清水建設:清水組の会社組織化と全国支店網の整備
1915年〜三分家の出資による会社組織への改組と、震災翌日の営業再開
清水店の従業員はすでに259名を数え、個人経営のままでは請け負う仕事の大きさに見合わなくなっていた。1914年に第一次世界大戦が始まると日本の産業界は景気づき、建設業界にも国の内外から注文が押し寄せた。こうして1915年10月、宗家の清水満之助氏を中心とし、釘吉氏・一雄氏・揚之助氏の三分家が出資社員となって資本金100万円の合資会社清水組が生まれ、社長には清水釘吉氏が就いた。改組は同族の外へ資本を開放するものではなく、家と分家の出資を会社へ移し替えるものであった。この清水組という名は、戦後に清水建設へ改めるまで、ひろく国民のあいだで通った。
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [1]大正3年当時の従業員数は259名
- [2]大正3年の第一次世界大戦で日本の産業界が活況を呈し建設業界にも内外の注文が殺到
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [3]大正4年 宗家満之助を中心に釘吉・一雄・揚之助の三分家を出資社員として資本金100万円の合資会社清水組を設立
- [5]清水組の名は終戦後に清水建設へ改称するまで広く用いられた
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [4]大正4年10月 合資会社へ改組し清水釘吉が社長に就任
施主の都合が発注の時期も工期も決める受注産業である建設業は、景気がよければ工事量が一気に増える一方、景気が悪ければ仕事を確保するのに苦しむ。大戦の終結とともに建築資材と職人の手間賃が急騰し、多方面の工事を抱えていた清水組は値上がりをまともに受けながらも、赤字になる工事を一つ残らず仕上げた。休戦条約が結ばれると、大戦景気の反動で株価が暴落し、企業の不況はどん底に落ちた。こうした波をならして、いつでも安定して仕事を得る手立ては信用しかなく、長年かけて築いた『のれん』こそが最も値の張る資産である『所謂「のれん」は最も高価な資産であります』。欠損を呑んで工期を守る判断は、その資産の価値を損なわないための代価であった。
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
- [6]建設業は受注産業で好況時は工事量が激増し不況時は工事量の確保に苦慮する
- [10]建設需要の不規則性を克服して恒常的・安定的に工事量を確保し得るものは信用以外になく、のれんは最も高価な資産である
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [7]欧州大戦後 建築資材や職人の手間賃が暴騰
- [8]手広く工事を受け持っていた清水組は打撃を受けたが、請負った工事は欠損しても完成させた
- [9]休戦条約の成立後、大戦ブームの反動で株が暴落し企業の不況が底をつく
1923年9月1日の関東大震災で、東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊した。重要書類を小石川の清水一雄氏宅へ移し、実業之日本社ビル内に仮本店を構えた清水組は、同日午後8時に鞘町本店が炎上したあとも、焼跡にテントを張って翌2日には営業を始めた。本社の建物をなくしたまま、間借りで帝都の復興に取り組んだ。応急工事の最初の注文主は東海銀行で、復興工事は東京市内だけで内閣印刷局工場や富士瓦斯紡績工場など約430余件に及び、横浜でも東京電灯をはじめ57カ所を請け負った。1920年3月に着工していた東京会館は震災で大きく損なわれ、店長の清水釘吉氏はその責任を重く受け止めて、復旧にかかる費用の半分を引き受け、1927年に完成させた。
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [11]大正12年9月1日の関東大震災で東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊
- [12]鞘町本店は震災当日午後8時に炎上、重要書類を小石川の清水一雄宅へ移し仮本店を実業之日本社ビル内に設け、焼跡のテントで翌2日に営業開始
- [14]震災後の応急工事の受注第一号は東海銀行
- [15]震災復興で東京市内の内閣印刷局工場・富士瓦斯紡績工場など約430余件、横浜で東京電灯ほか57カ所を請負
- [16]大正9年3月着工の東京会館が震災で被害を受け、清水釘吉が復旧費の半分を負担して昭和2年に完成
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [13]大正12年の関東大震災で本社社屋を焼失し、間借りして帝都の復興に当たる
参考文献[1]-[16]
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [1]大正3年当時の従業員数は259名
- [2]大正3年の第一次世界大戦で日本の産業界が活況を呈し建設業界にも内外の注文が殺到
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [3]大正4年 宗家満之助を中心に釘吉・一雄・揚之助の三分家を出資社員として資本金100万円の合資会社清水組を設立
- [5]清水組の名は終戦後に清水建設へ改称するまで広く用いられた
- [7]欧州大戦後 建築資材や職人の手間賃が暴騰
- [8]手広く工事を受け持っていた清水組は打撃を受けたが、請負った工事は欠損しても完成させた
- [9]休戦条約の成立後、大戦ブームの反動で株が暴落し企業の不況が底をつく
- [11]大正12年9月1日の関東大震災で東京の家屋の6割5分が焼失・倒壊
- [12]鞘町本店は震災当日午後8時に炎上、重要書類を小石川の清水一雄宅へ移し仮本店を実業之日本社ビル内に設け、焼跡のテントで翌2日に営業開始
- [14]震災後の応急工事の受注第一号は東海銀行
- [15]震災復興で東京市内の内閣印刷局工場・富士瓦斯紡績工場など約430余件、横浜で東京電灯ほか57カ所を請負
- [16]大正9年3月着工の東京会館が震災で被害を受け、清水釘吉が復旧費の半分を負担して昭和2年に完成
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [4]大正4年10月 合資会社へ改組し清水釘吉が社長に就任
- [13]大正12年の関東大震災で本社社屋を焼失し、間借りして帝都の復興に当たる
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
- [6]建設業は受注産業で好況時は工事量が激増し不況時は工事量の確保に苦慮する
- [10]建設需要の不規則性を克服して恒常的・安定的に工事量を確保し得るものは信用以外になく、のれんは最も高価な資産である
1927年〜昭和恐慌下の雇用維持と、外部から迎えた技術の統率
大正末期から続いた不況は、1929年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で決定的となり、内務省の統計でも全国の失業者数は30万に達した。清水組は1927年にまず職制を改革し、清水釘吉氏は店長から社長となって、内山熊八郎氏をはじめとする幹部が赤字対策に奔走した。当時の店員は1,000名に達していたが、定年制を敷いて人員を減らす一方、賞与などは同族の私財から支出するという有様であった。1931年には一部店員の整理も行い、残す者には予備員制度を設けて本俸の8割を支給している。それでも1928年には経営を縮小しながら76人の新社員を採用しており、人を全部は手放さなかった。創業以来の危機を職制の改革で切り抜けたと後年の記録は記す。
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [17]昭和4年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で日本経済も大打撃、内務省統計で全国の失業者数は30万
- [18]昭和2年 職制を改革し清水釘吉が店長から社長となり、内山熊八郎ら幹部が赤字対策に当たる
- [19]当時の店員は1,000名、定年制を敷いて人員を減らす一方で賞与は同族の私財から支出
- [20]昭和6年 一部店員を整理し、予備員制度を設けて本俸の8割を支給
- [21]昭和3年 経営を縮小しながら76人の新社員を採用
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [22]昭和4年の世界恐慌で創業以来の危機に遭遇したが職制の改革など赤字対策で切り抜けた
恐慌下の清水組は、機構を改め経営を引き締める努力を重ねていた。その只中の1929年11月、清水釘吉氏は第一銀行頭取 佐々木勇之助氏の勧めに応じ、東京帝国大学建築学科で主任教授の職にあった佐野利器氏を無限責任の社員に加えた。佐野氏には副社長の地位が与えられた。入社した佐野氏がまず手を付けたのは、技術水準の引き上げと経営の合理化である。出資社員を同族だけで固めていた合資会社に学界の技術者を無限責任の社員として据えたことで、削る対象と残す対象を同族の情実から離れて決める道も開けた。同じ1929年には、東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を、競り合った数多くの入札者を退けて受注し、土木部の転機とした。建築で得た信用を土木の分野へ持ち込めるかどうかが、このころの清水組の課題となった。
- ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
- [23]1929年の大恐慌下で機構改革や経営合理化の努力が重ねられた
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [24]昭和4年11月 第一銀行頭取・佐々木勇之助のすすめで東大建築学科主任教授の佐野利器を無限責任社員として迎え副社長に就任させる
- [25]佐野利器は入社と同時に経営の合理化と技術の向上を断行
- [26]昭和4年 多くの競争入札者のなかから選ばれて東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を施工
- [27]地下鉄工事と泰阜水力発電所工事は清水組土木部にとって画期となり土木技術が飛躍
聖路加病院は1928年に着工し、完成までに10年以上かかった工事である。資金が詰まった1931年の暮れ、施主側が好意で前渡しした10万円は、翌日には店員への賞与に回された。長い工期がそのまま賃金を払う元手になった形である。恐慌の底にあった清水組を支えたのは、同族の私財と得意先の好意だった。同じ1931年には、明治・大正期の経済界を導き、清水組にとって4代60年にわたり育ての親であった渋沢栄一氏が92歳で亡くなった。翌1932年7月、清水組は震災前の鞘町本店とほぼ同じ位置にあたる宝町に本社を新築し、丸ビルから移転した。関東大震災での焼失以来、初めて自前の本社に戻ったことになる。
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [28]聖路加病院は昭和3年の着工から完成まで10年以上を要した
- [29]昭和6年暮 聖路加側の好意で前渡しされた10万円が翌日に賞与として店員へ配られる
- [30]昭和6年 渋沢栄一が92歳で死去、清水組にとって4代60年にわたる育ての親であった
- [32]昭和7年 震災前の鞘町本店とほぼ同位置の宝町に本社を新築し丸ビルから移転
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [31]昭和7年7月 現在地に本社社屋を完成
参考文献[17]-[32]
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [17]昭和4年のアメリカ株式大暴落による世界恐慌で日本経済も大打撃、内務省統計で全国の失業者数は30万
- [18]昭和2年 職制を改革し清水釘吉が店長から社長となり、内山熊八郎ら幹部が赤字対策に当たる
- [19]当時の店員は1,000名、定年制を敷いて人員を減らす一方で賞与は同族の私財から支出
- [20]昭和6年 一部店員を整理し、予備員制度を設けて本俸の8割を支給
- [21]昭和3年 経営を縮小しながら76人の新社員を採用
- [24]昭和4年11月 第一銀行頭取・佐々木勇之助のすすめで東大建築学科主任教授の佐野利器を無限責任社員として迎え副社長に就任させる
- [25]佐野利器は入社と同時に経営の合理化と技術の向上を断行
- [26]昭和4年 多くの競争入札者のなかから選ばれて東京の地下鉄工事と天竜川流域の泰阜水力発電所工事を施工
- [27]地下鉄工事と泰阜水力発電所工事は清水組土木部にとって画期となり土木技術が飛躍
- [28]聖路加病院は昭和3年の着工から完成まで10年以上を要した
- [29]昭和6年暮 聖路加側の好意で前渡しされた10万円が翌日に賞与として店員へ配られる
- [30]昭和6年 渋沢栄一が92歳で死去、清水組にとって4代60年にわたる育ての親であった
- [32]昭和7年 震災前の鞘町本店とほぼ同位置の宝町に本社を新築し丸ビルから移転
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [22]昭和4年の世界恐慌で創業以来の危機に遭遇したが職制の改革など赤字対策で切り抜けた
- ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
- [23]1929年の大恐慌下で機構改革や経営合理化の努力が重ねられた
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [31]昭和7年7月 現在地に本社社屋を完成
1937年〜株式会社への改組と、戦時統制が奪った請負営業の自由
1937年8月、清水組は資本金1,000万円の株式会社清水組として新発足し、合資会社清水組を合併した。無限責任社員の出資で回していた合資会社を株式会社へ改めたのは、昭和7年ごろから業界が好転して事業が順調になり、工事の大型化に見合う資本の調達が要ったためである。同じ時期、日中戦争の拡大とともに清水組は大陸へ出た。天津・青島・北京、さらに上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請け負い、1938年には北京に北支支店を置き、1940年には満洲国法によって満洲清水組を設立している。1940年の紀元2600年記念式典では宮城前の祝典式場を施工し、これを契機に清水釘吉氏は第一線を退いて相談役となり、清水康雄氏が社長に就任した。
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [33]昭和12年8月 資本金1,000万円の株式会社に改組して新発足
- [35]昭和7年ごろから業界が好転し事業が次第に順調になったのち株式会社へ改組
- ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
- [34]1937年 株式会社清水組を設立し合資会社清水組を合併
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [36]日中戦争の拡大とともに天津・青島・北京・上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請負
- [37]昭和13年 北京に北支支店を設置、昭和15年 満洲国法により満洲清水組を設立し清水康雄が社長に就任
- [38]昭和15年 紀元2600年記念式典の宮城前祝典式場を施工、これを契機に清水釘吉が相談役に退き清水康雄が社長に就任
建設業者全体を見ると、1941年の国家総動員法、1942年の企業整備、1943年の労務報国会、1945年の戦時建設団設立と段階を追って請負営業の自由は大きく縛られ、半ば直営工事の手伝いのような立場で陸海軍や軍需工場の工事を担った。清水組も陸海軍協力会に入り、そのうち他の建築会社とひとまとめにされて戦時建設団へ組み込まれていった。戦局が厳しくなるにつれて工事の量は減ったが、1944年には業界で最も古い研究所を設けている。米軍機による本土空襲は1944年11月ごろに始まり、1945年1月には本社も爆撃された。全国の支店・出張所や社員の住宅が相次いで焼け、本社の機構も散り散りに疎開するほかなくなった。
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [39]戦時中の建設業者は昭和16年の国家総動員法、17年の企業整備、18年の労務報国会、20年の戦時建設団設立を通じて請負営業の自由に制約を受け、なかば直営工事の手伝い的な地位で陸海軍・軍需工場の工事に当たった
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [40]太平洋戦争末期に清水組は陸海軍協力会に加盟し、のちに他の建築会社と一丸の戦時建設団へ編成
- [43]昭和19年11月頃から本土空襲が始まり昭和20年1月に本社が爆撃を受け、全国の支店・出張所・社員住宅が焼失して本社機構も分散疎開
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [41]戦局の苛烈化にしたがって清水組の工事量も減少
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
- [42]清水建設の研究所は戦争中の昭和19年に設立され業界最古の歴史を持つ
軍関係の工事で受け取るはずだった残高は戦時補償の打ち切りで棚上げになり、政府工事の代金の支払いも遅れた。外地の工事は敗戦で失われ、清水組が頼れるのは内地の仕事だけになっていた。外地からは社員が戻ってきたが、本格的な工事はほとんどなかった。大手業者にとって、この時期はむしろ苦しい時代であった。清水組はここで積極策を採り、広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と新たに支店網を拡充して工事の入手に努め、社業を縮小せず、社員を一人も解雇しなかった。世田谷には1,600坪の『砧・清水村』を建設し、社員の住宅難に応急の措置を取っている。受注の当てが無い時期に人と拠点を増やす判断は、次の需要が戻ったときに受けられる体を残す賭けであった。
- ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
- [44]太平洋戦争中の軍工事の支払い打ち切りと政府工事の支払い遅延で苦境に立つ
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [45]敗戦により内地だけの工事に頼らねばならなくなる
- [48]社業を縮小せず社員を一名も解雇しなかった
- [49]世田谷に1,600坪の「砧・清水村」を建設し社員の住宅難に応急措置を取る
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [46]戦後の大手建設業者は外地からの社員帰還と工事の払底で苦難の時代を迎えた
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [47]混乱期に積極策を採り広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と支店網を拡充して工事の入手に努める
参考文献[33]-[49]
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- [33]昭和12年8月 資本金1,000万円の株式会社に改組して新発足
- [35]昭和7年ごろから業界が好転し事業が次第に順調になったのち株式会社へ改組
- ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
- [34]1937年 株式会社清水組を設立し合資会社清水組を合併
- [44]太平洋戦争中の軍工事の支払い打ち切りと政府工事の支払い遅延で苦境に立つ
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- [36]日中戦争の拡大とともに天津・青島・北京・上海方面で軍関係・工場・満鉄関係の工事を請負
- [37]昭和13年 北京に北支支店を設置、昭和15年 満洲国法により満洲清水組を設立し清水康雄が社長に就任
- [38]昭和15年 紀元2600年記念式典の宮城前祝典式場を施工、これを契機に清水釘吉が相談役に退き清水康雄が社長に就任
- [40]太平洋戦争末期に清水組は陸海軍協力会に加盟し、のちに他の建築会社と一丸の戦時建設団へ編成
- [43]昭和19年11月頃から本土空襲が始まり昭和20年1月に本社が爆撃を受け、全国の支店・出張所・社員住宅が焼失して本社機構も分散疎開
- [45]敗戦により内地だけの工事に頼らねばならなくなる
- [48]社業を縮小せず社員を一名も解雇しなかった
- [49]世田谷に1,600坪の「砧・清水村」を建設し社員の住宅難に応急措置を取る
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [39]戦時中の建設業者は昭和16年の国家総動員法、17年の企業整備、18年の労務報国会、20年の戦時建設団設立を通じて請負営業の自由に制約を受け、なかば直営工事の手伝い的な地位で陸海軍・軍需工場の工事に当たった
- [46]戦後の大手建設業者は外地からの社員帰還と工事の払底で苦難の時代を迎えた
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- [41]戦局の苛烈化にしたがって清水組の工事量も減少
- [47]混乱期に積極策を採り広島・仙台・北陸・四国・北海道・九州と支店網を拡充して工事の入手に努める
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号
- [42]清水建設の研究所は戦争中の昭和19年に設立され業界最古の歴史を持つ
筆者考察
合資会社清水組の33年間は、建築の注文が三度にわたって断たれた期間であり、そのたびに清水組が守ったのは工事量ではなく人と信用のほうであった。第一次大戦後の資材暴騰では、請け負った工事を欠損しても完成させた。昭和恐慌では店員1,000名に定年制を敷いて減らす一方、賞与を同族の私財から出し、1928年には経営を縮小しながらなお76人を採っている。敗戦の年には外地の工事をすべて失い、軍関係工事の未収金も戦時補償の打ち切りで消えたが、広島から九州まで支店を増やし、社員を一人も解雇しなかった。
この選び方の根拠は、建設業が受注産業であることに尽きる。発注も工期も施主が決めるため、工事量は自社の努力では平準化できず、均せるものは信用しかない。永年かけて築いたのれんが、この業界では最も高価な資産になる。だとすれば、不況期に削減してよいのは利益であって、施工を担う人と、工期を守るという評判ではない。1929年に東京帝国大学の佐野利器を無限責任社員として迎え、1937年に株式会社へ改組し、1944年に業界最古の研究所を設けた一連の手も、同じ資産を別の面から積み増す動きであった。
出典・参考
6件
- 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
- 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
- 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
- ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻1号