日揮ホールディングス:日本揮発油の設立とUOP社との技術提携
1928年〜製油所の建設を断念し、特許の使用許可を供与する商売へ
社名に「揮発油」の語が入ったのは、発足時に石油事業へ乗り出すつもりだったからである。会社は実吉雅郎氏らが1928年10月25日に資本金250万円で日本揮発油株式会社として立ち上げ、本店を東京市麹町区内幸町に構えた。当初の構想は、ダブス式熱分解プロセスの特許権を買い取り、自ら石油を精製することにあった。設立の翌月、11月には米国ユニバーサル・オイル・プロダクツ社との間で、熱分解蒸留法装置の日本における特許の譲受けおよび建設に関する協約を結んでいる。しかしさまざまな事情から方針を改め、特許権の使用を他社に認めるプロセス・ライセンシングを主な業務に据えた。石油事業から手を引いた後も、社名は48年にわたって変わらなかった。
- 証券アナリストジャーナル 1966年1月号
- [1]社名は当初石油事業を始めようとしたことに由来
- 日経ビジネス 1980年8月25日号
- [2]創業者は実吉雅郎
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [3]1928年10月25日 資本金250万円で日本揮発油株式会社を創立
- [4]本店 東京市麹町区内幸町
- [6]1928年11月 米UOP社と熱分解蒸留法装置の日本における特許の譲受けおよび建設に関する協約を締結
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]ダブス式熱分解プロセスの特許権を買いとり石油精製業を目的に創立
- [7]計画を変更しプロセス・ライセンシングを主業務化
設立から5年後の1933年1月、本店を大阪市東区高麗橋へ移した。同じ年にダブス・プロセスの第一号基を満鉄へ納入し、買いとった特許を装置として据える最初の実績を得ている。その後はイソオクタン製造法を旧陸海軍や石油会社に使用許可し、あわせて装置の設計と触媒の開発にも事業を拡大した。1938年8月にはUOP社とイソオクタン製造法の特許の実施および建設に関する追加の暫定的諒解覚書を交換したものの、戦争によりUOP社との諸協約は解消された。技術の供給源を失ったまま、1942年12月には新潟県新津に触媒製造工場を新設した。
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1933年1月 本店を大阪市東区高麗橋へ移転
- [11]1938年8月 UOP社とイソオクタン製造法の特許について追加の暫定的諒解覚書を交換
- [12]戦争によりUOP社との諸協約が解消
- [13]1942年12月 新潟県新津に触媒製造工場を設置
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [9]1933年 ダブス・プロセスの第一号基を満鉄へ納入
- [10]イソオクタン製造法を旧陸海軍や石油会社へ使用許可し装置の設計と触媒の開発にも展開
参考文献[1]-[13]
- 証券アナリストジャーナル 1966年1月号
- [1]社名は当初石油事業を始めようとしたことに由来
- 日経ビジネス 1980年8月25日号
- [2]創業者は実吉雅郎
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [3]1928年10月25日 資本金250万円で日本揮発油株式会社を創立
- [4]本店 東京市麹町区内幸町
- [6]1928年11月 米UOP社と熱分解蒸留法装置の日本における特許の譲受けおよび建設に関する協約を締結
- [8]1933年1月 本店を大阪市東区高麗橋へ移転
- [11]1938年8月 UOP社とイソオクタン製造法の特許について追加の暫定的諒解覚書を交換
- [12]戦争によりUOP社との諸協約が解消
- [13]1942年12月 新潟県新津に触媒製造工場を設置
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [5]ダブス式熱分解プロセスの特許権を買いとり石油精製業を目的に創立
- [7]計画を変更しプロセス・ライセンシングを主業務化
- [9]1933年 ダブス・プロセスの第一号基を満鉄へ納入
- [10]イソオクタン製造法を旧陸海軍や石油会社へ使用許可し装置の設計と触媒の開発にも展開
1941年〜特許の供与から、設計の請負へ
1928年に導入した技術は、満洲の撫順で始まったオイルシェール事業に使われ、戦争中は陸海軍が使用した航空機用ガソリンの製造にも及んだ。それでも戦前の主な仕事は特許権を売ることだった。1941年から42年にかけて自社に設計事務所を設け、触媒工場を建設し、研究所を置いたのは、特許の使用許可を売るだけの体制から、図面を引き装置を組む機能を社内へ抱える体制に移す動きだった。もっとも終戦後しばらくは日本の産業が順調に伸びず、同社は不振の状態を続けた。1948年8月には再建整備法により資本金を250万円から225万円へ減らし、1949年1月に本店を東京都中央区日本橋室町へ移している。
- 証券アナリストジャーナル 1966年1月号
- [14]導入技術が満洲撫順のオイルシェール事業に使用
- [15]戦争中は陸海軍が使用した航空機用ガソリンの製造にも技術が使用
- [16]戦前の主業務は特許権の販売
- [17]1941〜42年 自社の設計事務所・触媒工場・研究所を設置
- [18]終戦後しばらく不振が続いた
- 証券 1962年7月号
- [19]1948年8月 再建整備法により資本金250万円から225万円へ減資
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1949年1月 本店を東京都中央区日本橋室町へ移転
京浜製作所では従業員への給料を期日どおりに払うことさえ難しく、プラント関係の注文も伸びなかった。1950年3月には資本金を1,000万円に増やしたが、終戦から数年を経ても日本揮発油には確かな仕事の見込みがなかった。同じ1950年、役員会は再建策として、石油の精製か、それにつながる事業に乗り出す案を認め、UOP社へ書簡を出した。占領下の日本では、米国側から招かれなければ海外へ渡る旅券が出ず、返事を待つだけの時間が続いた。1951年7月、UOP社のハリス社長から訪米を促す信書が届いた。役員会は、戦前に契約の交渉に当たった実吉雅郎社長その人を米国へ送ると決め、社長は同年10月と翌年3月の二度にわたって太平洋を越えた。旧知の幹部がすべて入れ替わっていたUOP社との交渉は、困難をきわめた。
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [21]当時の日本揮発油はプラント関係の受注が伸び悩み、京浜製作所の従業員への給料の定期的な支払いに事欠く状況だった
- [23]1950年 役員会が石油精製またはこれに関連する事業へ乗り出すべきだとする再建案を了承し、UOP社へ書簡を送付
- [24]占領下では米国の招請がないかぎり海外渡航旅券が交付されなかった
- [25]1951年7月 UOP社ハリス社長から訪米を要請する信書が到着し、役員会が実吉雅郎社長の渡米を決定
- [26]実吉雅郎社長は1951年10月と1952年3月の2回にわたり契約更改の交渉のため渡米
- [27]交渉時は旧知のUOP社幹部がすべて交代しており交渉は困難をきわめた
- 株式会社年鑑 1964年版
- [22]1950年3月 資本金を1,000万円へ増資
UOP社との提携が復活したのは1952年5月で、石油精製および石油化学に関する特許の実施および建設の契約を結び、技術の供給元を14年ぶりに取り戻した。これによって同社は、UOP社の全プロセスについて日本での包括的な特許再実施許可権を手にし、プラントの設計から建設までを自ら手がける体制に移った。その下地には、1950年から51年にかけて国内の石油工場が操業を再開し、そこから事業が大きく伸びていたことがある。同年7月に横浜工務部を置き、8月には触媒製造工場を切り離して日揮化学株式会社を設立した。12月には建設業者としての登録も済ませている。
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [28]1952年5月 UOP社と石油精製および石油化学に関する特許の実施および建設の契約を締結
- [31]1952年7月 横浜工務部を設置
- [32]1952年8月 触媒製造工場を分離し日揮化学株式会社を設立
- [33]1952年12月 建設業者として登録
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [29]UOP社の全プロセスについて日本における包括的な特許再実施許可権を取得
- 証券アナリストジャーナル 1966年1月号
- [30]1950〜51年 日本で石油工場の操業が再開し事業が拡大
参考文献[14]-[33]
- 証券アナリストジャーナル 1966年1月号
- [14]導入技術が満洲撫順のオイルシェール事業に使用
- [15]戦争中は陸海軍が使用した航空機用ガソリンの製造にも技術が使用
- [16]戦前の主業務は特許権の販売
- [17]1941〜42年 自社の設計事務所・触媒工場・研究所を設置
- [18]終戦後しばらく不振が続いた
- [30]1950〜51年 日本で石油工場の操業が再開し事業が拡大
- 証券 1962年7月号
- [19]1948年8月 再建整備法により資本金250万円から225万円へ減資
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1949年1月 本店を東京都中央区日本橋室町へ移転
- [28]1952年5月 UOP社と石油精製および石油化学に関する特許の実施および建設の契約を締結
- [31]1952年7月 横浜工務部を設置
- [32]1952年8月 触媒製造工場を分離し日揮化学株式会社を設立
- [33]1952年12月 建設業者として登録
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [21]当時の日本揮発油はプラント関係の受注が伸び悩み、京浜製作所の従業員への給料の定期的な支払いに事欠く状況だった
- [23]1950年 役員会が石油精製またはこれに関連する事業へ乗り出すべきだとする再建案を了承し、UOP社へ書簡を送付
- [24]占領下では米国の招請がないかぎり海外渡航旅券が交付されなかった
- [25]1951年7月 UOP社ハリス社長から訪米を要請する信書が到着し、役員会が実吉雅郎社長の渡米を決定
- [26]実吉雅郎社長は1951年10月と1952年3月の2回にわたり契約更改の交渉のため渡米
- [27]交渉時は旧知のUOP社幹部がすべて交代しており交渉は困難をきわめた
- 株式会社年鑑 1964年版
- [22]1950年3月 資本金を1,000万円へ増資
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [29]UOP社の全プロセスについて日本における包括的な特許再実施許可権を取得
1952年〜丸善石油下津のFCC装置で始めた、設計と建設の一括請負への転換
契約を取り戻した日本揮発油に、次に必要だったのは資金と陣容だった。UOP社へ支払うロイヤリティの頭金40万ドルのうち4分の1にあたる10万ドル、当時の3,600万円を、その年の暮までに用意しなければならなかった。実吉雅郎社長は、第一高等学校と東京帝国大学を通じて同期だった三井銀行頭取の佐藤喜一郎氏に事業の見込みを説いて金融の約束を取り付け、渡辺伊三郎顧問を介して申し込みのあった藤永田造船所にも資本参加を求めた。5,000万円の増資は、再評価積立金2,000万円の組み入れと実吉社長個人の500万円、藤永田造船所の2,500万円で構成され、資本金は1952年6月に2,500万円、次いで5,500万円へ積み上がった。日本揮発油側3,500万円、藤永田側2,500万円という出資の比率が、このとき決まった。
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [34]UOP社へ支払うロイヤリティ頭金40万ドルのうち10万ドル(3,600万円)を年内に用意する必要があった
- [35]実吉雅郎社長は一高・東京帝国大学の同期である三井銀行頭取 佐藤喜一郎に金融援助を取り付け、渡辺伊三郎顧問を介して藤永田造船所に資本参加を求めた
- [36]5,000万円の増資は再評価積立金2,000万円の組み入れ、実吉社長個人500万円、藤永田造船所2,500万円で構成された
- [38]出資比率は日本揮発油側3,500万円、藤永田造船所側2,500万円
- 株式会社年鑑 1964年版
- [37]1952年6月 資本金を2,500万円、次いで5,500万円へ増資
日本では、この種の企業はそれまでプラントメーカーと呼ばれていた。転機は、工務部長を務める権藤登喜雄常務のUOP社への派遣で、常務は1952年9月に出発し、11月まで先方に滞在した。帰国した常務は1953年1月の日本化学機械協会の総会で、UOP社の子会社プロコン社やケロッグ社、マッキー社がいずれも完全なエンジニアリングの基盤に立ってプラントの設計と建設を手がけていると報告し、日本揮発油はこの1953年から、自社をエンジニアリング会社と位置づけ、外に向けてはEngineering FirmまたはEngineers & Constructorsを名乗るようにした。セールスエンジニアが客先に携えたリーフレットには、設計から建設までを一社で責任を負って進めることの利点が11項目にわたり挙げられていた。事業内容はやがて、各種製造装置の設計および建設を先頭に、技術の使用権の付与、UOP社の触媒の輸入販売の三本で書き表されるようになる。
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [39]それまで日本ではこの種の企業はプラントメーカーと呼ばれていた
- [40]権藤登喜雄常務(工務部長)は1952年9月から11月までUOP社へ派遣された
- [41]1953年1月24日の日本化学機械協会総会での講演で、UOP社の子会社プロコン社、ケロッグ社、マッキー社がいずれも完全なエンジニアリングの基盤の上でプラントの設計・建設を行っていると報告した
- [42]1953年を境に自らをエンジニアリング会社と規定し、対外的にEngineering FirmまたはEngineers & Constructorsと称した
- [43]セールスエンジニアは設計と建設を一社が責任をもって遂行する利点を11項目に並べたリーフレットを顧客へ持参した
- 株式会社年鑑 1964年版
- [44]主な事業内容は各種製造装置(プラント)の設計および建設、技術(プロセス)の使用権の付与、UOP社の触媒の輸入販売
1953年、日本揮発油は丸善石油下津製油所の流動接触分解装置と、これに付くガス回収装置について、設計と建設の元請業者に採用された。石油精製業界で原油処理能力の拡大と新規プロセスの採用を同時に行う気運が高まっていたことが、その背景にある。基本設計はUOP社が行い、詳細設計から先を日本揮発油が担い、機器は顧客の支給、材料は自社の調達という分担だった。ただし反応塔と再生塔、圧縮機は、UOP社の助言のもとで自社が米国から輸入した。近代的な石油プラント一式を初めて請け負う仕事であり、詳細設計にあたっては、1950年に米国で建設された同程度の能力の装置の図面と仕様書をUOP社から取り寄せて参考にしている。丸善石油はのちに、日本石油精製・出光興産・東亜石油と並ぶ主要な取引先となった。
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [45]1953年 丸善石油下津製油所の流動接触分解装置(日産3,000バレル)およびガス回収装置の設計・建設のメインコントラクターに採用された
- [46]1953年頃から石油精製業界で原油処理能力の拡大と新規プロセスの採用を同時に行う気運が高まった
- [47]基本設計はUOP社、詳細設計・建設は日本揮発油が担当し、機器は顧客支給、材料は日本揮発油の担当という分担だった
- [48]反応塔・再生塔・圧縮機はUOP社の助言のもとで日本揮発油が米国から輸入した
- [49]近代的石油プラント一式を初めて請け負う仕事だった
- [50]詳細設計では1950年に米国で建設された類似能力プラントの詳細図面・仕様書をUOP社から入手して参考とした
- 株式会社年鑑 1964年版
- [51]主な取引先に日本石油精製、出光興産、丸善石油、東亜石油が並ぶ
請け負う範囲が広がると、社内の組み立ても変わった。1953年当時の横浜の工務部は従業員が50名を超え、うち30名が設計課、20余名が工務課と工事課に分かれていた。受注額は1953年度に1億7,000万円、1954年度に1億5,700万円と足踏みした。その間の1954年1月、工事規模に応じて置いていたコーディネーター制は主任技師室という組織にまとめられた。この制度はもともとUOP社やプロコン社のやり方にならったもので、設計部門の分担も塔槽・熱交換器・配管の機能ごとに組み替えられた。受注は1955年度に8億900万円へ急増する。当時は設計にかかった費用を顧客にそのまま請求できる環境ではなかった。それでも丸善石油から受けた装置の仕事を機に、設計料と技術料を請求する根拠が発注側と受注側の双方にとってはっきりし始めた。10年後の1963年3月期には完成工事高が64億7,000万円に達し、特許の売り手だった会社は図面の売り手へと姿を変えていた。
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [52]1953年当時の横浜の工務部は従業員50名超、うち30名が設計課、20余名が工務課と工事課に所属していた
- [53]1953年度の受注は1億7,000万円、1954年度は1億5,700万円
- [54]1954年1月 コーディネーターを主任技師室へ組織化し、設計部門を塔槽・熱交換器・配管など機能別の担当制とした
- [55]1955年度の受注額は8億900万円
- [56]当時の日本では設計業務に要した費用をあからさまに顧客へ請求できる時代ではなかった
- [57]丸善石油FCC装置の受注はエンジニアリングフィーやノウハウフィーを請求する理論的根拠が会社にも顧客にも明確化される端緒となった
- 株式会社年鑑 1964年版
- [58]1963年3月期の完成工事高は64億7,481万円
参考文献[34]-[58]
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- [34]UOP社へ支払うロイヤリティ頭金40万ドルのうち10万ドル(3,600万円)を年内に用意する必要があった
- [35]実吉雅郎社長は一高・東京帝国大学の同期である三井銀行頭取 佐藤喜一郎に金融援助を取り付け、渡辺伊三郎顧問を介して藤永田造船所に資本参加を求めた
- [36]5,000万円の増資は再評価積立金2,000万円の組み入れ、実吉社長個人500万円、藤永田造船所2,500万円で構成された
- [38]出資比率は日本揮発油側3,500万円、藤永田造船所側2,500万円
- [39]それまで日本ではこの種の企業はプラントメーカーと呼ばれていた
- [40]権藤登喜雄常務(工務部長)は1952年9月から11月までUOP社へ派遣された
- [41]1953年1月24日の日本化学機械協会総会での講演で、UOP社の子会社プロコン社、ケロッグ社、マッキー社がいずれも完全なエンジニアリングの基盤の上でプラントの設計・建設を行っていると報告した
- [42]1953年を境に自らをエンジニアリング会社と規定し、対外的にEngineering FirmまたはEngineers & Constructorsと称した
- [43]セールスエンジニアは設計と建設を一社が責任をもって遂行する利点を11項目に並べたリーフレットを顧客へ持参した
- [45]1953年 丸善石油下津製油所の流動接触分解装置(日産3,000バレル)およびガス回収装置の設計・建設のメインコントラクターに採用された
- [46]1953年頃から石油精製業界で原油処理能力の拡大と新規プロセスの採用を同時に行う気運が高まった
- [47]基本設計はUOP社、詳細設計・建設は日本揮発油が担当し、機器は顧客支給、材料は日本揮発油の担当という分担だった
- [48]反応塔・再生塔・圧縮機はUOP社の助言のもとで日本揮発油が米国から輸入した
- [49]近代的石油プラント一式を初めて請け負う仕事だった
- [50]詳細設計では1950年に米国で建設された類似能力プラントの詳細図面・仕様書をUOP社から入手して参考とした
- [52]1953年当時の横浜の工務部は従業員50名超、うち30名が設計課、20余名が工務課と工事課に所属していた
- [53]1953年度の受注は1億7,000万円、1954年度は1億5,700万円
- [54]1954年1月 コーディネーターを主任技師室へ組織化し、設計部門を塔槽・熱交換器・配管など機能別の担当制とした
- [55]1955年度の受注額は8億900万円
- [56]当時の日本では設計業務に要した費用をあからさまに顧客へ請求できる時代ではなかった
- [57]丸善石油FCC装置の受注はエンジニアリングフィーやノウハウフィーを請求する理論的根拠が会社にも顧客にも明確化される端緒となった
- 株式会社年鑑 1964年版
- [37]1952年6月 資本金を2,500万円、次いで5,500万円へ増資
- [44]主な事業内容は各種製造装置(プラント)の設計および建設、技術(プロセス)の使用権の付与、UOP社の触媒の輸入販売
- [51]主な取引先に日本石油精製、出光興産、丸善石油、東亜石油が並ぶ
- [58]1963年3月期の完成工事高は64億7,481万円
筆者考察
石油精製業を営むために作られた会社が、一度も製油所を持たないまま業容を組み替えた。1928年の設立趣意書は、価格の最も低い重油を海外から輸入し、これを価格の最も高い揮発油に変えて国内の需要に応え、進んでは海外へ輸出すると謳っている。だがその製油所は建たず、手元に残ったのは米国ユニバーサル・オイル・プロダクツ社の特許を日本で使わせる権利だけだった。特許を売る商売は、装置も工場も持たずに利益を生む代わりに、技術の供給が絶たれれば何も残らない。1939年の道義的禁輸で図面の受け渡しが止まり、1942年に提携そのものが解消されたとき、その弱さがそのまま業績に出た。
戦後に実吉雅郎社長が二度の渡米で取り戻したのは、同じ特許の再実施許諾権だった。ところが1953年から日本揮発油が売り物にしたのは、その権利ではなく、設計と建設を一社で引き受ける役務のほうである。丸善石油下津製油所の流動接触分解装置で元請を務め、横浜の工務部に主任技師室を置き、設計部門を塔槽・熱交換器・配管の機能別に組み替えた。受注額は1953年度の1億7,000万円から1955年度には8億900万円へ跳ね上がる。特許の使用料は他社が開発した技術の分け前でしかないが、設計料は自社の技術者が費やした時間の対価である。製油所を持てなかったことが、装置を持たずに図面で稼ぐ会社の形を決めた。
- 出所は日揮五十年史(日揮、1979年)。年度は4月始まり。
出典・参考
7件
- 日揮ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日揮五十年史(日揮、1979年)
- 株式会社年鑑 1964年版
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 証券 1962年7月号
- 証券アナリストジャーナル 1966年1月号
- 日経ビジネス 1980年8月25日号