東洋高圧・三井石油化学・三井物産・三井銀行の5社長は、両社の早期合併と三井石油化学との連携強化を通産省へ回答した
- [11]泉北石油化学コンビナートの各社は1970年2月に火入れ、4月に営業運転を始め、5月14日に合同完工式を行った
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [10]三井石油化学工業は三井東圧の泉北計画に協力し、1968年11月に泉北酸化エチレンへ70%を出資した
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- [12]三井東圧は三井石油化学との競合を避けるためポリエチレンに進出しない制約を負い、エチレンを外販し、プロピレンは他センターから融通を受けていた
泉北の操業開始から間もなく、三井東圧化学は1971年9月期に欠損を出して無配に転じた。石油化学と大型肥料設備への投資で借入金が膨らみ、1970年9月期から1972年9月期までは純金利負担が営業利益を上回った。第1次石油危機の前後に肥料と化学品の品不足で収益が戻り、1974年度上期に年1割の配当を再開した。ただ、この回復を支えた尿素輸出は、1976年に入ると数量・価格とも低下した。1976年度に再び無配となり、1977年1月に急逝した末吉俊雄社長の後を副社長の松葉谷誠一氏が継いで減量経営を進めた。同じ1977年1月には千葉工業所のアンモニア・尿素設備の1系列を止め、肥料から生産の縮小に着手した。
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- [13]三井東圧化学は1970年9月期以降に業績が悪化し、1971年9月期は欠損で無配に転じた
- [14]石油化学と肥料の大型投資に伴う借入金で、1970年9月期から1972年9月期まで純金利負担が営業利益を上回った
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [15]第1次石油危機下の化学品と化学肥料の好況で収益が好転し、1974年度上期に年1割配当で復配した
- [16]1974年の尿素輸出価格は1970〜1971年水準の2〜3倍に上がったが、1976年に入ると尿素輸出は量・価格とも大幅に落ち込んだ
- [17]1976年度決算で無配に転落し、1977年1月24日の末吉社長の急逝を受けて1月28日に副社長の松葉谷誠一が社長に就き、減量経営で収支改善を進めた
- [18]尿素輸出の激減を受け、1977年1月に千葉工業所のアンモニア・尿素設備の1系列を停止した
参考文献[1]-[18]
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [1]1968年4月24日調印の合併契約で、東洋高圧工業が存続して三井化学工業が解散し、1968年10月1日に三井東圧化学株式会社へ商号を変えた
- [2]合併比率は三井化学株1株に東洋高圧の新株1株で、新会社は野村末一社長、末吉俊雄・平山威両副社長の体制で発足した
- [4]通産省は1967年にエチレン新設の認可基準を年産30万トンへ引き上げ、同年6月20日に東洋高圧・三井化学の5首脳が早期合併で基本合意した
- [6]合併後の売上高は化学会社のなかで三菱化成、住友化学に次ぐ第3位となった
- [7]合併の最大の課題は大阪石油化学を中心とする泉北のエチレン30万トン計画の実現で、旧両社がともに果たせなかった総合石油化学への進出を意味した
- [8]大阪石油化学は三井・関西石油化学両グループの共同出資会社で、エチレン30万トン計画は1968年4月8日に通産省の認可を受けた
- [9]1967年10月、三井化学・東洋高圧・三井石油化学・三井物産・三井銀行の5社長は、両社の早期合併と三井石油化学との連携強化を通産省へ回答した
- [11]泉北石油化学コンビナートの各社は1970年2月に火入れ、4月に営業運転を始め、5月14日に合同完工式を行った
- [15]第1次石油危機下の化学品と化学肥料の好況で収益が好転し、1974年度上期に年1割配当で復配した
- [16]1974年の尿素輸出価格は1970〜1971年水準の2〜3倍に上がったが、1976年に入ると尿素輸出は量・価格とも大幅に落ち込んだ
- [17]1976年度決算で無配に転落し、1977年1月24日の末吉社長の急逝を受けて1月28日に副社長の松葉谷誠一が社長に就き、減量経営で収支改善を進めた
- [18]尿素輸出の激減を受け、1977年1月に千葉工業所のアンモニア・尿素設備の1系列を停止した
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- [3]合併前の東洋高圧の主力製品は肥料、三井化学の主力は石炭系の化学製品で、両社とも石油化学への進出を迫られていた
- [5]両社の合併は、別々に石油化学へ投資するより三井系として共同で乗り出すほうが効率的という判断によるものだった
- [12]三井東圧は三井石油化学との競合を避けるためポリエチレンに進出しない制約を負い、エチレンを外販し、プロピレンは他センターから融通を受けていた
- [13]三井東圧化学は1970年9月期以降に業績が悪化し、1971年9月期は欠損で無配に転じた
- [14]石油化学と肥料の大型投資に伴う借入金で、1970年9月期から1972年9月期まで純金利負担が営業利益を上回った
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [10]三井石油化学工業は三井東圧の泉北計画に協力し、1968年11月に泉北酸化エチレンへ70%を出資した
1976年〜独自製法のポリプロピレンと、エチレン23万トンを廃棄した浮島への集約
原料高が続くなかで、三井石油化学工業は自社開発の製造技術を競争優位の源に据えた。ポリプロピレンでは他社が米ハイモントの完成技術を導入したのに対し、自社の高密度ポリエチレン技術を土台に独自の製法を固めた。1975年にハイモントと互いの技術を使える提携を結び、翌1976年には生産効率を従来の20倍に高めた製法を確立した。同じ1976年の12月にはポリマー応用研究所を新設し、樹脂の用途開発を研究部門に加えた。一方、1975年度の本業は国内需給の崩れで減産を強いられ、43億7884万円の損失を計上した。ナフサは1970年の1キロリットル約6000円から、1979年末には約5万4000円へ上がった。淡輪就直社長は1980年の年頭、技術力を80年代の競争の焦点に掲げた。
- 日経ビジネス 1993年7月12日号
- [19]三井石化は完成技術を導入せず自社開発の技術にこだわり、その技術を武器に海外の大手と提携して供与を広げる方針をとった
- [20]国内各社が米ハイモントからポリプロピレンの完成技術を導入したのに対し、三井石化は自社の高密度ポリエチレン技術を利用して独自技術の確立に専念した
- [21]1975年に三井石化の独自技術がハイモントに評価されて相互利用の技術提携を結び、1976年に生産効率を従来の20倍に高めたポリプロピレンの製法を確立した
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [22]三井石油化学工業は1976年12月にポリマー応用研究所を開設した
- 『日本企業要覧』1976年版 三井石油化学工業
- [23]1975年度は国内の需給不均衡で大幅な減産を余儀なくされ、原料値上がりを製品価格に転嫁できず43億7884万円の損失を計上した
- 日本経済新聞社『80年代わが社の戦略』三井石油化学工業(1980年)
- [24]ナフサ価格は1970年の1キロリットル約6000円から1979年末に約5万4000円へ、約9倍に上がった
- [25]淡輪就直社長は1980年の年頭所感で、80年代の企業間競争は技術力とその運用で決まるとし、特徴ある技術の創造を最重要課題に掲げた
第2次石油危機のあと、汎用樹脂の過剰設備は業界単位で整理されることになった。1983年5月施行の特定産業構造改善臨時措置法(産構法)は、エチレンやポリオレフィンを特定産業に指定した。施行に先立ち、審議会の小委員会はエチレンで36%の設備処理が要ると見積もっていた。1983年7月1日、三井石油化学工業は三井東圧化学、日本石油化学、三井ポリケミカルと均等に出資し、共同販売会社の三井日石ポリマーを設けた。三井東圧のポリプロピレンは需要が伸びていたため、処理の対象にならなかった。1981年6月に社長となった笠間祐一郎氏のもとで塩化ビニルなど3樹脂を大阪工業所へ寄せ、広島・大竹のコンビナートは閉じて売却した。
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [26]第2次石油危機で構造不況業種の状況は一段と深刻になり、石油化学などで法律に基づく構造改善が始まった
- [27]産構法は1983年5月24日に公布・施行され、エチレン・ポリオレフィン・塩化ビニルなどが特定産業に指定された
- [28]1982年12月の石油化学産業体制小委員会の具申は、エチレンの過剰設備処理量を36%とした
- [30]三井日石ポリマーは1983年7月1日に4社の均等出資、資本金9億円で設立された。三井東圧のポリプロピレンは工業用の需要が伸びており設備処理を要さなかった
- [31]1981年6月に社長に就いた笠間祐一郎のもとで、塩化ビニル・ポリプロピレン・ポリスチレンの3大合成樹脂を大阪工業所へ集約した
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [29]三井石油化学工業は1983年7月、三井東圧化学・日本石油化学・三井・デュポンポリケミカルとともに三井日石ポリマーを設立した
- 日経ビジネス 1988年4月25日号
- [32]三井東圧は3大汎用樹脂の生産集約の過程で、国内初のポリプロピレン操業を担った広島県の大竹コンビナートを閉鎖・売却した
エチレンの設備処理で、三井石油化学工業は生産を浮島石油化学へ一本化した。浮島石油化学は、1967年に日本石油化学と折半出資で設けた会社だった。両社は1983年10月、浮島へエチレン生産を集める事業提携計画をつくり、通産大臣の承認を得た。1984年から1985年にかけ、岩国大竹工場で8万7000トン、千葉工場で14万3000トンのエチレン設備を廃棄した。集約で生じた処理枠のうち2万3000トンは、1系列しか持たない大阪石油化学に回した。1985年3月末に計画を終え、千葉は基礎化学品、岩国大竹は特殊化学品の拠点に改められた。炉を1か所に寄せれば、残す設備の稼働率を保ったまま処理量を満たせると判断したのだろう。
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [33]三井石油化学工業はエチレンプラントをすべて浮島石油化学に集約した
- [34]三井石油化学工業は1967年11月、日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立した
- [36]1984年から1985年にかけ、浮島石油化学の合理化と併せて岩国大竹工場のエチレン8万7000トン、千葉工場の14万3000トンを廃棄し、岩国大竹の9万2000トン設備を休止した
- [38]構造改善計画は1985年3月末に終わり、千葉工場は基礎化学品、岩国大竹工場は特殊化学品の中核拠点に再構築された
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [35]三井石油化学と日本石油化学は1983年10月、浮島石油化学へエチレン生産を集中する事業提携計画を作成し通産大臣の承認を得た
- [37]1系列設備の大阪石油化学は他社からの処理枠融通を必要とし、三井石油化学から2万3000トン、日本石油化学から2万2000トンの枠融通を受けた
参考文献[19]-[38]
- 日経ビジネス 1993年7月12日号
- [19]三井石化は完成技術を導入せず自社開発の技術にこだわり、その技術を武器に海外の大手と提携して供与を広げる方針をとった
- [20]国内各社が米ハイモントからポリプロピレンの完成技術を導入したのに対し、三井石化は自社の高密度ポリエチレン技術を利用して独自技術の確立に専念した
- [21]1975年に三井石化の独自技術がハイモントに評価されて相互利用の技術提携を結び、1976年に生産効率を従来の20倍に高めたポリプロピレンの製法を確立した
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [22]三井石油化学工業は1976年12月にポリマー応用研究所を開設した
- [29]三井石油化学工業は1983年7月、三井東圧化学・日本石油化学・三井・デュポンポリケミカルとともに三井日石ポリマーを設立した
- [33]三井石油化学工業はエチレンプラントをすべて浮島石油化学に集約した
- [34]三井石油化学工業は1967年11月、日本石油化学との折半出資で浮島石油化学を設立した
- [36]1984年から1985年にかけ、浮島石油化学の合理化と併せて岩国大竹工場のエチレン8万7000トン、千葉工場の14万3000トンを廃棄し、岩国大竹の9万2000トン設備を休止した
- [38]構造改善計画は1985年3月末に終わり、千葉工場は基礎化学品、岩国大竹工場は特殊化学品の中核拠点に再構築された
- 『日本企業要覧』1976年版 三井石油化学工業
- [23]1975年度は国内の需給不均衡で大幅な減産を余儀なくされ、原料値上がりを製品価格に転嫁できず43億7884万円の損失を計上した
- 日本経済新聞社『80年代わが社の戦略』三井石油化学工業(1980年)
- [24]ナフサ価格は1970年の1キロリットル約6000円から1979年末に約5万4000円へ、約9倍に上がった
- [25]淡輪就直社長は1980年の年頭所感で、80年代の企業間競争は技術力とその運用で決まるとし、特徴ある技術の創造を最重要課題に掲げた
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [26]第2次石油危機で構造不況業種の状況は一段と深刻になり、石油化学などで法律に基づく構造改善が始まった
- [27]産構法は1983年5月24日に公布・施行され、エチレン・ポリオレフィン・塩化ビニルなどが特定産業に指定された
- [28]1982年12月の石油化学産業体制小委員会の具申は、エチレンの過剰設備処理量を36%とした
- [30]三井日石ポリマーは1983年7月1日に4社の均等出資、資本金9億円で設立された。三井東圧のポリプロピレンは工業用の需要が伸びており設備処理を要さなかった
- [31]1981年6月に社長に就いた笠間祐一郎のもとで、塩化ビニル・ポリプロピレン・ポリスチレンの3大合成樹脂を大阪工業所へ集約した
- [35]三井石油化学と日本石油化学は1983年10月、浮島石油化学へエチレン生産を集中する事業提携計画を作成し通産大臣の承認を得た
- [37]1系列設備の大阪石油化学は他社からの処理枠融通を必要とし、三井石油化学から2万3000トン、日本石油化学から2万2000トンの枠融通を受けた
- 日経ビジネス 1988年4月25日号
- [32]三井東圧は3大汎用樹脂の生産集約の過程で、国内初のポリプロピレン操業を担った広島県の大竹コンビナートを閉鎖・売却した
1985年〜「超石油化学」を掲げた三井石化、電子材料に賭けた三井東圧と、宇部興産とのグランドポリマー
エチレンを浮島へ寄せた同じ1985年の10月、三井石油化学工業は「超石油化学」を目指す経営ビジョンを打ち出した。ビジョンの重点は事業の多角化、高付加価値化、国際化で、1987年10月には袖ケ浦研究開発センターを開設した。1987年には米エクソンケミカルと組み、メタロセン触媒でポリエチレンをつくる技術の共同開発に着手した。1992年に商業化のめどが立ち、1995年4月からは宇部興産へ技術を供与して休止中の同社設備で量産に入る段取りを整えた。研究開発には売上高の約7%を投じ、技術供与で得る技術料は1987年以降、毎年50億円を超えた。汎用品の販売量が減少した1993年3月期には、営業利益129億円の半分近くを技術料で稼いだ。
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [39]三井石油化学工業は1985年10月、「超石油化学」を目指す経営ビジョンを打ち出した
- [40]ビジョンの前提となる施策は事業の多角化、高付加価値化、国際化で、1987年10月に袖ケ浦研究開発センターを開設した
- 日経ビジネス 1995年1月9日号
- [41]三井石化は1987年に米エクソンケミカルとメタロセン触媒を使うポリエチレンの共同開発に着手し、1992年に商業化のめどを立てた
- [42]三井石化は1995年4月から宇部興産にメタロセン触媒の技術を供与し、同社の休止中の量産プラントで年産5万トンの新触媒ポリエチレンを生産する予定だった
- 日経ビジネス 1993年7月12日号
- [43]三井石化は売上高の約7%を研究開発に投じ、1987年以降は毎年技術料だけで50億円以上の収入を上げた
- [44]1993年3月期の営業利益は129億円で、販売量減と市況変動の減益要因を技術料収入56億円が補い、営業利益の半分近くを技術料で稼いだ
同じころ三井東圧化学は、汎用品の合理化を終えて新規事業に資金を回し始めた。1985年度に累積損失を一掃し、1986年度の復配で長い再建に区切りをつけた。1981年に社長となった笠間祐一郎氏は、合併時に約1万2000人いた人員を5500人前後まで減らした。会長に退く際には、技術系の沢村治夫氏を後任の社長に選んだ。1987年度は研究開発に170億円を投じ、その7割強を機能製品とバイオに充てた。電子材料など3分野の新規製品は、1982年3月期の32億円から1988年3月期に450億円へ伸び、売上高の12%強に達した。1991年には世界的な総合化学企業を目指す21世紀ビジョンを定めた。
- 日経ビジネス 1988年4月25日号
- [45]三井東圧は3大汎用樹脂の大阪集約を終え、黒字基調の定着を機に守りから攻めの経営へ転じ、新規製品の拡充を課題とした
- [48]笠間会長は、汎用石油化学への依存を下げる方向を鮮明にするため、技術系出身の沢村治夫を後任社長に抜擢した
- [49]1987年度の研究開発費は170億円(売上高比4.8%)で、その7割強を機能製品とバイオ分野に充てた
- [50]電子材料・機能性新素材・バイオケミカルの新規製品の売上高は1982年3月期の32億円から1988年3月期に450億円へ伸び、売上高の12%強を占めた
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [46]三井東圧は1985年度に累積損失を一掃し、1986年度に復配して再建・基盤整備を一応終えた
- [51]1991年に世界的な総合化学企業を目指す「21世紀ビジョン」を作成した
- 日経ビジネス 1989年7月3日号
- [47]笠間祐一郎会長は再建の過程で、合併当時1万2000人いた人員を5500人ほどまで減らした
汎用樹脂の単独運営は1990年代に入って一段と難しくなり、三井石油化学工業は1995年10月に宇部興産とポリプロピレン事業を統合した。折半出資でグランドポリマーを設け、物流費と開発費を削減して国際競争力を高める狙いだった。ポリプロピレンなどにかかる保護関税は2005年までに軽減される予定で、海外品の流入が見込まれていた。三井東圧化学との合併は1992年ごろに検討されたものの、存続会社をどちらにするかで折り合わず凍結された。1993年6月に社長となった幸田重教氏は、凍結中の合併を変革の最大の課題に据えた。1995年3月期の連結売上高は三井石化が3613億円、三井東圧が4955億円で、合わせても8500億円程度にとどまった。
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [52]三井石油化学工業と宇部興産は1995年、折半出資でグランドポリマーを設立してポリプロピレン事業を一体化し、新会社は同年10月1日に発足した
- [53]グランドポリマーによる事業統合の狙いは物流や開発のコストを削り、国際競争力をつけることにあった
- 日経ビジネス 1996年5月20日号
- [54]ポリプロピレンなど化学品中間材の保護関税は2005年までに軽減され、安い海外品の流入に拍車がかかると見込まれていた
- [55]三井石化と三井東圧化学の合併は1992年ごろに検討されたが、存続会社をどちらにするかなどでもめて合意に至らず凍結となった
- [57]1995年3月期の連結売上高は三井石化3613億円、三井東圧4955億円で、両社が合併しても8500億円程度にとどまるとされた
- 日経ビジネス 1994年1月3日号
- [56]幸田重教は1993年6月に三井石化の社長に就き、凍結している三井東圧化学との合併を変革に向けた最大の仕事とみていた
参考文献[39]-[57]
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- [39]三井石油化学工業は1985年10月、「超石油化学」を目指す経営ビジョンを打ち出した
- [40]ビジョンの前提となる施策は事業の多角化、高付加価値化、国際化で、1987年10月に袖ケ浦研究開発センターを開設した
- [52]三井石油化学工業と宇部興産は1995年、折半出資でグランドポリマーを設立してポリプロピレン事業を一体化し、新会社は同年10月1日に発足した
- [53]グランドポリマーによる事業統合の狙いは物流や開発のコストを削り、国際競争力をつけることにあった
- 日経ビジネス 1995年1月9日号
- [41]三井石化は1987年に米エクソンケミカルとメタロセン触媒を使うポリエチレンの共同開発に着手し、1992年に商業化のめどを立てた
- [42]三井石化は1995年4月から宇部興産にメタロセン触媒の技術を供与し、同社の休止中の量産プラントで年産5万トンの新触媒ポリエチレンを生産する予定だった
- 日経ビジネス 1993年7月12日号
- [43]三井石化は売上高の約7%を研究開発に投じ、1987年以降は毎年技術料だけで50億円以上の収入を上げた
- [44]1993年3月期の営業利益は129億円で、販売量減と市況変動の減益要因を技術料収入56億円が補い、営業利益の半分近くを技術料で稼いだ
- 日経ビジネス 1988年4月25日号
- [45]三井東圧は3大汎用樹脂の大阪集約を終え、黒字基調の定着を機に守りから攻めの経営へ転じ、新規製品の拡充を課題とした
- [48]笠間会長は、汎用石油化学への依存を下げる方向を鮮明にするため、技術系出身の沢村治夫を後任社長に抜擢した
- [49]1987年度の研究開発費は170億円(売上高比4.8%)で、その7割強を機能製品とバイオ分野に充てた
- [50]電子材料・機能性新素材・バイオケミカルの新規製品の売上高は1982年3月期の32億円から1988年3月期に450億円へ伸び、売上高の12%強を占めた
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- [46]三井東圧は1985年度に累積損失を一掃し、1986年度に復配して再建・基盤整備を一応終えた
- [51]1991年に世界的な総合化学企業を目指す「21世紀ビジョン」を作成した
- 日経ビジネス 1989年7月3日号
- [47]笠間祐一郎会長は再建の過程で、合併当時1万2000人いた人員を5500人ほどまで減らした
- 日経ビジネス 1996年5月20日号
- [54]ポリプロピレンなど化学品中間材の保護関税は2005年までに軽減され、安い海外品の流入に拍車がかかると見込まれていた
- [55]三井石化と三井東圧化学の合併は1992年ごろに検討されたが、存続会社をどちらにするかなどでもめて合意に至らず凍結となった
- [57]1995年3月期の連結売上高は三井石化3613億円、三井東圧4955億円で、両社が合併しても8500億円程度にとどまるとされた
- 日経ビジネス 1994年1月3日号
- [56]幸田重教は1993年6月に三井石化の社長に就き、凍結している三井東圧化学との合併を変革に向けた最大の仕事とみていた
1968年〜1996年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,338 | n/a | n/a | 20 | 15 | 1.1% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,342 | +0.3% | n/a | ▲41 | ▲41 | ▲3.1% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,605 | +19.6% | n/a | 28 | 28 | 1.7% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 2,231 | +39.0% | n/a | 48 | 27 | 1.2% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 2,955 | +32.5% | n/a | 97 | 51 | 1.7% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 2,803 | ▲5.1% | n/a | ▲108 | 3 | 0.1% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 3,053 | +8.9% | n/a | ▲121 | ▲91 | ▲3.0% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 3,094 | +1.3% | 77 | ▲114 | ▲44 | ▲1.4% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 3,046 | ▲1.6% | n/a | ▲52 | 11 | 0.4% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 4,059 | +33.3% | n/a | 98 | 91 | 2.2% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 4,182 | +3.0% | n/a | ▲135 | ▲70 | ▲1.7% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 4,333 | +3.6% | n/a | ▲128 | ▲50 | ▲1.2% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 4,204 | ▲3.0% | n/a | ▲97 | 106 | 2.5% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 4,012 | ▲4.6% | n/a | ▲19 | ▲35 | ▲0.9% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 4,092 | +2.0% | n/a | 73 | 21 | 0.5% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | MTC Industries(現Mitsui Chemicals America)を設立(1988/10) |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1995年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1996年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
11件
- 三井東圧化学株式会社『三井東圧化学社史』(1994年)
- 東洋経済新報社『日本会社史総覧』三井石油化学工業の項(1995年)
- 日経ビジネス 1974年8月5日号
- 日経ビジネス 1988年4月25日号
- 日経ビジネス 1989年7月3日号
- 日経ビジネス 1993年7月12日号
- 日経ビジネス 1994年1月3日号
- 日経ビジネス 1995年1月9日号
- 日経ビジネス 1996年5月20日号
- 日本経済新聞社『80年代わが社の戦略』三井石油化学工業(1980年)
- 『日本企業要覧』1976年版 三井石油化学工業