日本マクドナルド の歴史

1971年日本マクドナルド設立 | 創業者:藤田田(日本マクドナルド・創業者)

設立

1971

日本マクドナルド設立

事業内容 (セグメント)日本マクドナルド

2019年12月期[連結]

日本マクドナルド - 有価証券報告書・各種報道


歴史と沿革

藤田田(日本マクドナルド・創業者)

藤田田(日本マクドナルド・創業者)

【略歴】 藤田田(日本マクドナルド・創業者)

  • 1925年 大阪市・生まれ
  • 1900年 東京大学法学部・卒業
  • 1900年 藤田商店・設立(高級雑貨輸入)
  • 1971年 日本マクドナルド設立
  • 2003年 逝去
  • 藤田田(日本マクドナルド・創業者)

    私は舶来品を長く扱ってきましたからね。日本だけでなくどこの国でも、舶来品ってのは、国民にいちばん知ってもらいやすい場所で売らなければいけない。マクドナルドのハンバーガーも、舶来品ですよ。たとえば、北海道や九州から舶来品を売り出しても成功するはずはない。なぜかと言えば、舶来品は一つの文化なんです。昔、唐の文化が京都へ伝わり、そこから全国へ広がったように今は東京が文化の中心です。東京でも銀座が中心です。だから、第1号店も当然、銀座からスタートしたわけです。米国では郊外からスタートして成功しましたが、日本ではそうはいかない。やはり外国製品ですからね。これはマクドナルドに限らず、すべての舶来商品に共通する点だと思います。

    1978/1/16日経ビジネス「藤田田・編集長インタビュー」

    【創業】マクドナルドと交渉

    日本マクドナルドは、米国で創業したマクドナルドの日本法人にあたる外資企業だが、極めて日本的な経営によって業容を拡大してきた歴史がある。外資のマクドナルドが日本に根付くきっかけが、1971年に輸入雑貨を扱う藤田商店の経営者であった藤田田(ふじた・でん)が、米国のマクドナルドの業務システムに感銘を受け、日本で展開したいと懇願したことに始まる。米国マクドナルドとしては無名の藤田商店ではなく、ダイエーなどの大手企業との合弁会社の設立を模索するが、ハンバーガーという未知なる製品に興味のある企業は少なく、交渉はうまく進まなかった。このため、マクドナルドの日本進出の交渉では中小企業の経営者である藤田田にとって有利な状況で進み、売上高に対する本社へのロイヤリティーに関しても、藤田は「提示された5%ならやらない。1%なら合弁する」「10年、15年の契約じゃダメだ。30年契約なら合弁する」という主張をして米国本社に認めさせることに成功している。なお、藤田田は従来の輸入雑貨におけるビジネスの知識を活かして、米国では「マクダーナルズ」と呼ばれていた名称を「マクドナルド」という日本風にアレンジすることを決めるなど、日本人に受け入れられやすいマーケティング戦略を練っている。

    【成長】直営店方式で発展

    1971年に藤田田は米国マクドナル本社との折半出資により日本マクドナルドを設立し、1971年7月に三越の銀座店にマクドナルド日本1号店を開業してハンバーガーチェーン事業に参入した。1970年代の日本マクドナルドは話題作りのために銀座などの一等地に出店したが、1980年代は郊外道路網の普及に合わせて郊外店を充実し、1991年には外食チェーンでは日本で初めて売上高2000億円を突破した。1990年代後半からは都心部駅前への集中出店を行い、バブル崩壊後の不況という世相に合わせて、100円以下の格安ハンバーガーを販売することで集客力を強化した。この間、日本マクドナルドは藤田田社長のカリスマ性に基づいた企業組織が構築され、マクドナルドの優秀な社員はのれんわけという形で「将来、1〜2店を保有できる」という目標がモチベーションとなり、日本マクドナルドの急成長を支えていた。だが、2000年から2004年にかけて日本マクドナルドは店舗の老朽化によるサービスの低下などの問題に苛まれるようになり、2003年には藤田田社長が高齢のために日本マクドナルドの所有権を手放すなど、日本マクドナルドはマネジメントと現場で大きな変化に直面した。このため、2000年から2004年にかけて日本マクドナルドの収益性が低迷し、2003年には最終赤字に転落する。

    【改革】直営からフランチャイズ方式に転換

    2004年にApple日本法人の社長を歴任した原田泳幸氏が日本マクドナルドHDの社長に就任し、日本マクドナルドの経営は藤田家ではなく、大株主の米国マクドナルドの本社の意向が働くようになった。2000年代を通じて日本マクドナルドは直営店の積極出店による不採算店舗の増大や、開業から重数年を経た店舗の老朽化が問題として露呈しつつあった。そこで、原田泳幸はQ(クオリティ)、S(サービス)、C(クリーン)を徹底する方針を打ち出し、マクドナルドの店長の意識改革を実施してサービスの向上を試みたうえで、集客力を取り戻すために新商品の開発や店舗リニューアルのための投資を実施した。さらに201x年に日本マクドナルドは業績が好調にも関わらず、採算の取れない店舗の閉鎖を決断して収益性の改善に乗り出す。この結果として、2005年から2010年にかけて日本マクドナルドは増収増益を達成した。また、2006年ごろから日本マクドナルドは、店舗投資と商品開発という役割を分担するために、従来の直営店中心の方針を撤回してフランチャイズ店への転換を積極的に推し進め、2010年には直営店比率を50%以上に高めた。直営店のフランチャイズ化によって、日本マクドナルドは店舗という不動産および設備の売却益を計上する形となり、不動産業者としても収益性を確保して「原田マジック」とも評された。だが、2011年頃にはフランチャイズ化が一段落したために店舗売却益という不動産の収益源を失い、フランチャイズ店としても積極的な店舗投資に億劫となったことから「清潔性や接客」といったサービスの品質が低下した。2013年から2014年にかけて日本マクドナルドは2期連続の減収減益という厳しい状況にさらされる。

    【浮上】チキン事件をSNS活用で克服

    2013年に原田泳幸が日本マクドナルドの代表取締役会長を退任し、後任の社長には米マクドナルド本社出身のレイ・L・カサノバが日本マクドナルドの社長に就任した。その直後に仕入れ先である中国の食品加工業者が使用期限を過ぎた鶏肉をチキンナゲットの原料として納入していたことが発覚し、マクドナルドは消費者の信頼を裏切る形となった。この不祥事により2015年に日本マクドナルドは35億円の最終赤字に転落し、米国のマクドナルド本社も日本法人は業績回復の見込みがないとして株式の売却を検討した。だが、日本マクドナルドは、店舗改装投資による清潔性の向上、クルー13万人に対する教育の強化、そしてツィッターでの拡散を促すためのマーケティング展開により2016年以降に業績を好転させてV字回復を成し遂げた。2020年にはコロナウイルスによる外食産業の需要縮小に見舞われたが、日本マクドナルドはウーバーなどによるテイクアウトにより客単価を維持しており、不況下の好業績企業として注目が集まった。

    売上高

    2817 億円

    2019年12月期[連結]

    売上高 (億円) - 日本マクドナルド

    12月期決算[一部推定]

    日本マクドナルド - 有価証券報告書・各種報道


    経営戦略

    1990年

    藤田田(日本マクドナルド・創業者)

    私が当初、マクドナルドにいちばん興味を持ったのも、そこでした。10年に米国マクドナルドを初めて見た時、若い店長が大勢のスタッフを使っているのに感心しましてね。日本ではどうしたって、40歳以上の経験者にならんと、うまく部下は使いこなせない、という考え方がある。米国のハンバーガー大学に入学して、スタッフを使うための立派なマニュアルがあるのを知った。日本じゃ、長い間経験を積んで自然に覚えることが、みごとにマニュアル化されているんです。このマニュアルを強化すれば、日本だって入社2〜3年の若手を立派に戦力にできるはず。すし屋の職人でも、10年経験を積まないと1人前になれないと言う。こんなに時間がかかるのも、日本にはマニュアルがないからで、すべて初めから自分なりのマニュアルを作っていかなければならないせいなんです。...(中略)...この世界的に通用するマニュアルがなければ、1000億円産業なんてとても無理だと思います。

    1978/1/16日経ビジネス「藤田田・編集長インタビュー」

    【解説】教育マニュアルで高速出店

    1971年に日本マクドナルドは東京銀座に1号店を出店してメディアなどを通じて話題を作り上げる、1970年代を通じて急速な店舗出店を進め、設立6年目の1977年に日本マクドナルドは店舗数127店、売上高225億円、税引き後利益約15億円を記録して驚異的な成長スピードを達成した。以降、2000年代前半までに日本マクドナルドは日本全国に出店を続け、2018年時点では全国に約2800店舗を展開しており、日本有数の外食チェーン企業へと発展した。数千店舗という、それまでの日本の外食産業が経験したことのない規模でのチェーン展開が可能になった一つの要因が、米国のマクドナルド社から導入した店員教育に関するマニュアルであった。従来の飲食産業は徒弟制度の色が濃かったが、日本マクドナルドでは必要となるスキルをマニュアル化することで、経験年数の少ないひとでも店員や店長として必要な業務を短期間に習得する組織を作り上げ、日本マクドナルドの急成長の原動力となった。日本マクドナルドは、創業から現在に至るまで一貫して店員教育に対して膨大な投資を行っており、現場の士気が向上すれば業績が好転し、逆に現場の士気が下落すれば業績が悪化するという、現場マネジメントによって業績が左右されるビジネスを営んでいる。

    藤田田(日本マクドナルド・創業者)

    私は実はきつねうどんや御飯が大好きで、ハンバーガーなんか食べるほうじゃないんです。当時、米国にしょっちゅうい行っていまして、米国マクドナルドが急速に伸びつつあった。なぜのびているのかいろいろ研究してみると、伸びている理由はマクドナルドの基本ポリシーである「QSC」なんですね。確かに日本にはないものでした。QSCはクオリティ(品質)、サービス、クリーンリィネス(清潔)の略でマクドナルド設立者のクロックさんが開発したものです。で、クロックさんいわく。いい材料を使っていいものを作るのは誰でも出来る。普通の材料で世界一の味を出すのが難しい。そこで、コンピューターを駆使してシステム化することで世界一の味が可能になるんだという。挽き肉という安い肉を使ってうまいハンバーガーを作れるのは、システムがあるからなんですね。したがってこのシステムを日本に持っていけば成功するだろうと思いましたね。...(中略)...マクドナルドはハンバーガーを売っているように見えているんですが、実はこのシステムを売っているんです。

    1988/11/7日経ビジネス「藤田田・編集長インタビュー」

    2014年 信頼回復に注力

    サラL.カサノバ(日本マクドナルド社長)

    お客様との関係を再構築するための新プランを作りました。信頼を失っていた食の品質と安全の部分を強化するためです。クオリティ(Q)、サービス(S)、クレンリネス(清潔さ、C)の「QSC」は創業者のレイ・ロックが大切にしていた、いわばマクドナルドの「憲法」です。そこに立ち返るために、当時約12万人いたすべての従業員のトレーニングをやり直しました。

    2019/5/13日経ビジネス

    【解説】清潔投資+店員教育+SNS販促→業績回復

    2014年7月に日本マクドナルドでは、店舗で供給するチキンマックナゲットの鶏肉について、調達先である中国の食品加工会社が使用期限を過ぎた鶏肉を供給したことを明らかにし、マクドナルドへの信頼が傷つく非常事態となった。鶏肉問題が契機となり、日本マクドナルドは2015年に35億円の最終赤字に転落するなど、深刻な客離れに見舞われた。当初、カサノバ社長は「われわれは被害者だ」と主張して消費者の顰蹙を買い、マクドナルドの米国本社も日本マクドナルドHDの株式の売却方針を示すなど、日本マクドナルドの経営は危機的な状況に陥る。そこで、日本マクドナルドは集客力を復元するために、2016年度には約130億円を投じて国内店舗のリニューアルを実施するとともに、従業員12万人に対するトレーニングを行うことで、清潔さとサービスの両面でイメージの改善を図った。また、2016年にはマーケティング本部にP&G出身の足立光氏がマーケティングプランを作成し、(1)ツィッターを使う若者世代に訴求するために食品包装デザインの刷新、(2)各種キャンペーンを毎週入れ替えて実施(例:怪盗ナゲッツ親子キャンペーンなど)、(3)テレビ広告を活用してマスを取り込む、という方針により、マクドナルドに対するイメージが徐々に向上した。これらの施策が功を奏し、2016年以降の日本マクドナルドに客足が戻り、利益率のV字回復を成し遂げた。

    日経ビジネス

    「チキン事件」を契機に客離れが進み、米本社も株式売却を計画するほど、急速に業績が悪化した。だが、悪評を見返すほど急速に業績が回復しつつある。"ママ目線"で安心安全を徹底した成果だという。復活に向けて周到に準備した戦略とは、マクドナルドが本来持つ強さの原点を再構築することだった。

    2017/8/28日経ビジネス「企業研究・日本マクドナルド」

    営業利益率

    9.9 %

    2019年12月期[連結]

    利益率推移 (%)日本マクドナルド

    12月期決算[一部推定]

    日本マクドナルド - 有価証券報告書・各種報道


    経営課題

    2003年 藤田田・会長退任

    日経ビジネス

    創業者の強烈なリーダーシップに依存する経営は、2002年以降、深刻な危機に直面する。きっかけは、2001年9月に発生した国内のBSE(中略)だった。消費者の牛肉離れで、既存店の売り上げが大きく落ち込み、ここから”巨大宇宙戦艦”の迷走が始まった。...(中略)...昨年9月には、企業理念も改訂した。藤田氏の掲げた「新たな食文化の想像と拡大」の旗を降ろし、「お客様にとってお気に入りの食事の場とスタイルを提供する」を新しい目標とした。続いて12月には、藤田家のファミリー企業である藤田商店との経営指導契約を打ち切り、名実ともに「脱カリスマ」路線を揺らぎないものとした。

    2004/7/26日経ビジネス「日本マクドナルド「現場力」で回復なるか」

    【解説】創業家(藤田家)と決別

    2000年ごろから日本マクドナルドは収益性が低下し、米国マクドナルド本社は日本法人の経営不振を問題視するとともに、合弁進出時に低く設定された本社へのロイヤリティーの水準は、他の外国法人の5%という水準と比べて低く、米国本社にとって悩みの種になっていた。2001年に日本マクドナルドは株式上場をするものの、BSE問題によるハンバーガーの消費者離れが起こり、創業以来初の最終赤字に転落。2003年に藤田田は体調不良を理由に日本マクドナルドの会長を辞任した。その後、日本マクドナルドの経営権は米国マクドナルドの本社に移り、2004年にアップル日本法人出身の原田泳幸が日本マクドナルドの社長に就任し、同社の経営改革をスタートさせた。