HOYA の歴史

創業者:山中正一 | 創業:1941年

1957年 鈴木哲夫が社長就任(当時32歳)

波乱万丈の町工場(倒産寸前→再建→4年で上場→社長解任→社長復帰)

HOYAの歴史は、1941年に山中正一が東京保谷(西東京市)に東洋光学ガラス製造所を創業したことに始まる。1947年には保谷クリスタルガラス製造所に会社名を変更し、小さな町工場でコップなどのクリスタルガラスを製造した。だが、徐々に経営状態が悪化し、1957年には創業者の山中正一が資金繰りの苦労を発端とする病気で急逝したため、山中氏の娘婿であった鈴木哲夫(当時32歳・技師長)が、急遽HOYAの社長に就任した。

鈴木哲夫は、東京工業大学を卒業後にHOYAの技師として同社でキャリアを積んできやが、経営経験が全くない状態でHOYAの経営にあたった。そこで、鈴木哲夫は町工場であったHOYAを発展させるために、1960年に東京昭島に大規模なクリスタル量産工場を新設。これが当たり、社長就任からわずか4年目の1961年にHOYAは株式上場を果たした。また、鈴木哲夫は近代的な経営を学ぶために、積極的に経営学の知識を吸収し、販売の近代化を試みる。そして、メガネレンズの直販体制の構築(問屋排除)を開始し、HOYAは製造技術だけではなく、販売も手がける会社となった。

だが、HOYAは眼鏡レンズの直販網の構築で、想定の6倍の投資がかかったため、1966年3月期に売上高42億円・最終赤字7億円(資本金6億円)を計上して無配に転落した。このため、鈴木哲夫は、株主である銀行から経営責任を問われて社長を解任され、1967年には相談役に降格されてしまう。事実上の最後通牒であったが、鈴木哲夫は自らの実行した直販網への投資は正しいと信じ、会社を辞めずにHOYAにとどまった。この間、鈴木哲夫は会社で居場所がなくなり、自らスカウトした人間に裏切られるという、辛い経験をしているが、会社の中で味方になる人物を増やす政治工作に余念がなかった。

そして、1960年代後半にHOYAは眼鏡レンズ事業における直販網の投資効果が徐々に現れ始め、販売店から直接販売情報を獲得する体制が整ったことで、ニコンなどの老舗企業を抑えることに成功した。そして、鈴木哲夫は極秘でHOYA株式を買い集め、1970年2月に株主として当時の社長を解任し、自らが社長に復帰した。以降、HOYAは1993年に鈴木哲夫が社長を退くまで、同氏のトップダウンによって経営された。このため、鈴木哲夫はHOYAの「実質創業者」ないし「中興の祖」とも呼ばれている。

文責: 杉浦泰(社史研究家) - 2020/5/23執筆

鈴木哲夫(HOYA社長)

(筆者注:1966年に社長を解任された時に)私がスカウトして集めた人間が急に、手のひらを返したような態度をとるんです。それはあからさまでしたね。たまに本社に行くと、「何をしにきた」という態度なんですから、面白くないですよ。何だコノヤローって感じでしたね。

1986/7/21日経ビジネス「HOYA鈴木哲夫」

1974年 半導体用マスクサブストレートに参入

「小さな池の大きな魚」を提唱。半導体向け光学マスクで高収益+高成長へ

1970年代のHOYAの主力事業は、祖業であるクリスタルガラスと、販売網を整備したメガネレンズの2本柱であったが、いずれも高成長が難しい成熟製品だった。そこで、鈴木哲夫(HOYA社長)はHOYAをさらに発展させるために「小さな池の大きな魚」という方針を掲げ、市場が小さい領域で、シェアトップ(50%以上)を確保することで利益率を高めることを目論む。なお、技術的には光学製品を扱う分野に限り、新事業の範囲を制限している。

1970年代から1980年代にかけて、HOYAが当てた最も重要な製品が半導体の設計に必須となる「マスクブランクス」である。半導体向けの光学製品という強みが加わり、HOYAは1980年の時点で44億円だった電子事業の売上高を、1984年には154億円へと大幅に引き上げた。1980年代の半導体業界の急成長に合わせて、HOYAは半導体向けの「マスクブランクス」という大型成長製品を当てたとこで、会社として発展するドライバーを確保した。

なお、1987年の時点でHOYAの主力製品は、眼鏡レンズがシェア36%、クリスタル食器がシェア65%、光学レンズがシェア60%、マスクブランクスが世界シェア75%を確保しており、小さい市場でもトップシェアの製品を数多く抱える事業構成を達成した。この結果、1990年3月期のHOYAは売上高1233億円に対し、営業利益154億円を確保し、営業利益率12.5%という日本の製造業では異例の高い水準を維持した。

1990年代以降、現在に至るまで、HOYAは光学製品での高シェアを維持した状態で、グローバル経営を推し進めている。製造面ではアジアにおける生産移管、経営面では海外投資家の評価を得るためにガバナンス改革を積極的に推進し、1990年代後半には、HOYAの経営体制は日本企業の中でも特に進んでいるものとして注目されたこともある。このため、HOYAは日本企業では珍しく、高収益、先進的なガバナンスという要素を満たしているため、海外の機関投資家からの注目度が高い会社の一つでもある。

文責: 杉浦泰(社史研究家) - 2020/5/23執筆

鈴木哲夫(HOYA社長)

自分たちの独自技術で創り出す市場ならば競争相手も、最初のうちはほとんどいない。ここで50%以上のトップシェアを奪えれば価格決定権を握ることもできる。小さな市場とはいっても数100億円に成長するのは間違いない。これで私たちの場合は会社の収益には十分貢献するのです...(中略)...小さな池の大きな魚になる

1987/10/12日経ビジネス「「小さな池の大きな魚」HOYA」