豊田佐吉氏の30年を分けたのは発明の巧拙ではなく、その発明を誰の金で試すかだった。1891年の特許第1195号を得た織機は手織機より4割から5割も速く織れたが、零細な機業家は買い替えず、翌年に浅草へ開いた織布工場はその年の暮れに閉じている。井桁商会では1900年の不況で織機の注文が消えると研究への風当たりが強まり、佐吉氏は辞任した。1907年の豊田式織機では資本金100万円が集まった代わりに、社長の座は大阪合同紡績の谷口房蔵氏へ渡り、佐吉氏の取り分は利益から株主配当1割を引いた残りの3分の1と決められた。不況が来れば、外から入った資本は研究費から先に削る。3度の挫折が教えたのはこの一点だった。
1911年に佐吉氏が名古屋の米田町へ建てた織布工場は、布を売るための工場ではなく、自動織機を試すための工場だった。糸の質が試験の妨げになると分かると1914年に紡機6,000錘を据え、1918年には資本金500万円の豊田紡織を興して、糸から布までを自前で握った。そして1923年、刈谷に約10万坪を買って営業と試験を切り離す。翌年そこで回った織機720台と紡機2万錘は、売上のためではなく1台の自動織機を仕上げるために据えられた設備である。無停止杼換式が完成したのは、その1924年の暮れだった。研究費を他人の決算に預けない体制を作るのに、佐吉氏は30年を費やした。
織機の発明を志したきっかけは、1885年公布の専売特許条例に強く関心を抱いたことだったと伝えられる。遠江国敷知郡山口村の大工の家に1867年2月に生まれた豊田佐吉氏は、家業を手伝う一方で、近隣の農家が一戸ずつ備えていた手織機をよりよくする工夫に打ち込んだ。1890年4月には上野の第3回内国勧業博覧会へ足を運び、機械館に展示された輸入機械から役に立つ部分を図面に写した。同年11月、最初の発明である豊田式木製人力織機を完成させている。従来の手織機より能率は40〜50%上がったものの、技術としては当時浜松地方へ普及し始めていたバッタン織機の改良にとどまった。翌1891年5月14日、この「織機」は特許第1195号として特許証を受けた。
佐吉氏の狙いは、自分の発明した織機をまず自ら使って出来栄えを確かめ、それから人に勧めることにあった。そのため特許取得の翌1892年、人力織機4〜5台を製作して東京市浅草区千束町に小さな織布工場を設けた。布は問屋筋に好評だったのに織機はほとんど売れず、能率が40〜50%上がる程度では、資金の乏しい小さな織布業者が手織機からの乗り換えに踏み切ることはなかった。1906年になっても、国内に据え付けられた織機は手織機71万6,171台に対し小幅力織機は2万657台で、機業家46万3,165戸の大半は手織機を使う零細な機織業だった。発明の資金を織機の販売で得るもくろみは外れ、佐吉氏はその年の暮れに工場をたたんで郷里へ戻った。
1894年に考案したかせ繰り機は、佐吉氏にとって資金を得るための売り物でもあった。研究の元手は初めから乏しく、各方面からの借金に加え、その機械の販売で事業の資金を工面しようとしたのである。動力織機を製作した井桁商会は、佐吉氏の参加後に一時は繁盛した。関東地区での販売を受け持ったのは次弟の豊田平吉氏で、動力織機の開発が始まると動力の調達も同氏の担当になった。注文が大きく減ったのは1900年である。不況に加え、北清の義和団事件で綿糸布の清国向け輸出が途絶え、紡織業界がこぞって操業を短縮したためだった。経営が悪化するほど佐吉氏の発明研究への批判は強まり、ついに佐吉氏は同商会を去った。事業の行方を左右していたのは、発明そのものではなく、発明を続けるための資金をどこから得るかであった。
豊田商会では、経営を弟の豊田佐助氏が、工場を妻の浅子氏が受け持ち、佐吉氏自身は織機を自動化する研究に専念した。商会の織布業は1902年にもとの武平町工場で始まり、呉服問屋の滝兵右衛門氏から借りた西新町工場も加えて、ほどなく織機138台が動く規模となった。1905年に売り出した38年式織機は、日露戦争で軍用綿布の注文が殺到していた織布業界で、つくる端から売れて生産が追いつかなかった。翌1906年1月には西区島崎町に織機製作工場と試織工場を新設して織機製造部門を移し、島崎町の120台に武平町の80台と西新町の100台を合わせた運転台数は300台に達した。織布部門の収益は大幅に増加した。
三井物産は佐吉氏の力量を買っており、1903年に佐吉氏が緯糸を自動で補う自動杼換装置を発明し、小幅の鉄製織機7〜8台に付けた試験で狙いどおりの結果を出すと、すぐに名古屋市西熱田で名古屋織布を立ち上げ、この自動織機150台を入れて営業試験にかけた。1905年からはドレーパー式などの外国製織機と性能を競う試験が約1年間行われ、全国の織布業者が見守ったが、豊田式自動織機は好成績を残せなかった。佐吉氏は、敗因を当時の織機製作の技術水準や工場の不慣れには求めず、製作と試験を他人に委ねた点こそが最大の原因だと見た。そこで、一般の織布業者の営業と全く同じ条件で納得いくまで性能を試し、そのうえで商品として売り出すことを、以後の自らの指針に据えた『完全なる営業的試験を行なうにあらざれば真価を世に問うべからず』。
豊田商会の手元資金では、織機の増産に応えられない状態にあった。1906年、同商会の小幅織機に目を留めた三井物産大阪支店長の藤野亀之助氏が、株式会社へ改めることを持ちかけた。佐吉氏は迷いながらも島崎町工場を現物出資に充てて改組に応じ、1907年2月に名古屋市島崎町で資本金100万円の豊田式織機株式会社が発足したが、社長の座には大阪合同紡績社長の谷口房蔵氏が就き、佐吉氏自身は常務取締役技師長の立場にとどまった。佐吉氏が所有する特許権の使用対価は、利益金から株主配当の1割を控除した額の3分の1と定められた。発起人には谷口氏のほか山辺丈夫氏、斎藤恒三氏ら綿紡績の関係者が並んだ。設立後まもなく経済が不況へ転じると社内の対立が表面化し、佐吉氏は1910年に辞職を強要された。
1910年、佐吉氏は欧米視察に出た。アメリカでは自動織機の実情を確かめたうえ、自動車メーカーが80数社を数え、フォードがT型を送り出していた市場を目の当たりにしている。約4か月の滞在で自動車が大衆の足として広がりつつある様子を見た佐吉氏は、帰国後も周囲へ「これからは自動車の時代だ」と繰り返したという。約半年の視察で、佐吉氏は自動織機を完成させる自信を取り戻した。経路はイギリスのマンチェスター近辺の紡織機工場に始まり、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツを経て、ロシアからシベリアを通り、翌1911年1月の帰国で終わった。そこで独立の足場として自らの工場を建てることにした。とはいえ豊田式織機を去った佐吉氏を世間は冷たく見ており、苦手な資金集めに自分で走り回るしかなかった。
帰国から10か月を経た1911年10月、佐吉氏はようやく資金を整え、愛知郡中村大字栄字米田に約3,000坪の土地を取得して織布工場の建設に着手した。工場が完成すると、佐吉氏は家族とともに移り住み、従業員と寝食をともにした。もともと織布業で得た利益で自動織機の試験研究を行うための工場である。研究を進めるうち、使っている糸の質の悪さが試験の妨げになっていることがわかり、良い糸を自前で紡いで回さなければ、試験は満足にできないという状況だった。小規模な紡績は割に合わないという当時の常識から周りは強く反対したが、佐吉氏は織布工場を担保に銀行から資金を借り、紡機は三井物産から3年の延払いで買い入れ、1914年2月に紡機6,000錘の紡績工場を完成させた。
第一次世界大戦の好況で紡績の利益は膨らみ、個人経営では動きが取れない規模になったため、1918年1月、佐吉氏は資本金500万円の豊田紡織株式会社を設立した。試験用の自動織機が増えて営業用の紡織作業に支障が出ると、営業と試験研究を分けることにし、1923年11月、愛知県碧海郡刈谷町に約10万坪の土地を買収して豊田紡織刈谷試験工場を建設した。翌1924年春に織機200台で運転を始め、同年末には自動織機520台を増設して紡機2万錘も備えた。折しも織機本体の製作を担っていた豊田式織機との間に自動杼換装置の特許をめぐる紛争が起き、増設予定の織機の製作を拒まれると、佐吉氏は名古屋市中区日置町の工場を借り受けて鋳造設備を導入し、織機本体の製作にも乗り出した。無停止杼換式の自動織機が完成したのは、その1924年末である。
トヨタ自動車工業の最初の12年は、売れる車を作った歴史ではなく、織機の稼ぎを自動車へ移し続けた歴史である。元手は1929年に英プラット・ブラザーズ社へ特許権を譲って得た10万ポンドであり、1935年に資本金を300万円から600万円へ倍にした増資も、上海の豊田紡織廠が全額を引き受けた。豊田喜一郎氏は自前の部品網も販売網も持たないまま、エンジンをシボレー車に、トラック・シャシーをフォード車に合わせて設計している。すでに日本中へ出回っていた米国車の補給部品が、そのまま自社の部品供給網になるからだった。持たざる会社が市場へ入るための設計である。
1938年の挙母工場は大衆乗用車のために建てられ、そのために倉庫を置かない流れ作業が敷かれた。ジャスト・イン・タイムという言葉もこのとき生まれている。ところが工場が動き出した年から乗用車は減り続け、1937年の年間577台を超える年は戦時下に二度と来なかった。伸びたのはトラックだけで、1942年の16,302台が戦前の頂である。喜一郎氏が掲げた廉価で優秀な大衆車は、工場だけが先に完成した状態で12年間据え置かれた。1949年5月に東京・名古屋・大阪へ上場した直後、ドッジ・ラインで月賦の回収が止まると、織機から引き継いだ自給の仕組みは底を突き、同年12月に刈谷北工場が日本電装として切り出された。
1926年2月、豊田喜一郎氏は父の佐吉氏の指示を受けて刈谷への新工場建設を立案した。佐吉氏の指示はG型自動織機を月に500台生産できる規模だったが、喜一郎氏は社内の慎重論に配慮して月産500台と250台の2案を策定している。新会社の設立は1926年4月26日の豊田紡織の株主総会で了承され、同年11月18日、愛知県碧海郡刈谷町に資本金100万円の株式会社豊田自動織機製作所が設立された。社長には豊田利三郎氏が就き、喜一郎氏は常務取締役として実務を担った。工場の建設中はG型自動織機を豊田紡織の日置町修繕工場の設備を引き継いで生産し、1927年6月に月産300台の織機製作工場が本格稼働した。生産技術の習熟を図りながら段階的に生産能力を拡充するこの方法は、のちの自動車事業への進出でも採られた。
関東大震災で鉄道が壊滅的な打撃を受けると、救出活動から復興の工事に至るまで、あらゆる場面にトラックが動員された。贅沢品とみなされてきた自動車が公共の役に立つ便利な道具であることは、これで広く知られ、日本で実用品としての地位を得たのは1923年9月1日のこの震災が境だった。東京市電気局は路面電車の復旧に時間がかかると見て、米国フォード社にトラック・シャシー800台を注文し、幌張りの簡素なボデーを載せて円太郎バスとして走らせた。急増した需要を取り込んだのは、大量生産によって供給力と低価格を兼ね備えた米国メーカーであった。米国車は欧州車に比べ2〜3割安く、発注から3か月で届いた。喜一郎氏はこの日に東京で被災しており、10年後の1933年9月1日、自動車製作部門を豊田自動織機製作所内へ置くことになる。
1929年、紡織機メーカーとして世界一の地位にあった英国のプラット・ブラザーズ社が豊田自動織機の高性能に着目し、権利譲渡を申し込んだ。喜一郎氏のもとには、以前から自動車の調査と研究を続けてきた一団がいた。交渉がまとまり、特許権を10万ポンド(当時の約100万円)で譲渡する豊田・プラット協定が同年に結ばれた。1933年に紡績機械が自動織機に加わって豊田自動織機製作所の業績が上向くと、喜一郎氏は好機と見て、同年9月1日にそのチームを自動車製作部門として立ち上げた。ただしこの部門は、職制に位置づけられた正規の組織という扱いではなかった。これより前の同年6月、大島理三郎取締役は海外視察を名目に米国へ渡り、目星をつけていた自動車製造用の工作機械を買い付けて、1934年3月に戻っている。生産設備の拡充に向けては1935年7月、上海の豊田紡織廠がすべてを引き受ける形で倍額増資を行い、資本金は300万円から600万円になった。
エンジンの手本には構造が原理に忠実なシボレー車を、トラック・シャシーには頑丈なフォード車を選び、乗用車は流線型を先取りしたクライスラー系デソート車のボデーとシャシーを参考にした。こうしたモデル選びの前提には、試作車の基本構想を練る段階で喜一郎氏が固めた方針がある。当時の国内に多く出回っていたフォード車・シボレー車の補修部品を流用できるよう、部品を両車と共通に使える形で設計するというものだった。1933年10月には33年型シボレー乗用車を分解して各部品を採寸し、図面に起こしてエンジン試作に用いた。翌1934年には34年型のデソート車とシボレー車を購入して設計の参考とした。分解した部品は材質・強度・硬度を調べるだけでなく、国内の外国車用イミテーション・パーツ製造業者や材料の供給業者も調査の対象とした。
自動車事業の経験がまったくない会社だったため、経験者の招聘が相次いだ。中京デトロイト化構想のもとで製作された乗用車アツタ号に関係した菅隆俊氏が1933年11月に、白楊社でオートモ号の開発・製造に携わった池永羆氏が1934年3月に入社している。日本GMに在籍した神谷正太郎氏、花崎鹿之助氏、加藤誠之氏は1935年に加わり、喜一郎氏の高校・大学の学友で日本エアブレーキにいた伊藤省吾氏も1937年5月に入社した。一方で喜一郎氏は実際技術とともに学術的研究を重んじ、1936年5月に東京芝浦へ研究所を開設している。担当は同年4月に自動車部へ入った豊田英二氏で、当初は英二氏のほかに誰もおらず、部屋の掃除と机や製図板の買い集めから始まった。研究所ではラジエーターや木炭車のガス発生器、国産自動車部品の調査が進められた。
1936年9月、自動車製造事業法による許可会社の指定を受けたことで、ある構想が予想より早く形になった。喜一郎氏は自動車の製造に乗り出して間もない頃から、注文を受けてつくる紡織機と大量につくる自動車とでは、労務の構成も管理の方法も違うことに注意を払っていた。そのため、豊田自動織機製作所の自動車部門を独立した会社にする構想を早くから抱いていた。許可された規模は年産で乗用車2,500台、バス1,000台、トラック2,500台、計6,000台である。1937年8月27日、自動車部が資本金1,200万円で分離独立し、トヨタ自動車工業が発足した。設立時の社長には織機の社長でもある豊田利三郎氏が、副社長には喜一郎氏が就いた。同年9月、喜一郎氏は全国のトヨタ車販売店の代表に対し、創立のいきさつと経営方針をこう述べている『『トヨタ丸』は『廉価で優秀な車の製造』という旗印を立てて、嵐の海に出帆するのであります。ますます強固な結束と献身的な努力によってこの目的を実現してゆきたいと思います。いかにして安く製作し、従って安く提供するか、いかにして優秀な車を製作するかという以外にわれわれの進路はないのであります』。
それまでの刈谷工場の加工は、鋳物で作った半製品をまず倉庫へ収め、何個つくれという伝票が回ってきて作業し、終わると今度は穴を開けろと指示が来る、という段取りだった。喜一郎氏はこれをすべて流れ作業に置き換えようと、詳細なパンフレットを作成した。仕掛品がたまらなければ倉庫はいらず、ランニングストックも縮んで余計な資金を寝かせずに済む。代金を払う前に仕入れた物が売れれば、運転資金そのものが不要になるという発想だった。挙母工場は1938年11月3日に挙母町論地が原で完成し、竣工式の後ただちに操業へ入り、日本で初めての大衆車専門の量産一貫工場として、その日が創業記念日となった。のちに生産方式の代名詞となるジャスト・イン・タイムは、このとき作られた和製英語だった。
挙母工場は大衆乗用車のために建てられたが、その乗用車は戦時下で市場から消えた。生産台数は1937年の4,013台から挙母工場完成の翌1939年に11,981台、1942年には16,302台へ伸びた一方、乗用車は1937年の年間577台を最高に時局の関係で年々低下している。戦時中の仕事は車づくりより資材集めが中心となり、陸海軍と直接掛け合って材料を確保したが、軍の側は材料を極力省いた簡易型を求め、ヘッドランプ1つ、ブレーキは後輪のみという車まで生まれた。月産台数が戦前で最も多かったのは1941年12月の2,000台で、1942年からは急速に落ちた。この間に資本金は1939年7月に3,000万円、1943年1月に6,000万円と増え、同年11月に企業整備で中央紡績を吸収合併して9,150万円に達した。
赤井久義副社長が幹部を集めて方針を示したのは8月16日である。トラックは日本の再建にも欠かせない道具で、トヨタにはその供給責任がある、というのがその内容で、翌17日に生産が再び動き出した。それに先立つ1945年8月14日には挙母工場が空襲で約4分の1を失い、復旧工事のさなかに終戦を迎えていた。従業員数は、勤労動員の影響で9,500人余りまで膨らんでいたが、終戦とともに動員者が去って7,400人程度になり、その後も自ら辞める者が相次いで10月末には3,700人に減った。1949年5月には東京・名古屋・大阪の各証券取引所にトヨタ自工の株式が上場された。同じ年、ドッジ・ラインによる超緊縮財政で自動車の需要が一気に冷え込み、月賦販売の代金が回収できずに製造資金が圧迫されていく。同年11月に企業再建整備計画が認可されると、12月には刈谷北工場が日本電装として分離独立した。
トヨタ自動車工業が1950年に受け入れた工販分離は、銀行団が生産を販売の許す量に縛るために課した条件だった。日本銀行名古屋支店の再建案は、販売会社が売れるとする台数だけを作ることを融資の前提に置き、トヨタは2146人の退職とともに販売部門をトヨタ自動車販売として切り離した。ところが神谷正太郎氏は、この会社を月賦の金融機関ではなく、販売の計画から実行までを担う組織として立ち上げている。1956年に一県一店制を改めた複数販売店制も、1961年に新設したパブリカ店も、その構想の延長で置かれた。資金の出し手が課した分離によって、需要をつくる役に専念する会社がひとつ生まれたことになる。
その分業のもとで、トヨタは需要より先に工場を建てた。クラウンの月販が2000台だった時期に、豊田英二氏は月産5000台の乗用車専用工場を提案し、石田退三社長は建屋を月産1万台の規模で建てる元町工場を決めた。1959年12月にトヨタの生産は月産1万台に達し、売上高は1955年11月期の170億円から1959年11月期の712億円へ4倍になった。1966年のカローラでも、上郷と高岡に工場を新設したうえで、パブリカのために用意した販売店の系列に載せている。売れる台数だけを作れという1950年の条件は、工場を先に建て、販売会社の網で量を受け止める順序に置き換わった。
1949年12月、トヨタ自動車工業は2億円の年末資金を調達できなければ倒産する局面に立った。日本銀行名古屋支店長の高梨壮夫氏は、300社を超える下請けを抱えるトヨタを日銀の融資あっせんの対象に指定した。日銀名古屋支店の音頭で銀行団の協調融資がまとまり、トヨタは年を越した。融資には年明けに抜本的な再建計画を立てる条件が付いた。日銀名古屋支店が示した骨子は、販売会社の分離独立、売れるとする台数だけの生産、過剰人員の整理の3点だった。銀行団は、売れない車の生産を続けたことが資金繰りの行き詰まりを招いたと判断していた。資金の出し手が、生産の量を決める権限を販売の側へ移すよう求めた再建策だった。
再建計画を待つ間も資金は細り、1950年3月末には4億6300万円を借り入れても従業員の給与を全額は払えなかった。4月22日、会社は1600人の希望退職と、月産をトラックBM型590台など計940台に絞る再建案を示した。労働組合は4月7日に争議行為を通知しており、団体交渉は7月17日までに36回を数えた。退職者は分工場の378人を含めて2146人に達し、残った従業員は5994人だった。豊田喜一郎氏は経営不振の責任をとり、1950年6月に社長を退任した。7月18日の臨時株主総会で全役員が辞任し、豊田自動織機製作所の社長を務める石田退三氏が社長に選ばれた。石田氏は同じ総会で、業績を立て直した後に喜一郎氏を社長に迎え直すことを株主に諮った。
販売会社の分離は、融資の条件となる前から社内で検討されていた。1946年から1948年にかけて3度構想が立てられたが、占領政策の変転のなかで見送られてきた。トヨタ自動車販売は1950年4月3日に設立された。発起人の神谷正太郎氏と大西四郎氏は、その前日付でトヨタ自動車工業の取締役を退いた。証券保有制限令と私的独占禁止法が、役員の兼任と新会社の株式保有を禁じていたためである。発足時の株主は神谷氏ら個人18人の計160万株で、設立資金は神谷氏個人の信用で集めた。銀行団は販売会社に月賦の金融を期待したが、神谷氏は販売の計画から実行までを担う組織として構想していた。
1950年6月に朝鮮戦争が始まると、在日米軍の兵站本部は7月10日、トヨタと日産自動車・いすゞ自動車に軍用トラックの発注を内示した。トヨタは7月31日の1000台を皮切りに、1951年3月までに計4679台を受注した。警察予備隊の需要も加わって滞貨は一掃され、生産は急速に回復した。神谷氏が進めていたフォードとの技術提携の交渉は、米国政府の禁足令で白紙に戻った。代わりに常務の豊田英二氏が1950年7月から約1か月半、フォードのルージュ工場で研修を受けた。英二氏と斎藤尚一氏の米国での調査は、1951年初めに生産設備近代化5か年計画としてまとまった。人員を増やさずに設備を更新し、1956年3月までに生産能力を月産3000台へ倍増させる計画だった。所要資金は57億8745万円と見積もられた。
日産自動車・いすゞ自動車・日野ヂーゼル工業・新三菱重工業の4社は、外国メーカーと技術提携を結んで乗用車の組立に入った。石田社長は1953年の年頭に、国産車の確立を創業以来の方針として続けると従業員に示した。トヨタは1952年1月から、国内で組み立てられる欧州車に対抗する本格的乗用車の設計を進めた。1953年1月には挙母工場の東側で研究施設テクニカルセンターの建設に着手し、1954年10月に完成させた。そのトヨペット・クラウンを、1955年1月に国産技術だけで開発した乗用車として発表した。販売の側では、神谷氏が1956年に一県一店制を改め、トヨエースとコロナのために複数の販売店を置く体制へ切り替えた。販売店を増やして量を先にさばき、全体の原価を下げることが既存店の利益にもなると説いた。
国内ではタクシーなどの営業車と法人の需要が伸び、英二氏は石田社長に乗用車専用工場の建設を提案した。クラウンの月販が2000台の時期で、英二氏は月産1万台を望みながら5000台を案として出し、石田社長が建設を決めた。1958年7月に建設委員会が置かれ、委員長に豊田章一郎氏が就任した。1959年8月に完成した元町工場は、設備を月産5000台、建屋を月産1万台の規模で整え、資金は増資と借入金で賄った。同年12月、トヨタの生産は乗用車とトラックを合わせて月産1万台に達した。売上高は1955年11月期の170億円から、1959年11月期に712億円へ増えた。石田社長は元町工場の稼働を見届け、1961年8月に中川不器男副社長へ社長を譲った。
通商産業省は1955年5月に国民車育成要綱を発表し、神谷氏は同年9月に同省の顧問に就任した。トヨタは要綱に沿う試作車を1956年8月に公開したが、費用と市場の両面から大衆車は時期尚早と判断した。1960年代に入ると、パブリカをフォードとの合弁会社で共同生産する案を示したが、1961年半ばにフォードの役員会が否決した。1961年6月30日、パブリカは東京店頭渡し38万9000円で発売された。販売ではパブリカ専門の販売店系列を新たに設けた。ただ買い手の多くは800ccの車で満足せず、1500ccクラスへ背伸びしてそこに需要が集まった。38万9000円の価格は、この時期の買い手が求めた車格とかみ合わなかったのだろう。
1966年4月、日産自動車が排気量1000ccのサニーを発売した。トヨタは1500ccには手が届かず800ccでは満足しない層に向け、1077ccのK型エンジンを積むカローラを1966年10月に投入した。そのためにエンジンの上郷工場と組立の高岡工場を新設し、パブリカ店の系列で売った。神谷氏は発表の席で国内外の月販3万台を目標に掲げたが、当時のトヨタの生産は月産5万台ほどだった。同じ年の8月に日産自動車がプリンス自動車工業を合併すると、その2か月後、トヨタは三井銀行の仲介で日野自動車と業務提携を結んだ。日野の松方正信社長は交渉の途中で小型乗用車コンテッサの生産をやめると申し出た。トヨタは持ち込まれた再編の話を受けはしたが、資本自由化には自力で備えることを基本に置いた。
1967年からの15年間、トヨタは外から課された三つの制約に、他社と組むのではなく自社の量と原価で応じた。公正取引委員会の判断で合併を封じられると、豊田英二氏は資本自由化に年産200万台の量産で備えた。その設備投資は自己資金でまかない、ダイハツ工業との提携も経営の自主性を互いに保つ業務提携にとどめた。排出ガス規制では車種の多さを理由に2年の猶予を求め、その間に全車種へ対策を広げている。石油危機の後は、1973年と同じ人員のまま約250万台を造れるところまで生産性を上げ、合理化で生んだ額が営業利益を上回る期さえあった。外圧を受けるたびに、トヨタは量を減らさず、原価を削減して応じた。
量を守った代償は、その量の行き先が国外へ移ったことにある。国内の登録台数の伸びが鈍った1970年代後半、トヨタの販売の伸びはほぼ輸出によるものだった。1980年6月期には、輸出168万1,000台が国内156万8,000台を上回っている。米国ではカローラ、セリカ、ハイラックスに車種を絞ってフォルクスワーゲンを抜き、日本車のシェアは規制論の目安とされた20%を超えた。国内の再編にも外資にも頼らなかったトヨタは、1981年の自主規制で初めて、売れる台数を相手国との交渉で決められる立場になった。量で外圧に備えてきた会社が、量そのものを外圧の対象にされたのである。
1967年10月13日に中川不器男社長が急逝し、同月30日に副社長の豊田英二氏が社長に就任した。日本は1964年4月にOECDへ加盟し、資本取引を自由化する義務を負っていた。政府は1967年6月に資本自由化の基本方針を決め、12月には米国の自動車使節団の来日が控えていた。1964年に持ち込まれたプリンス自動車との合併話は、トヨタの側から断っている。1966年8月の日産自動車とプリンスの合併を、公正取引委員会は日産のシェアがトヨタを上回らないことを理由に認めた。首位のトヨタはどの社とも合併できない立場に置かれ、英二氏は資本自由化に自力で備えることを経営の基本に据えた。
ダイハツ工業との提携話は、三和銀行の渡辺忠雄氏がトヨタへ持ち込んだ。ダイハツの財務は健全だったが、日野自動車と違って車種がトヨタと重なり、その整理にも応じる意向はなかった。1967年11月9日、トヨタ自工とトヨタ自販、ダイハツの3社は、それぞれの経営の自主性を保つことを前提に業務提携の覚書を交わした。英二氏は軽自動車に力を入れるよう求めたが、ダイハツは大衆車の生産も続けた。それでも軽自動車を持たなかったトヨタのグループは、大型トラックから軽自動車までの全車種をそろえた。1975年下期のダイハツの販売17万9,310台のうち、4万6,160台はトヨタ自工から受託して造った車だった。
1967年のトヨタの総生産台数は83万台を超え、小型車の国内シェアは40.9%で首位だった。1968年には月産10万台、年産100万台を達成したが、年産200万台を超える会社はGMとフォードしかなかった。1969年5月に三菱重工業がクライスラーとの合弁の準備に入り、同年10月に政府は自動車の資本自由化を1971年10月と閣議決定した。英二氏は自由化までに年産200万台を造れるようにして民族資本を守ると表明し、ダイハツと日野への生産委託も増えるとした。1968年度の設備投資500億円は、全額が自己資金だった。借入に頼らずに量産の枠を広げられたため、英二氏は合併に代わる備えを自社だけで組めたとみられる。
1970年12月の米国でのマスキー法成立を受け、日本では1971年7月に環境庁が発足し、1972年に1975年度の排出ガス規制が決まった。英二氏は日本自動車工業会の会長を兼ねており、全メーカーが適合できる規制の形を求める立場にもあった。最大の難題は、窒素酸化物を1km当たり0.25gに抑える1976年度規制だった。トヨタは車種とエンジンの数が他社より多く、1車種で達成しても全車種へ広げるには時間がかかった。1974年9月11日、英二氏は衆議院の特別委員会で0.25gは未達だと説明し、1975年度規制の2年継続を要望した。同年12月、中央公害対策審議会は1976年度規制を1978年度まで延ばす答申を出した。
猶予の間に、トヨタは触媒方式と複合渦流方式を併用して1975年度規制に対応した。1975年2月に複合渦流方式の19R型エンジンを積むコロナとカリーナを出し、11月までにカローラやセリカにも適合車を広げた。一連の浄化方式をTTCと名付け、販売店の全整備士に対する教育も行った。1976年1月には、希薄燃焼方式のカローラ1600を1976年度規制の適合車として発売した。1976年12月に決まった1978年度規制についても、1977年3月の時点で期限の1979年2月までに全車種を対応させる見通しを示した。この規制で、乗用車の一酸化炭素と炭化水素は約95%、窒素酸化物は92%減る計算だった。
1973年10月の第1次石油危機の直前まで、トヨタは資材が足りずスペアタイヤを省いた車まで出して増産していた。危機の後に売れ行きが止まると、1974年1月から3月まで生産を落として販売店の在庫を減らし、4月には増産へ戻した。合理化で生んだ額は1974年11月期に90億円となり、同期の営業利益89億円を上回った。1976年の生産約250万台は、1973年の230万台と同じ従業員数で、外部の応援も休日出勤もなしにこなした。1976年下期の半期の金融収益は236億円に上り、1977年の中間決算は借入の無い決算として報じられた。英二氏は、1950年の経営危機で銀行の融資を受けられなかった経験が資金を蓄える姿勢につながったとしている。
米国向けの輸出は、1968年4月に投入したカローラが加わり、1968年の9万5,000台から1969年には15万台に増えた。1971年のニクソン・ショック後に円高で値上げを迫られると、米国トヨタは1972年10月から現地の責任者に米国人を登用した。重点車種はカローラ、セリカ、ハイラックスの3つに絞り、米国メーカーの製品が手薄な区分で需要のある車を選んだ。1975年にトヨタは米国で乗用車25万8,000台を売り、フォルクスワーゲンを抜いて輸入車の首位に立った。1976年9月末に取扱いディーラーは1,014店に達し、1977年には乗用車と商用車を合わせて年60万台を売る体制ができた。
国内の登録台数は石油危機後の1974年に前年より22.2%減り、その後も伸びは鈍いままだった。1976年にトヨタの国内販売は9.5%減り、軽自動車を除く国内シェアは3年前の約40%から37.6%に下がった。同じ年の輸出船積みは約117万台で、前年より35.6%増えた。1976年6月期の販売は、国内140万1千台余に対して輸出106万1千台余だった。1980年6月期には国内156万8,000台に対し、輸出が168万1,000台に達した。1980年のトヨタ車の輸出比率は過去最高の54%に達し、英二氏はその年頭に生産台数の半分がすでに海外市場に依存していると社内に示した。
1976年には英国で日本車の輸入増が問題となり、トヨタは業界として秩序ある輸出を心がける方針を示した。米国でも輸入車のシェアが20%を超えると規制論が出るとトヨタは見ていたが、1980年に日本車のシェアは21.3%に達した。同年6月に全米自動車労働組合が国際貿易委員会に通商法201条の発動を提訴し、8月にはフォードも続いた。委員会は11月に3対2で日本車を損害の原因と認めなかったが、1981年2月に日本製乗用車の輸入を年160万台に抑える法案が米議会へ出た。1980年にトヨタが提案したフォードとの米国での合弁生産も、交渉がまとまらなかった。1981年4月末、日本政府は米国と対米乗用車輸出の自主規制で合意した。
1982年から2008年のトヨタは、国内の台数目標が利益を生まなくなるたびに、成長の場を海外の工場へ移した。工販合併の直後は、販売店への支援で国内シェアが9年ぶりに40%を超え、1985年6月期の営業利益は5,058億円まで伸びた。その時点の北米のNUMMIと米国・カナダの単独工場は、まだ対米摩擦をかわす手段にとどまっていた。転機は1990年、国内で約250万台を売ってK250計画を3年早く達成した直後にあった。翌1991年6月期は売上高が7.1%増えたのに、営業利益は37.1%減った。車種とオプションを増やして国内の需要を取り切るやり方のもとで、売上高原価率は87.9%まで上がっていた。
1990年代の収益対策と2005年ビジョンを経て、海外生産は1990年の約93万台から2000年の約196万台へ倍増した。2010年グローバルビジョンのもとでは、2005年に約367万台まで積み上がった。国内で利益を生まなくなった台数の拡大を、海外で続けた構図である。ところが2006年度には、素材高で原価改善の効果が年1,000億円まで縮んだ。2008年3月期には891万台余りを売りながら、営業利益の伸びは1.4%にとどまった。成長の場を海外へ移しても、台数と利益の結びつきは再び弱まっていた。その弱まりが最大の収益源だった北米で先に表れたことが、次の赤字決算の前触れになった。
1982年7月、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し、トヨタ自動車が発足した。前年に自工副社長から自販社長へ移っていた豊田章一郎氏は、年間200万台の販売体制と長期の海外戦略を経営課題に据えていた。合併と同時に、販売店向けの卸手形の決済期間を10日延ばし、マージンも引き上げた。1983年のトヨタ車の国内登録台数は159万9,000台となり、シェアは9年ぶりに40%を超えた。営業利益は1984年6月期の4,064億円から、1985年6月期には5,058億円へ増えた。販売店への支援を生産側と調整せずに一社の判断で打てるようになったことが、シェアの回復を早めたのだろう。
北米では、1981年7月にフォード・モーター社との合弁交渉が決裂した直後、ゼネラル・モーターズ(GM)社から提携の打診があった。GM社は小型車の自社開発でつまずいており、米国議会では現地調達率を義務づける法案の動きが強まっていた。1984年2月、両社は折半出資でNUMMIを設立し、トヨタは少ない投資で北米での生産を学ぶ場を得た。1985年7月には、北米でのトヨタ車の販売が100万台に達していたことから、米国とカナダへの単独進出を臨時取締役会で決めた。北米の生産台数は1985年の6万4,690台から、1990年に48万4,274台へ増えた。トヨタ自動車会長の豊田英二氏は1987年の回想で、GMとの提携による対米進出と工販合併をこの10年の出来事に挙げている。
1985年9月のプラザ合意を境に、1ドル240円前後だった円相場は1986年5月に160円まで上がった。1986年6月期は国内販売で売上高を4.0%伸ばしたが、円高による減益要因は2,900億円に達した。営業利益は34.9%減の3,293億円となり、合併後で初めての減益を記録した。トヨタは同年10月に全役員を委員とする円高緊急対策委員会を設け、業務の工数や会議時間を半分にするチャレンジ50を加速した。1987年1月には豊田英二会長が仕入先の協豊会・栄豊会の合同大会で原価低減への協力を求めた。1987年6月期の合理化効果は1,600億円に上った。輸出の採算が崩れた2年間を、国内の販売と原価の引き下げで持ちこたえたことになる。
国内の販売台数は1988年に212万台となり、1978年に掲げた年間200万台の目標を上回った。国内営業部門は続けて、1993年に250万台を売るK250計画を立てた。登録車市場が598万台に膨らんだ1990年には約250万4,000台を売り、計画を前倒しで達成した。1989年4月の消費税導入で物品税が廃止され、3ナンバー乗用車の税率は23%から6%へ下がった。この時期のトヨタは、90年代半ばに国内300万台・海外300万台の計600万台に達することを長期目標に置いていた。顧客の求める車をすぐに届ける方針のもとで、車種とオプションの数も増え続けた。台数の目標を上へ書き換えるたびに、品ぞろえの幅も広げていったと推察される。
1991年6月期の売上高は8兆5,640億円と7.1%増えたが、営業利益は37.1%減少して3,387億円となった。売上高原価率は87.9%と3.25ポイント上がり、研究開発費650億円、為替差損600億円、人件費480億円の増加が重なった。単独の経常利益は1990年6月期の7,338億円から、1994年6月期には2,140億円まで減った。トヨタは1992年5月に第1次中長期収益対策プロジェクトを発足させ、商品ラインアップの再構築、直材費の低減、設備投資の適正化を課題に据えた。1993年の第2次対策では1996年の世界販売を460万〜520万台の幅で置き、下振れしても採算の取れる体質を目指した。1995年3月期に経常利益は5期ぶりの増益へ転じた。
1991年時点のトヨタは約160の国・地域で車を売り、22の国・地域に生産拠点を持っていた。1992年1月に7項目からなるトヨタ基本理念を制定し、同年9月には豊田達郎氏が社長に就任した。1995年8月に社長となった奥田碩氏は旧トヨタ自動車販売の経理部に24年在籍し、マニラ駐在時代に現地生産の立ち上げに携わっていた。奥田氏は1996年1月、トヨタ2005年ビジョンを全社に発表した。国内生産は1990年の421万2,373台から、1995年には317万1,277台へ減った。海外生産は同じ5年間に92万7,175台から152万2,653台へ増えた。増える需要を海外の工場が受け止めるよう、生産の配分が移ったとみられる。
2000年7月、トヨタは主要部品の原価を30%下げて世界最安値を狙うCCC21に着手した。技術・生産技術・調達・仕入先の4者が、部品の機能と品質を車の価格目標から逆算して見直す活動だった。2003年3月期のコスト削減効果は2,900億円に上った。同じ期の連結販売台数は611万台と初めて600万台を超え、うち389万台が海外での販売だった。会長の奥田碩氏は2003年7月、中国・インド・中東欧・ロシアを、これから本格的なモータリゼーションを迎える潜在市場と位置づけた。2002年4月に掲げた2010年グローバルビジョンは、原価を先に下げ、そのうえで海外の需要を獲得する順序で組まれていたと読める。
2001〜06年にはフランス・中国・チェコ・米国で車両工場が相次いで動き出し、年産20万台規模の工場を毎年2〜3カ所ずつ新設した。2004年3月期には第一汽車との協業で中国事業を本格的に始め、カナダでは海外で初めてレクサスの生産に入った。2005年3月期にはタイやアルゼンチンなど7カ国でIMVシリーズの生産が始まり、中国では広州汽車とも車両の生産・販売会社を設けた。同期の連結ベースの世界総販売台数は740万8千台に達した。海外生産台数は2000年の195万6,574台から、2005年には367万2,371台へ増えた。5年間の増加は171万台余りで、1985年の30万8,125台から2000年までの15年間に積み上げた分を上回った。
2007年、トヨタ単体の海外生産は初めて国内生産を上回り、海外の生産拠点は27カ国・地域の53事業体を数えた。一方で2004年半ばから原油や鋼材、貴金属の価格が上がった。原価改善の効果は2002〜03年度の年3,000億円規模から、2006年度には1,000億円まで縮んだ。2008年3月期の連結車両販売台数は891万4千台に達したが、営業利益の伸びは1.4%にとどまった。最大の収益源だった北米は同期の第4四半期に営業赤字となり、所在地別営業利益に占める比率は57%から36%へ下がった。決算とともに示した2009年3月期の見通しは営業利益29.5%減の1兆6,000億円だったが、その後の金融危機で3度にわたり引き下げた。
2009年3月期の営業損失4,610億円は、台数の拡大がそのまま利益にならなくなった構造を示した。豊田章男氏の体制は、その反省を台数の目標ではなく損益の下限として書き直している。2011年のグローバルビジョンが求めたのは、1ドル85円・販売750万台でも営業利益1兆円を残す体質だった。掲げたのは成長の旗ではなく、耐久力の基準である。米国のリコールに東日本大震災とタイの洪水が重なった2012年3月期は3,556億円で、この下限にも届いていない。ところが2013年3月期に1兆3,208億円で下限を越え、翌期には2兆2,921億円と金融危機の前の水準を上回った。下限を先に固めた順序が、次の10年の投資の元手になった。
2009年3月期、トヨタの連結営業損益は4,610億円の赤字となった。赤字が避けられない情勢のなか、トヨタは同年1月20日に副社長の豊田章男氏を社長に昇格させる人事を発表し、社長の渡辺捷昭氏は副会長に回った。会長の張富士夫氏は、激動期こそ創業の原点に立ち返って大胆な改革を進める必要があるとして、この起用を説明した。新体制は6月下旬の株主総会の後に正式に発足している。同じ年には米国のゼネラル・モーターズとクライスラーが法的な再建手続きに入った。豊田氏は内定の記者会見で、『あえて言えば、現場に一番近い社長でありたい』と自らの社長像を示した。続く2010年3月期の営業利益は1,475億円と黒字化したが、2008年3月期の2兆2,703億円に比べれば1割に達しない水準だった。
2009年11月、トヨタは北米でフロアマットに関するセーフティ・キャンペーンを実施した。2010年1月にはアクセルペダル、2月にはプリウスなどの制動装置でリコールを決めている。2月には豊田社長が米下院の公聴会で証言し、同じ月に連邦検察官と米国証券取引委員会から召喚状を受け取った。トヨタは3月30日に社長を委員長とするグローバル品質特別委員会の初会合を開催し、品質の基準に法令の順守だけでなく顧客の不安を解く視点を加えた。米国では安全に関わる申し出に原則24時間以内に技術者が接触するSMART隊が動き出した。情報を集めるサービス技術分室は北米で1カ所から7カ所に増え、中国にも6カ所が置かれた。米国政府との刑事面の決着は2014年3月の起訴猶予契約で、支払額は12億米ドルに上った。
2011年3月9日、豊田社長はトヨタグローバルビジョンを発表した。赤字転落と品質問題の反省から、世界30万人の従業員が共有する価値観を英語を原文として成文化したものだった。数値目標は2015年までの中期方針で、1ドル85円・1ユーロ110円、トヨタ・レクサス750万台の販売を前提に置いた。そのうえで営業利益率5%、額にして1兆円程度を確保するとした。世界販売に占める日米欧と新興国の比率を、2010年の6対4から均衡へ移すことも掲げた。あわせて取締役を27人から11人に、役員総数を77人から60人に減らした。意思決定も副社長・本部長・組織担当役員の3階層を、副社長と本部長の2階層へ縮め始めた。拡大の目標ではなく、円高と需要減でも利益を残す下限を定めた計画だった。
発表の2日後に東日本大震災が起き、トヨタは3月14日から国内の自社と車体メーカーの全工場の操業を止めた。宮城ではセントラル自動車の新工場が同年1月に稼働したばかりだった。東北の車両工場の損壊は一部にとどまったものの、部品供給網の寸断で国内生産は混乱した。10月にはタイの洪水で現地の部品企業が止まり、影響はアジア各国と日本・北米・南アフリカの工場に及んで、世界で26万台の生産機会を失った。そのさなかの2011年7月、トヨタは関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北の3社統合で基本合意した。2012年7月に発足したトヨタ自動車東日本は、東北を愛知・九州に次ぐ国内第3の拠点とし、小型車を一貫して生産する会社として組み立てられた。
2012年3月期の営業利益は3,556億円にとどまった。翌2013年3月期は1兆3,208億円となり、グローバルビジョンが下限に置いた1兆円を上回った。2014年3月期には2兆2,921億円に達し、2008年3月期の2兆2,703億円を越えた。2015年3月期の有価証券報告書で、トヨタは木が年輪を重ねるように着実に成長するという方針を掲げ、品質の向上と人材の育成を先に置いた。2016年4月には組織を製品軸・地域軸・ヘッドオフィスの3つに組み直し、製品軸では企画から生産までを一貫させて意思決定を速めるとした。同じ期にはTNGAの第2弾としてC-HRを発売している。台数を先に積む拡大から、損益の下限を守りつつ車づくりの構造を変える順序へ移ったと読める。
2016年8月、トヨタは株式交換でダイハツ工業を完全子会社にした。2017年8月にはマツダと業務資本提携を結び、11月には米国で乗用車を共同生産する合弁契約に進んだ。2019年8月にスズキと資本提携し、9月にはSUBARUとの業務資本提携を広げた。部品では2018年6月に電子部品事業をデンソーへ集約することで基本合意し、2019年にはパナソニックと車載用角形電池の事業で手を結んだ。2020年にはNTT、2021年にはいすゞ自動車とも資本提携を結んでいる。豊田社長は2019年の年次報告書で、トヨタ単独、クルマ単体では生きていけないとして、強みを持ち寄る仲間づくりを掲げた。
電動化では、トヨタは2021年にBEVを2030年までに30車種そろえ、年間350万台を販売する目標を公表した。2023年1月には、14年続いた豊田章男氏の後任に技術者出身の佐藤恒治氏を充てる人事を発表し、豊田氏は会長に就任した。4月に社長に就任した佐藤氏は、2026年までにBEVを10モデル投入し、年150万台を販売する基準を示した。5月には次世代BEVの専任組織としてBEVファクトリーを設け、2030年までに約5兆円を投じる計画を公表した。6月の株主総会の後、取締役会は10人となり、社外取締役は3人から4人に増えた。2030年の350万台を据え置いたまま、2026年の基準を中間の足場に置いた計画である。
2022年3月、グループの日野自動車がエンジンの排出ガスと燃費の認証申請での不正を公表した。2023年4月にはダイハツ工業も、側面衝突試験の認証申請での不正を公表している。2024年5月には、トヨタ自身も7車種で国の基準と異なる方法の試験を行っていたと国土交通省に報告した。トヨタは6月、ダイハツの小型車事業をトヨタからの委託に改め、開発から認証までの責任を本体に引き取る体制変更を公表した。2025年3月期には日野の認証問題で2,811億円の損失を計上した。同年6月には豊田自動織機の非公開化でトヨタ不動産と基本契約を結び、7,060億円の優先株出資を決めた。2026年2月には、経理・財務畑の近健太氏を4月1日付で社長とする人事を発表した。
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|---|---|---|---|---|
| 1926〜1949年織機から自動車への事業転換 | 豊田自動織機製作所内で自動車研究を開始 | ★★ | ||
| トラックを発売 | ★ | |||
| 乗用車を発売 | ★ | |||
| 豊田利三郎 | 織機メーカーの自動車部を母体とした国産量産車の事業化 1937年8月27日、豊田自動織機製作所の自動車部が分離独立し、資本金1,200万円のトヨタ自動車工業株式会社が発足した。社長には豊田利三郎氏、副社長には自動車部を率いてきた豊田喜一郎氏が就任した。父・豊田佐吉氏が興した織機事業で得た資金と量産技術を土台に、米国製シボレーの分解調査から国産量産車へ挑んだ創業である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田利三郎 | 豊田製鋼を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 豊田工機を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | トヨタ車体工業を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 愛知工業を設立 | ★ | ||
| 豊田喜一郎 | 日本電装を設立 | ★ | ||
| 1950〜1966年工販分離のトヨタ自動車販売と元町工場、カローラと日野提携 | 豊田喜一郎 | トヨタ自動車販売を設立 | ★★ | |
| 石田退三 | トヨタ自動車販売を設立 | ★ | ||
| 石田退三 | 日本初の乗用車専門工場・量産体制への転換 1959年8月、トヨタ自動車工業が石田退三社長の主導で、旧東海飛行機挙母工場跡の約33万㎡に元町工場を稼働させた。第1期の所要資金は予算22億7,256万円に対し実績25億2,369万円。 日本の自動車工業が初めて建てた乗用車専門の量産工場で、月産5,000台の設備を、建屋だけは月産1万台に対応させて構えた。トラックを量の主体としてきた生産に、クラウンとニューコロナの専用ラインが加わった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 石田退三 | 豊田中央研究所を設立 | ★ | ||
| 中川不器男 | 大衆車市場を狙った高岡工場への集中投資と量産体制の構築 1966年、トヨタ自動車工業が月産10万台体制の第1陣として高岡工場を建設し、9月24日に新大衆乗用車カローラ(KE10型)の第1号車をラインオフさせた経営判断。第1期工事で月産2直定時1万6000台の能力を加え、10月20日にカローラを発表した。 元町工場と規模の並ぶ乗用車の量産専門工場をカローラの量産に充て、乗用車の競争の焦点を販売力から設備投資へと移した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中川不器男 | 日野自動車工業と業務提携 | ★★★ | ||
| 1967〜1981年ダイハツとの提携と排ガス規制・石油危機、対米輸出の拡大 | 豊田英二 | ダイハツ工業と業務提携 | ★ | |
| 1982〜2008年工販合併のトヨタ自動車とGMとの合弁、北米・欧州生産と奥田体制 | 豊田章一郎 | 32年におよぶ工販分離体制の終わり 1982年7月1日、生産を担うトヨタ自動車工業と販売を担うトヨタ自動車販売が合併し、自工を存続会社としてトヨタ自動車株式会社が発足した。合併比率は自工1に対し自販0.75、新株203,798千株を発行し、資本金は110,715百万円から120,905百万円になった。 1950年4月に自工が販売業務を移して自販を設立してから32年、両社の社員が同じ屋根の下で働くのは32年ぶりであった。合併直前の規模は自工が1982年6月期の売上高38,495億円、自販が1981年3月期の売上高35,902億円で、合併後は売上高4兆円、従業員5万4000人の規模になると見込まれた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 豊田章一郎 | トヨタモータークレジットを設立 | ★ | ||
| 豊田章一郎 | 世界最大手と手を組むことで得た米国現地生産への足がかり 1982年、対米輸出自主規制とローカルコンテント法案の圧力を受け、トヨタは世界最大の競合であるゼネラル・モーターズ(GM)と折半出資の合弁会社を米国に設立することで合意した。宿敵同士が、GMの遊休工場を舞台に手を組んだ経営判断である。 1984年2月、カリフォルニア州フリーモントにニュー ユナイテッド モーター マニュファクチャリング(略称NUMMI)を設立し、GMおよびNUMMIとの間で合弁事業に関する諸契約を締結する。対象は米国における乗用車の共同生産で、議決権の所有割合は50.00%、出資金は310,000千米ドル。トヨタは連結子会社ではなく持分法適用関連会社として、この工場を持った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章一郎 | 合弁に頼らず北米で単独現地生産へ踏み出す決断 1985年7月の臨時取締役会でトヨタが米国・カナダへの単独工場進出を決め、米国では2,000cc級乗用車を年産20万台規模で生産する工場を建設することとした経営判断。米国29州・カナダ8州のオファーからケンタッキー州ジョージタウン近郊を選び、1986年1月にトヨタ モーター マニュファクチャリング U.S.A.(TMM)を設立した。GMとの合弁NUMMIで得た手応えを踏まえ、逃げ場のない単独工場へ踏み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章一郎 | トヨタモーターマニュファクチャリング(UK)を設立 | ★ | ||
| 豊田章一郎 | トヨタ自動車九州を設立 | ★ | ||
| 奥田碩 | 販売網の刷新より販促費と海外生産の拡大に資金を配った4年 1995年8月25日、奥田碩副社長が社長に就任した。1967年の豊田英二氏の就任から28年ぶりの、豊田家に連なる家系ではない社長だった。旧トヨタ自動車販売の経理部に24年、フィリピン・マニラ駐在を経て財務・購買・国内営業・経営企画を歴任した経歴で、交代会見では『豊田家は尊重したい。ただし、将来の人事は公平であるべきだ』と、豊田家との間合いを自分の言葉で置いた。 国内の登録車シェアが1994年12月に11年ぶりで40%を割り、RVの流行に商品構成が追いつかないさなかの交代である。在任は2期4年で、1999年6月に会長へ移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 奥田碩 | ダイハツ工業を子会社化 | ★★ | ||
| 張富士夫 | 張富士夫氏が社長に就任 | ★ | ||
| 張富士夫 | 日野自動車を子会社化 | ★★ | ||
| 張富士夫 | 市場予測の積み上げではない世界シェア15%を旗印に据えた、海外生産能力の先行拡大 2001年のトヨタ自動車の世界シェアは10%で、同社はこれを5割増しの15%とする目標を2002年4月の「2010年グローバルビジョン」に書き込み、達成の時期を2010年代の早い段階とした。社会への貢献で信頼を得ることも、このビジョンのもう一つの柱に据えられた。 売上高16兆542億円、当期純利益9,446億円。発表をはさむ2003年3月期の連結の数字で、どちらも過去最高である。リース用車両を除く設備投資も9,935億円に達していた。 詳細を読む | |||
| 渡辺捷昭 | 渡辺捷昭氏が社長に就任 | ★ | ||
| 渡辺捷昭 | 富士重工業と業務提携 | ★ | ||
| 2009〜2026年初の営業赤字と豊田章男体制、大規模リコールからの立て直しと資本提携網 | 渡辺捷昭 | 初の営業赤字・純損失を計上 | ★★ | |
| 豊田章男 | 豊田章男氏が社長に就任 | ★ | ||
| 豊田章男 | 市場処置費用の見積り方まで変えた品質保証体制の組み替え 北米では2009年11月、フロアマット問題でセーフティ・キャンペーンに踏み切った。2010年1月にアクセルペダルの不具合で北米・欧州・中国等のリコールを決め、2月には日本・北米・欧州等でプリウスなどの制動装置も対象にした。同じ2月、豊田章男社長が米下院の公聴会に出席した。3月30日には、社長自身が委員長を務めるグローバル品質特別委員会が最初の会合を持った。 費用の見積もり方も変えた。将来のリコール等の市場処置の費用は、それまで個別に見積もっていたが、2010年3月期の第4四半期からは過去の発生状況に基づき、製品を売った時点で包括的に見積もる方法も併せて使う。これで繰入額は105,698百万円増えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章男 | 他社との統合ではない完全子会社3社の1社への統合と、東北の国内第3の生産拠点化 2011年7月13日、トヨタ自動車が、東北に生産拠点を開設する系列子会社の関東自動車工業・セントラル自動車・トヨタ自動車東北の3社を統合し、関東自動車工業を存続会社として2012年7月1日にトヨタ自動車東日本を発足させると発表した経営判断。豊田章男社長のもとで進められた。 統合に先立つ2012年1月1日には、関東自動車工業の普通株式1株にトヨタの普通株式0.25株を割り当てる簡易株式交換を実施し、議決権比率を50.83%から100.00%へ引き上げている。他社との対等統合ではなく、完全子会社どうしを1社に統合する共通支配下の再編であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 豊田章男 | スズキと業務提携に向けた覚書を締結 | ★ | ||
| 豊田章男 | マツダと資本業務提携 | ★★ | ||
| 豊田章男 | SUBARUと資本業務提携を拡大 | ★ | ||
| 豊田章男 | パナソニックとの合弁でプライムプラネットエナジー&ソリューションズを設立 | ★★ | ||
| 豊田章男 | いすゞ自動車と資本提携 | ★ | ||
| 佐藤恒治 | 14年続いた豊田章男氏体制の非創業家の技術者への引き継ぎと、BEVの台数目標の積み増し 2023年1月26日、執行役員でChief Branding Officerの佐藤恒治氏(53)を4月付で社長・Chief Executive Officerに充てる人事を発表した。2009年6月から14年にわたり社長を務めた豊田章男氏は代表権のある取締役会長へ移り、豊田家出身者から非創業家の社長へトップが引き継がれた。 6月14日の定時株主総会で佐藤氏は取締役に選ばれ、取締役会は10名(うち社外取締役4名)、副社長2名・執行役員5名の体制となった。取締役の任期は1年である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 佐藤恒治 | グループ3社の不正を受けた開発・認証体制の引き取り 2023年4月28日、ダイハツ工業が海外向け車両の側面衝突試験の認証申請における不正行為を公表した。2022年3月の日野自動車、続く豊田自動織機と合わせ、グループ3社で認証不正が重なった。2024年1月26日の国土交通省からの指示に基づく調査では、2014年以降、生産を終了した車種を含む7車種で国が定めた基準と異なる方法の試験が判明し、5月31日に報告している。 3社の不正に共通する真因を「経営と現場の乖離」と受け止め、小型車事業の開発から認証までを引き取る体制へ変えた。 詳細を読む | |||
| 佐藤恒治 | 就任3年での社長交代と財務出身トップの起用 2026年2月6日、同年4月1日付で社長の佐藤恒治氏が副会長および新設するChief Industry Officer(CIO)に、執行役員の近健太氏が社長・Chief Executive Officer(CEO)に就任することを発表した。役員人事案策定会議から提案を受けたことをきっかけに、経営課題を踏まえて最適な体制を検討し、役割変更について取締役会を開催して決議している。 近健太氏は経理・財務に明るく、直近ではウーブン・バイ・トヨタのCFOとして外からトヨタを見て、機能を超えた社内の改革を推進してきた。2023年4月に就任した佐藤恒治氏の社長在任は3年で、2026年6月17日の第122回定時株主総会の日付で取締役からも退いた。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(トヨタ自動車)