第1章 年〜年

清水建設:清水喜助の神田での開業と渋沢栄一の相談役就任

1804年〜銀三分の元手と、横浜居留地で覚えた洋式の工法

1804年、越中富山出身の宮大工・清水喜助氏は22歳で江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店に住みつき、銀三分を元手に大工業を開業した。開業まもない時期は、昼に日本橋あたりの商店の仕事へ呼ばれ、夜は日用の家具を作って売って日々の糧を得ていた。町家や商家の請負で評判を得ると裏店を出て、表通りの神田新石町に店と仕事場を構え、屋号を"清水屋"として多数の弟子を養った。江戸後期は町人が富を蓄えて商家や町家の建築需要が広がり、腕一つの職人が民間の施主から直に普請を請け負う余地が生まれていた。神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町で、地方から出た棟梁が民間の仕事を取り込める街区であった。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [1]創業者 越中富山出身の宮大工・清水喜助(開業時22歳)
    • [2]1804年 江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で銀三分を元手に大工業を開業
    • [3]開業当初は昼に日本橋の商店の仕事、夜は日用の家具の製作と販売
    • [4]神田新石町に店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子を養う
    • [5]江戸後期 町人の蓄財による商家・町家の建築需要の広がり
    • [6]神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町

1859年の横浜開港にあたり、家業を承継した2代清水喜助氏は横浜店を出店した。得意先だった大老・井伊直弼氏の執りなしで開港の準備を一手に引き受け、幕府の諸施設と居留地の外国商館の建築を任された。江戸の弟子衆もこの転身に同行し、古参の職人は東京の得意先を他の出入り大工へ譲って横浜へ移った。居留地の商館は規模も構造も建材も在来の工法とは異なり、棟梁は外国人技師の図面を読みながら煉瓦造やトラス構造を現場で覚えた。官の御用に連なる格式ではなく、外国商人という民間の施主と直に向き合う仕事が、開港地では大量に生まれていた。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [7]1859年 横浜開港に伴い2代清水喜助が横浜店を開設
    • [8]大老・井伊直弼の執りなしで開港準備を引き受け幕府諸施設と外国商館を建築
    • [9]江戸の弟子衆が横浜へ同行し古参職人は東京の得意先を他の大工へ譲渡
    • [11]開港地で外国商人という民間の施主と直接向き合う仕事が拡大
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造など西洋建築技術を習得

2代清水喜助氏は築地ホテル館を手がけたのち、1872年に三井組大番頭・三野村利左衛門氏の下命で第一国立銀行を担った。銀行建築を見たことのないまま自前で設計し、明治初期を代表する擬洋風建築として技術を世に示した。第一国立銀行は三井組ハウスの名でも呼ばれ、明治初期の東京を代表する建物として知られた。明治中期に入ると建築の規模と構造が複雑になり、棟梁の経験だけでは設計と施工の品質を保ちにくくなった。清水組は1886年7月に工学士を招いて技師長制を発足させ、図面を引く技術者と現場を結ぶ体制を同業に先んじて整えた。

  • 清水建設百五十年(1956)
    • [12]築地ホテル館の施工
    • [13]1872年 三野村利左衛門の下命で第一国立銀行を建築
    • [14]洋行経験のないまま自前で設計し擬洋風建築として技術を示す
    • [15]第一国立銀行は三井組ハウスとも呼ばれた
    • [16]明治中期 建築の規模と構造の複雑化で棟梁の経験だけでは品質保持が困難
    • [17]1886年7月 工学士を招聘し技師長制を発足
参考文献[1]-[17]
  • 清水建設百五十年(1956)
    • [1]創業者 越中富山出身の宮大工・清水喜助(開業時22歳)
    • [2]1804年 江戸神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店で銀三分を元手に大工業を開業
    • [3]開業当初は昼に日本橋の商店の仕事、夜は日用の家具の製作と販売
    • [4]神田新石町に店と仕事場を構え屋号「清水屋」として弟子を養う
    • [5]江戸後期 町人の蓄財による商家・町家の建築需要の広がり
    • [6]神田鍛冶町は大工・鍛冶・木挽きの集まる職人町
    • [7]1859年 横浜開港に伴い2代清水喜助が横浜店を開設
    • [8]大老・井伊直弼の執りなしで開港準備を引き受け幕府諸施設と外国商館を建築
    • [9]江戸の弟子衆が横浜へ同行し古参職人は東京の得意先を他の大工へ譲渡
    • [11]開港地で外国商人という民間の施主と直接向き合う仕事が拡大
    • [12]築地ホテル館の施工
    • [13]1872年 三野村利左衛門の下命で第一国立銀行を建築
    • [14]洋行経験のないまま自前で設計し擬洋風建築として技術を示す
    • [15]第一国立銀行は三井組ハウスとも呼ばれた
    • [16]明治中期 建築の規模と構造の複雑化で棟梁の経験だけでは品質保持が困難
    • [17]1886年7月 工学士を招聘し技師長制を発足
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]居留地の外国商館建築を通じて煉瓦造・トラス構造など西洋建築技術を習得

1881年〜相続の断絶と、支配人・顧問への経営の委任

1881年8月に2代清水喜助氏が没すると、店は横浜店と東京店に分かれ、前者を女婿の3代清水満之助氏が、後者を同じく女婿の武治氏が継いだ。ほどなく東京店は横浜店に吸収され、清水満之助本店として一本に戻った。分裂と再統合が数年のうちに起きたのは、清水屋が屋号と得意先を持つ商家でありながら、家督を継ぐ男子を欠いていたためであった。初代喜助氏の跡を継いだ2代喜助氏も、弟子の藤沢清七氏が女婿となって襲名した人物であり、3代満之助氏も武士の出の村田家から入った婿であった。技能は弟子に、得意先は番頭に蓄えられ、当主の座だけが婚姻で継がれた。この構造が、次に当主を失ったときの備えの薄さをそのまま残した。

  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [18]1881年8月 2代清水喜助の逝去により横浜店を女婿の3代満之助、東京店を女婿の武治が継承
    • [19]まもなく東京店が横浜店に吸収され清水満之助本店となる
    • [20]2代清水喜助は初代の弟子・藤沢清七で、初代の女婿となり2代目を襲名
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [21]3代清水満之助は武士の出身(旧姓・村田)

3代清水満之助氏は洋学を修めた人物で、1881年に店を継ぐと、従来の大福帳を当時まだ珍しかった複式簿記へ切り替え、力のある店員を場所掛に任じ、店員の服装を背広に改めた。洋式簿記の採用と海外視察を軸とする進歩的な経営は、この代に始まる。1886年に発足させた技師長に就任したのは、工部大学校造家学科を出た造家学士の坂本復経氏である。同学科の卒業者が建設業者に迎えられたのは坂本氏が最初で、大学で建築を学んだ技術者を店の内側に抱える体制は同業に先んじた。満之助氏は坂本氏を伴って米英仏独を視察し、1887年に帰国している。棟梁の腕と口約束で回してきた商いへ、帳簿・職階・設計という三つの仕組みを同時に持ち込んだ数年であった。

  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [22]3代清水満之助は武士の出身で洋学を学ぶ
    • [23]明治14年 家督相続と同時に大福帳を複式簿記へ切替、能力ある店員を場所掛に任命、服装を背広に改める
    • [25]明治19年 工部大学校出身の造家学士・坂本復経が入社し初代の技師長となる
    • [26]工部大学造家学科の卒業者で建設業者へ迎えられたのは坂本復経が最初
    • [27]満之助は坂本復経とともに米英仏独を視察し明治20年に帰国
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [24]3代満之助は洋式簿記を採用し海外を視察するなど進歩的経営を行う

初代喜助氏の孫にあたる原林之助氏が支配人、女婿の清水釘吉氏が営業監督という布陣が敷かれたのは、1887年に満之助氏が夭折し、跡を継いだ4代満之助氏がまだ年少だったからである。顧問には第一国立銀行を設立した渋沢栄一氏が招かれ、店の再建に手を貸した。当主が幼く番頭が采配を振るう店にとって、官の御用に頼らず民間の施主から仕事を取るという路線は外部の人物が与えたもので、渋沢氏の指針は「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」というものだった『御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ』。1889年には相談役となった渋沢氏を招いて謝意を表す宴を開き、これが毎年得意先をもてなす宴会の慣例の始まりとなった。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [28]原林之助は初代喜助の孫で、のちに清水店の支配人となる
    • [33]明治22年 相談役の渋沢栄一を感謝の宴に招き、以後毎年得意先を招く宴会を催す
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [29]年少の4代満之助を助けて原林之助を支配人、女婿の釘吉を営業監督とする
    • [30]3代清水満之助は明治20年に夭折
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [31]3代満之助の早世後、第一国立銀行の設立者でもある渋沢栄一を顧問に迎えて再建
    • [32]渋沢栄一の指針「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」に従い民間工事を続ける
参考文献[18]-[33]
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [18]1881年8月 2代清水喜助の逝去により横浜店を女婿の3代満之助、東京店を女婿の武治が継承
    • [19]まもなく東京店が横浜店に吸収され清水満之助本店となる
    • [20]2代清水喜助は初代の弟子・藤沢清七で、初代の女婿となり2代目を襲名
    • [24]3代満之助は洋式簿記を採用し海外を視察するなど進歩的経営を行う
    • [29]年少の4代満之助を助けて原林之助を支配人、女婿の釘吉を営業監督とする
    • [30]3代清水満之助は明治20年に夭折
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [21]3代清水満之助は武士の出身(旧姓・村田)
    • [31]3代満之助の早世後、第一国立銀行の設立者でもある渋沢栄一を顧問に迎えて再建
    • [32]渋沢栄一の指針「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」に従い民間工事を続ける
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
    • [22]3代清水満之助は武士の出身で洋学を学ぶ
    • [23]明治14年 家督相続と同時に大福帳を複式簿記へ切替、能力ある店員を場所掛に任命、服装を背広に改める
    • [25]明治19年 工部大学校出身の造家学士・坂本復経が入社し初代の技師長となる
    • [26]工部大学造家学科の卒業者で建設業者へ迎えられたのは坂本復経が最初
    • [27]満之助は坂本復経とともに米英仏独を視察し明治20年に帰国
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [28]原林之助は初代喜助の孫で、のちに清水店の支配人となる
    • [33]明治22年 相談役の渋沢栄一を感謝の宴に招き、以後毎年得意先を招く宴会を催す

1895年〜信用を値段より優先した受注と、純鉄骨への一番乗り

渋沢栄一氏の定めた民間工事の路線は、受注の取り方にそのまま降りた。清水店は日清戦争後の好景気にあっても『暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する』という方針を崩さず『暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する』、名古屋・京都・大阪に出張店を開設して商圏を広げ、明治中期には建築では東京随一との評価を得た。店員数は1875年にわずか8人だったものが、1903年には81人へ増えている。同年、清水店は京橋南鞘町に木造2階建の本店を新築して移った。創業から100年目にあたるこの年には百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜の印を、以後の正式な店章と定めている。好景気に値を吊り上げない方針は、目先の利幅を捨てて次の不況での取引継続を買う選択であった。

  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [34]日清戦争後の好景気の時代も「暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する」方針を貫く
    • [35]名古屋・京都・大阪に出張店を開店
    • [36]明治中期に「建築では東京随一」との評価を得る
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [37]店員数は明治8年の8人から明治36年の81人へ増加
    • [38]明治36年 京橋南鞘町に木造2階建の建物を新築し本店を移転
    • [39]明治36年 創業100年の百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜のマークを正式な清水店のマークと定める

営業監督として店の実務を担った清水釘吉氏は、シカゴのウイリアム・バーナム社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨図面を譲り受け、これを日本へ持ち帰った。当時の日本の建築様式はなお煉瓦造の時代で、アメリカでは鉄骨・鉄筋コンクリート造への移行が進んでいた。清水店はこの図面をもとに鉄骨建築へ着手する。1907年に着工した日本橋の丸善本店3階建は、日本で最初の純粋な鉄骨構造の建物となり、床も鉄筋コンクリート造とされた。設計は佐野利器博士が2年を費やした苦心の作である。煉瓦造の職人技で競っていた市場に、図面と構造計算で競う領域を先に作った判断であった。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [40]清水釘吉がシカゴのウイリアム・バーナム会社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨設計図を譲り受け日本へ持ち帰る
    • [41]当時の日本の建築様式は煉瓦造の時代、アメリカは鉄骨・鉄筋コンクリート時代へ移行しつつあった
    • [42]持ち帰った図面をもとに清水が鉄骨建築に着手
    • [44]明治40年着工の丸善本店3階建は床も鉄筋コンクリート造で、佐野利器が2年をかけて設計
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [43]1907年施工の日本橋丸善はわが国最初の純鉄骨構造の建物

信用を資産とする商いは、それを担う人の層に支えられた。1904年からの日露戦争には清水釘吉氏と清水一雄氏の両幹部がそろって出征し、戦後の好景気で建築熱が高まると、のちに清水組の主力となる内山熊八郎氏や福島政吉氏らがこの時期に入店した。1908年には九州・博多に出張所を設け、その後の九州進出の足場としている。日露戦争後は清水店の商圏が全国へ広がり、朝鮮にまで及んだ。この層を作ったのが支配人の原林之助氏で、得意先の門前を通るときは必ず脱帽したと伝えられ、死の数日前にも『店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事』と題した訓示を店員に残した『店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事』。原氏は1912年11月、大阪出張中に心臓麻痺で倒れ、56歳で没した。

  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [45]明治37・38年の日露戦争に清水釘吉と清水一雄の両幹部が出征
    • [46]日露戦争後の好景気の時期に内山熊八郎・福島政吉などのちの清水組の主力が入店
    • [47]明治41年 九州・博多に出張所を設置し九州方面進出の足場とする
    • [49]原林之助は得意先の門前を通る時は必ず脱帽したと伝えられる
    • [50]原林之助が死の数日前に「店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事」と題した店員への訓示を残す
    • [51]1912年11月 原林之助が大阪出張中に心臓麻痺で死去、56歳
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [48]日露戦争後 清水店が全国に広まり朝鮮まで進出
参考文献[34]-[51]
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
    • [34]日清戦争後の好景気の時代も「暴利を戒め、親切・優秀な施工で信用を確保する」方針を貫く
    • [35]名古屋・京都・大阪に出張店を開店
    • [36]明治中期に「建築では東京随一」との評価を得る
    • [43]1907年施工の日本橋丸善はわが国最初の純鉄骨構造の建物
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
    • [37]店員数は明治8年の8人から明治36年の81人へ増加
    • [38]明治36年 京橋南鞘町に木造2階建の建物を新築し本店を移転
    • [39]明治36年 創業100年の百年祭を挙行し、記念品に染め抜いた丸喜のマークを正式な清水店のマークと定める
    • [40]清水釘吉がシカゴのウイリアム・バーナム会社からホテル・フィラデルフィアの鉄骨設計図を譲り受け日本へ持ち帰る
    • [41]当時の日本の建築様式は煉瓦造の時代、アメリカは鉄骨・鉄筋コンクリート時代へ移行しつつあった
    • [42]持ち帰った図面をもとに清水が鉄骨建築に着手
    • [44]明治40年着工の丸善本店3階建は床も鉄筋コンクリート造で、佐野利器が2年をかけて設計
    • [45]明治37・38年の日露戦争に清水釘吉と清水一雄の両幹部が出征
    • [46]日露戦争後の好景気の時期に内山熊八郎・福島政吉などのちの清水組の主力が入店
    • [47]明治41年 九州・博多に出張所を設置し九州方面進出の足場とする
    • [49]原林之助は得意先の門前を通る時は必ず脱帽したと伝えられる
    • [50]原林之助が死の数日前に「店員ハ自ラ労ヲ厭ハズ取引先ニ便宜ヲ与フベキ事」と題した店員への訓示を残す
    • [51]1912年11月 原林之助が大阪出張中に心臓麻痺で死去、56歳
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
    • [48]日露戦争後 清水店が全国に広まり朝鮮まで進出

筆者考察

清水建設の最初の110年は、腕の立つ棟梁が請負業者へ変わっていく過程というより、代替わりのたびに当主を失う家業が、それでも得意先を手放さずに済む仕組みを探した過程であった。初代清水喜助から4代満之助まで、当主の座は三度にわたって婚姻で継がれ、3代満之助は店を継いだ6年後に夭折している。技能は弟子に、得意先は番頭に蓄えられ、当主だけが入れ替わる。この構造で店が割れずに残ったのは、支配人の原林之助が日々の采配を引き受け、渋沢栄一が外から路線を定めるという、家の外へ経営を預ける仕掛けが働いたからである。清水屋という屋号が110年もったのは、当主が強かったからではなかった。

渋沢栄一が与えた「御用商人風になるを戒め、民間工事に積極的であれ」という指針は、清水店の受注先を官庁から民間へ寄せただけではない。発注者の都合で工事量が上下する受注産業で、値段ではなく施工で選ばれる店を作れという要求でもあった。日清戦争後の好景気にも暴利を戒めた清水店は、1903年に店員81人と本店の新築を得たあと、アメリカから持ち帰った鉄骨の図面をもとに、1907年の丸善本店で日本最初の純鉄骨構造に届いている。信用を守る方針と、新しい構造へ先に手を出す姿勢は、同じ計算の裏表であった。次の不況で残るのは、安さで選ばれた店ではなく、他が施工できないものを施工できる店である。

店員数(清水店) 1875年〜1914年(人)

8 1875 81 1903 259 1914

出典・参考

6件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「清水建設」(東洋経済新報社, 1955)
  • 企業の現代史「伝統が築く近代美(清水建設)」(1963)
  • 企業の歴史 明治百年「清水建設」(経済春秋社, 1968)
  • ポケット社史「人間環境の総合オーガナイザー(清水建設)」(1992)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 清水建設百五十年(1956)

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