トヨタ自動車 の歴史

創業

1933年

創業者

豊田喜一郎

創業地

愛知県刈谷市

直近売上高(2026/3)

506,850億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1959年に、月販2000台程度にとどまっていた乗用車市場でトヨタは月産1万台対応の元町工場を建てたのか
A 需要が確実になってから設備を増強したのでは、量産効果による原価低減で他社に先行され、供給力でも見劣りする。英二専務は月産1万台規模の乗用車専門工場を提案したが、石田退三社長は月産5000台の設備投資にとどめつつ、建屋だけは将来の月産1万台に対応する規模で設計させた。1959年8月に着工から11カ月で竣工した元町工場は、同年12月に目標の月産1万台を達成した。数年遅れて1962年に完成した日産自動車の追浜工場やいすゞ自動車の藤沢工場に対し、トヨタは量産で先行する形になった
Q なぜ1967年に社長へ就任した豊田英二氏は、需要が確定する前から量産工場への投資を続けたのか
A 新工場は稼働直後こそ稼働率が低く利益も薄いが、需要の伸びに他社より先んじて応えられれば量産効果で原価と供給力の両面において優位に立てると豊田英二氏は考えた。1967年10月に社長へ就任した英二氏は「目標はGM(ゼネラル・モーターズ)」と照準を定め、「ふだんはケチに徹するが、いざというときには、ほかに一歩先んじてパッと投資する」と語った。元町・上郷・高岡と積み重ねてきた専門工場の建設は、この経営哲学の実践であった
Q なぜ2025年に、源流企業の豊田自動織機を約4.7兆円で非公開化する道を選んだのか
A 親子上場と株式の持ち合いに資本市場の批判が強まり、政策保有株を抱えたままでは資本効率を上げにくくなっていた。そこでトヨタは2025年、源流にあたる豊田自動織機を約4.7兆円で非公開化する計画を決めた。トヨタ不動産が受け皿の持株会社へ約1,800億円を出資し、トヨタ自動車が無議決権の優先株で約7,000億円、豊田章男会長も個人で10億円を入れる。株式公開買付で上場を取りやめ、グループが相互に株式を持ち合う関係を解いて所有構造を一つにまとめる

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1867年〜 織機から自動車へ——喜一郎氏の量産思想と戦後再建

  1. 1933年豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始
  2. 1935年トラックを発売
  3. 1936年乗用車を発売
  4. 1937年トヨタ自動車工業株式会社を設立
  5. 1940年豊田製鋼(現愛知製鋼)を設立
  6. 1949年日本電装(現デンソー)を設立
  7. 1950年トヨタ自動車販売を設立

トヨタ自動車の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

佐吉氏の発明魂から自動車部設置まで

豊田佐吉氏は1867年2月14日、遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)に生まれた。1870年刊行の啓発書『西国立志編』に触発され、1885年の専売特許条例公布を機に織機の発明を志し、1890年に木製人力織機の特許を出願、翌1891年5月14日に特許第1195号として登録を受けた。長男の豊田喜一郎氏は1894年6月11日に生まれ、佐吉氏が経営する工場の敷地内でものづくりを身近に見ながら育った。喜一郎氏は後年、幼時から機械に接した経験について「エンジニアーは機械を身内と考へ何時も機械にタッチしていることが最も肝要である」と振り返っている。 [1][2][3]

1926年、佐吉氏の意向を受けた喜一郎氏は愛知県碧海郡刈谷町に新工場の建設を立案し、同年11月18日に資本金100万円の株式会社豊田自動織機製作所を設立した。社長には豊田利三郎氏、常務取締役には喜一郎氏が就いた。自動織機の特許を英国企業へ譲渡して得た資金を自動車研究の原資に充てた喜一郎氏は、1933年9月1日に同社内へ自動車製作部門を設置し、同年10月には米国製シボレー乗用車を分解して部品をスケッチする形で試作研究に着手した。取締役会の正式な承認は事後に得る形となり、喜一郎氏は先行きの不確実な新事業を既成事実として進めた。 [4][5][6][7]

1936年、日本政府は軍需の拡張を目的とした自動車の国産化推進政策として自動車製造事業法を公布し、豊田自動織機の自動車部門を許可会社に指定した。この追い風を受け、1937年8月28日にトヨタ自動車工業株式会社が資本金1,200万円で設立され、社長には豊田利三郎氏、副社長には喜一郎氏が就いた。独立直後、喜一郎氏は全国のトヨタ車販売店の代表を前に、廉価で優秀な車をつくるという企業理念を語る挨拶を行っている。翌1938年11月3日には愛知県挙母町(現・豊田市)に本社工場が竣工し、この日を創業記念日と定めた。 [8][9][10]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1936年に自動車製造事業法により豊田自動織機の自動車部門が許可会社に指定された
    • [9]1937年8月にトヨタ自動車工業として分離独立し、社長は豊田利三郎、副社長は豊田喜一郎が就いた
    • [10]1938年11月3日に挙母工場が竣工し、この日を創業記念日と定めた

戦時増産から終戦、そして工販分離まで

1936年4月に豊田自動織機製作所自動車部へ入社した豊田英二氏は、喜一郎氏の命を受けて東京・芝浦に研究所を開設し、ラジエーターやドイツ車DKWの分解調査などを担当した。1937年8月のトヨタ自動車工業設立に伴い研究所は同社研究部となり、英二氏は1937年5月に刈谷の本社へ転勤して新設の監査改良部を任された。日中戦争の勃発でトラック需要が急増し、月産500台の目標を達成した挙母工場は軍用トラックの増産に注力、1943年には中央紡績を吸収合併して事業基盤を広げる一方、資材不足で戦争後半には生産が急激に落ち込んだ。 [11][12][13][14]

1945年8月14日、挙母工場は米軍機B29の空襲を受け、工場の約4分の1が破壊された。翌15日の終戦を経て、8月16日に赤井久義副社長は幹部を前に、トヨタは復興を支えるトラックをつくって供給する責任があると述べ、再出発を促した。工場は8月17日から生産を再開し、資材を節約した戦時規格を廃止して標準規格のトラック生産に切り替えた。喜一郎氏は自動車生産が禁止される事態を想定し、従業員の生活を守るため瀬戸物業や竹輪づくりなど衣食住に関わる新規事業を模索したが、同年11月に乗用車を除くトラック・バスの生産継続が認められ、これらの構想は立ち消えとなった。 [15][16][17]

    • [15]1945年8月14日の空襲で挙母工場の約4分の1が破壊され、翌15日に終戦を迎えた
    • [16]8月17日から工場生産が再開され戦時規格を廃止した
    • [17]喜一郎は衣食住に関わる瀬戸物業・竹輪づくりなどの新規事業を構想したが1949年11月の乗用車生産制限解除で立ち消えとなった

1949年、GHQのドッジ・ラインによる超緊縮財政のもとで自動車需要が急減し、月賦販売の代金回収が滞って製造資金を圧迫した。トヨタは1,600名の希望退職募集と製販分離による再建に踏み切り、喜一郎氏は人員整理の責任を負って1950年6月に社長を退任、後任には豊田自動織機出身の石田退三氏が就いた。倒産寸前の資金繰りは日本銀行名古屋支店長の音頭による銀行団のシンジケート融資で救われ、英二氏は後年「倒産寸前までいった経験からその後の経営者は再びそのようなことにならないようにしようと、一所懸命貯めた」と振り返っている(日経ビジネス 1977/4/25)。1950年4月には販売部門をトヨタ自動車販売として独立させ、製造資金と販売資金の混在を制度的に断ち切った。 [18][19][20][21]

  • 有価証券報告書
    • [18]1,600名の希望退職募集を伴う再建に踏み切った
    • [21]1950年4月に販売部門をトヨタ自動車販売として独立させた
    • [19]喜一郎は1950年6月に社長を退任し、後任に豊田自動織機出身の石田退三が就いた
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [20]英二は倒産寸前の経験から銀行団のシンジケート融資で救われたと1977年の取材で振り返っている
    • [11]豊田英二は喜一郎の命で東京芝浦に研究所を開設した
    • [12]芝浦の研究所は1937年8月のトヨタ自動車工業設立に伴い研究部となった
    • [13]英二は1937年5月に刈谷本社に転勤し監査改良部に配属された
    • [19]喜一郎は1950年6月に社長を退任し、後任に豊田自動織機出身の石田退三が就いた
  • 有価証券報告書
    • [14]1943年に中央紡績を吸収合併した
    • [18]1,600名の希望退職募集を伴う再建に踏み切った
    • [21]1950年4月に販売部門をトヨタ自動車販売として独立させた
    • [15]1945年8月14日の空襲で挙母工場の約4分の1が破壊され、翌15日に終戦を迎えた
    • [16]8月17日から工場生産が再開され戦時規格を廃止した
    • [17]喜一郎は衣食住に関わる瀬戸物業・竹輪づくりなどの新規事業を構想したが1949年11月の乗用車生産制限解除で立ち消えとなった
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [20]英二は倒産寸前の経験から銀行団のシンジケート融資で救われたと1977年の取材で振り返っている

デンソー分離とかんばん誕生、クラウン発売へ

1949年の企業再建整備計画に基づき、トヨタは電装工場・刈谷南工場・中川工場の3工場を第二会社として分離独立させた。同年12月に設立された日本電装(現デンソー)はトヨタの商号使用を禁じられ、1.4億円の借金返済を求められる厳しい条件のもとで出発した。初代社長の林虎雄氏は、喜一郎氏からグループの信用を損なうことは許されないと厳しく釘を刺されたと回顧している(日本電装のあゆみ、1964)。刈谷南工場を継承した民成紡績(現トヨタ紡織)は繊維事業から自動車の内装部品製造へ主軸を移し、同年6月に設立された愛知工業(現アイシン)とともに、完成車メーカーと専門化された部品メーカーの分業体制が形成された。 [22][23][24]

  • 有価証券報告書
    • [22]1949年12月に日本電装(現デンソー)が設立され、トヨタの商号使用禁止・1.4億円の借金返済という条件で出発した
    • [24]刈谷南工場を継承した民成紡績(現トヨタ紡織)と、1949年6月設立の愛知工業(現アイシン)
    • [23]日本電装の初代社長・林虎雄は喜一郎から信用を損なうなと釘を刺されたと回顧している

喜一郎氏は1938年の挙母工場移転に際し、流れ作業の導入を企図した克明なパンフレットを自ら作成した。刈谷工場では鋳物からできた半製品をいったん倉庫に入れてから機械で削る生産方式が主流であったのに対し、喜一郎氏は「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」という考え方を掲げ、これを英二氏は和製英語で「ジャスト・イン・タイム」と呼んだ。戦争でいったん定着を阻まれたこの生産方式は、戦後、豊田自動織機出身の大野耐一氏の手で「かんばん」として蘇り、標準化と現場改善を軸とするトヨタ生産方式へと発展した。1951年5月には一般従業員から改善提案を募る創意くふう提案制度が始まり、1951年度に789件・参加率8%だった提案は1965年度には1万5968件・参加率30%まで拡大した。 [25][26][27][28]

    • [25]喜一郎は挙母工場移転に際し流れ作業導入のパンフレットを作成し「ジャスト・イン・タイム」の考え方を掲げた
    • [26]戦後、大野耐一が「かんばん」として生産方式を復活させた
    • [27]1951年5月から創意くふう提案制度の運用が始まった
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [28]1951年度に789件・参加率8%だった提案は1965年度に1万5968件・参加率30%へ拡大した

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は米軍向けトラックの大量受注をもたらし、トヨタの再建を後押しした。同時期、トヨタ自動車販売の神谷正太郎社長はフォード社との技術提携交渉を進め調印直前まで至ったが、朝鮮戦争を受けた米政府の禁足令により技術者派遣が不可能となり、提携交渉は白紙に戻った。代わってフォード社はトヨタからの研修者受け入れを了承し、英二常務が1950年7月から約1カ月半にわたりルージュ工場などで研修を受けた。英二氏は帰国後、フォードの規模の大きさを認めつつ「フォードはトヨタが知らなかったことはやっていなかった」と振り返っている。1955年、トヨタは本格的な乗用車として初代クラウンを発売し、乗用車市場への参入を果たした。 [29][30][31]

  • 有価証券報告書
    • [22]1949年12月に日本電装(現デンソー)が設立され、トヨタの商号使用禁止・1.4億円の借金返済という条件で出発した
    • [24]刈谷南工場を継承した民成紡績(現トヨタ紡織)と、1949年6月設立の愛知工業(現アイシン)
    • [23]日本電装の初代社長・林虎雄は喜一郎から信用を損なうなと釘を刺されたと回顧している
    • [25]喜一郎は挙母工場移転に際し流れ作業導入のパンフレットを作成し「ジャスト・イン・タイム」の考え方を掲げた
    • [26]戦後、大野耐一が「かんばん」として生産方式を復活させた
    • [27]1951年5月から創意くふう提案制度の運用が始まった
    • [29]朝鮮戦争勃発でフォードとの技術提携交渉は禁足令により白紙に戻り、英二常務が代わりに1950年7月からフォードで研修した
    • [30]英二は研修後「フォードはトヨタが知らなかったことはやっていなかった」と振り返っている
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [28]1951年度に789件・参加率8%だった提案は1965年度に1万5968件・参加率30%へ拡大した
    • [31]1955年にトヨペット・クラウン、トヨペット・マスターを発売した

1956年〜 乗用車専業化への転換——元町からカローラ・高岡へ

  1. 1957年米国トヨタ自動車販売を設立
  2. 1959年日本初の乗用車専門工場・元町工場が完成
  3. 1960年豊田中央研究所を設立
  4. 1966年大衆車カローラを投入、専用拠点の高岡工場が稼働
  5. 1966年日野自動車工業と業務提携
  6. 1967年ダイハツ工業と業務提携

トヨタ自動車の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

元町工場という賭けと需要の先取り

1955年のクラウン発売後、乗用車需要はタクシー事業者や富裕層を中心に緩やかに拡大したが、月販はなお2000台程度にとどまっていた。英二専務は月産1万台の乗用車専門工場を提案したが、当時としては大胆すぎる規模であったため、石田退三社長は月産5000台で建設を決断した。1958年7月、社内に乗用車専門工場建設委員会が設けられ、委員長には豊田章一郎氏が就任し、欧州のルノー公団の工場などを視察して建設計画をまとめた。設備は月産5000台に抑えながら建屋だけは将来の月産1万台に対応する規模で設計するという、需要の先を見た判断が下された。 [32][33][34][35]

    • [32]クラウンの月販は2000台にとどまっていた
    • [33]英二は月産1万台を提案したが石田退三社長は月産5000台で決断した
    • [34]1958年7月に乗用車専門工場建設委員会が発足し、豊田章一郎が委員長に就任した
    • [35]設備は月産5000台としつつ建屋だけは1万台のものを建てた

元町工場は1959年8月に竣工し、着工から11カ月という短期間で完成した。同年9月18日から19日にかけて完成披露式が盛大に催され、創業以来の生産累計50万台目となるクラウン・デラックスのラインオフ式も合わせて行われた。式辞に立った石田退三社長は、乗用車専門工場が前社長・喜一郎氏の生前からの念願であったと述べ、建設を長男の豊田章一郎氏に一任したと明かしたうえで、元町工場を「2割程度の完成」と位置づけ、「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」への拡大を掲げた。同年12月、元町工場は目標としていた月産1万台を達成した。 [36][37][38][39]

  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [36]元町工場は着工から11カ月で1959年8月に竣工した
    • [37]完成披露式は1959年9月18-19日、創業来生産累計50万台目のクラウン・デラックスのラインオフ式も併催した
    • [38]石田退三社長は建設を章一郎に一任したと述べ「2割程度の完成」「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」を掲げた
    • [39]1959年12月に月産1万台を達成した

日産自動車の追浜工場やいすゞ自動車の藤沢工場は元町工場より数年遅れた1962年に完成しており、量産の先行によりトヨタは乗用車メーカーとして一歩リードする形になった。1961年、月産5万台計画を検討していたトヨタは、本社工場をトラック、元町工場を乗用車と専門化してもいずれ両工場だけでは生産能力が限界に達するとの見通しから、両工場とは別にエンジン専門工場を建設する構想を固めた。愛知県碧海郡上郷町(現・豊田市)に決まった新工場は1964年6月に「上郷工場」と命名され、1965年11月に完成式典を迎え、鋳造から機械加工、組付けまでを一貫させたエンジン専門の量産工場として稼働した。 [40][41][42]

    • [40]日産追浜工場・いすゞ藤沢工場は元町工場より数年遅れの1962年に完成した
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [41]1961年の月産5万台計画時に本社=トラック・元町=乗用車の専門化だけでは能力の限界に達すると見通しエンジン専門工場の構想が生まれた
    • [42]1964年6月4日に新工場を「上郷工場」と命名し、1965年11月6日に完成式典を行った
    • [32]クラウンの月販は2000台にとどまっていた
    • [33]英二は月産1万台を提案したが石田退三社長は月産5000台で決断した
    • [34]1958年7月に乗用車専門工場建設委員会が発足し、豊田章一郎が委員長に就任した
    • [35]設備は月産5000台としつつ建屋だけは1万台のものを建てた
    • [39]1959年12月に月産1万台を達成した
    • [40]日産追浜工場・いすゞ藤沢工場は元町工場より数年遅れの1962年に完成した
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [36]元町工場は着工から11カ月で1959年8月に竣工した
    • [37]完成披露式は1959年9月18-19日、創業来生産累計50万台目のクラウン・デラックスのラインオフ式も併催した
    • [38]石田退三社長は建設を章一郎に一任したと述べ「2割程度の完成」「生産台数の5倍にあらずして内容の5倍」を掲げた
    • [41]1961年の月産5万台計画時に本社=トラック・元町=乗用車の専門化だけでは能力の限界に達すると見通しエンジン専門工場の構想が生まれた
    • [42]1964年6月4日に新工場を「上郷工場」と命名し、1965年11月6日に完成式典を行った

カローラと高岡工場による競争軸の転換

1960年代前半、所得水準の上昇を背景に乗用車は富裕層だけでなく一般の勤労世帯にも手が届く実用品になりつつあった。1961年発売の小型車パブリカは期待したほど売れず、トヨタは800cc級のパブリカと1500cc級のコロナの中間に位置する大衆車カローラの開発を進めた。1966年4月に発売された日産自動車の1000cc級「サニー」に対し、カローラは新開発のK型エンジン(1100cc)で「プラス100ccの余裕」を差別化の軸とした。主査を務めた長谷川龍雄氏は「大衆車は、あらゆる面で80点以上の合格点でなくてはならない」との設計哲学を掲げ(トヨタ自動車75年史「カローラ」)、突出よりも全域での高い水準を追求した。 [43][44][45]

    • [43]1961年発売のパブリカが伸び悩み、800cc級パブリカと1500cc級コロナの中間の大衆車としてカローラを開発した
    • [44]カローラは新開発のK型エンジン(1100cc)で日産サニー(1000cc)に対し「プラス100ccの余裕」を差別化とした
    • [45]主査の長谷川龍雄は「大衆車は、あらゆる面で80点以上の合格点でなくてはならない」との設計哲学を掲げた

1965年5月、トヨタは高岡町・三好町・刈谷市にまたがる約125万平方メートルの丘陵地の買収に着手し、同年12月に取締役・野口正秋氏を委員長とする高岡工場建設委員会を発足させた。高岡工場は電気泳動塗装と自動静電塗装を組み合わせた新方式の塗装工程や、電子計算機によるオンライン・コントロール・システムなど、国際水準の生産技術を集めた乗用車量産専門工場として設計された。1966年9月24日、新大衆乗用車カローラ(KE10型)の第1号車がラインオフし、高岡工場は稼働を開始、10月20日の正式発表後、11月の全国発表会には130万人が来場した。 [46][47][48][49]

  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [46]1965年5月に高岡・三好・刈谷にまたがる約125万m2の用地買収に着手し、12月に野口正秋を委員長とする建設委員会を発足させた
    • [47]高岡工場は電気泳動塗装・自動静電塗装、電子計算機によるオンライン・コントロール・システムを採用した
    • [48]1966年9月24日にカローラ(KE10型)第1号車がラインオフし高岡工場が稼働した
    • [49]1966年10月20日の正式発表後、11月の全国発表会に130万人が来場した

高岡工場は1工場1車種の集中生産で原価を切り下げ、乗用車のシェア争いは販売網の競争から設備投資の規模と速度の競争へと質を変えた。カローラの人気で生産が追いつかなくなると、トヨタは1967年7月に高岡工場の第2組立工場の建設に着手し、翌1968年1月に完成させた。同じ1966年10月には日野自動車工業と、翌1967年11月にはダイハツ工業と業務提携を結び、乗用車・小型車分野の協業体制を広げた。1967年10月、社長の中川不器男氏が急逝したことを受け、副社長の英二氏が社長に就任し、就任会見で「豊田家の人だから選ばれたのか」と問われると「私としては社長として適任だから選ばれたのだと思う」と答えている(私の履歴書、1987)。 [50][51][52][53]

    • [50]1967年7月に高岡工場の第2組立工場に着手し1968年1月に完成させた
  • 有価証券報告書
    • [51]1966年10月に日野自動車工業、1967年11月にダイハツ工業と業務提携を結んだ
    • [52]1967年10月に中川不器男社長が急逝し、副社長の豊田英二が社長に就任した
    • [53]就任会見で「豊田家の人だから選ばれたのか」と問われ「私としては社長として適任だから選ばれたのだと思う」と答えた
    • [43]1961年発売のパブリカが伸び悩み、800cc級パブリカと1500cc級コロナの中間の大衆車としてカローラを開発した
    • [44]カローラは新開発のK型エンジン(1100cc)で日産サニー(1000cc)に対し「プラス100ccの余裕」を差別化とした
    • [45]主査の長谷川龍雄は「大衆車は、あらゆる面で80点以上の合格点でなくてはならない」との設計哲学を掲げた
    • [49]1966年10月20日の正式発表後、11月の全国発表会に130万人が来場した
    • [50]1967年7月に高岡工場の第2組立工場に着手し1968年1月に完成させた
  • トヨタ自動車30年史(トヨタ自動車工業, 1967)
    • [46]1965年5月に高岡・三好・刈谷にまたがる約125万m2の用地買収に着手し、12月に野口正秋を委員長とする建設委員会を発足させた
    • [47]高岡工場は電気泳動塗装・自動静電塗装、電子計算機によるオンライン・コントロール・システムを採用した
    • [48]1966年9月24日にカローラ(KE10型)第1号車がラインオフし高岡工場が稼働した
  • 有価証券報告書
    • [51]1966年10月に日野自動車工業、1967年11月にダイハツ工業と業務提携を結んだ
    • [52]1967年10月に中川不器男社長が急逝し、副社長の豊田英二が社長に就任した
    • [53]就任会見で「豊田家の人だから選ばれたのか」と問われ「私としては社長として適任だから選ばれたのだと思う」と答えた

1968年〜 英二社長の量産拡大——排出ガス規制と石油危機、GM提携

  1. 1982年トヨタ自動車販売と合併しトヨタ自動車株式会社に社名変更
  2. 1982年トヨタモータークレジットを設立
  3. 1984年GM社との合弁会社NUMMIを設立
  4. 1986年トヨタモーターマニュファクチャリングUSA(現ケンタッキー工場)を設立

トヨタ自動車の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

「目標はGM」——英二社長の量産投資哲学

1967年10月に社長へ就任した英二氏は、不況下でも他社に先んじて設備投資に踏み切る経営を貫いた。1977年の取材で英二氏は「目標はGM(ゼネラル・モーターズ)」と照準を定めていることを明かし、「ふだんはケチに徹するが、いざというときには、ほかに一歩先んじてパッと投資する」と述べている(日経ビジネス 1977/4/25)。新工場は完成直後こそ稼働率が低く利益も薄いが、需要の伸びに他社より先んじて対応できれば有利になるという判断であり、元町・上郷・高岡と積み重ねてきた専門工場の建設は、この経営哲学に基づいて進められた。 [54][55][56]

  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [54]英二社長は1977年の取材で「目標はGM」と照準を定めていることを明かした
    • [55]英二社長は「ふだんはケチに徹するが、いざというときには…パッと投資する」と述べた
    • [56]英二は1967年10月に社長に就任した

1970年代に入ると排出ガス規制が焦点となった。1973年に乗用車メーカー9社が環境庁に呼び出されて聴聞会が開かれ、日本自動車工業会会長を兼務していた英二氏は、業界の足並みをそろえる責任から「うちはできません」という立場を取らざるを得なかったと振り返っている。走行1キロメートル当たりのNOx(窒素酸化物)排出を0.25グラムに抑える1976年度規制は、性能を落とさずに達成することを最低条件とし、実施時期の2年延長を経て全車種でクリアした。追悼記事で英二氏は「排ガス規制は必要だが、石油危機でガソリン価格が高騰している時期に対策を施せば燃費が悪くなる。トヨタは燃費の悪化を妨げる触媒を使って対応します」と述べていたという(週刊東洋経済 2013/9/20)。 [57][58][59]

    • [57]1973年に乗用車メーカー9社が環境庁の聴聞会に呼ばれ、日本自動車工業会会長の英二は業界の足並みをそろえる立場から「できません」と言うしかなかった
    • [58]走行1km当たりNOx0.25gに抑える1976年度規制を2年延長し全車種で達成した
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [59]英二は追悼記事で燃費悪化を妨げる触媒での対応を語ったとされる

石油危機の前年にあたる1973年前半は好景気で自動車がいくらつくっても売れる状態が続き、夏には部材の調達が追いつかず、トヨタは一時スペアタイヤなしの車をつくって出荷したこともあった。同年10月に第1次石油危機が起きると、それまで増産一辺倒だった需要は急減し、ディーラーの在庫が積み上がった。トヨタは1974年1〜3月に生産を大幅に減らしたのち、4月から増産体制に転じ、カローラを増産の旗頭として輸出にも力を入れた。英二氏は排出ガス規制と石油危機が重なったこの時期、社業に全力投球できなかった分を花井正八氏が社内の切り盛りで支えたと振り返っている。燃費性能の高い日本車への需要は石油危機を境に北米で拡大し、対米摩擦の火種が生まれつつあった。 [60][61][62]

    • [60]1973年前半は好景気で自動車が売れ続け、夏には部材調達が追いつかずスペアタイヤなしの車を出荷したこともあった
    • [61]1973年10月の第1次石油危機後、1974年1〜3月に減産し4月から増産体制に転じた
    • [62]花井正八が社内の切り盛りを支えた
  • 日経ビジネス 1977年4月25日号「精神はケチケチ、やるときには断行 豊田英二氏(トヨタ自工社長)が語るトヨタ式合理主義」
    • [54]英二社長は1977年の取材で「目標はGM」と照準を定めていることを明かした
    • [55]英二社長は「ふだんはケチに徹するが、いざというときには…パッと投資する」と述べた
    • [56]英二は1967年10月に社長に就任した
    • [57]1973年に乗用車メーカー9社が環境庁の聴聞会に呼ばれ、日本自動車工業会会長の英二は業界の足並みをそろえる立場から「できません」と言うしかなかった
    • [58]走行1km当たりNOx0.25gに抑える1976年度規制を2年延長し全車種で達成した
    • [60]1973年前半は好景気で自動車が売れ続け、夏には部材調達が追いつかずスペアタイヤなしの車を出荷したこともあった
    • [61]1973年10月の第1次石油危機後、1974年1〜3月に減産し4月から増産体制に転じた
    • [62]花井正八が社内の切り盛りを支えた
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [59]英二は追悼記事で燃費悪化を妨げる触媒での対応を語ったとされる

フォード交渉決裂とGM・NUMMIの折半合弁

1980年代初頭、日本車の対米輸出自主規制と、米国製部品の使用を義務づけるローカルコンテント法案の動きが、トヨタに北米での現地生産の決断を迫った。1980年6月、トヨタは米フォードへ米国での小型車共同生産を提案したが、どの車種を共同生産するかという入口で調整がもつれ、1981年に交渉は決裂した。単独で北米に工場を設ければ年産20万〜25万台規模で3000億円前後の投資を要し、日米の賃金格差(当時、日本の平均時給11ドルに対し米国は19〜20ドル)から操業後のコスト計算にも不安が残った。英二社長は「単独対米進出はありえない」と断言し(日経ビジネス 1982/4/5)、リスクを分け合える提携相手を必要としていた。 [63][64][65]

  • 日経ビジネス 1982年4月5日号「その時どうなる。トヨタ・GM提携が破談になったら」
    • [63]1980年6月にフォードへ米国共同生産を提案し1981年に交渉決裂した
    • [64]単独進出は年産20〜25万台規模で3000億円前後の投資を要し、日米賃金格差(日本11ドル・米国19〜20ドル)から操業後コストに不安があった
    • [65]英二社長は「単独対米進出はありえない」と断言した

フォードとの交渉断念後、かつて日本GMに在籍した加藤誠之・トヨタ自販会長が動き、1981年暮れにGM本社を訪ねてロジャー・スミス会長との糸口をつかんだ。1982年3月1日のトップ会談で、GMの遊休工場でトヨタの小型車カローラを基に共同生産する具体案が持ち上がり、折半出資にこだわる形で大枠合意に至った。両社の米国乗用車シェアの合計は5割を超えるため米独禁法の壁が立ちはだかったが、両社と合弁会社が互いに競合する車種設計を組むなどの調整を経て交渉はまとまり、1982年7月にはトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併して現社名のトヨタ自動車株式会社が発足した。 [66][67][68]

  • 日経ビジネス 1982年4月5日号「その時どうなる。トヨタ・GM提携が破談になったら」
    • [66]加藤誠之・トヨタ自販会長がGMのロジャー・スミス会長との橋渡しを進め、1982年3月1日のトップ会談で共同生産の提案を引き出した
    • [67]両社の米国乗用車シェア合計は5割を超え米独禁法の壁があった
  • 有価証券報告書
    • [68]1982年7月にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し現社名のトヨタ自動車株式会社が発足した

1984年2月、トヨタとGMは折半出資の合弁会社NUMMI(New United Motor Manufacturing, Inc.)をカリフォルニア州の遊休工場に設立し、同年末からカローラを基にした小型車の生産を始めた。交渉はフリーモント工場の評価をめぐって一時暗礁に乗り上げ、交渉団が白紙撤回を進言した場面もあったが、英二社長は「会長には拒否する権利がある。交渉とは粘り強くやるモノだ」と諭したという(週刊東洋経済 2013/9/20)。NUMMIは北米の労働環境でトヨタ生産方式が機能するかを検証する実験の場となり、生産管理・労使関係・品質管理のノウハウが約2年かけて蓄積された。 [69][70][71]

  • 有価証券報告書
    • [69]1984年2月にGMとの合弁会社NUMMIを設立した
    • [71]NUMMIは北米の労働環境でトヨタ生産方式が機能するかを検証する実験の場となった
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [70]交渉はフリーモント工場評価で暗礁に乗り上げたが英二は「会長には拒否する権利がある」と諭した
  • 日経ビジネス 1982年4月5日号「その時どうなる。トヨタ・GM提携が破談になったら」
    • [63]1980年6月にフォードへ米国共同生産を提案し1981年に交渉決裂した
    • [64]単独進出は年産20〜25万台規模で3000億円前後の投資を要し、日米賃金格差(日本11ドル・米国19〜20ドル)から操業後コストに不安があった
    • [65]英二社長は「単独対米進出はありえない」と断言した
    • [66]加藤誠之・トヨタ自販会長がGMのロジャー・スミス会長との橋渡しを進め、1982年3月1日のトップ会談で共同生産の提案を引き出した
    • [67]両社の米国乗用車シェア合計は5割を超え米独禁法の壁があった
  • 有価証券報告書
    • [68]1982年7月にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し現社名のトヨタ自動車株式会社が発足した
    • [69]1984年2月にGMとの合弁会社NUMMIを設立した
    • [71]NUMMIは北米の労働環境でトヨタ生産方式が機能するかを検証する実験の場となった
  • 週刊東洋経済 2013年9月20日号「追悼 豊田英二・トヨタ自動車元会長を悼む 豊田英二さんが下した三つの決断」
    • [70]交渉はフリーモント工場評価で暗礁に乗り上げたが英二は「会長には拒否する権利がある」と諭した

ケンタッキー単独進出と北米生産主導への転換

NUMMIで手応えを得たトヨタは、1985年2月に海外事業室へ北米生産検討チームを設け、単独進出の検討を本格化させた。当時、北米での販売は年間100万台に達し、輸出自主規制のもとでは供給不足が避けられなかった。1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定し、米国では2000cc級乗用車を年産20万台規模で生産する計画とした。米国29州・カナダ8州から寄せられた誘致を部品調達・物流・電力・労働力・治安の観点で分析し、「トヨタの歴史のなかで最も困難なことの一つ」とされた選考の末、同年12月にケンタッキー州ジョージタウン近郊を選定した。 [72][73][74]

    • [72]1985年2月に北米生産検討チームを設置し北米販売は100万台に達していた
    • [73]1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定し米国は2000cc級を年産20万台規模とした
    • [74]米国29州・カナダ8州の誘致を分析し「トヨタの歴史のなかで最も困難なことの一つ」とされた選考で1985年12月にケンタッキー州ジョージタウン近郊を選定した

1986年1月、トヨタはケンタッキー州にトヨタ・モーター・マニュファクチャリングUSA(TMM)を設立した。全従業員を自動車生産の未経験者から新規採用し、日本製と同等の品質を実現することを絶対条件に掲げた。1990年のインタビューでTMM社長を務めた張富士夫氏は、進出当初は情報が地元に十分伝わらず「トヨタはけしからん、という噂が広がる土壌がありました」と振り返り(Decide=決断 1990-10)、その後は地元コミュニティとの対話を重視する運営に転じたと述べている。工場内には「TOP QUALITY」の標語が掲げられ、J.D.パワーズの調査ではケンタッキー工場と日本製カムリがともに上位に入るなど、未経験者を一から育てて日本製と同等の品質を出す試みは成果を上げた。 [75][76][77]

  • 有価証券報告書
    • [75]1986年1月にトヨタ・モーター・マニュファクチャリングUSA(TMM)を設立した
  • Decide = 決断(1990年10月号、サバイバル出版)
    • [76]張富士夫TMM社長は進出当初「トヨタはけしからん、という噂が広がる土壌がありました」と振り返っている
    • [77]J.D.パワーズの調査でケンタッキー工場と日本製カムリがともに上位に入り、工場内に「TOP QUALITY」の標語を掲げた

1988年5月、TMMで生産されたカムリの第1号車がラインオフし、同年10月には本格生産に入った。フォードとの交渉決裂から数えれば8年、GMとの合弁NUMMIの稼働からも4年を経ての単独工場稼働であり、合弁で北米の労働環境における生産方式の適用を検証し、続けて単独工場で本格投資に踏み切るという二段構えの手法は、その後もトヨタの海外進出で繰り返された。雇用創出と部品の現地調達を通じた地域経済への波及は日米摩擦の緩和にもつながり、対米輸出主導だった事業構造は現地生産主導へと転換した。 [78]

    • [72]1985年2月に北米生産検討チームを設置し北米販売は100万台に達していた
    • [73]1985年7月の臨時取締役会で米国・カナダへの単独工場進出を決定し米国は2000cc級を年産20万台規模とした
    • [74]米国29州・カナダ8州の誘致を分析し「トヨタの歴史のなかで最も困難なことの一つ」とされた選考で1985年12月にケンタッキー州ジョージタウン近郊を選定した
    • [78]1988年5月にTMMでカムリの第1号車がラインオフし10月に本格生産に入った
  • 有価証券報告書
    • [75]1986年1月にトヨタ・モーター・マニュファクチャリングUSA(TMM)を設立した
  • Decide = 決断(1990年10月号、サバイバル出版)
    • [76]張富士夫TMM社長は進出当初「トヨタはけしからん、という噂が広がる土壌がありました」と振り返っている
    • [77]J.D.パワーズの調査でケンタッキー工場と日本製カムリがともに上位に入り、工場内に「TOP QUALITY」の標語を掲げた

1989年〜 グローバル化と経営改革——電動化時代への挑戦

  1. 1989年トヨタモーターマニュファクチャリング(UK)を設立
  2. 1991年トヨタ自動車九州を設立
  3. 1995年奥田碩が社長に就任
  4. 2010年大規模リコール危機への対応と品質保証体制の再構築
  5. 2011年東北の系列生産子会社3社の統合とトヨタ自動車東日本の新設を発表
  6. 2023年佐藤恒治が社長に就任
  7. 2026年近健太CFOの社長就任を発表(3年でトップ交代)

トヨタ自動車の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

レクサス発売と奥田改革による拡大路線

1989年、トヨタは高級車ブランド「レクサス」を北米市場で発売し、独立した販売網を通じてメルセデス・ベンツやBMWが支配してきた高級車セグメントに参入した。同年にはトヨタ・モーター・マニュファクチャリング(UK)を設立して欧州での現地生産に着手し、北米で確立した単独進出の手法を欧州にも広げた。1990年代前半、バブル崩壊後の国内乗用車市場では登録車シェアが後退し、1994年12月には11年ぶりに40%を割り込んだ。ホンダの多目的車「オデッセイ」など他社の人気車種に商品構成が追いつかず、豊田家をトップに頂いた組織運営の長期化が意思決定の遅れを招いているとの指摘も強まっていた。 [79][80]

  • 有価証券報告書
    • [79]1989年にトヨタ・モーター・マニュファクチャリング(UK)を設立した
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [80]国内乗用車の登録車シェアは1994年12月に11年ぶりに40%を割った

1995年8月、病に倒れた豊田達郎氏に代わり、副社長の奥田碩氏が社長に就任した。旧トヨタ自動車工業以来の歴代社長のうち豊田家と縁のない社長は石田退三氏と中川不器男氏の2人のみで、1967年の英二氏就任以来28年ぶりの非同族・生え抜き社長だった。奥田氏は就任にあたり「豊田家は尊重するが、人事は公平にやる」と公言し(日経ビジネス 1995/8/21)、就任直後にダイハツ工業の経営権取得をまとめ、1996年5月には常務以上19人のうち留任をわずか2人にとどめる世代交代の人事を断行した。 [81][82][83]

  • 有価証券報告書
    • [81]1995年8月に豊田達郎に代わり奥田碩が社長に就任し、非豊田家社長は石田退三・中川不器男に続き28年ぶりだった
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [82]奥田氏は「豊田家は尊重するが、人事は公平にやる」と公言した
  • 日経ビジネス 1996年8月26日号「販売揺さぶる奥田体制」
    • [83]1996年5月に常務以上19人中留任2人だけの世代交代人事を断行した

奥田氏は「登録車で40%の国内シェアは死守する」と掲げ、1995年度の販売諸費・広告宣伝費を前年度比で約40%増の2348億円まで積み増した。1997年12月には世界初の量産ハイブリッド車プリウスを発売し、環境技術でも先手を取った。1998年9月にはダイハツ工業を子会社化して軽自動車市場での競争力を確保し、30年以上に及ぶ業務提携の実績を経て資本関係を強化した。国内シェアは1997年時点でなお40%を割り込んでいたが、円安を追い風に業績は増益に転じ、拡大とスピードを軸とした奥田氏の経営は世界販売の拡大へつながった。 [84][85][86][87]

  • 日経ビジネス 1996年8月26日号「販売揺さぶる奥田体制」
    • [84]1995年度の販売諸費・広告宣伝費は前年度比約40%増の2348億円に達した
  • 日経ビジネス 1998年1月5日号「非創業家トップ、海外に環境に猛進『眠れる巨象』を叩き起こせるか」
    • [85]1997年12月に世界初の量産ハイブリッド車プリウスを発売した
    • [87]国内登録車シェアは1997年時点でなお40%を割り込んでいた
  • 有価証券報告書
    • [86]1998年9月にダイハツ工業を子会社化した
  • 有価証券報告書
    • [79]1989年にトヨタ・モーター・マニュファクチャリング(UK)を設立した
    • [81]1995年8月に豊田達郎に代わり奥田碩が社長に就任し、非豊田家社長は石田退三・中川不器男に続き28年ぶりだった
    • [86]1998年9月にダイハツ工業を子会社化した
  • 日経ビジネス 1995年8月21日号「『強いトヨタ』の復活を託された奥田新社長」
    • [80]国内乗用車の登録車シェアは1994年12月に11年ぶりに40%を割った
    • [82]奥田氏は「豊田家は尊重するが、人事は公平にやる」と公言した
  • 日経ビジネス 1996年8月26日号「販売揺さぶる奥田体制」
    • [83]1996年5月に常務以上19人中留任2人だけの世代交代人事を断行した
    • [84]1995年度の販売諸費・広告宣伝費は前年度比約40%増の2348億円に達した
  • 日経ビジネス 1998年1月5日号「非創業家トップ、海外に環境に猛進『眠れる巨象』を叩き起こせるか」
    • [85]1997年12月に世界初の量産ハイブリッド車プリウスを発売した
    • [87]国内登録車シェアは1997年時点でなお40%を割り込んでいた

リーマン・ショックと豊田章男氏の14年

1999年6月には張富士夫氏が社長に就任し、中国事業の拡大や「トヨタウェイ」の体系化を進めた。2002年には中国の第一汽車集団と協力関係の構築について基本合意し、2004年には広州汽車集団との合弁で広州トヨタ自動車を設立して中国市場への参入を本格化させた。2001年8月には日野自動車を子会社化して商用車事業を強化し、35年に及ぶ業務提携の実績を経て資本関係を深めた。2005年6月に社長に就いた渡辺捷昭氏は原価低減を徹底する経営を推進し、トヨタは拡大を続けた。2008年3月期には連結売上高26兆2892億円、営業利益2兆2703億円を記録し、世界販売台数でゼネラル・モーターズに迫る規模まで成長した。 [88][89][90][91]

  • 有価証券報告書
    • [88]1999年6月に張富士夫が社長に就任した
    • [89]2002年に中国の第一汽車集団と協力関係構築に基本合意し、2004年に広州汽車集団との合弁で広州トヨタ自動車を設立した
    • [90]2001年8月に日野自動車を子会社化した
    • [91]2005年6月に渡辺捷昭が社長に就任した

2009年3月期、リーマン・ショックの影響でトヨタは創業以来初となる営業赤字4610億円、純損失4369億円を計上した。前期に26兆円を超えていた売上高は1年で20兆5295億円まで急落し、原価改善で3400億円を捻出する一方、環境・安全分野の研究開発費は削減対象から外して継続投資した。2009年6月、創業家出身の豊田章男氏が社長に就任し、危機のさなかに経営の立て直しを託された。就任後には米国市場でのリコール問題への対応にも追われ、品質管理体制の立て直しと情報開示のあり方の見直しを迫られた。 [92][93]

  • 有価証券報告書
    • [92]2009年3月期に創業以来初の営業赤字4610億円・純損失4369億円を計上した
    • [93]2009年6月に創業家出身の豊田章男が社長に就任した

豊田章男氏は在任14年間でグローバル販売台数の首位を獲得し、2024年3月期には連結営業利益5兆3529億円と過去最高を記録した。2016年にはカンパニー制を導入し、車種・技術領域ごとの経営単位に組織を再編、企画から生産までをカンパニー内で完結させる一方、研究開発など全社最適が必要な機能はヘッドオフィスに残した。2017年以降にはスズキ・マツダ・SUBARUとの業務資本提携を相次いで結び、2021年にはいすゞ自動車とも資本提携を結んで商用車分野のCASE対応を強化した。2020年にはパナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立し、車載電池の内製化を進めた。 [94][95][96]

  • 有価証券報告書
    • [94]2017年にスズキと覚書、マツダと業務資本提携、2019年にSUBARUと業務資本提携を拡大した
    • [95]2021年にいすゞ自動車と資本提携した
    • [96]2020年にパナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立した
  • 有価証券報告書
    • [88]1999年6月に張富士夫が社長に就任した
    • [89]2002年に中国の第一汽車集団と協力関係構築に基本合意し、2004年に広州汽車集団との合弁で広州トヨタ自動車を設立した
    • [90]2001年8月に日野自動車を子会社化した
    • [91]2005年6月に渡辺捷昭が社長に就任した
    • [92]2009年3月期に創業以来初の営業赤字4610億円・純損失4369億円を計上した
    • [93]2009年6月に創業家出身の豊田章男が社長に就任した
    • [94]2017年にスズキと覚書、マツダと業務資本提携、2019年にSUBARUと業務資本提携を拡大した
    • [95]2021年にいすゞ自動車と資本提携した
    • [96]2020年にパナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立した

認証不正とガバナンス再構築、佐藤体制へ

2022年、子会社の日野自動車でエンジンの排出ガスおよび燃費に関する試験データの不正が発覚し、トヨタグループ全体の品質管理体制への信頼が揺らぎ始めた。2023年12月にはダイハツ工業で衝突試験や排ガス試験など25の試験項目にわたる174件の認証不正が判明し、64車種が対象となって全車種の出荷停止に発展した。衝突試験でのエアバッグ作動タイマーの不正操作や、排ガス試験での触媒差し替えなど、安全性に直結する手続きで長期にわたる不正が行われていたことが明らかになった。第三者委員会の調査報告書は、上位下達の強い組織風土と過度にタイトな開発スケジュールが不正を助長したと結論づけた。

2023年6月、エンジニア出身の佐藤恒治氏が社長に就任し、豊田章男氏は会長に退いた。旧トヨタ自動車工業以来、非創業家出身の社長は英二氏以来14年ぶりとなった。豊田章男会長は認証不正が発覚したダイハツ工業など3社について、認証工程の全面的な点検を進める方針を示し、佐藤社長のもとで開発部門と認証部門の工程分離、第三者監査の導入を進めた。子会社の自律性を尊重してきたグループ運営のもとで、親会社による品質監督は十分に行き届いていなかった。認証工程の分離と監査体制の見直しは、この監督機能の立て直しに向けた取り組みだった。 [97][98]

  • 有価証券報告書
    • [97]2023年6月に佐藤恒治が社長に就任し豊田章男は会長に退いた。14年ぶりの非創業家社長
    • [98]佐藤体制のもとで認証工程の分離・第三者監査の導入が進められている

佐藤恒治社長は「550万人の自動車産業を守るわけじゃない」と述べ、産業保護ではなく変革を通じた競争力強化を経営の軸に据えている(日経ビジネス電子版、2023年)。2025年3月には「稼ぐ力を失うのは一瞬」と述べ、賃金体系の見直しとEV時代を見据えた構造改革を進める意向を示した(日本経済新聞 2025/3/14)。トヨタはハイブリッド・プラグインハイブリッド・電気自動車・燃料電池車を並行して開発するマルチパスウェイ戦略を掲げ、電気自動車への一本化を急ぐ欧米・中国メーカーとは異なる方針を取っている。佐藤社長は、電動化投資とガバナンス再構築を同時並行で進めている。 [99][100]

トヨタ自動車の沿革1933〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始★★
トラックを発売★★
乗用車を発売★★
トヨタ自動車工業株式会社を設立★★
豊田製鋼(現愛知製鋼)を設立★★
豊田工機(現ジェイテクト)を設立★★
中央紡績を吸収合併
トヨタ車体工業(現トヨタ車体)を設立★★
関東電気自動車製造(現トヨタ自動車東日本)を設立
日新通商(現豊田通商)を設立
東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場★★
愛知工業(現アイシン)を設立★★
日本電装(現デンソー)を設立★★★
トヨタ自動車販売を設立★★★
米国トヨタ自動車販売を設立★★
日本初の乗用車専門工場・元町工場が完成★★★
豊田中央研究所を設立★★
大衆車カローラを投入、専用拠点の高岡工場が稼働★★★
日野自動車工業と業務提携★★★
ダイハツ工業と業務提携★★
トヨタ自動車販売と合併しトヨタ自動車株式会社に社名変更★★
トヨタモータークレジットを設立★★
GM社との合弁会社NUMMIを設立★★★
トヨタモーターマニュファクチャリングUSA(現ケンタッキー工場)を設立★★★
トヨタモーターマニュファクチャリング(UK)を設立★★
トヨタ自動車九州を設立★★
奥田碩奥田碩が社長に就任★★★
張富士夫ダイハツ工業を子会社化★★
張富士夫張富士夫が社長に就任★★
張富士夫金融統括会社トヨタファイナンシャルサービスを設立★★
張富士夫日野自動車を子会社化★★
渡辺捷昭渡辺捷昭が社長に就任★★
渡辺捷昭富士重工業(現SUBARU)と業務提携★★
豊田章男初の営業赤字・純損失を計上★★
豊田章男豊田章男が社長に就任★★
豊田章男大規模リコール危機への対応と品質保証体制の再構築★★★
豊田章男トヨタホームに住宅事業を承継
豊田章男東北の系列生産子会社3社の統合とトヨタ自動車東日本の新設を発表★★★
豊田章男関東自動車工業がセントラル自動車等と合併しトヨタ自動車東日本に社名変更
豊田章男スズキと業務提携に向けた覚書を締結★★
豊田章男マツダと業務資本提携★★
豊田章男SUBARUと業務資本提携を拡大★★
豊田章男パナソニックとの合弁でプライムライフテクノロジーズを設立★★
豊田章男パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立★★
豊田章男いすゞ自動車と資本提携★★
佐藤恒治佐藤恒治が社長に就任★★★
近健太CFOの社長就任を発表(3年でトップ交代)★★★
出典・参考

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