INPEX:国策会社帝国石油の発足と北スマトラ海洋石油資源開発の設立
1941年〜帝国石油株式会社法による石油鉱業の一元化
帝国石油は1941年9月、帝国石油株式会社法に基づき、政府と民間が半額ずつ出資して資本金1億円で設立された。前年の1940年7月には、日本石油・日本鉱業・中野興業・旭石油・小倉石油・北樺太石油・協和鉱業の出資で帝国石油資源開発が資本金1,000万円で設立されており、これを母体に国策会社へ改組した。日華事変で国際情勢が緊迫するなか、外国依存の石油事情を打開して液体燃料の供給を確保する総合燃料国策の一環だった。1942年4月には日本石油・日本鉱業・旭石油・中野興業の石油鉱業部門を政府の斡旋で統合し、資本金を2億5,000万円へ増やした。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「帝国石油」の項
- [1]1941年9月 帝国石油株式会社法に基づき政府・民間各半額出資・資本金1億円で設立
- [3]1940年7月 帝国石油資源開発を資本金1,000万円で設立(日本石油・日本鉱業ほか7社出資)
- [4]設立目的は外国依存の石油事情を打開する総合燃料国策の一環
- [5]1942年4月 4社の石油鉱業部門を統合し資本金2億5,000万円へ増資
- 証券アナリストジャーナル 1971年9巻3号
- [2]1941年9月 帝国石油株式会社法に基づき資本金1億円で設立(1971年の同社常務による説明)
1943年2月に太平洋石油と大日本石油鉱業を、1944年7月に北樺太石油を合併し、1945年1月には東邦石油を買収して国内油田の大半を掌握した。国策会社として、政府は民間株に年4分の配当を保証して配当補給金を交付し、社債の元利支払も保証し、創立後10年間は営業税と法人税を免除した。その代わりに業務の監督と制限を受け、配当保証と社債保証は1946年9月の法人に対する政府の財政援助の制限に関する法律の施行で廃止された。1950年4月に帝国石油株式会社法を廃止する法律が公布され、同年6月、帝国石油は商法に準拠する民間会社として再発足した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「帝国石油」の項
- [6]1944年7月 北樺太石油を合併、1945年1月 東邦石油を買収
- [7]民間株に年4分の配当保証と配当補給金、社債元利支払の政府保証、創立後10年間の営業税・法人税免除
- [8]1946年9月 法人に対する政府の財政援助の制限に関する法律の施行で配当保証・社債保証が廃止
- [9]1950年4月 帝国石油株式会社法を廃止する法律が公布、同年6月 民間会社として再発足
参考文献[1]-[9]
- [1]1941年9月 帝国石油株式会社法に基づき政府・民間各半額出資・資本金1億円で設立
- [3]1940年7月 帝国石油資源開発を資本金1,000万円で設立(日本石油・日本鉱業ほか7社出資)
- [4]設立目的は外国依存の石油事情を打開する総合燃料国策の一環
- [5]1942年4月 4社の石油鉱業部門を統合し資本金2億5,000万円へ増資
- [6]1944年7月 北樺太石油を合併、1945年1月 東邦石油を買収
- [7]民間株に年4分の配当保証と配当補給金、社債元利支払の政府保証、創立後10年間の営業税・法人税免除
- [8]1946年9月 法人に対する政府の財政援助の制限に関する法律の施行で配当保証・社債保証が廃止
- [9]1950年4月 帝国石油株式会社法を廃止する法律が公布、同年6月 民間会社として再発足
- [2]1941年9月 帝国石油株式会社法に基づき資本金1億円で設立(1971年の同社常務による説明)
1948年〜原油単価の下落と、天然ガス増産による資金繰り
戦後の原油生産は台湾油田の喪失と戦時中の乱掘で減少し、1948年度には年間16万5,000余キロリットルと創立以来の最低を記録した。秋田県の八橋油田で新油層が相次いで発見され、1951年度には年間35万3,000余キロリットルと創立以来の最高へ戻した。1955年3月には資産再評価積立金5億円を資本へ組み入れる倍額増資で資本金を20億円とし、社債20億円の発行も決めた。1955年3月期の売上高は17億8,000万円で、国産原油の97%以上を帝国石油が生産し、その大部分を日本石油・日本鉱業・昭和石油の裏日本製油所へ販売した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「帝国石油」の項
- [10]1948年度 原油生産 年間16万5,000余キロリットル(創立以来の最低)
- [11]1951年度 原油生産 年間35万3,000余キロリットル(創立以来の最高)
- [12]1955年3月 資産再評価積立金5億円の資本組入による倍額増資で資本金20億円
- [13]1955年3月期 売上高17億8,000万円
- [14]国産原油の97%以上を帝国石油が生産
原油の販売単価は1951年の1キロリットル当たり10,091円から1970年には6,615円へ下がり、20年で約6割6分の水準になった。同じ期間に従業員は約6,200人から2,030人へ減ったが、人件費は14億5,000万円から34億8,000万円へ増え、1人当たりでは7.3倍になった。1964年2月には資金繰りが行き詰まり、日本鉱業の林副社長が帝国石油の社長へ就任して再建にあたった。銀行の支援を得にくいなか、新潟県の頚城鉱業所を中心に天然ガスを増産し、換金の早いガスで資金を回す自己金融の道を選んだ。ただし1964年の増産で井戸が弱り、その後2年ほどは天然ガスの生産量が減った。
- 証券アナリストジャーナル 1971年9巻3号
- [15]原油販売単価 1951年10,091円/kl → 1970年6,615円/kl
- [16]従業員 約6,200人→2,030人、人件費14億5,000万円→34億8,000万円、1人当たり7.3倍
- [17]1964年2月 日本鉱業の林副社長が帝国石油社長へ就任し再建にあたる
- [18]新潟県頚城鉱業所を中心に天然ガスを増産する自己金融方式
- [19]1964年の増産で井戸が弱り約2年間は天然ガス生産量が減少
参考文献[10]-[19]
- [10]1948年度 原油生産 年間16万5,000余キロリットル(創立以来の最低)
- [11]1951年度 原油生産 年間35万3,000余キロリットル(創立以来の最高)
- [12]1955年3月 資産再評価積立金5億円の資本組入による倍額増資で資本金20億円
- [13]1955年3月期 売上高17億8,000万円
- [14]国産原油の97%以上を帝国石油が生産
- [15]原油販売単価 1951年10,091円/kl → 1970年6,615円/kl
- [16]従業員 約6,200人→2,030人、人件費14億5,000万円→34億8,000万円、1人当たり7.3倍
- [17]1964年2月 日本鉱業の林副社長が帝国石油社長へ就任し再建にあたる
- [18]新潟県頚城鉱業所を中心に天然ガスを増産する自己金融方式
- [19]1964年の増産で井戸が弱り約2年間は天然ガス生産量が減少
1970年〜海外自主開発への進出と国際石油開発の設立
帝国石油も海外へ出て、1970年前後にはマレーシア・サバ州で約1万9,000平方キロメートルの鉱区を持ち、石油開発公団・丸紅飯田・日本鋼管との共同出資会社で物理探鉱を進めた。1970年にサバ州タワオ市沖で試掘井を3本掘り、油を含む層は確認したが商業規模の成功には至らなかった。コンゴでは1970年にガルフ社の鉱区へ資本参加し、1971年初めの第1井で出油した。国内では新潟県の頚城から東京瓦斯豊洲工場まで約330キロメートルのパイプラインを敷き、うち草加以南の約30キロメートルを東京瓦斯へ売却して2億6,500万円の売却益を得た。1971年度の探鉱投資は約23億円・試掘井22坑を予定し、試掘井の約8割は不成功という前提で毎年16億〜17億円を損金に落としていた。
- 証券アナリストジャーナル 1971年9巻3号
- [20]マレーシア・サバ州で約1万9,000平方キロメートルの鉱区を保有
- [21]石油開発公団・丸紅飯田・日本鋼管との共同出資会社で物理探鉱
- [22]1970年 サバ州タワオ市沖で試掘井3本を掘削、油を含む層は確認
- [23]1970年 コンゴでガルフ社の鉱区へ資本参加、1971年初めに第1井で出油
- [24]新潟県頚城〜東京瓦斯豊洲工場 約330キロメートルのパイプライン
- [25]草加以南約30キロメートルを東京瓦斯へ売却し売却益2億6,500万円
- [26]1971年度 探鉱投資約23億円・試掘井22坑、試掘井の約8割が不成功
参考文献[20]-[26]
- [20]マレーシア・サバ州で約1万9,000平方キロメートルの鉱区を保有
- [21]石油開発公団・丸紅飯田・日本鋼管との共同出資会社で物理探鉱
- [22]1970年 サバ州タワオ市沖で試掘井3本を掘削、油を含む層は確認
- [23]1970年 コンゴでガルフ社の鉱区へ資本参加、1971年初めに第1井で出油
- [24]新潟県頚城〜東京瓦斯豊洲工場 約330キロメートルのパイプライン
- [25]草加以南約30キロメートルを東京瓦斯へ売却し売却益2億6,500万円
- [26]1971年度 探鉱投資約23億円・試掘井22坑、試掘井の約8割が不成功
出典・参考
2件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「帝国石油」の項
- 証券アナリストジャーナル 1971年9巻3号