第2章 年〜年

鐘紡:鐘淵化学工業の分離と博多など3工場の閉鎖

鐘淵工業への統合から鐘淵化学の分離による繊維専業化へ

1937年〜国策に沿った事業の膨張と鐘淵工業への統合

1937年の日中戦争を境に、津田信吾社長は繊維以外の事業へ急速に参入した。重化学工業は資源を持たなければ砂上の楼閣だという考えから、藤田組の宮原清氏の仲介で樺太の炭鉱を譲り受け、同年6月に樺太採炭を設立して鉱業へ踏み出した。採掘は順調に進み、三年後には年間50万トンの生産をあげた。原料炭の引き取り手として目をつけたのが尼崎製鉄で、コークス炉の資金に窮していた同社へ常務の城戸季吉氏を送り、資金が足りないなら鐘紡が出してもよいと申し入れた。1938年8月、鐘紡が2分の1、尼崎製鉄と久保田鉄工が残りを折半し、三者の共同経営が成った。同じ1938年、繊維以外の事業を担う別会社として資本金6000万円の鐘淵実業を設立した。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [1]1937年の日中戦争を契機とする鐘紡の重化学工業関係事業への転進
    • [2]資源を持たなければ砂上の楼閣との考えにもとづく藤田組の宮原清氏への協力依頼と、1937年6月の樺太採炭の設立
    • [3]樺太採炭の操業開始から三年後の年間50万トンの生産
    • [4]コークス炉の資金に窮していた尼崎製鉄への城戸季吉氏の派遣と出資の申し入れ
    • [5]1938年8月の鐘紡2分の1・尼崎製鉄・久保田鉄工による尼崎製鉄の三者共同経営
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [6]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円

本業の紡績は、平和産業として次第に統制の片隅へ追いやられた。1940年11月の紡聯聯合協議会は、一企業50万錘を単位として加盟77社を14ブロックへ統合する企業整備要綱を可決し、1941年3月に第一次統合が完遂した。1943年1月には企業単位を100万錘とする第三次統合が決まり、鐘紡・東洋紡・大日本紡ら十大紡の体制ができた。1942年1月からは登録設備の2割供出が始まり、供出は第四次まで重ねられて、全国の紡績操業錘数は1937年の1255万錘から1944年5月には359万錘へ、7割強が失われた。鐘紡の綿紡設備も1942年上期の131万2096錘・織機1万3745台を最高に、終戦時には15万7808錘・織機2847台を残すのみとなった。磨き上げた紡機が従業員の注視のなかで破砕されることもあった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [7]平和産業と目された紡績業の逼塞と、戦時統制下での整理縮小
    • [8]1940年11月の企業統合要綱の可決と、一企業50万錘・加盟77社を14ブロックとする統合、1941年3月の第一次統合の完遂
    • [9]1943年1月に決定した企業単位100万錘の第三次統合と十大紡の成立
    • [10]1942年1月からの登録設備2割供出と、全国紡績操業錘数の1937年1255万錘から1944年5月359万錘への減少
    • [11]鐘紡の綿紡設備の1942年上期131万2096錘・織機1万3745台から終戦時15万7808錘・織機2847台への減少
    • [12]従業員の注視のなかで紡績機械が破砕されたこと

1943年8月10日の役員会で鐘紡と鐘淵実業を合併して新会社を設ける件が承認され、同年11月2日の臨時株主総会で両社とも合併案を可決した。合併の趣旨は、国家の要請に応えて戦力を増すことにあると同年12月の定時株主総会で示された。1944年2月1日、資本金3億2400万円の鐘淵工業株式会社が発足した。事業を縮小して設備を転売し利息に依存するのは事業会社の本意ではなく、現有の繊維を確保したうえで余力は戦力増強へ投じ、あわせて戦後の再起のために資産を守るべきだというのが、その年の総会で述べた考えだった。第1回決算は1917万3000円の利益を計上して8分配当を行ったが、自己資本2億9894万円に対して外部負債は6億6492万円、負債比率は2.22倍に達していた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [13]1943年8月10日の役員会での合併承認と、同年11月2日の臨時株主総会における鐘紡・鐘淵実業両社の合併案可決
    • [14]1943年12月の定時株主総会で示された、国家の要請に応え戦力を増すための鐘淵実業との合併という新会社設立の趣旨
    • [17]鐘淵工業第1回決算の利益1917万3000円・8分配当と、自己資本2億9894万円に対する外部負債6億6492万円・負債比率2.22倍
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [15]1944年2月1日の鐘淵工業株式会社の発足と資本金3億2400万円
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 石黒英一「大河」
    • [16]1943年6月26日の総会における、現有の繊維工業を確保し余力を戦力増強へ投じつつ戦後の再起に資産を守るべきとする津田信吾氏の演説
参考文献[1]-[17]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [1]1937年の日中戦争を契機とする鐘紡の重化学工業関係事業への転進
    • [2]資源を持たなければ砂上の楼閣との考えにもとづく藤田組の宮原清氏への協力依頼と、1937年6月の樺太採炭の設立
    • [3]樺太採炭の操業開始から三年後の年間50万トンの生産
    • [4]コークス炉の資金に窮していた尼崎製鉄への城戸季吉氏の派遣と出資の申し入れ
    • [5]1938年8月の鐘紡2分の1・尼崎製鉄・久保田鉄工による尼崎製鉄の三者共同経営
    • [7]平和産業と目された紡績業の逼塞と、戦時統制下での整理縮小
    • [8]1940年11月の企業統合要綱の可決と、一企業50万錘・加盟77社を14ブロックとする統合、1941年3月の第一次統合の完遂
    • [9]1943年1月に決定した企業単位100万錘の第三次統合と十大紡の成立
    • [10]1942年1月からの登録設備2割供出と、全国紡績操業錘数の1937年1255万錘から1944年5月359万錘への減少
    • [11]鐘紡の綿紡設備の1942年上期131万2096錘・織機1万3745台から終戦時15万7808錘・織機2847台への減少
    • [12]従業員の注視のなかで紡績機械が破砕されたこと
    • [13]1943年8月10日の役員会での合併承認と、同年11月2日の臨時株主総会における鐘紡・鐘淵実業両社の合併案可決
    • [14]1943年12月の定時株主総会で示された、国家の要請に応え戦力を増すための鐘淵実業との合併という新会社設立の趣旨
    • [17]鐘淵工業第1回決算の利益1917万3000円・8分配当と、自己資本2億9894万円に対する外部負債6億6492万円・負債比率2.22倍
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
    • [6]1938年の鐘淵実業の設立と資本金6000万円
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [15]1944年2月1日の鐘淵工業株式会社の発足と資本金3億2400万円
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 石黒英一「大河」
    • [16]1943年6月26日の総会における、現有の繊維工業を確保し余力を戦力増強へ投じつつ戦後の再起に資産を守るべきとする津田信吾氏の演説

1945年〜敗戦による資産の喪失と再建整備を通じた繊維専業への縮退

敗戦によって残ったのは内地の27工場だけで、その多くが戦災の傷を負い、大陸の事業場はすべて失われた。綿部門で操業を続けられたのは西大寺と洲本の二工場にとどまり、兵庫・大阪・和歌山の三工場は戦災で全滅した。焼け跡を整理すると紡機およそ4万6400錘が修理すれば再び使える見込みが立ち、各工場の応援を得て搬出に着手した。原料は先細り、電力も平常どおりには来ず、従業員の給食用の食糧すら正規の方法では手に入らなかったため、各工場は空地を耕して自給農場とした。1946年5月30日、商号を鐘淵工業から鐘淵紡績へ戻した。占領下の綿業には、原料代と食糧輸入代金を稼ぐ産業として他に優先する再建措置がとられていた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [18]敗戦時に残った内地27工場と、大陸の事業場の全喪失
    • [19]終戦時も操業を継続した西大寺・洲本の二工場と、戦災で全滅した兵庫・大阪・和歌山の三工場
    • [20]戦災工場の焼け跡から修理により再使用可能と見込まれた紡機約4万6400錘の搬出
    • [21]原料・電力・給食用食糧の不足と、各工場における空地の耕地化による自給
    • [23]原料代金と食糧輸入代金を賄う占領政策上の見地から綿紡績業にとられた他産業に優先する再建措置
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [22]1946年5月30日の鐘淵工業株式会社から鐘淵紡績株式会社への商号復帰

1946年1月のGHQの指令にもとづく公職追放令は、翌年の改正で戦時中の資本金1億円以上の会社の首脳をほとんど該当させるものとなった。鐘紡でも倉知社長以下4名の常務が対象となり、指名を待たずに辞任した。1947年6月25日の取締役会で、武藤山治氏の次男で厚生部・人事部・絹業部の各部長を歴任した武藤絲治氏が社長に就任した。会社は1946年6月に制限会社、同年12月7日に持株会社の指定を受け、関係会社の株式は持株会社整理委員会への譲渡を命じられて、子会社との資本の絆は断たれた。1947年7月の概算で特別損失は総損失11億5352万円に上り、総利益4億5340万円と評価益2億1527万円を戻し入れてもなお4億8485万円が残った。敗戦の痛手は紡績10社で最大だった。追放と指定と損失が同時に来たこの時期、経営に残された問いは何を捨てるかだけだった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [24]1946年1月のGHQ指令にもとづく公職追放令と、翌年の改正による戦時中の資本金1億円以上の会社首脳への適用拡大
    • [25]倉知社長以下4名の常務取締役の追放指名と、指名を待たない辞任
    • [26]1947年6月25日の取締役会における武藤絲治氏の社長就任と、厚生部・人事部・絹業部長の歴任
    • [27]1946年6月の制限会社指定と同年12月7日の持株会社指定、持株会社整理委員会への関係会社株式の譲渡命令
    • [28]1947年7月概算の総損失11億5352万円と、総利益4億5340万円・評価益2億1527万円を戻し入れてなお残る4億8485万円の損失
    • [29]戦時中の積極経営と軍需転換の大きさによる、紡績10社で最大の敗戦の痛手

損失の処理には資本金の9割と旧債権の20.8%を打ち切ることが要るという計算になり、法規で許されている以上は断行して再出発すべきだという意見が役員のあいだで多数を占めた。武藤絲治氏はこれに正面から反対し、株主と債権者へ迷惑をかけるのは忍び難いとして退けた。1949年4月25日に企業再建整備計画の認可を申請し、同年6月14日に認可を得た。繊維以外の木材・造機・鉱山の三事業は廃業とし、化学工業・製薬・化粧品など7つの事業場を分離して、1949年9月1日、資本金2億円の全額を現物出資して鐘淵化学工業を設立した。紡績10社の整備計画で鐘紡だけが突出した差引損失を計上したが、当初見込まれた減資と債務の切捨ては行わずに処理した。資本金は1949年3月に5億2400万円、同年11月に16億3000万円へ増えた。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [30]資本金の90%と旧債権の20.8%の打切りを要するという処理見込みと、断行を求める役員の多数意見
    • [31]株主・債権者への迷惑を忍び難いとして減資と債権切捨てに反対した武藤絲治氏の判断
    • [32]1949年4月25日の企業再建整備計画認可申請と同年6月14日の認可
    • [34]紡績10社の整備計画における鐘紡の突出した差引損失と、減資・債務切捨てを行わない処理
  • 鐘紡百年史(1988年)所収『変革と創造・鐘淵化学二〇年史』
    • [33]木材・造機・鉱山の三事業の廃業と、化学工業・製薬・化粧品など7事業場の分離による1949年9月1日の鐘淵化学工業の設立、資本金2億円の全額現物出資
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [35]1949年3月の資本金5億2400万円への増資と同年11月の16億3000万円への増資
参考文献[18]-[35]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [18]敗戦時に残った内地27工場と、大陸の事業場の全喪失
    • [19]終戦時も操業を継続した西大寺・洲本の二工場と、戦災で全滅した兵庫・大阪・和歌山の三工場
    • [20]戦災工場の焼け跡から修理により再使用可能と見込まれた紡機約4万6400錘の搬出
    • [21]原料・電力・給食用食糧の不足と、各工場における空地の耕地化による自給
    • [23]原料代金と食糧輸入代金を賄う占領政策上の見地から綿紡績業にとられた他産業に優先する再建措置
    • [24]1946年1月のGHQ指令にもとづく公職追放令と、翌年の改正による戦時中の資本金1億円以上の会社首脳への適用拡大
    • [25]倉知社長以下4名の常務取締役の追放指名と、指名を待たない辞任
    • [26]1947年6月25日の取締役会における武藤絲治氏の社長就任と、厚生部・人事部・絹業部長の歴任
    • [27]1946年6月の制限会社指定と同年12月7日の持株会社指定、持株会社整理委員会への関係会社株式の譲渡命令
    • [28]1947年7月概算の総損失11億5352万円と、総利益4億5340万円・評価益2億1527万円を戻し入れてなお残る4億8485万円の損失
    • [29]戦時中の積極経営と軍需転換の大きさによる、紡績10社で最大の敗戦の痛手
    • [30]資本金の90%と旧債権の20.8%の打切りを要するという処理見込みと、断行を求める役員の多数意見
    • [31]株主・債権者への迷惑を忍び難いとして減資と債権切捨てに反対した武藤絲治氏の判断
    • [32]1949年4月25日の企業再建整備計画認可申請と同年6月14日の認可
    • [34]紡績10社の整備計画における鐘紡の突出した差引損失と、減資・債務切捨てを行わない処理
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」
    • [22]1946年5月30日の鐘淵工業株式会社から鐘淵紡績株式会社への商号復帰
    • [35]1949年3月の資本金5億2400万円への増資と同年11月の16億3000万円への増資
  • 鐘紡百年史(1988年)所収『変革と創造・鐘淵化学二〇年史』
    • [33]木材・造機・鉱山の三事業の廃業と、化学工業・製薬・化粧品など7事業場の分離による1949年9月1日の鐘淵化学工業の設立、資本金2億円の全額現物出資

1950年〜朝鮮動乱の高収益とその反動が残した借入金依存の資本構成

1950年6月の朝鮮動乱で基調は一変し、GHQが繊維各部門の復興中間目標の許容限度を相次いで解除したため、設備の増強は自由になった。鐘紡の綿紡は1950年7月に41万5426錘の復元目標を達成したのち、一年で16万5808錘を足して58万1234錘まで約4割を増した。1950年7月には日本セルローズ工業を吸収合併して、戦時に陸軍製絨廠として買収された防府工場が戻り、化繊工業が再び加わった。綿糸の生産は1950年上期の9万1000梱から1951年上期の15万7200梱へ7割3分伸び、販売高は94億9000万円から247億1000万円へ2.6倍になった。1950年下期の純益は40億円を超え、株主配当は1950年3月期の1割8分から1951年9月期には4割に達した。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [36]1950年6月の朝鮮動乱勃発とGHQによる繊維各部門の復興中間目標の許容限度の解除
    • [37]1950年7月の紡機41万5426錘の復元目標達成と、一年間の16万5808錘の増設による58万1234錘への増加
    • [38]1950年7月の日本セルローズ工業の吸収合併と、陸軍製絨廠として買収されていた防府工場の復帰
    • [39]綿糸生産の1950年上半期9万1000梱から1951年上半期15万7200梱への7割3分の増加
    • [40]販売高の1950年上半期94億9000万円から1951年上半期247億1000万円への増加
    • [41]1950年下半期の純益40億円超と、株主配当の1950年3月期1割8分から1951年9月期4割への上昇

動乱によるブームは1951年6月に始まった休戦交渉の進行とともに終わり、輸出は停滞して滞貨が急増した。鐘紡が1952年に採算の合わない事業を整理し、彦根工場の麻紡績を梳毛・紡毛に切り替え、製糸10工場から甲佐と八幡浜を外し、山科工場の絹靴下部門と彦根撚糸工場も閉じたのと同じ頃、業界では1952年3月から通産省の行政措置である操短勧告によって各社がおよそ2割を減産し、戦後で初めてのこの操業短縮は1953年5月末まで15カ月に及んだ。製糸部門は綿紡を目安に賃金を決めていたので、競合する郡是・片倉らより賃金水準がかなり高く、赤字から抜け出せずにいたため、部門を切り離して独立させる案を人事部調査係長の伊藤淳二氏が出した。人員整理を一切しない見返りに男子2割・女子3割の賃金引き下げを受け入れる条件で労働組合と話がまとまって1958年7月1日に鐘淵蚕糸が発足すると、製糸は一年で黒字になった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [42]1951年6月の休戦交渉開始に伴うブームの終息と、輸出の停滞・滞貨の急増
    • [43]1952年の彦根工場の麻紡績の梳毛・紡毛への転換、甲佐・八幡浜両製糸工場の閉鎖、山科工場絹靴下部門と彦根撚糸工場の閉鎖
    • [44]1952年3月からの通産省の操短勧告による各社約2割の生産制限と、1953年5月末まで15カ月続いた戦後最初の操業短縮
    • [45]綿紡に基準を置いた製糸部門の賃金が郡是・片倉ら競争会社の水準を上回り赤字部門となっていたこと
    • [46]人事部調査係長の伊藤淳二氏による製糸部門の分離独立の提案
    • [47]人員整理を行わない代わりに男子20%・女子30%の賃下げを受け入れる条件での労使妥結と、1958年7月1日の鐘淵蚕糸の分離独立
    • [48]分離独立から一年での製糸部門の黒字転換

再評価積立金に積まれた評価差益は40億9500万円に上った。1950年8月29日の臨時株主総会が資産再評価法による再評価を決め、6億3361万円だった固定資産を7.45倍の47億2861万円に評価し直した結果である。積立金が増えたことで社債を出せる枠も広がり、同じ総会は45億円の社債を何回かに分けて出すと決めた。ただ、自己資本と他人資本の比は3対7から動かず、戦後の復興期に借り入れた資金の利払いが、不況が来るたびに収益を圧迫した。1958年度下期の内部留保は40億円だったが、同業他社はその2倍から4倍を蓄えていた。1959年10月25日、鐘紡は安定五カ年計画を発表し、長短借入金と社債200億円のうち100億円を返して資本構成を紡績9社平均の5対5へ改めると定めた。半期224億円の売上高と13.6%の売上利益率を置いた計画は、二期で売上を約21%上回った。借りた金で三大紡に残った会社が次に問うたのは、何を作るかではなく、どう身軽になるかだった。

  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [49]1950年8月29日の臨時株主総会における資産再評価の決議と、固定資産6億3361万円の47億2861万円への7.45倍の評価換え、評価差益40億9500万円の再評価積立金計上
    • [50]再評価積立金の計上による社債発行枠の増加と、45億円の社債を数回に分けて発行する決議
    • [51]自己資本3対他人資本7の資本構成と、戦後復興期の借入金の金利負担による収益の圧迫
    • [52]1958年度下期の鐘紡の内部留保40億円と、同業他社の2〜4倍の保有
    • [53]1959年10月25日発表の安定五カ年計画と、長短借入金・社債200億円のうち100億円の返済による紡績9社平均5対5への資本構成の改善
    • [54]半期224億円の売上高・売上利益率13.6%の計画と、二期実績での約21%の売上超過
参考文献[36]-[54]
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
    • [36]1950年6月の朝鮮動乱勃発とGHQによる繊維各部門の復興中間目標の許容限度の解除
    • [37]1950年7月の紡機41万5426錘の復元目標達成と、一年間の16万5808錘の増設による58万1234錘への増加
    • [38]1950年7月の日本セルローズ工業の吸収合併と、陸軍製絨廠として買収されていた防府工場の復帰
    • [39]綿糸生産の1950年上半期9万1000梱から1951年上半期15万7200梱への7割3分の増加
    • [40]販売高の1950年上半期94億9000万円から1951年上半期247億1000万円への増加
    • [41]1950年下半期の純益40億円超と、株主配当の1950年3月期1割8分から1951年9月期4割への上昇
    • [42]1951年6月の休戦交渉開始に伴うブームの終息と、輸出の停滞・滞貨の急増
    • [43]1952年の彦根工場の麻紡績の梳毛・紡毛への転換、甲佐・八幡浜両製糸工場の閉鎖、山科工場絹靴下部門と彦根撚糸工場の閉鎖
    • [44]1952年3月からの通産省の操短勧告による各社約2割の生産制限と、1953年5月末まで15カ月続いた戦後最初の操業短縮
    • [45]綿紡に基準を置いた製糸部門の賃金が郡是・片倉ら競争会社の水準を上回り赤字部門となっていたこと
    • [46]人事部調査係長の伊藤淳二氏による製糸部門の分離独立の提案
    • [47]人員整理を行わない代わりに男子20%・女子30%の賃下げを受け入れる条件での労使妥結と、1958年7月1日の鐘淵蚕糸の分離独立
    • [48]分離独立から一年での製糸部門の黒字転換
    • [49]1950年8月29日の臨時株主総会における資産再評価の決議と、固定資産6億3361万円の47億2861万円への7.45倍の評価換え、評価差益40億9500万円の再評価積立金計上
    • [50]再評価積立金の計上による社債発行枠の増加と、45億円の社債を数回に分けて発行する決議
    • [51]自己資本3対他人資本7の資本構成と、戦後復興期の借入金の金利負担による収益の圧迫
    • [52]1958年度下期の鐘紡の内部留保40億円と、同業他社の2〜4倍の保有
    • [53]1959年10月25日発表の安定五カ年計画と、長短借入金・社債200億円のうち100億円の返済による紡績9社平均5対5への資本構成の改善
    • [54]半期224億円の売上高・売上利益率13.6%の計画と、二期実績での約21%の売上超過

筆者考察

1936年に売上高で日本一になった会社が、10年後には紡績10社で最大の損失を抱えていた。津田信吾が樺太の炭鉱を買い、尼崎製鉄の株の半分を持ち、鐘淵実業に繊維以外を集めたのは、国策への迎合というより、繊維が平和産業として片隅へ追いやられる時代に事業を生き延びさせる算段だった。だがその算段は、資産を戦地と外地へ置くことで成り立っていた。1944年に鐘紡と鐘淵実業が合併してできた鐘淵工業は、発足初年で外部負債が自己資本の2.22倍に達している。会社が膨らませたのは事業の中身ではなく、回収の当てのない資産だった。紡機は供出され、残った設備は終戦時に戦前の1割強まで削られている。

敗戦が奪ったのは大陸の工場だけではない。持株会社の指定で子会社との資本の絆が切れ、公職追放で経営陣が入れ替わり、再建整備は資本金の9割を切り捨てよと迫った。武藤絲治がそれを拒み、化学工業を第二会社として切り出して繊維一本へ戻した判断は、会社の信用を守った代わりに、返すべき借金を全部負うことを意味した。朝鮮動乱の4割配当も、その借金を消すには足りない。1959年の安定五カ年計画が掲げた自己資本3対他人資本7を5対5へという目標は、繊維専業へ戻った会社が背負った戦後の実体そのものだった。伝統を守るという選択の値段は、この比率として残った。

綿紡設備の錘数 日中戦争期の最大から終戦時の残存、朝鮮動乱期の復元まで(錘)

1,206,876 1937 1,312,096 1942 157,808 1945 415,426 1950 581,234 1951

1937年〜1960年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年04月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年04月期 単体 314 n/a 51 16.3% n/a
1952年04月期 単体 507 +61.5% 30 5.9% n/a
1953年04月期 単体 367 ▲27.6% 3 0.8% n/a
1954年04月期 単体 405 +10.4% 14 3.5% n/a
1955年04月期 単体 379 ▲6.4% 4 1.1% n/a
1956年04月期 単体 405 +6.9% 9 2.3% n/a
1957年04月期 単体 493 +21.7% 22 4.6% n/a
1958年04月期 単体 464 ▲5.9% 8 1.9% n/a
1959年04月期 単体 383 ▲17.5% 0 0.1% n/a
1960年04月期 単体 465 +21.4% 18 3.9% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

5件
出典・参考
  • 鐘紡百年史(鐘紡株式会社、1988年)
  • 鐘紡百年史(1988年)所収 石黒英一「大河」
  • 鐘紡百年史(1988年)所収『変革と創造・鐘淵化学二〇年史』
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「鐘淵紡績」の項
  • 株式会社年鑑 1959年版「鐘淵紡績」

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