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日本マクドナルドの歴史

1971年
創業経緯

米国本社との交渉を経て日本マクドナルドを設立

日本マクドナルドは、米国で創業したマクドナルドの日本法人にあたる外資企業だが、極めて日本的な経営によって業容を拡大してきた歴史がある。外資のマクドナルドが日本に根付くきっかけが、1971年に輸入雑貨を扱う藤田商店の経営者であった藤田田(ふじた・でん)が、米国のマクドナルドの業務システムに感銘を受け、日本で展開したいと懇願したことに始まる。米国マクドナルドとしては無名の藤田商店ではなく、ダイエーなどの大手企業との合弁会社の設立を模索するが、ハンバーガーという未知なる製品に興味のある企業は少なく、交渉はうまく進まなかった。

このため、マクドナルドの日本進出の交渉では中小企業の経営者である藤田田にとって有利な状況で進み、売上高に対する本社へのロイヤリティーに関しても、藤田は「提示された5%ならやらない。1%なら合弁する」「10年、15年の契約じゃダメだ。30年契約なら合弁する」という主張をして米国本社に認めさせることに成功している。

この合弁交渉を経て、1971年に藤田田は米国マクドナル本社との折半出資により日本マクドナルドを設立した。この出資方針が、日本でマクドナルドが独立して意思決定をする重要な布石となった。

1972年
意思決定

東京銀座三越にマクドナルド日本1号店を開業

1971年に日本マクドナルドは東京銀座に1号店を出店してメディアなどを通じて話題を作り上げた。

藤田田
藤田田
(日本マクドナルド創業者)

私は舶来品を長く扱ってきましたからね。日本だけでなくどこの国でも、舶来品ってのは、国民にいちばん知ってもらいやすい場所で売らなければいけない。マクドナルドのハンバーガーも、舶来品ですよ。たとえば、北海道や九州から舶来品を売り出しても成功するはずはない。

なぜかと言えば、舶来品は一つの文化なんです。昔、唐の文化が京都へ伝わり、そこから全国へ広がったように今は東京が文化の中心です。東京でも銀座が中心です。だから、第1号店も当然、銀座からスタートしたわけです。米国では郊外からスタートして成功しましたが、日本ではそうはいかない。やはり外国製品ですからね。これはマクドナルドに限らず、すべての舶来商品に共通する点だと思います。

1970年代
意思決定

品質・サービス・清潔さを重視する方針で店舗を運営

日本マクドナルドは多店舗展開にあたって、どこの店でも同じようなサービス・品質・清潔さを提供するための切り札として、マニュアルを重視した。

それまでの日本の外食産業が経験したことのない規模でのチェーン展開が可能になったの要因が、米国のマクドナルド社から導入した店員教育に関するマニュアルであった。従来の飲食産業は徒弟制度の色が濃かったが、日本マクドナルドでは必要となるスキルをマニュアル化することで、経験年数の少ないひとでも店員や店長として必要な業務を短期間に習得する組織を作り上げ、日本マクドナルドの急成長の原動力となった。

藤田田
藤田田
(日本マクドナルド創業者)

私は実はきつねうどんや御飯が大好きで、ハンバーガーなんか食べるほうじゃないんです。当時、米国にしょっちゅうい行っていまして、米国マクドナルドが急速に伸びつつあった。なぜのびているのかいろいろ研究してみると、伸びている理由はマクドナルドの基本ポリシーである「QSC」なんですね。確かに日本にはないものでした。QSCはクオリティ(品質)、サービス、クリーンリィネス(清潔)の略でマクドナルド設立者のクロックさんが開発したものです。で、クロックさんいわく。いい材料を使っていいものを作るのは誰でも出来る。普通の材料で世界一の味を出すのが難しい。

そこで、コンピューターを駆使してシステム化することで世界一の味が可能になるんだという。挽き肉という安い肉を使ってうまいハンバーガーを作れるのは、システムがあるからなんですね。したがってこのシステムを日本に持っていけば成功するだろうと思いましたね。...(中略)...マクドナルドはハンバーガーを売っているように見えているんですが、実はこのシステムを売っているんです。

1988/11/7日経ビジネス「藤田田・編集長インタビュー」
1977年
業績好調

設立6年目で100店舗を突破

1970年代を通じて急速な店舗出店を進め、設立6年目の1977年に日本マクドナルドは店舗数127店、売上高225億円、税引き後利益約15億円を記録して驚異的な成長スピードを達成した。

1970年代の日本マクドナルドは話題作りのために銀座などの一等地に出店したが、1980年代は郊外道路網の普及に合わせて郊外店を充実し、1991年には外食チェーンでは日本で初めて売上高2000億円を突破した。1990年代後半からは都心部駅前への集中出店を行い、バブル崩壊後の不況という世相に合わせて、100円以下の格安ハンバーガーを販売することで集客力を強化した。

この間、日本マクドナルドは藤田田社長のカリスマ性に基づいた企業組織が構築され、マクドナルドの優秀な社員はのれんわけという形で「将来、1〜2店を保有できる」という目標がモチベーションとなり、日本マクドナルドの急成長を支えていた。

2003年
資本政策

資本政策の転換により藤田家が経営権を失う

2000年から2004年にかけて日本マクドナルドは店舗の老朽化によるサービスの低下などの問題に苛まれるようになり、2003年には藤田田社長が高齢のために日本マクドナルドの所有権を手放すなど、日本マクドナルドはマネジメントと現場で大きな変化に直面した。このため、2000年から2004年にかけて日本マクドナルドの収益性が低迷し、2003年には最終赤字に転落する。

そこで、経営再建のために米国マクドナルド本社は日本マクドナルドの株式を取得して、藤田家による経営をストップさせた。そして、2004年にApple日本法人の社長を歴任した原田泳幸氏が日本マクドナルドHDの社長に就任し、日本マクドナルドの経営は藤田家ではなく、原田氏が担う形となり、大株主の米国マクドナルドの本社の意向が働くようになった。

2005年
意思決定

直営店を売却してフランチャイズに移行

2000年代を通じて日本マクドナルドは直営店の積極出店による不採算店舗の増大や、開業から重数年を経た店舗の老朽化が問題として露呈しつつあった。そこで、原田泳幸はQ(クオリティ)、S(サービス)、C(クリーン)を徹底する方針を打ち出し、マクドナルドの店長の意識改革を実施してサービスの向上を試みたうえで、集客力を取り戻すために新商品の開発や店舗リニューアルのための投資を実施した。

2006年ごろから日本マクドナルドは、店舗投資と商品開発という役割を分担するために、従来の直営店中心の方針を撤回してフランチャイズ店への転換を積極的に推し進め、2010年には直営店比率を50%以上に高めた。直営店のフランチャイズ化によって、日本マクドナルドは店舗という不動産および設備の売却益を計上する形となり、不動産業者としても収益性を確保して「原田マジック」とも評された。

2015年
業績悪化

業績悪化により米国マクドナルド本社が日本マクドナルドの株式売却を模索

2011年頃にはフランチャイズ化が一段落したために店舗売却益という不動産の収益源を失い、フランチャイズ店としても積極的な店舗投資に億劫となったことから「清潔性や接客」といったサービスの品質が低下した。2013年から2014年にかけて日本マクドナルドは2期連続の減収減益という厳しい状況にさらされる。

また、2014年7月に日本マクドナルドでは、店舗で供給するチキンマックナゲットの鶏肉について、調達先である中国の食品加工会社が使用期限を過ぎた鶏肉を供給したことを明らかにし、マクドナルドへの信頼が傷つく非常事態となった。

この結果、マクドナルドの米国本社も日本マクドナルドHDの株式の売却方針を示すなど、日本マクドナルドの経営は危機的な状況に陥る。

2020年
業績好調

店舗投資とマーケティングの改善により業績回復へ

日本マクドナルドは集客力を復元するために、2016年度には約130億円を投じて国内店舗のリニューアルを実施するとともに、従業員12万人に対するトレーニングを行うことで、清潔さとサービスの両面でイメージの改善を図った。

また、2016年にはマーケティング本部にP&G出身の足立光氏がマーケティングプランを作成し、(1)ツィッターを使う若者世代に訴求するために食品包装デザインの刷新、(2)各種キャンペーンを毎週入れ替えて実施(例:怪盗ナゲッツ親子キャンペーンなど)、(3)テレビ広告を活用してマスを取り込む、という方針により、マクドナルドに対するイメージが徐々に向上した。

これらの施策が功を奏し、2016年以降の日本マクドナルドに客足が戻り、利益率のV字回復を成し遂げた。

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