愛知県に拠点を置いた豊田自動織機では、創業家の豊田喜一郎氏が自動車の将来性に着目した。そこで、1929年に豊田自動織機が自動車自動織機の特許をイギリス企業に売却した利益を、自動車の開発研究に充てることにした。
1930年から約3年間にわたって自動車の市場性に関する研究を行い、1933年に豊田自動織機の社内新規事業として「自動車部」を立ち上げた。このタイミングがトヨタ自動車の創業にあたる。
1933年10月には乗用車シボレーを輸入し、分解した上で自動車の開発研究を開始した。自動車にはエンジンを中心として高度な技術を用いた部品が必要であったが、戦前の日本の工業力では未知の領域であった。このため、自動車製造に必要な素材から研究する必要があり、乗用車の国産化には時間を要した。
機が熟するまでは、この意図が外部に漏れることの無いよう、最新の注意が払われ、自動車に関する調査研究は、全て喜一郎の個人的研究として、工場の片隅で極秘に進められた。また自動車事業に必要な量産技術・精密技術は、紡織機製作にはぜいたくと思われるものであっても、出来る限りこれを取り入れて、密かにその要請が図られた。たまたま1929年12月には、自動織機の特許を英国プラット社に譲渡する契約が結ばれ、その譲渡代金が喜一郎の手に入り、研究資金も豊富になったので、この頃から急速に研究が進んだ。(略)
こうした喜一郎の決断も、社長豊田利三郎の支持に負うところが大きかったことは言うまでもない。自動車事業が必要とする膨大な資金の調達は、すべて利三郎があたり、当社の社長としてはもちろん、豊田紡合う類は豊田紡織廠の社長として、それぞれの会社で得た利益の多くを、自動車事業のために惜しみなく投入したのである。
豊田自動織機は、既に本業の「繊維工場向けの織機製造」の事業が軌道に乗っていたため、自動車事業における赤字をカバーできた。ただし、織機製造の利益が自動車事業に食われてしまうため、豊田自動織機の社内では自動車事業に対する風当たりは良いものではなかったという。
実際に、豊田自動織機において自動車事業への参入が認められたのは、翌1934年1月の臨時株主総会においてであり、すなわち豊田喜一郎氏は、先に自動車事業部を発足して既成事実を作ってしまい、後から取締役会で承認を得る形をとっていた。
この点は、自動車事業に関して、豊田自動織機の創業家出身の豊田喜一郎氏が率先したこともあり、創業家の新事業として黙認されていた。
約2年間およぶ開発期間を経て、1935年5月にA1型試作乗用車を完成した。ただし、国内における四輪車の需要は乗用車よりも、軍需向けトラックの方が旺盛であり、戦時中を通じてトラックの量産に注力した。
1935年11月に四輪車のトラックとして「G1型」を発表。量産のために豊田自動織機は自動車生産のために中央紡織が保有する4.8万坪の土地を借用し、1936年5月に刈谷自動車組立工場を新設した。
1937年8月にトヨタ自動車として会社が分離されるまでは、豊田自動織機の自動車事業として事業を遂行。1937年度の豊田自動織機の売上高のうち、約30%超が自動車事業で占められるなど、生産および販売台数を拡大した。
1936年に日本政府は軍需拡張のために自動車の国産化政策を決定し、豊田自動織機の自動車部を政府の助成対象に選定。これを受けて1937年にトヨタ自動車工業が設立された。
豊田自動織機の時代から生産を続けてきた自動車組立工場(刈谷)が手狭となったことから、工場の移転新設を決定。挙母町(現豊田市)からの誘致の要請を受けて、1935年に約200万m2の土地を工場用地として取得した。すでに稼働していた刈谷自動車組立工場の50倍の規模であった。
1938年11月に挙母工場(現在の本社工場)を竣工し、トラックを中心とした四輪自動車の量産を開始した。
終戦直後の1946年に日本政府は企業再建整備法を制定し、軍需生産に携わった大企業が解体される趨勢となった。
そこで、トヨタ自動車では再建整備法による解体の指定を受けることを予想し、1949年から1950年にかけて、国内工場の一部を別会社として分離することを決定した。分離対象は、刈谷市内の2工場(電装工場・刈谷南工場)および名古屋市内の1工場(中川工場)の合計3工場であった。
| 旧工場名 | 継承先新会社 | 設立年 | 備考 |
| 電装工場(刈谷市) | デンソー | 1949年12月16日 | 部品メーカーとして発展 |
| 刈谷南工場(刈谷市) | トヨタ紡織 | 1950年5月15日 | 部品メーカーとして発展 |
| 中川工場(名古屋市) | 愛知琺瑯 | 1949年12月16日 | 1951年倒産 |
1949年12月に刈谷市内の電装工場を継承し、日本電装株式会社(現デンソー)を設立した。実態としてはトヨタ自動車で手に負えなくなった不採算事業である「電装部品」と、関連する人員を背負った状態での設立であり、厳しい状況であった。このため、会社設立時において「トヨタ」の商号利用も禁止された。
会社発足から3ヶ月が経過した1950年3月に、デンソーは従業員1400名のうち473名の解雇を決定。その直後に発生した朝鮮戦争による特需景気で、経営再建を軌道に乗せた。
デンソーは、祖業にあたる自動車向けの電装部品(ダイナモ等)の製造に従事するとともに、1953年にはドイツのボシュ社と提携して、燃料噴射ポンプなどエンジン部品の技術を習得。1950年代から1960年代にかけて、生産品目を点火プラグ、噴射ポンプ、メーター機器、ラジエーター、ヒーター、クーラーへと拡大し、これらの自動車部品をトヨタやホンダなどの自動車メーカー(およびオプション部品として自動車販売店)に販売することで、トヨタ系列の部品メーカーとして業容を拡大した。
せっかく電装に縁ができたのだから、この際、緊褌一番、電装をやってみようと決意して引受けた。さて、引き継ぎをしてみると挙母(本社)への借金が1.4億円ぐらいある。僕のハラではこの借金は無期限のあるとき払いと軽く考えていたところ、豊田社長は「この借金は電装にやったんじゃない。貸したんだから、そのことを忘れんように」と一本クギを刺され、なおその上に「社会的信用は何もないんだから、豊田の信用でやる限り豊田の信用を食い潰してもらっては困るぞ。また社名にトヨタを使うことも遠慮してもらいたい」と厳命された。
まことに厳しい言葉で花あるが、豊田社長としては当然のことであって、私たちはいま持ってその言葉が忘れることのできない励ましとなっている。そこで私は、これは容易ならぬ立場に立ったぞと思ったが、それだけにまだ決心もいよいよ強固になった。
1950年に旧刈谷南工場を継承して、民生紡績(1967年に豊田紡織へ商号変更)を設立した。
1949年12月に旧中川工場(名古屋市)を継承し、愛知琺瑯株式会社を設立した。ところが業績不振により、1951年11月に同社は清算され、解散に至った。
会社清算後は、旧愛知琺瑯の経営陣が事業を取得し、1951年11月27日に日新琺瑯製作所を設立して再建に着手。1980年代以降は自動車向けのプレス部品の製造に注力し、2024年時点でも資本金9000万円の未上場企業として存続している。
終戦後の不況を受けて、1949年までにトヨタ自動車は工場の稼働率低下という問題に直面した。余剰となった人員を削減するために、1600名の希望退職者の募集を発表したところ、社員からの反発として労働争議が発生した。
トヨタ自動車は金融支援が受けられなければ倒産する恐れがあっため、人員削減の実施を決断した。この時、住友銀行はトヨタ自動車への融資を拒んだ一方、日本銀行は融資を融資を実施した。これらの経緯から、トヨタ自動車にとって、住友銀行は信用できない銀行という位置づけとなり、全社を挙げて無借金経営を目指す原動力となった。住友銀行としては、トヨタ自動車という将来の大企業との取引チャンスを失った。
豊田喜一郎氏は人員削減の責任を取る形で、自らも社長を退任した。トヨタ自動車の後任社長には、豊田自動織機出身の石田退三氏が就任し、経営再建に奔走した。
石田氏による主な再建策は、製造と販売の分離(トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の発足)、製造におけるコストダウンの徹底、米軍からのトラック受注に全力をあげることであった。
トヨタ自動車の経営再建に対して追い風となったのが、朝鮮特需である。1950年に勃発した朝鮮戦争において、米軍は日本を物資の調達拠点として位置付けた。これに応じて、米軍はトヨタ自動車に軍用トラックの大量発注を開始した。
1950年7月には米軍向けトラック1,000台を受注し、翌月の8月には同トラック2329台を受注した。これらのトラックの大量受注によって工場の稼働率が工場し、トヨタ自動車は急速に業績を回復させていった。
1950年代を通じて日本人にとって乗用車は高嶺の花であり、富裕層や、タクシー会社、医者が乗用車の主な顧客であった。そこで、トヨタは日本人に自動車を普及させるために「コストダウン」を徹底する方針を打ち出し、その第一弾として乗用車専用の元町工場を新設した。
従来の工場はトラックとの混成ラインによる生産が主体であったが、元町工場では乗用車に生産ラインを特化することでコストダウンを目論む。
トヨタ生産方式と呼ばれる生産技術は、は1950年代から1960年代にかけて、自動車の生産工場において生産技術を磨く中てボトムアップで確立されていった。生産技術の重要性に気づいたのは、創業者の豊田喜一郎氏であったが、現場の社員がトヨタ生産方式として結実させていった。
トヨタ自動車としては、1950年に1600名のリストラという苦い経験を経たばかりであり、できるだけ人を増やさずに工場の稼働を円滑に行うことを意識するようになった。この意味で、大規模なリストラという失敗経験が、トヨタ生産方式の確立に向けたモチベーションになっていると言える。
トヨタ自動車において、大野耐一氏が「ジャストインタイム」「かんばん方式」といった生産方式の定着に大きな役割を果たした。大野耐一氏は豊田自動織機からトヨタ自動車に配属転換され、自動車工場に残っていた「ブラックボックスな職人芸」を追放。誰でも均質に自動車が生産できるように、生産技術を均質化して行くことに時間をさいた。
大野耐一氏は、トヨタ自動車における生産技術の実質的なトップとして振る舞い、トヨタにおける社風形成に大きな影響をもたらした。現場の社員からは「オヤジ」として恐れられた存在であったという。
1960年代を通じて乗用車市場では日産とトヨタがシェア争いで死闘を繰り広げたが、両社の競争に終止符を打つべく、1966年にトヨタは大衆乗用車「カローラ」を発売するとともに、カローラの専用工場として高岡工場を稼働した。1工場1車種というリスクを伴う奇策によって大幅なコストダウンを実現し、乗用車のシェア争いでトヨタが優勢になる決定打となった。加えて、カローラは日本人に自動車を普及させたモータリゼーションの立役者として、社会変化の一翼を担う存在となる。
アメリカへの現地生産に合わせ、カナダでも現地生産を決定
北米への単独現地生産を決定し、工場誘致に熱心だったケンタッキー州に進出
北米におけるトヨタ=大衆車というイメージを払拭するために、北米市場で高級乗用車「レクサス」の展開を決定
欧州の統括会社3社(TMME、TMEM、TME)を統合してTMEを発足。欧州における製造・販売の効率化を目論む
2008年のリーマンショックの影響を受けて、2009年3月期にトヨタは4369億円の最終赤字を計上し、終戦直後の経営危機に次ぐ約60年ぶりの最終赤字に転落した。優良企業と言われたトヨタが赤字に転落したことで、リーマンショックの影響の大きさが世間に改めて認知されるきっかけとなった。
発売から1ヶ月で18万台の受注でヒット。3代目プリウスは、トヨタのHVにおける業容拡大の牽引役になった
機能ごとの組織を壊し、製品を軸としたカンパニー制に組織体制を移行。ソフトウェアを中心とした開発に従事する専門部署「「コネクティッドカンパニー」」などをを発足して車の高度化に対応