実吉雅郎
経歴1917〜1967年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1917年主要役職の状況(推定含む目安)1967年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 横浜正金銀行 | 1917 | 入社 | ||
| 島商店(1921年に島貿易株式会社へ改組) | 1919 | 入社 | |||
| 1922 | 島貿易取締役ロンドン支店長 | ||||
| 日本揮発油(現日揮ホールディングス) | 1928 | 創業 | |||
| 1966 | 代表取締役会長(鈴木義雄氏が社長に就任) | ||||
| 1967 | 死去 |
創業ストーリー
創業ストーリー
実吉雅郎氏は子爵実吉安純氏の麻布鳥居坂の邸で育ち、2階の窓から品川の海を眺めては外国へ行きたいと思っていたと後年語っている。1917年に東京帝国大学英法科を卒業すると、海外の支店が最も多かった横浜正金銀行に入行した。1918年に関西財界の島徳蔵氏の長女と結婚し、翌1919年に正金銀行を辞めて島氏の弟が率いる島商店へ移り、1922年5月には島貿易取締役ロンドン支店長に就任した。
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-2 UOP社との折衝
- [1]初代社長実吉雅郎は大正6年東京帝国大学英法科卒業とともに横浜正金銀行に入社し神戸支店勤務。後年の述懐「当時私の家(海軍軍医総監,子爵実吉安純邸)は麻布鳥居坂の高台にあって,二階の窓から東の方に品川の海が見える…外国へ行きたいと。学校を出てすぐ正金銀行へ入ったのも,当時海外に一番たくさんの支店を持っておったのが正金銀行だったからです」
- [2]初代社長実吉雅郎は大正6年東京帝国大学英法科卒業とともに横浜正金銀行に入社し神戸支店勤務。後年の述懐「当時私の家(海軍軍医総監,子爵実吉安純邸)は麻布鳥居坂の高台にあって,二階の窓から東の方に品川の海が見える…外国へ行きたいと。学校を出てすぐ正金銀行へ入ったのも,当時海外に一番たくさんの支店を持っておったのが正金銀行だったからです」
- [3]大正7年,実吉は島徳蔵の長女富子と結婚。翌8年正金銀行を辞し,島徳蔵の弟定治郎が社長として主宰する島商店(大正10年島貿易株式会社に改組)へ入社。11年5月には島貿易取締役ロンドン支店長として米国から同地へ赴任
1928年春、米ユニバーサル・オイル・プロダクツ(UOP)社から特許売却の権限を預かった角田駒治氏が島氏を訪ね、島氏は女婿の実吉雅郎氏に検討を始めさせた。対象は重油を原料にガソリンを連続して得るダブス式熱分解法で、当時の国内では揮発油の価格が重油のほぼ3倍あり、輸入も増加を続けていた。関口寿氏らが渡米して7月に仮調印を済ませ、10月25日に島氏を会長、実吉雅郎氏を社長とする日本揮発油が発足した。授権資本1,000万円のうち250万円を払い込み、11月には実吉雅郎氏が自らUOP社を訪ねて、12月28日に正式調印した。
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-2 UOP社との折衝
- [4]昭和3年の春,島徳蔵はUOP社第2代社長ハーレー氏からダブス式クラッキング法の特許を売る件について権限を与えられていた角田の訪問をうけ,島は早速女婿の実吉に本件に関する検討を開始させた
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-1 創業・I-2 UOP社との折衝
- [5]ダブス式クラッキング法は原料に重油を用い主製品としてガソリンを製造する連続式熱分解法。昭和初年には国内の揮発油生産が需要に追い付かず輸入が激増し,日本市場での揮発油価格は重油のほぼ3倍であった
- [6]関口寿らが訪米し7月19日ニューヨークでハーレー社長と契約を仮調印(特許権の譲渡,対価は4年間の分割で100万ドル)。日本揮発油は昭和3年10月25日に創立総会をもって発足し,主な役員は島徳蔵(会長),実吉雅郎(社長),関口寿(専務),角田駒治(常務)
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-2 UOP社との折衝・I-3 製油事業の挫折
- [7]授権資本金は1,000万円で,設立と同時に内250万円の払込みを完了。11月8日に実吉社長自らが角田常務らを伴って正式調印のためUOP社を訪問し,12月28日に正式調印が行われた
最初の構想は大阪府大津町に熱分解の製油所を建てることだったが、周辺3町村の反対、金解禁後の石油市況の暴落、島会長の資金調達のつまずきが重なり、1930年に計画は挫折した。東京本社は5名まで縮み、日本石油から入る特許使用料で人件費と経費を細々と賄った。1934年7月には南満洲鉄道とダブス法の特許実施契約を結び、撫順の頁岩油工場に装置を納めた。1937年ごろ、イソオクタン製造法の権利をめぐってUOP社と交渉する中で、自社でガソリンを造るという設立以来の構想を断ち、各社に実施権を与える仕事に絞った。
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-3 製油事業の挫折
- [8]昭和3年12月に大阪府泉北郡大津町に製油所用地を買収したが,付近の3カ町村から工場設置反対の陳情が出され認可は遅延。金解禁後の石油市況の暴落と,島会長の製油所資金調達における蹉跌もあって,昭和5年には大津製油所計画は挫折
- [9]東京本社は関口専務以下5名のみという規模にまで縮小。日本石油からのダブス法の特許使用料が当社の収入となり,人件費・経費などを細々ながらも賄った
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-4 特許権活用の時代
- [10]9年7月満鉄との間にダブス式クラッキング法特許実施契約を成立させ,撫順の頁岩油製油工場に分解揮発油工場の装置を納入
- [11]昭和12年頃,イソオクタン製造法の特許権取得のためUOP社と交渉。この時期に至り,当社はついに自社によるガソリン製造という会社設立以来の念願を断ち,各民間会社へ実施権を供与するという仕事に専心することになる
1940年11月には横浜に研究所と触媒製造工場を設ける許可を得て、陸海軍の燃料計画に合わせてUOP社の技術を手直しする設計の仕事を広げた。社史はこれを日本のエンジニアリング会社の草分けの仕事と位置づけている。
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I-5 技術会社としてプラントエンジニアリング業務へ移行・I-6 研究所,触媒製造工場,化工機工場の設立
- [12]横浜最戸町の土地に研究所および触媒製造工場の設立を申請し昭和15年11月許可。陸海軍に協力して導入技術を新プロセスとの組合せに適合するようモディフィケーションエンジニアリングを実施し,これは日本におけるいわゆるエンジニアリング会社の草分けといえる仕事であった
- [13]横浜最戸町の土地に研究所および触媒製造工場の設立を申請し昭和15年11月許可。陸海軍に協力して導入技術を新プロセスとの組合せに適合するようモディフィケーションエンジニアリングを実施し,これは日本におけるいわゆるエンジニアリング会社の草分けといえる仕事であった
戦後の転機は、1951年7月にUOP社の社長から届いた訪米の要請だった。実吉雅郎氏は辛抱強く交渉を重ね、1952年5月5日にUOP社の現有と将来のプロセスについて日本での再実施許諾権を得る基本契約を結んだ。顧客がUOP社に払うロイヤリティの一定割合を受け取る条件も付き、実吉雅郎氏は後年これを「起死回生の道」と呼んでいる。1953年には丸善石油下津製油所の流動接触分解装置で設計と建設の元請に選ばれ、石油プラント一式を初めて請け負った。
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 III-3 UOP社との契約更改
- [14]昭和26年7月,UOP社ハリス社長から訪米を要請する信書が到着。実吉社長の辛抱強い折衝により,UOP社の現有ならびに将来開発されるプロセスの日本における再実施許諾権が当社に与えられ,顧客からUOP社に支払われるすべてのロイヤリティの一定割合を当社が取得する条件が付帯された。27年5月5日に調印,後年実吉社長は「起死回生の道」としている
- [15]昭和26年7月,UOP社ハリス社長から訪米を要請する信書が到着。実吉社長の辛抱強い折衝により,UOP社の現有ならびに将来開発されるプロセスの日本における再実施許諾権が当社に与えられ,顧客からUOP社に支払われるすべてのロイヤリティの一定割合を当社が取得する条件が付帯された。27年5月5日に調印,後年実吉社長は「起死回生の道」としている
- [16]昭和26年7月,UOP社ハリス社長から訪米を要請する信書が到着。実吉社長の辛抱強い折衝により,UOP社の現有ならびに将来開発されるプロセスの日本における再実施許諾権が当社に与えられ,顧客からUOP社に支払われるすべてのロイヤリティの一定割合を当社が取得する条件が付帯された。27年5月5日に調印,後年実吉社長は「起死回生の道」としている
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)5.2.1 丸善石油下津製油所FCC装置の建設
- [17]28年当社はエンジニアリング会社としてUOP社の協力を得つつ,丸善石油下津製油所の流動接触分解装置およびガス回収装置の設計・建設のメインコントラクター(元請業者)に採用され,近代的石油プラント一式を初めて請け負った
1962年5月に東京証券取引所第2部へ上場し、プラントエンジニアリング会社として国内で初めての上場となった。1966年5月に会長制を設けて代表取締役会長に退き、鈴木義雄氏に社長を譲った。1967年9月4日に74歳で急逝し、創立から39年間、最高経営者の立場を離れなかった。
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)8.3 本社の新大手町ビル移転と株式上場
- [18]37年5月には株式を公開し東京証券取引所第2部に上場。プラントエンジニアリング会社としての建設部門上場は,わが国では初めてであった
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)
- [19]41年5月,当社は新たに会長制を設け,実吉社長が代表取締役会長となり,鈴木副社長を代表取締役社長に選任
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)8.1 実吉会長の逝去
- [20]昭和42年9月4日,当社創立以来39年の間一貫して最高経営者の立場にあった実吉雅郎会長を失った。74歳の高齢であったとはいえ,文字通りの急逝であった
参考文献2件
参考文献
- 日揮五十年史(日揮, 1979年)第1編 I 創立と初期の発展
- 日揮 統合報告書 2020(英文)Founding Aspirations, Pursued to this Day
事実根拠:出所(日揮ホールディングス)