第2章 年〜年

大王製紙:1962年の会社更生手続申立と更生計画による再建

支払手形の廃止による臨海工場400億円の建設

1958年〜神武景気の反動と原木高が断ち切った資金繰り

紙の需要は1955年以降急速に伸び、紙パルプ業界の各社はそろって設備を増やしていた。神武景気が終わるとすぐ反動が来て、三島工場の高速抄紙機が不調から抜け出せないなか、1958年6月ごろから同社の経営は行き詰まり始めた。1959年から1960年にかけての岩戸景気で多少持ち直すと、抄紙機をもっと生かすためにクラフトパルプとセミケミカルパルプの設備を増やし、1960年にはパルプ設備と段ボール原紙抄紙機の改造・新設にも手をつけた。同社の増設は単独の決断というより、業界全体の流れに沿ったものだった。

  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [1]1955年以降に紙の需要が急速に拡大し、紙パルプ業界各社がともに設備増強を行った
    • [5]1960年にパルプ設備、段ボール原紙抄紙機の改造・新設を行った
  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [2]抄紙機の不調が続くうちに神武景気が終焉し、その反動で1958年6月ごろから経営が苦しくなった
    • [3]1959年から1960年の岩戸景気でいくらか息を吹き返した
    • [4]抄紙機をさらに有効に活用するためクラフト・パルプやセミケミカル・パルプの増設を行った

1961年10月、同社は大阪・東京両証券取引所の市場第一部に上場した。それより前、このパルプ設備が仕上がったころに木材は異常な高値となり、建築用材にも事欠くほどで、池田勇人首相が河野一郎農相に命じて全国の国有林の払い下げを進めさせ、林道づくりも急がせて値上がりを抑えようとした。神武・岩戸景気の反動で紙の値は下がったが、原木の高値は収まらなかった。1960年秋から1962年春まで続いた原木価格の異常な高騰、過剰生産による製品安、設備投資で膨らんだ借入金の金利がのしかかり、同社は上場の裏で資金繰りに行き詰まっていた。金融引き締めのあおりが、逼迫に拍車をかけた。

  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1961年10月に大阪・東京両証券取引所の市場第一部へ上場した
  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [7]パルプ設備が完成したころに木材が異常高値となり建築材にも困る状況となった
    • [8]当時の池田首相が河野農相に指示して木材の高値を沈静化させるため全国の国有林払い下げを促進し、そのための林道建設を急ぐこととなった
    • [9]神武・岩戸景気の反動による紙の値下がりと原木高がそのまま続く状況となった
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [10]1960年秋から1962年春までの原木価格の異常高騰と過剰生産による製品価格の値下がり、設備投資に伴う借入金金利の増大により資金繰りに窮した
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [11]金融引き締めのあおりを受けて資金繰りがひっ迫したところへ製品の市況軟化と原料の原木高で収益も急激に悪化していた

1961年の年末をどう越すかという状態になった。当時の資本金は24億円、半期の売上高は40億円ほどである。井川伊勢吉氏が手を尽くして資金を集めても、5月7日に期日を迎える1億6,900万円の手形には3,900万円が足りなかった。破綻を免れるため、伊勢吉氏は取引先の伊藤忠商事に救いを求め、見返りとして経営陣の総退陣と一族持株の全面的な譲渡を差し出した。伊藤忠商事は伊豫銀行・江商という大口債権者と交渉を続け、1962年5月4日には3社が朝から晩まで協議した。しかし、再建資金をどこがどれだけ持つかで合意には至らなかった。5月に会社更生手続の開始が申し立てられ、6月に開始決定が下りている。

  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [12]1961年初めごろから岩戸景気のブームが去り紙の売れ行きが悪く値下がりする一方、原木は高値のままで年末をどう越すか難しい状態となった
    • [13]当時の資本金は24億円、半期売上高は40億円程度であった
    • [15]経営破たんを救うために取引先の伊藤忠商事へ「経営陣が総退陣し、一族の持っている株式を全部伊藤忠へ譲るから救済してもらいたい」と頼みに行った
    • [16]1962年5月4日に伊藤忠商事・伊豫銀行・江商の3社で終日話し合ったが、伊豫銀行が必要資金の全額拠出に応じず話はつかなかった
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [14]5月7日に落とすべき1億6,900万円の手形に対し、井川伊勢吉が駆け回っても3,900万円ほど足りなかった
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1962年5月に会社更生手続開始を申し立て、同年6月に開始決定を受けた
参考文献[1]-[17]
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [1]1955年以降に紙の需要が急速に拡大し、紙パルプ業界各社がともに設備増強を行った
    • [5]1960年にパルプ設備、段ボール原紙抄紙機の改造・新設を行った
    • [10]1960年秋から1962年春までの原木価格の異常高騰と過剰生産による製品価格の値下がり、設備投資に伴う借入金金利の増大により資金繰りに窮した
  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [2]抄紙機の不調が続くうちに神武景気が終焉し、その反動で1958年6月ごろから経営が苦しくなった
    • [3]1959年から1960年の岩戸景気でいくらか息を吹き返した
    • [4]抄紙機をさらに有効に活用するためクラフト・パルプやセミケミカル・パルプの増設を行った
    • [7]パルプ設備が完成したころに木材が異常高値となり建築材にも困る状況となった
    • [8]当時の池田首相が河野農相に指示して木材の高値を沈静化させるため全国の国有林払い下げを促進し、そのための林道建設を急ぐこととなった
    • [9]神武・岩戸景気の反動による紙の値下がりと原木高がそのまま続く状況となった
    • [12]1961年初めごろから岩戸景気のブームが去り紙の売れ行きが悪く値下がりする一方、原木は高値のままで年末をどう越すか難しい状態となった
    • [13]当時の資本金は24億円、半期売上高は40億円程度であった
    • [15]経営破たんを救うために取引先の伊藤忠商事へ「経営陣が総退陣し、一族の持っている株式を全部伊藤忠へ譲るから救済してもらいたい」と頼みに行った
    • [16]1962年5月4日に伊藤忠商事・伊豫銀行・江商の3社で終日話し合ったが、伊豫銀行が必要資金の全額拠出に応じず話はつかなかった
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1961年10月に大阪・東京両証券取引所の市場第一部へ上場した
    • [17]1962年5月に会社更生手続開始を申し立て、同年6月に開始決定を受けた
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [11]金融引き締めのあおりを受けて資金繰りがひっ迫したところへ製品の市況軟化と原料の原木高で収益も急激に悪化していた
    • [14]5月7日に落とすべき1億6,900万円の手形に対し、井川伊勢吉が駆け回っても3,900万円ほど足りなかった

1962年〜工場を止めない更生手続と、失った上場資格

管財人が着任するまでの2か月間、工場を動かし続けてほしい――申請したその日の夕方、井川伊勢吉氏は会社と労働組合の幹部を呼び寄せてこう求めた。その間の賃金・給料は私財から出し、退職金については工場の資材を差し押さえて担保に充ててよいと伊勢吉氏は申し出た。資金の手当てこそ断ったものの、新聞社や段ボール会社といった取引先は紙の購入を続けると約束した。労組もこの申し出を快く受け入れ、24時間回る工場が止まることは一度もなかった。更生法を申請してからも操業は途切れず、7月、つまり申請から2か月後には減価償却を済ませたうえで利益が出る状態になった。更生手続が始まると同時に伊勢吉氏は社長を退き、取締役の一人にとどまっている。

  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [18]会社更生法を申請した日の夕方に会社の幹部と労働組合の幹部に集まってもらい事情を説明した
    • [19]管財人が出てくるまでの2か月間は工場を止めないでほしい、その間の賃金・給料は個人ででも出す、退職金は工場の資材を差し押さえておいてでも操業を継続してほしいと頼んだ
    • [20]販売先の新聞社や段ボール会社が「資金の援助はできないが、紙を買ってやろう」と応援してくれた
    • [21]労働組合も快く同調し、24時間操業の工場を休むことなく続けることができた
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [22]工場は会社更生法申請後も一日も休まず操業を続け、2か月後の7月からは償却後の段階で黒字に転換した
    • [23]井川伊勢吉は更生手続き開始と同時に社長から一介の取締役に引き下がった

代償は会社の外側で払われた。大王製紙の手形を裏書きしていた子会社の愛媛製紙と大津板紙は連鎖倒産した。この年に入社した長男の井川高雄氏は愛媛製紙へ資材部長として派遣され、債権を棚上げしてもらったうえで、同じ相手から引き続き原料を入れてもらう仕事に就いた。頭を下げれば棚上げは頼めるが、その相手から原料が入らなければ工場が動かない。翌1963年3月には、同じく連鎖倒産した大津板紙へ再出向し、悪質金融業者に流れた手形の回収と、故紙業者からライナーの原料を入れてもらう交渉に当たった。株式は1963年12月に大阪・東京両証券取引所で上場廃止となり、翌1964年1月に日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄へ移った。

  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [24]大王製紙の手形の裏書きをしたため子会社の愛媛製紙と大津板紙が連鎖倒産した
    • [25]井川高雄は愛媛製紙に資材部長として派遣され、債権を棚上げしてもらったうえで引き続き原料を入れてもらう仕事を担った
    • [26]債権の棚上げは頭を下げれば足りるが、同じ相手に原料を入れてもらわない限り工場が動かないという問題があった
    • [27]1963年3月に大津板紙へ再出向し、悪質金融業者に流れた手形の回収と故紙業者からライナー原料を入れてもらう仕事に当たった
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1963年12月に大阪・東京両証券取引所で上場廃止となった
    • [29]1964年1月に日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄に指定された

原木価格は1962年6月から7月ごろにようやく下がり始め、秋に新聞用紙が値上げされたことも重なって、同社は立ち直るきっかけをつかんだ。原木が落ち着き製品の値も安定すると、業績は確実に持ち直した。1964年4月に更生計画案の認可を得て、1965年4月には更生手続終結の決定が下りた。開始決定からの期間は2年10か月である。終結と同時に、伊勢吉氏は地元と労働組合から請われる形で社長に戻った。再建の決め手は、市況が向きを変えたことだった。行き詰まりの原因が需要の消滅ではなく資金繰りにあったからこそ、工場を止めないという選択がそのまま再建の速さになったのだろう。

  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [30]1962年6〜7月ごろから原木価格が下がり始め、その秋には新聞用紙の値上げもあって再起することができた
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [31]原木価格が沈静化し製品価格が安定したことから業績は着実に回復した
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1964年4月に更生計画案が認可された
    • [33]1965年4月に更生手続終結の決定を受けた
    • [34]1962年6月の更生手続開始決定から1965年4月の終結決定まで2年10か月
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [35]井川伊勢吉は1965年の更生計画終結と同時に地元及び労組に乞われる形で社長に復帰した
参考文献[18]-[35]
  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [18]会社更生法を申請した日の夕方に会社の幹部と労働組合の幹部に集まってもらい事情を説明した
    • [19]管財人が出てくるまでの2か月間は工場を止めないでほしい、その間の賃金・給料は個人ででも出す、退職金は工場の資材を差し押さえておいてでも操業を継続してほしいと頼んだ
    • [20]販売先の新聞社や段ボール会社が「資金の援助はできないが、紙を買ってやろう」と応援してくれた
    • [21]労働組合も快く同調し、24時間操業の工場を休むことなく続けることができた
    • [30]1962年6〜7月ごろから原木価格が下がり始め、その秋には新聞用紙の値上げもあって再起することができた
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [22]工場は会社更生法申請後も一日も休まず操業を続け、2か月後の7月からは償却後の段階で黒字に転換した
    • [23]井川伊勢吉は更生手続き開始と同時に社長から一介の取締役に引き下がった
    • [24]大王製紙の手形の裏書きをしたため子会社の愛媛製紙と大津板紙が連鎖倒産した
    • [25]井川高雄は愛媛製紙に資材部長として派遣され、債権を棚上げしてもらったうえで引き続き原料を入れてもらう仕事を担った
    • [26]債権の棚上げは頭を下げれば足りるが、同じ相手に原料を入れてもらわない限り工場が動かないという問題があった
    • [27]1963年3月に大津板紙へ再出向し、悪質金融業者に流れた手形の回収と故紙業者からライナー原料を入れてもらう仕事に当たった
    • [35]井川伊勢吉は1965年の更生計画終結と同時に地元及び労組に乞われる形で社長に復帰した
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1963年12月に大阪・東京両証券取引所で上場廃止となった
    • [29]1964年1月に日本証券業協会大阪地区協会の店頭登録銘柄に指定された
    • [32]1964年4月に更生計画案が認可された
    • [33]1965年4月に更生手続終結の決定を受けた
    • [34]1962年6月の更生手続開始決定から1965年4月の終結決定まで2年10か月
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [31]原木価格が沈静化し製品価格が安定したことから業績は着実に回復した

1965年〜埋立地の臨海工場と、手形を振り出さない資金の組み方

更生終結の翌月、同社は第1回の元利金6億9,000万円を支払った。それでもある程度の資金が残ったため、これを基に三島工場へ新聞用紙抄紙機を1台増設した。製作は三菱重工業が米国のベロイト社と提携して行ったもので、続く3年間に川之江工場へライナー抄紙機1台、三島工場へ新聞抄紙機2台を加え、パルプ設備も広げた。更生手続終結後の事業の柱は新聞用紙と段ボール原紙だった。配当も1970年12月の決算期から再開し、1970年から1971年ごろには国内製紙業界の中堅どころとして一人前の姿になった。

  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [36]更生終結の翌月に第1回の元利金6億9,000万円を支払った
    • [37]第1回弁済後に残った資金を基に三島工場へ新聞用紙抄紙機1台を増設した
    • [38]増設した抄紙機は三菱重工が米国のベロイト社と提携してつくった三菱ベロイト抄紙機であった
    • [39]その後の3年間に川之江工場にライナー抄紙機1台、三島工場に新聞抄紙機2台を増設し、パルプの設備も拡充した
    • [41]1970年12月の決算期から配当も復活した
    • [42]1970〜1971年ごろには日本の製紙業界で中堅の製紙会社として一人前らしくなった
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [40]更生手続終結後は新聞用紙、段ボール原紙を中心に事業展開を行った

生産の場所そのものを作り直す構想が、これと並行して進んでいた。1965年の更生終結と同時に、同社は愛媛県と伊予三島市へ工場用地の造成を願い出て、三島工場の地先海面に埋立地を完成させた。1971年から新工場の建設にかかり、1973年に完成する。生産品種は新聞用紙とライナーで、投下資金は400億円、完成すれば生産能力は一気に倍増する規模だった。大型インバーホーム・クラフト・ライナー抄紙機2台と、世界最大級の新聞用紙抄紙機1台を据えている。1973年10月には新1号ライナー抄紙機・新2号ライナー抄紙機・新3号新聞用紙抄紙機を増設している。落成式は、第1次石油危機の発端となった中東戦争の勃発から6日後の10月12日だった。

  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [43]1965年の更生終結と同時に愛媛県と伊豫三島市へ工場用地の造成を願い出て、三島工場地先海面に埋立地を完成させた
    • [44]1971年から新工場の建設にかかり1973年に完成した
    • [46]新工場には大型インバーホーム・クラフト・ライナー抄紙機2台と世界最大級の新聞用紙抄紙機1台を設置した
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [45]新工場の生産品種は新聞用紙とライナーで、投下資金は400億円、完成すれば生産能力は一気に倍増する規模だった
    • [48]新工場の落成式は中東戦争が勃発し第一次石油危機が発生してからわずか6日後の1973年10月12日であった
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1973年10月に新1号ライナー抄紙機・新2号ライナー抄紙機・新3号新聞用紙抄紙機を増設した

同社はこの事業拡張を、自社の手形を振り出さずに賄っている。1962年の経営行き詰まりは、資金逼迫から支払手形を乱発したことに原因があった。同じ過ちを避ける狙いから、運転資金のうち短期分は金融機関からの借り入れで賄い、長期の設備資金には商社金融による延べ払いを利用し、資材や原料の支払いには製品を商社に卸して受け取った手形を充てる方式へ改めている。1974年10月に需要が急停止し、直近1年の引き合いが石油ショックの長期化を見越した仮の需要だったと判明したとき、頼みの綱になったのは手厚く持っていた手持ち資金だった。1970年4月には、更生債務を最終弁済期日より3年7か月前倒しして完済した。1974年に中質紙と出版用紙の製造販売を始め、1977年8月には新4号新聞用紙抄紙機を増設した。二度目の破綻を避けるための資金の組み方が、増設を続ける体力そのものになった。

  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [49]自己振り出し手形の廃止は「神聖にして侵かすべからず」といういわば会社の憲法であった
    • [50]短期の運転資金は金融機関から借り入れる一方、長期の設備資金は商社金融を利用した延べ払いとし、資材・原料の購入代金は製品を商社に卸して受け取った手形を回すことで支払った
    • [51]1974年10月に需要が止まり、過去1年間の需要が石油ショックの長期化を見越した仮需であったことが判明したが、前回の倒産に懲りて手持ち資金を豊富に持っていたことが救いとなった
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [52]1970年4月に更生債務を更生計画に基づく最終弁済期日より3年7か月繰り上げて弁済した
    • [53]1974年に中質紙、出版用紙の製造販売を開始した
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1977年8月に新4号新聞用紙抄紙機を増設した
参考文献[36]-[54]
  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
    • [36]更生終結の翌月に第1回の元利金6億9,000万円を支払った
    • [37]第1回弁済後に残った資金を基に三島工場へ新聞用紙抄紙機1台を増設した
    • [38]増設した抄紙機は三菱重工が米国のベロイト社と提携してつくった三菱ベロイト抄紙機であった
    • [39]その後の3年間に川之江工場にライナー抄紙機1台、三島工場に新聞抄紙機2台を増設し、パルプの設備も拡充した
    • [41]1970年12月の決算期から配当も復活した
    • [42]1970〜1971年ごろには日本の製紙業界で中堅の製紙会社として一人前らしくなった
    • [43]1965年の更生終結と同時に愛媛県と伊豫三島市へ工場用地の造成を願い出て、三島工場地先海面に埋立地を完成させた
    • [44]1971年から新工場の建設にかかり1973年に完成した
    • [46]新工場には大型インバーホーム・クラフト・ライナー抄紙機2台と世界最大級の新聞用紙抄紙機1台を設置した
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)
    • [40]更生手続終結後は新聞用紙、段ボール原紙を中心に事業展開を行った
    • [52]1970年4月に更生債務を更生計画に基づく最終弁済期日より3年7か月繰り上げて弁済した
    • [53]1974年に中質紙、出版用紙の製造販売を開始した
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
    • [45]新工場の生産品種は新聞用紙とライナーで、投下資金は400億円、完成すれば生産能力は一気に倍増する規模だった
    • [48]新工場の落成式は中東戦争が勃発し第一次石油危機が発生してからわずか6日後の1973年10月12日であった
    • [49]自己振り出し手形の廃止は「神聖にして侵かすべからず」といういわば会社の憲法であった
    • [50]短期の運転資金は金融機関から借り入れる一方、長期の設備資金は商社金融を利用した延べ払いとし、資材・原料の購入代金は製品を商社に卸して受け取った手形を回すことで支払った
    • [51]1974年10月に需要が止まり、過去1年間の需要が石油ショックの長期化を見越した仮需であったことが判明したが、前回の倒産に懲りて手持ち資金を豊富に持っていたことが救いとなった
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1973年10月に新1号ライナー抄紙機・新2号ライナー抄紙機・新3号新聞用紙抄紙機を増設した
    • [54]1977年8月に新4号新聞用紙抄紙機を増設した

1958年〜1978年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率 億円
1958年10月期 単体 40 n/a 3 n/a n/a n/a n/a
1959年10月期 単体 60 +50.0% 5 n/a n/a n/a n/a
1960年10月期 単体 61 +1.7% 7 n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a 三島に自家発電設備を新設(1963)
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a 三島にDIP製造設備を新設(脱墨パルプの生産開始)(1969)
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a 三島新工場が竣工(1974)
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年03月期 単体 820 n/a n/a ▲28 ▲3.4% 0 n/a
1977年03月期 単体 884 +7.8% n/a 9 1.0% 5 n/a
1978年03月期 単体 972 +10.0% n/a 31 3.2% 18 n/a

出所:上場会社総覧 1959年版 半期合算、上場会社総覧 1961年版 半期合算、会社年鑑 1986年版

出典・参考

4件
出典・参考
  • 大王製紙 有価証券報告書【沿革】
  • 大王製紙 直販体制で伸びる紙・パルプ総合メーカー(証券アナリストジャーナル 1983年21巻1号、井川伊勢吉社長講演要旨)
  • シリーズ・「起業家を目ざす1.5代目」井川高雄・大王製紙社長(日経ビジネス 1987年12月7日号・第483号)
  • 新規上場会社紹介 大王製紙株式会社(証券 1988年40巻4号・第469号)

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