第2章 年〜年

カネカ:カネカロン・発泡樹脂・医薬への多角化

カネカロンの赤字処理からカネエースの企業化へ

1959年〜カネカロン合併の赤字処理と、化粧品・BHC・搾油の整理

別会社で計上した赤字を親会社が引き取る

1960年に貿易の自由化が発表されると羊毛と綿花が値下がりし、繊維の市況は再び悪化した。カネカロン株式会社の累積赤字は、1961年5月期に多額へ膨らんでいた。アクリル繊維の競争にふとん綿でのテトロンの攻勢が加わり、自らリスクを負って作り売るメーカー方式の危うさが表に出た結果である。新設備が十分に動かないまま赤字を重ねる同社は、資金を貸し、借り入れの保証まで与えてきた親会社にとって危うい存在になった。事業を育てるうえでも、外に対する責任を果たすうえでもそれが最善だとして、鐘淵化学工業は1961年に営業譲渡を受けると決めた。販売と加工は5月、生産は10月に引き取ってカネカロン株式会社は清算会社とし、1961年9月期は無配として背水の陣を敷いた。

  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [1]1960年に貿易の自由化が発表されると羊毛・綿花が値下がりし繊維市況が悪化した
    • [2]メーカーのリスクによる製品の生産という危険が現実となり、1961年5月期のカネカロン株式会社の累積赤字は多額に達した
    • [3]鐘化はカネカロン株式会社に多額の資金貸し付けと借り入れ保証を行っており、累積赤字は鐘化にとって危険な存在になっていた
    • [5]1961年9月期は無配とした
  • 日本企業要覧 1980年版「鐘淵化学工業」
    • [4]1961年5月にカネカロン株式会社から営業部門を、同年10月に生産部門を譲り受けた
商標の所有者を理由に育てた事業を手放す

1961年1月31日、鐘淵化学工業は化粧品事業を鐘淵紡績へ譲渡した。化粧品を手放したのは採算のためではなく商標の問題からで、1960年4月以降は商標の持ち主から使用権の許諾を得なければならなくなり、「カネボウ」を所有する鐘紡は専用使用を認めず、通常使用権へ切り替えるよう求めてきた。この事業は鐘紡時代の1940年に始まり、鐘化の発足時には半期で7,000万円ほどの売上高だったが、チェーンシステムによる4,270店の契約店とクィーン会の固定客30万名を築いて、1960年には約9倍にまで拡大していた。店頭には売値に直して5億円分の商品があり、それがいつでも返品できる制度品だったため、名前を変えれば生じる損失は、カネカロンを合併した後の会社では到底抱えきれなかった。鐘紡から引き継いだ製品は、設立以来で10種類以上を整理している。そのなかで、規模でも競争力でもなく名前の持ち主を理由に降ろした事業はこれだけだった。

  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [6]1961年1月31日に化粧品事業を分離し鐘淵紡績へ譲渡した
    • [7]1960年4月から商標所有者との間に使用権の許諾を求めることが必要となり、鐘紡は「カネボウ」の専用使用を断って通常使用権への変更を申し入れた
    • [8]化粧品は1940年に鐘紡の薬化物研究所で始まり、鐘化創立当初の売上高は半期7,000万円程度、契約店4,270店とクィーン会の固定客30万名を確保して1960年の売上高は創立当初の約9倍に伸びた
    • [9]市場には売値換算で5億円のカネボウ化粧品があり、返品できる制度品であったため名称変更による損失は負担しきれない額であった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [10]設立以来、鐘紡から継承した製品を10種類以上整理してきた
塩素の行き先を殺虫剤から塩ビへ振り替える

1959年12月、鐘淵化学工業はBHCの生産を打ち切った。BHCは鐘紡時代から研究していた殺虫剤で、1948年の製造開始後は原沫で業界第一位にあった。ガンマ分だけを取り出したリンデンの生産は1952年に月産1,000トンに達し、業界一の量となった。これに先立つ1950年8月には、日光に頼っていた照射を人工光線に改め、天候に左右されずに操業できるようにしていた。だが朝鮮動乱が休戦し、ホリドールが現れ、塩素の処理に困った各社が参入したことで供給が過剰になり、収益は落ち込んだ。打ち切りを決めた直接のきっかけは塩素の確保で、高砂工業所で塩ビを作ることになったため、塩素をそちらへ回す必要が出てきた。設備は江戸川化学に譲渡し、従業員は塩ビとカネカロンの部門へ配置した。大豆の輸入が自由化されて原料高・製品安に陥っていた搾油事業も、1962年3月に操業を止めている。

  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [11]BHC粉剤は月産能力2,000トンになっていたが1959年12月に生産を打ち切った
    • [13]1950年8月から人工光線法の実験を開始して技術を確立し、1952年にはリンデンを月産1,000トン能力で製造して業界一の生産をあげた
    • [14]高砂工業所でも塩ビを製造することになり塩素確保の必要からBHC事業を中止し、設備は江戸川化学へ譲渡、従業員は塩ビとカネカロンへ移した
    • [15]搾油事業は1962年3月15日に操業を中止した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [12]BHCは1948年から製造を開始し、原沫で業界第一位にあった
参考文献[1]-[15]
  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [1]1960年に貿易の自由化が発表されると羊毛・綿花が値下がりし繊維市況が悪化した
    • [2]メーカーのリスクによる製品の生産という危険が現実となり、1961年5月期のカネカロン株式会社の累積赤字は多額に達した
    • [3]鐘化はカネカロン株式会社に多額の資金貸し付けと借り入れ保証を行っており、累積赤字は鐘化にとって危険な存在になっていた
    • [5]1961年9月期は無配とした
    • [6]1961年1月31日に化粧品事業を分離し鐘淵紡績へ譲渡した
    • [7]1960年4月から商標所有者との間に使用権の許諾を求めることが必要となり、鐘紡は「カネボウ」の専用使用を断って通常使用権への変更を申し入れた
    • [8]化粧品は1940年に鐘紡の薬化物研究所で始まり、鐘化創立当初の売上高は半期7,000万円程度、契約店4,270店とクィーン会の固定客30万名を確保して1960年の売上高は創立当初の約9倍に伸びた
    • [9]市場には売値換算で5億円のカネボウ化粧品があり、返品できる制度品であったため名称変更による損失は負担しきれない額であった
    • [11]BHC粉剤は月産能力2,000トンになっていたが1959年12月に生産を打ち切った
    • [13]1950年8月から人工光線法の実験を開始して技術を確立し、1952年にはリンデンを月産1,000トン能力で製造して業界一の生産をあげた
    • [14]高砂工業所でも塩ビを製造することになり塩素確保の必要からBHC事業を中止し、設備は江戸川化学へ譲渡、従業員は塩ビとカネカロンへ移した
    • [15]搾油事業は1962年3月15日に操業を中止した
  • 日本企業要覧 1980年版「鐘淵化学工業」
    • [4]1961年5月にカネカロン株式会社から営業部門を、同年10月に生産部門を譲り受けた
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [10]設立以来、鐘紡から継承した製品を10種類以上整理してきた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
    • [12]BHCは1948年から製造を開始し、原沫で業界第一位にあった

1963年〜建設費で選んだ第二の樹脂カネエースと、塩ビ原料の石油化学転換

建てられる樹脂から第二の柱を選ぶ

ABSは建設費が少なくて済み収益力も高いうえ、重合方法がカネカロンと同じ乳化重合なので、止まっていたカネカロンの設備を転用できる樹脂だった。塩ビと肩を並べる樹脂としてはポリエチレンかポリスチレンを選ぶのが筋だったが、いずれも大きな設備と巨額の建設費が要り、カネカロン株式会社を合併して損失を償却している最中の同社には手が出せなかった。こうして1963年、鐘淵化学工業は塩化ビニールに続く第二の合成樹脂としてABS樹脂の企業化を決めた。製造条件は1963年7月に高砂工業所へ置いた月産55トンの試験設備で固め、同じ月に本プラントの建設に入り、1964年2月に月産250トンで生産が始まった。商品名は会社のエースになるという期待を込めてカネエースとされた。

  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [16]ABSは建設費が少なく収益力も高いうえ、重合方法がカネカロンと同じ乳化重合であるためカネカロンの遊休設備を利用できた
    • [17]塩ビに匹敵する樹脂はポリエチレンかポリスチレンだが、いずれも大規模設備と巨額の建設費を必要とし、カネカロン株式会社を合併して損失を償却しなければならない時期には不可能であった
    • [18]ABSの企業化は1963年に決定された
    • [19]1963年7月に高砂工業所内へ月産55トンのテストプラントを設け、同月本プラントに着手して1964年2月に月産250トンの設備を完成し生産を開始した
    • [20]商品名は鐘化のエースとなるとの期待をもってカネエースと名づけられた
塩ビの販売網を新しい樹脂の開発装置に使う

カネエースには、そのまま成型するストレートタイプと、塩ビに混ぜるブレンドタイプの二つがあった。伸ばしたのは後者である。企業化の前後に約10社が一斉にABSへ出たため、品質に大きな差の出ないストレートタイプの市場は最初から値下げ競争で混乱した。ブレンド用のカネエースBは、塩ビの透明性を損なわずに耐衝撃性を加える樹脂で、瓶や化成品用途に広く使われ、国内で同じ型を手がけていたのは宇部サイコンと住友ノガタックだけだった。この製品は、研究開発の段階から塩ビの販売網を通じて加工業者の助言を受け、それを研究部門へ戻すことで作られている。塩ビの技術サービスで築いた加工メーカーとのつながりが、そのまま次の樹脂を設計する装置として働いた。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [21]カネエースにはストレートタイプ(Sタイプ)と塩ビへのブレンド用(Bタイプ)があった
    • [23]Bタイプは塩ビと混合して透明性を与え耐衝撃性を加えるもので、瓶や化学用途に幅広く使用され、国内で手がけていたのは鐘淵化学・宇部サイコン・住友ノガタックであった
  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [22]鐘化の企業化前後に約10社が一斉にABSへ参入し、品質上大きな差のないストレートタイプの市場は値下げ競争で混乱した
    • [24]カネエースBは研究開発の段階から塩ビの販売網を通じてユーザの助言を得て研究部門にフィードバックし、需要家の要求にかなった品質をつくることができた
主柱の原料だけは社運を賭けて入れ替える

カーバイドを原料とする限り値下がりは見込めず、塩ビのコスト低減にも限界があった。これに対してエチレンは、工場が大きくなるほど安くなると期待できた。鐘淵化学工業は1967年6月、塩ビモノマーの原料をエチレンに替えると決め、米スタウファーケミカル社のオキシクロリネーション法の採用を発表した。社内ではナフサを分解するウルフ法を有利とみる声が強く意見も割れたが、通産省がエチレン認可の基準を一工場年産30万トンへ引き上げたことと、液化してタンカーで運ぶ技術が確立したことにより、石油化学コンビナートの外の会社でも安価な原料を調達する見通しが立った。1968年12月、高砂工業所に年産12万トンの設備が完成し、カーバイド法とEDC法の設備は全面的に休止する。工事はモノマー関係だけで50億円、関連工事を含めて百数十億円に達した。

  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [25]カーバイドは値下がりが期待できないため塩ビのコスト低減に限度があり、エチレンは工場規模の大型化に応じて値下がりが期待できた
    • [26]1967年6月にオキシクロリネーション法の採用に踏み切り、米スタウファーケミカル社から技術を導入することとして同年8月に技術導入契約へ調印した
    • [27]1967年に通産省がエチレンの認可基準を一工場年産30万トンとし、エチレンを液化してタンカーで運ぶ技術が確立したことで、コンビナート外での石油化学進出が可能になった
    • [28]1968年12月に高砂工業所で年産12万トンのオキシクロリネーション法塩ビモノマー工場が完成し、従来のカーバイド法・EDC法の設備は全面的に休止した
    • [29]工事に要した資金はモノマー関係だけで50億円、関連工事をあわせると百数十億円に達し、計画立案当時の資本金は43億8,000万円であった
参考文献[16]-[29]
  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [16]ABSは建設費が少なく収益力も高いうえ、重合方法がカネカロンと同じ乳化重合であるためカネカロンの遊休設備を利用できた
    • [17]塩ビに匹敵する樹脂はポリエチレンかポリスチレンだが、いずれも大規模設備と巨額の建設費を必要とし、カネカロン株式会社を合併して損失を償却しなければならない時期には不可能であった
    • [18]ABSの企業化は1963年に決定された
    • [19]1963年7月に高砂工業所内へ月産55トンのテストプラントを設け、同月本プラントに着手して1964年2月に月産250トンの設備を完成し生産を開始した
    • [20]商品名は鐘化のエースとなるとの期待をもってカネエースと名づけられた
    • [22]鐘化の企業化前後に約10社が一斉にABSへ参入し、品質上大きな差のないストレートタイプの市場は値下げ競争で混乱した
    • [24]カネエースBは研究開発の段階から塩ビの販売網を通じてユーザの助言を得て研究部門にフィードバックし、需要家の要求にかなった品質をつくることができた
    • [25]カーバイドは値下がりが期待できないため塩ビのコスト低減に限度があり、エチレンは工場規模の大型化に応じて値下がりが期待できた
    • [26]1967年6月にオキシクロリネーション法の採用に踏み切り、米スタウファーケミカル社から技術を導入することとして同年8月に技術導入契約へ調印した
    • [27]1967年に通産省がエチレンの認可基準を一工場年産30万トンとし、エチレンを液化してタンカーで運ぶ技術が確立したことで、コンビナート外での石油化学進出が可能になった
    • [28]1968年12月に高砂工業所で年産12万トンのオキシクロリネーション法塩ビモノマー工場が完成し、従来のカーバイド法・EDC法の設備は全面的に休止した
    • [29]工事に要した資金はモノマー関係だけで50億円、関連工事をあわせると百数十億円に達し、計画立案当時の資本金は43億8,000万円であった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
    • [21]カネエースにはストレートタイプ(Sタイプ)と塩ビへのブレンド用(Bタイプ)があった
    • [23]Bタイプは塩ビと混合して透明性を与え耐衝撃性を加えるもので、瓶や化学用途に幅広く使用され、国内で手がけていたのは鐘淵化学・宇部サイコン・住友ノガタックであった

1961年〜ベルコ・RNPの企業化と、MBS樹脂の欧州生産

需要家と組んで発酵と油脂を事業にする

1961年12月、鐘淵化学工業は高砂工業所に月産100トンの設備を建て、高級製菓用油脂ベルコの生産を始めた。常温では固く口に入れるととける洋菓子の原料で、1958年から研究を続け、大手製菓会社との共同研究を重ねて企業化したものである。翌1962年6月には、同じ高砂の埋立地に月産600トンのRNP工場が完成した。RNPは武田薬品工業の複合調味料「いの一番」の原料で、リボ核酸を約15%含む酵母である。鐘化のイースト課がパン酵母の核酸を調べていたところへ、1960年夏に武田薬品から原料酵母を作れないかという話が持ち込まれて始まった。建設費は鐘化が約10億円、武田薬品が約20億円。カネカロンの赤字処理の最中に打った投資だった。

  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1961年12月に高級製菓用油脂の製造を開始した
  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [31]高級製菓用油脂ベルコは1958年から研究を進め、モデルプラントによる試験生産と大手製菓会社との共同研究を経て1961年に企業化が決定し、月産100トンの本プラントが高砂工業所内に完成した
    • [32]RNP工場は1962年6月に高砂工業所の埋立地へ月産600トンで完成した
    • [33]RNPは武田薬品工業の複合調味料「いの一番」の原料で約15%のリボ核酸を含む酵母であり、1960年夏に武田薬品から原料酵母の生産を打診されて始まった
    • [34]RNP工場の建設には鐘化が約10億円、武田薬品工業が約20億円を要した
製品ではなく製パンの技術を販売する体制を組む

食用油脂では、鐘淵化学工業は実質的に後発の位置にあった。1952年に本格進出を打ち出したときには大手との差が大きく開いており、1950年代後半からは量の確保に集中する。1960年に連続精製装置、1961年に脱臭装置を入れて業務用マーガリンの月産能力を1,050トンから1,500トンへ引き上げ、販売員をパン学校へ派遣して製パン・製菓の技術を習得させた。1963年には業務用マーガリンで業界3位、市場占有率14.5%に達している。営業部門に技術者を配属し、需要家の求める新品種を作り、その油脂を使えばどういうパンや菓子ができるかを販売員が説明して回る「技術を売る体制」は、大手需要家と長く接触を重ねてきたことの上に組み上げられたものだった。1970年3月期の食油の売上高は40億7,259万円で、全体の13.6%を占めた。

  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [35]鐘化の食用油脂事業は実質的に後発メーカーの位置にあり、1952年に本格的進出を打ち出した時点で大手メーカーとの差が大きく開いていた
    • [36]1960年に連続精製装置、1961年に脱臭装置を設置してマーガリンの月産能力を1,050トンから1,500トンへ増強し、販売員をパン学校へ派遣して製パン・製菓技術を習得させた
    • [37]1963年に業務用マーガリンは業界3位、市場占有率14.5%に達した
    • [38]営業部門に技術者を配属して需要家の希望する新製品を開発し、販売員が用途を説明して製パン・製菓メーカーの商品製造に協力する「技術を売る体制」を重点管理事項として掲げた
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [39]1970年3月期の食油の売上高は40億7,259万2,000円で構成比13.6%であった
輸出で市場を開拓してから欧州に工場を建てる

1970年12月、鐘淵化学工業はベルギーにカネカベルギーN.V.を設立した。塩ビに混ぜるMBS樹脂を現地で作る会社で、生産の開始は1973年10月である。立ち上がりは石油危機と重なって低操業にあえぎ、黒字に転じたのは1978年3月期だった。転機になったのは、欧州の家庭で飲まれるミネラルウォーターの容器が、重くて割れるガラス瓶から塩ビのボトルへ替わったことである。塩ビは軽く透明性に優れるが衝撃に弱く、その弱点を透明度を損なわずに補うのがMBS樹脂だった。1981年には年2万2,000トンを生産し、東欧を含む欧州15カ国へ輸出して、欧州市場の約50%を占めるに至る。現地生産に踏み切る前から輸出で市場を開いておき、販売ルートができてから工場を建てるという順序で作られた拠点である。

  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1970年12月にベルギーにカネカベルギーN.V.を設立した
  • 日経ビジネス 1981年12月14日号
    • [41]カネカ・ベルギーは塩ビ強化剤「MBS樹脂」を生産する会社で、1973年10月に現地生産を開始した
    • [42]1973年10月の立ち上がりはオイルショックと重なって低操業となり、黒字転換は1978年3月期であった
    • [43]欧州ではミネラルウォーターの容器がガラス瓶から塩ビ製のボトルへ替わり、塩ビの透明度を損なわずに強度を増すMBS樹脂の需要が伸びた
    • [44]1981年時点でMBS樹脂を年間2万2,000トン生産し、東欧を含む欧州15カ国へ輸出して欧州全体のシェアは約50%であった
    • [45]カネカ・ベルギー設立以前から輸出に力を入れて欧州市場を開拓しており、現地生産を開始した時点で販売ルートが確立していた
参考文献[30]-[45]
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1961年12月に高級製菓用油脂の製造を開始した
    • [40]1970年12月にベルギーにカネカベルギーN.V.を設立した
  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
    • [31]高級製菓用油脂ベルコは1958年から研究を進め、モデルプラントによる試験生産と大手製菓会社との共同研究を経て1961年に企業化が決定し、月産100トンの本プラントが高砂工業所内に完成した
    • [32]RNP工場は1962年6月に高砂工業所の埋立地へ月産600トンで完成した
    • [33]RNPは武田薬品工業の複合調味料「いの一番」の原料で約15%のリボ核酸を含む酵母であり、1960年夏に武田薬品から原料酵母の生産を打診されて始まった
    • [34]RNP工場の建設には鐘化が約10億円、武田薬品工業が約20億円を要した
    • [35]鐘化の食用油脂事業は実質的に後発メーカーの位置にあり、1952年に本格的進出を打ち出した時点で大手メーカーとの差が大きく開いていた
    • [36]1960年に連続精製装置、1961年に脱臭装置を設置してマーガリンの月産能力を1,050トンから1,500トンへ増強し、販売員をパン学校へ派遣して製パン・製菓技術を習得させた
    • [37]1963年に業務用マーガリンは業界3位、市場占有率14.5%に達した
    • [38]営業部門に技術者を配属して需要家の希望する新製品を開発し、販売員が用途を説明して製パン・製菓メーカーの商品製造に協力する「技術を売る体制」を重点管理事項として掲げた
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [39]1970年3月期の食油の売上高は40億7,259万2,000円で構成比13.6%であった
  • 日経ビジネス 1981年12月14日号
    • [41]カネカ・ベルギーは塩ビ強化剤「MBS樹脂」を生産する会社で、1973年10月に現地生産を開始した
    • [42]1973年10月の立ち上がりはオイルショックと重なって低操業となり、黒字転換は1978年3月期であった
    • [43]欧州ではミネラルウォーターの容器がガラス瓶から塩ビ製のボトルへ替わり、塩ビの透明度を損なわずに強度を増すMBS樹脂の需要が伸びた
    • [44]1981年時点でMBS樹脂を年間2万2,000トン生産し、東欧を含む欧州15カ国へ輸出して欧州全体のシェアは約50%であった
    • [45]カネカ・ベルギー設立以前から輸出に力を入れて欧州市場を開拓しており、現地生産を開始した時点で販売ルートが確立していた

1960年〜1984年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1960年03月期 単体 98 n/a n/a 5 5.1% 高砂工業所に「カネビニール」プラントが完成・稼働(1960)
1961年03月期 単体 119 +21.4% n/a 6 5.0% n/a
1962年03月期 単体 155 +30.3% n/a 0 0.0% n/a
1963年03月期 単体 170 +9.7% n/a ▲2 ▲1.2% n/a
1964年03月期 単体 213 +25.3% n/a 3 1.4% n/a
1965年03月期 単体 239 +12.2% n/a 4 1.7% n/a
1966年03月期 単体 236 ▲1.3% n/a 4 1.7% n/a
1967年03月期 単体 291 +23.3% n/a 5 1.7% n/a
1968年03月期 単体 344 +18.2% n/a 9 2.6% n/a
1969年03月期 単体 404 +17.4% n/a 14 3.5% n/a
1970年03月期 単体 544 +34.7% n/a 26 4.8% n/a
1971年03月期 単体 685 +25.9% 77 38 5.5% 鹿島工場が竣工(1970/11)カネカアメリカを設立(1971)
1972年03月期 単体 617 ▲9.9% 21 14 2.3% n/a
1973年03月期 単体 641 +3.9% 18 13 2.0% n/a
1974年03月期 単体 914 +42.6% 59 22 2.4% n/a
1975年03月期 単体 1,030 +12.7% 38 20 1.9% 子会社栃木カネカを設立(1974/10)
1976年03月期 単体 1,036 +0.6% 2 6 0.6% n/a
1977年03月期 単体 1,231 +18.8% 25 12 1.0% n/a
1978年03月期 単体 1,238 +0.6% 16 ▲5 ▲0.4% n/a
1979年03月期 単体 1,289 +4.1% 55 17 1.3% 海外子会社カネカシンガポールを設立(1979/01)
1980年03月期 単体 1,653 +28.2% 85 40 2.4% n/a
1981年03月期 単体 1,652 ▲0.1% 41 28 1.7% n/a
1982年03月期 単体 1,600 ▲3.1% 22 13 0.8% n/a
1983年03月期 単体 1,587 ▲0.8% 35 20 1.3% n/a
1984年03月期 単体 1,842 +16.1% 87 23 1.2% n/a

出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • カネカ 有価証券報告書【沿革】
  • 変革と創造 鐘淵化学20年史(鐘淵化学工業、1970年)
  • 会社銀行八十年史(1955年)「鐘淵化学工業」
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 証券アナリストジャーナル 1967年8月号(大澤孝)
  • 日経ビジネス 1981年12月14日号
  • 日本企業要覧 1980年版「鐘淵化学工業」

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