第2章 年〜年

日揮ホールディングス:東証上場とアルジェリア製油所での大赤字

1956年〜石油化学プラントへの受注多元化と、東京証券取引所第二部への上場

1958年4月、日本揮発油は工務部の主任技師室を計画部へ改め、設計部・調達部と同列に並ぶ機能型の組織を敷いた。石油精製だけでなく石油化学のプラントを数多く受注し、顧客の業種も多様になり、設計から調達、建設までを一貫して請け負う案件が増えたことが背景にあった。もっとも当時のコーディネーターの任務は、専門技術の間を調整して設計・調達・建設の各段階を取りまとめることにとどまり、原価を統制する機能は弱かった。それでも横浜事業所の規模はこの間に大きく変わる。1958年に213人・完工高およそ19億円だった事業所は、1964年には762人・134億円になった。全社の従業員は1963年時点で1,360人。大型の案件を並行してこなせる企業の規模に達したことを、この伸びは示していた。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [1]1958年4月 工務部主任技師室を計画部へ改組し、計画部・設計部・調達部が同列に並ぶ機能型組織とした
    • [2]石油精製に加え石油化学プラントを数多く受注し、顧客の業種も多様化し、設計・調達・建設までを一貫して受注する案件が増えた
    • [3]計画部の時期のコーディネーターの任務は専門技術間の調整と取りまとめが主体で、コントロール機能は弱かった
    • [4]横浜事業所の従業員数と完工高は1958年の213人・約19億円から1964年には762人・134億円へ推移した
  • 株式会社年鑑 1964年版
    • [5]1963年時点の従業員数は1,360人

受注の中身は、UOP社のプロセスだけでは済まなくなった。顧客が決める技術の導入先は、エチレンのストーン・アンド・ウェブスター社、合成ゴム関連のブロウノックス社、高圧ポリエチレンのユニオンカーバイド社、ポリウレタンのバイエル社、アセトアルデヒドのウーデ社へと多元化し、相手ごとに設計と工程管理の考え方が違った。日本揮発油は設計に入る前に、導入先や顧客と基本設計の基準になる資料を確かめ、調える作業から始めるようになる。扱う対象も、ゴムやプラスチックの塑性流体やスラリー、塩素・弗素・濃硫酸・一酸化炭素といった危険物や腐蝕性の物質へ広がり、操作の条件はマイナス100度以下の低温から900度の高温、2,000気圧を超える高圧にまで及んだ。機種と構成材料の選定、装置の設計費の概算を基本設計の段階で行う役割が、ここで重くなる。1963年の主な取引先には、三井石油化学工業・日本石油化学・日本ポリウレタンが名を連ねている。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [6]顧客の決定した技術導入先はエチレンのS&W社、合成ゴム関連のブロウノックス社、高圧ポリエチレンのユニオンカーバイド社、ポリウレタンのバイエル社、アセトアルデヒドのウーデ社へと多元化した
    • [7]設計開始前にプロセス導入先や顧客と基本設計の基準になる設計資料の確認・調製を行うことがプロジェクトエンジニアリングの出発点となった
    • [8]扱う対象は塑性流体やスラリー、塩素・弗素・濃硫酸・一酸化炭素などの危険物・腐蝕性物質へ広がり、操作条件はマイナス100度以下から900度、2,000気圧超に及んだ
    • [9]基本設計段階における機種の選定、構成材料の選定、装置設計費の概算を行う役割が重視されるようになった
  • 株式会社年鑑 1964年版
    • [10]主な取引先に三井石油化学工業、日本石油化学、日本ポリウレタンが並ぶ

1962年5月、日本揮発油は東京証券取引所第二部に株式を上場した。1963年3月期の当期純利益は4億4,900万円、授権株式数2,400万株に対して発行済株式数は1,500万株、資本金は7億5,000万円である。装置と触媒の納入先は、日本石油精製・出光興産・丸善石油・東亜石油・大協石油といった国内の製油所でほぼ占められ、拠点も横浜の事業所のほか大阪・徳山・四日市・岩国・水島と、いずれも製油所と石油化学コンビナートの立地に置かれていた。本社は東京都千代田区大手町にあった。国内の石油精製業の設備投資と歩調を合わせる収益の形が、上場の時点ですでにできあがっていた。

  • 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1962年5月 東京証券取引所第2部に株式を上場
  • 株式会社年鑑 1964年版
    • [12]1963年3月期の当期純利益は4億4,912万円
    • [13]授権株式数2,400万株、発行済株式数1,500万株、資本金7億5,000万円
    • [14]各種装置および触媒の主な取引先は日本石油精製、出光興産、丸善石油、東亜石油、大協石油
    • [15]横浜事業所のほか大阪・徳山・四日市・岩国・水島に事務所を置いた
    • [16]本社は東京都千代田区大手町2の4
参考文献[1]-[16]
  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [1]1958年4月 工務部主任技師室を計画部へ改組し、計画部・設計部・調達部が同列に並ぶ機能型組織とした
    • [2]石油精製に加え石油化学プラントを数多く受注し、顧客の業種も多様化し、設計・調達・建設までを一貫して受注する案件が増えた
    • [3]計画部の時期のコーディネーターの任務は専門技術間の調整と取りまとめが主体で、コントロール機能は弱かった
    • [4]横浜事業所の従業員数と完工高は1958年の213人・約19億円から1964年には762人・134億円へ推移した
    • [6]顧客の決定した技術導入先はエチレンのS&W社、合成ゴム関連のブロウノックス社、高圧ポリエチレンのユニオンカーバイド社、ポリウレタンのバイエル社、アセトアルデヒドのウーデ社へと多元化した
    • [7]設計開始前にプロセス導入先や顧客と基本設計の基準になる設計資料の確認・調製を行うことがプロジェクトエンジニアリングの出発点となった
    • [8]扱う対象は塑性流体やスラリー、塩素・弗素・濃硫酸・一酸化炭素などの危険物・腐蝕性物質へ広がり、操作条件はマイナス100度以下から900度、2,000気圧超に及んだ
    • [9]基本設計段階における機種の選定、構成材料の選定、装置設計費の概算を行う役割が重視されるようになった
  • 株式会社年鑑 1964年版
    • [5]1963年時点の従業員数は1,360人
    • [10]主な取引先に三井石油化学工業、日本石油化学、日本ポリウレタンが並ぶ
    • [12]1963年3月期の当期純利益は4億4,912万円
    • [13]授権株式数2,400万株、発行済株式数1,500万株、資本金7億5,000万円
    • [14]各種装置および触媒の主な取引先は日本石油精製、出光興産、丸善石油、東亜石油、大協石油
    • [15]横浜事業所のほか大阪・徳山・四日市・岩国・水島に事務所を置いた
    • [16]本社は東京都千代田区大手町2の4
  • 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1962年5月 東京証券取引所第2部に株式を上場

1964年〜堺の受注競争での敗退が促した本部制と、海外市場への転進

1964年、日本揮発油はゼネラル石油精製堺製油所の集中合理化装置の受注を逃した。石油精製設備の新投資を抑えてきた設備休戦が解除される情勢のもとでの第1号の新設製油所であり、受注への意欲は強かった。この失注は組織の問題として受け止められる。プロジェクトエンジニアが関与する範囲が一つの装置から工場全体へ広がるにつれ、機能別に並んだ計画部・設計部・調達部との間に摩擦が生じていたからである。同年4月、計画部長の高木智雄氏の指示で橋本国重氏がまとめた手順書「Project Engineering Procedure」が制定され、プロジェクトマネジャーが設計・調達・建設にわたって管理の責任を負うことが明文化された。6月、計画部はエンジニアリング本部へ改組された。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [17]1964年 ゼネラル石油精製堺製油所の集中合理化装置の受注競争に敗退した
    • [18]堺の集中合理化装置は設備休戦が解除される情勢下での第1号の新設製油所であり、受注への意欲が強かった
    • [19]プロジェクトエンジニアの関与範囲が一つのユニットプラントから工場全体へ拡張され、現行の機能型組織との摩擦が社内で問題とされ始めていた
    • [21]1964年4月 計画第1部長の指示で橋本国重が主導した手順書「Project Engineering Procedure」JGS2024が制定され、プロジェクトマネジャーが設計・調達・建設にわたり管理の責任を負うことが規定された
    • [22]1964年6月 計画部をエンジニアリング本部へ改組した
  • 株式会社年鑑 1964年版
    • [20]1963年6月時点の役員に計画部長 高木智雄の名がある

海外の仕事は、三つの段階を踏んで主軸になった。第1段階は1960年代前半から活発になった欧米のコントラクターの下請としての機器・資材の調達業務で、それとほぼ前後して韓国・南米・東南アジア・中東でのプラント建設を一括で受注する第2段階に移る。もっともこの段階の受注は国内案件の谷間を縫って取ったものが多く、国内受注の周期的な変動に対する安全弁の域を出なかった。1970年代前半になると、経営計画のなかに海外受注比率を25%以上と明示し、重点を置いて取りに行くようになる。顧客も、メジャーオイルとその関係会社から、発展途上国の民間企業や国営企業、社会主義国の国家機関、国際機関へと広がった。恒常的に受注するには自前の拠点が要るとして、1965年に置いたソウル事務所で利点を確かめたうえ、1971年にシンガポール事務所を開設している。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [23]海外プロジェクトの展開は、欧米コントラクターの下請としての機器・資材の調達業務から、韓国・南米・東南アジア・中東でのプラント建設の一括受注へ移った
    • [24]第2段階の受注は国内案件の谷間を縫って行われ、国内受注の周期的変動に対する安全弁の性格が強かった
    • [25]1970年代前半には経営計画に海外受注比率25%以上を明示し、重点指向で受注した
    • [26]顧客はメジャーオイルとその関係会社から発展途上国の民間・国営企業、社会主義国の国家機関・国営企業、国際機関へと多様化した
    • [27]1965年にソウル事務所、1971年にシンガポール事務所を開設した

日本揮発油とアルジェリアの縁は、国連工業開発機関との契約に始まる。1966年から1968年にかけて同国政府の石油化学計画に助言を与えるなかで、伊藤忠商事の現地アルジェ事務所との行き来が生まれていた。1968年は、会社が海外の大型プラント案件を積極的に取りにいく方針へ転じた年でもあり、同じ1968年の10月末には、国営炭化水素公社ソナトラックが年産250万トンの製油所を国際入札に付した。ソナトラックは伊藤忠商事と日本揮発油の組み合わせを日本側の一団とみなし、欧米の請負会社と同じ土俵で争わせようと、入札の書類を伊藤忠の同事務所に届けた。二社は組んで札を入れ、長い時間と労力を費やした末に契約にこぎつけ、ブルネイでも1970年1月に液化天然ガス工場の国際入札があり、米国プロコン社と組んだ会社はベクテル社などを退けて落札した。総投資額1億7,000万ドル、612億円の工事のうち、受注額は243億円だった。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [28]1966年から1968年にかけてUNIDOとの契約でアルジェリア政府向け石油化学計画のコンサルテーションを実施し、その過程で伊藤忠商事アルジェ事務所との関係ができた
    • [30]1968年10月末 アルジェリアの国営炭化水素公社ソナトラックが年産250万トンの製油所の国際入札を行った
    • [31]製油所の入札書は、ソナトラックが伊藤忠商事・日本揮発油の連合を日本グループとして意識し、欧米コントラクターと対等の競争機会を与えるものとして伊藤忠アルジェ事務所へもたらされた
    • [32]伊藤忠商事と日本揮発油は連合して入札を行い、長期にわたる受注努力の末に成約した
    • [33]1970年1月 ブルネイLNG社の国際入札で米国プロコン社とジョイントを組み、ベクテル社等を相手に落札した
    • [34]ブルネイLNGプラントの総投資額は1億7,000万ドル(612億円)、うち日本揮発油の受注額は243億円
  • 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1968年1月 海外大型プラントプロジェクトの積極受注を開始
参考文献[17]-[34]
  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [17]1964年 ゼネラル石油精製堺製油所の集中合理化装置の受注競争に敗退した
    • [18]堺の集中合理化装置は設備休戦が解除される情勢下での第1号の新設製油所であり、受注への意欲が強かった
    • [19]プロジェクトエンジニアの関与範囲が一つのユニットプラントから工場全体へ拡張され、現行の機能型組織との摩擦が社内で問題とされ始めていた
    • [21]1964年4月 計画第1部長の指示で橋本国重が主導した手順書「Project Engineering Procedure」JGS2024が制定され、プロジェクトマネジャーが設計・調達・建設にわたり管理の責任を負うことが規定された
    • [22]1964年6月 計画部をエンジニアリング本部へ改組した
    • [23]海外プロジェクトの展開は、欧米コントラクターの下請としての機器・資材の調達業務から、韓国・南米・東南アジア・中東でのプラント建設の一括受注へ移った
    • [24]第2段階の受注は国内案件の谷間を縫って行われ、国内受注の周期的変動に対する安全弁の性格が強かった
    • [25]1970年代前半には経営計画に海外受注比率25%以上を明示し、重点指向で受注した
    • [26]顧客はメジャーオイルとその関係会社から発展途上国の民間・国営企業、社会主義国の国家機関・国営企業、国際機関へと多様化した
    • [27]1965年にソウル事務所、1971年にシンガポール事務所を開設した
    • [28]1966年から1968年にかけてUNIDOとの契約でアルジェリア政府向け石油化学計画のコンサルテーションを実施し、その過程で伊藤忠商事アルジェ事務所との関係ができた
    • [30]1968年10月末 アルジェリアの国営炭化水素公社ソナトラックが年産250万トンの製油所の国際入札を行った
    • [31]製油所の入札書は、ソナトラックが伊藤忠商事・日本揮発油の連合を日本グループとして意識し、欧米コントラクターと対等の競争機会を与えるものとして伊藤忠アルジェ事務所へもたらされた
    • [32]伊藤忠商事と日本揮発油は連合して入札を行い、長期にわたる受注努力の末に成約した
    • [33]1970年1月 ブルネイLNG社の国際入札で米国プロコン社とジョイントを組み、ベクテル社等を相手に落札した
    • [34]ブルネイLNGプラントの総投資額は1億7,000万ドル(612億円)、うち日本揮発油の受注額は243億円
  • 株式会社年鑑 1964年版
    • [20]1963年6月時点の役員に計画部長 高木智雄の名がある
  • 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1968年1月 海外大型プラントプロジェクトの積極受注を開始

1972年〜アルズー製油所の約50億円の損失と、契約の型の組み替え

1968年に受注したアルズー製油所の工事は、完成までに満4年、最終検収までに満5年を要した。1973年に引き渡しを終えたとき、アルジェリア政府は日本揮発油を、どんな難局に直面しても建設を最後まで完遂する会社と評した。受注額約250億円に対して損失は約50億円にのぼり、会社は配当を減らし賞与も削らざるを得なかった。赤字を招いた要因は重なり合っており、現地を襲った洪水、現地労働者の技量の過大な見積もり、工期中に3倍となった賃金に加え、こうした増分を価格へ転嫁できないランプサム方式の一括請負契約があった。プラント輸出で自信を深めつつあった会社にとって、経営上の打撃は誇りを揺るがしかねない大きさで、この一件はその後の海外案件をどう取り、どう遂行するかの構えを左右した。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [35]アルズー製油所プロジェクトは完成まで満4年、最終検収まで満5年を要し、1974年6月30日の最終検収協定で終結した
    • [36]アルジェリア政府から「いかなる困難に遭遇しても必ず建設をやり抜く会社である」との評価を得た
    • [39]巨額の損失を余儀なくされ、プラント輸出業務について自信を持ち始めていた会社の自信を打ち砕きかねないものとなった
    • [40]以後の海外プロジェクトの受注と遂行に対する姿勢に大きな影響を及ぼす教訓的プロジェクトとなった
  • 日経ビジネス 1982年8月23日号
    • [37]約250億円で受注したアルジェリア製油所建設で約50億円の赤字を計上し、減配・賞与カットに追い込まれた
    • [38]赤字の直接原因は洪水、現地労働者の質の過大評価、工期中の賃金3倍、そしてそれを吸収できないランプサム契約だった

日本揮発油は社内に、アルジェリアを中心とする海外の問題のある案件を評価・検討するグループを設けた。グループは当事者とともにデータを集めて分析し、討議のうえ役員会へ報告と提案を行っている。篠田治男社長は、失敗の主因を、増えた費用を吸収できないランプサム契約にあったと見て、以後は実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式を積極的に採り入れた。同時に『同じ国に仕事を集中するな、分散しろ』と言って受注先の分散を指示し、東南アジアから中近東へ仕事を振り分けた。分析は1974年、同じアルズー製油所のビチューメンプラント増強工事で生かされ、今度は成功裡に完遂された。損失そのものよりも、そこから契約の型とリスクの配分という繰り返し使える方法を引き出したことに、この会社の性格が出ている。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [41]アルジェリアプロジェクトを中心に海外の問題プロジェクトを評価・検討するグループを社内に設けた
    • [42]検討グループはプロジェクトの当事者とともにデータを集めて分析し、討議の末に役員会へ報告と提案を行った
    • [45]分析と反省は1974年の同じアルズー製油所のビチューメンプラント増強工事で活用され、成功裡に完遂された
  • 日経ビジネス 1982年8月23日号
    • [43]篠田治男社長は失敗の主因をランプサム契約にあったと分析し、実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式を積極的に採り入れた
    • [44]篠田治男社長は受注先の分散を指示し、東南アジアから中近東へ受注先を分散させた

受注先を散らす方針は、拠点の配置に表れた。1971年のシンガポールに続いて1973年にパリ、1975年にバーレンへ事務所を開設し、1974年には中南米の拠点としてブラジルの設計・建設会社アラウジョ社へ資本参加したうえ、サンパウロに全額出資の子会社JGCリミターダを設立している。同じ1974年、インドネシア国営石油会社プルタミナらとの3社合弁で、ジャカルタにエンジニアリング会社を立ち上げた。売上高は1972年3月期の738億円から1975年3月期には1,287億円へ伸びた。一方で当期純利益は1972年3月期の23億3,000万円を頂に、1974年3月期には7億円まで低下している。仕事の量が増えるほど利益が薄くなるという構造が、ここで姿を見せた。

  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [46]1973年にパリ事務所、1975年にバーレン事務所を開設した
    • [47]1974年 ブラジルの設計・建設会社アラウジョ社に資本参加し、サンパウロに100%子会社JGCリミターダを設立した
    • [48]1974年 インドネシア国営石油会社プルタミナ、ファーイーストオイルトレーディングとの3社合弁でジャカルタにエンジニアリング会社を設立した
  • 日本揮発油 単体(有価証券報告書ほか)
    • [49]売上高は1972年3月期738億円、1975年3月期1,287億円
    • [50]当期純利益は1972年3月期23億3,000万円、1974年3月期7億円
参考文献[35]-[50]
  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
    • [35]アルズー製油所プロジェクトは完成まで満4年、最終検収まで満5年を要し、1974年6月30日の最終検収協定で終結した
    • [36]アルジェリア政府から「いかなる困難に遭遇しても必ず建設をやり抜く会社である」との評価を得た
    • [39]巨額の損失を余儀なくされ、プラント輸出業務について自信を持ち始めていた会社の自信を打ち砕きかねないものとなった
    • [40]以後の海外プロジェクトの受注と遂行に対する姿勢に大きな影響を及ぼす教訓的プロジェクトとなった
    • [41]アルジェリアプロジェクトを中心に海外の問題プロジェクトを評価・検討するグループを社内に設けた
    • [42]検討グループはプロジェクトの当事者とともにデータを集めて分析し、討議の末に役員会へ報告と提案を行った
    • [45]分析と反省は1974年の同じアルズー製油所のビチューメンプラント増強工事で活用され、成功裡に完遂された
    • [46]1973年にパリ事務所、1975年にバーレン事務所を開設した
    • [47]1974年 ブラジルの設計・建設会社アラウジョ社に資本参加し、サンパウロに100%子会社JGCリミターダを設立した
    • [48]1974年 インドネシア国営石油会社プルタミナ、ファーイーストオイルトレーディングとの3社合弁でジャカルタにエンジニアリング会社を設立した
  • 日経ビジネス 1982年8月23日号
    • [37]約250億円で受注したアルジェリア製油所建設で約50億円の赤字を計上し、減配・賞与カットに追い込まれた
    • [38]赤字の直接原因は洪水、現地労働者の質の過大評価、工期中の賃金3倍、そしてそれを吸収できないランプサム契約だった
    • [43]篠田治男社長は失敗の主因をランプサム契約にあったと分析し、実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式を積極的に採り入れた
    • [44]篠田治男社長は受注先の分散を指示し、東南アジアから中近東へ受注先を分散させた
  • 日本揮発油 単体(有価証券報告書ほか)
    • [49]売上高は1972年3月期738億円、1975年3月期1,287億円
    • [50]当期純利益は1972年3月期23億3,000万円、1974年3月期7億円

筆者考察

国内の製油所を設計する会社が、20年で海外の国営企業を相手にする会社へ変わった。1958年に計画部を置いたときの横浜事業所は213人、完工高19億円の所帯だったが、1964年には762人、134億円になっている。伸びを支えたのは、UOP社のプロセスだけを扱う立場を抜け出したことだった。エチレンのストーン・アンド・ウェブスター社、高圧ポリエチレンのユニオンカーバイド社、ポリウレタンのバイエル社と、顧客が選ぶ技術の導入先ごとに設計の流儀が違い、その差を吸収する作業そのものが仕事になった。1962年の東京証券取引所第二部への上場は、国内の石油精製業の設備投資に歩調を合わせる収益の形が固まった時点の記録である。

その形を崩したのは、国内の需要ではなく契約の型だった。1968年にアルジェリアの国営炭化水素公社ソナトラックから約250億円で受注したアルズー製油所は、洪水と3倍に跳ね上がった賃金を一括請負のランプサム契約で吸収しきれず、約50億円の赤字となって減配と賞与カットを招いた。日本揮発油は損失を社内の検討グループにかけて分解し、実費に報酬を加算するコスト・プラス・フィー方式と、受注先を一国に集中させない方針を引き出す。売上高は1972年3月期の738億円から1975年3月期の1,287億円へ伸びた一方、当期純利益は23億3,000万円から7億円へ低下した。量を取れば利益が薄くなるという、このあと長くつきまとう問いが、ここで立った。

当期純利益の推移 1968年3月期〜1975年3月期(億円)

4.1 68年3月期 8.6 69年3月期 15.9 70年3月期 20.9 71年3月期 23.3 72年3月期 10.2 73年3月期 7 74年3月期 15.3 75年3月期
  • 単体。出所は有価証券報告書ほか。

1956年〜1975年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 179 n/a 4 2.3% n/a
1969年03月期 単体 366 +104.5% 8 2.3% n/a
1970年03月期 単体 419 +14.5% 15 3.8% n/a
1971年03月期 単体 530 +26.5% 20 3.9% n/a
1972年03月期 単体 738 +39.2% 23 3.2% n/a
1973年03月期 単体 812 +10.0% 10 1.3% n/a
1974年03月期 単体 869 +7.0% 7 0.8% n/a
1975年03月期 単体 1,287 +48.1% 15 1.2% n/a

出典・参考

5件
出典・参考
  • 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
  • 日本揮発油 単体(有価証券報告書ほか)
  • 日揮五十年史(日揮、1979年)
  • 株式会社年鑑 1964年版
  • 日経ビジネス 1982年8月23日号

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