東京エレクトロン の歴史

1963年東京エレクトロン研究所設立 | 創業者:小高敏夫・久保徳雄(共同創業)

設立

1963

東京エレクトロン研究所設立

事業内容 (セグメント)東京エレクトロン

2019年3月期[連結]

東京エレクトロン - 有価証券報告書


歴史と沿革

小高敏夫・久保徳雄(共同創業)

【略歴】 小高敏夫・久保徳雄(共同創業)

  • 1933年 久保徳雄が生まれる
  • 1936年 小高敏夫が生まれる
  • 1963年 東京エレクトロンを共同創業
  • 1964年? 日商岩井を退社(2名とも)
  • 小高敏夫・久保徳雄(共同創業)

    問:東京エレクトロンがベンチャーキャピタルとしてTBSから出資を受けたとき、当時TBSの副社長だった故今道潤三氏の存在感が大きかったと聞きますが

    答:ええ。今道さんは「金は出すが、口は出さない」という姿勢を貫かれ、自由に仕事をやらさしてくれましたから。今道さんがおられなかったとしても出資は受けられたでしょうが、何かとTBSから制限を受け、事業がやりにくかったということは考えられます(筆者注:小高氏の発言)

    1984/4/16日経ビジネス「東京エレクトロン・IC製造装置のハイテク・エンジニア集団がめざす新業態」

    【創業】TBSの出資により設立

    1963年に日商岩井の若手商社マンであった久保徳雄と小高敏夫の2名(当時27〜30歳)が、東京赤坂に東京エレクトロン研究所を設立する。久保徳雄と小高敏夫は商社での「接待や通訳」などの間接業務に疑問を抱いており、取り扱っていた半導体という新しい商材を自分の手で動かしたいという考えにかられて東京エレクトロンを創業した。1965年には米国の半導体メーカーであるフェアチャイルドとの代理店契約を締結し、半導体製造に必要となるICテスターの輸入販売権を獲得した。その後、東京エレクトロンは半導体関連装置の販売と、アフターサービスを行うことで従来の商社にはないエンジニアリングサービスを提供して付加価値をつけ、半導体装置メーカーという独自の業態を突き進む。

    東京エレクトロンの設立時に出資した投資家は、TBS(東京放送)である。当時のTBSの今道潤三社長は東京エレクトロンの創業に資金を出すものの「金は出すが、口は出さない」という方針のもとで経営を見守ったと言われている。創業期の東京エレクトロンに対して、TBSの本社がある赤坂のオフィスを貸し出したり、TBSの社員を応援要員として東京エレクトロンに送り込むなど、惜しみない支援を行なっている。現在はTBSと東京エレクトロンの関係性は薄いが、両社共に東京赤坂に拠点を置いており関係性が現在も残っている。なお、TBSは現在も東京エレクトロンの株式の一部(4.31%)を保有しており、TBSはコーポレートベンチャーキャピタルとして東京エレクトロンへの投資で成功を収めたとも言える(2020年4月時点の東京エレクトロンの時価総額は約3兆円=TBSは1200億円相当の東京エレクトロン株式を保有)。

    【成長】トップメーカーと二人三脚で成長

    1980年代に日本の半導体産業が飛躍的な成長を遂げ、日本電気、三菱電機、日立製作所、東芝の各社がDRAMの製造競争をやりあっていた。このため、世界の半導体製造のトップ企業が日本に集積する形となり、東京エレクトロンはこれらの半導体メーカーに半導体製造装置を納入しつつ、メーカーから装置開発の以降を汲み取ることで、半導体製造装置の世界的なメーカーへと飛躍する。当時の経済メディアからは、ベンチャー企業のシンデレラ物語として賞賛された。

    だが、1980年代後半に円高ドル安が進行し、日米貿易摩擦によって日本のDRAM輸出が政治問題に発展したため、日本の半導体メーカーの活躍が制限される形となった。そこで、1990年代を通じて東京エレクトロンは日本企業のみならず、欧州・台湾・韓国などの海外の半導体メーカーを顧客として獲得するために、現地法人を設立することで直販体制を構築した。この結果、東京エレクトロンは「日本半導体産業の凋落」という潮流に飲まれることなく、グローバル展開する半導体製造装置メーカーとして強みを示し続けた。

    2000年代以降の東京エレクトロンは、韓国、台湾、米国をはじめ、中国にも進出することで、半導体メーカーと二人三脚で業容を拡大した。この結果、2019年時点で半導体製造装置メーカーの世界シェア4位を確保し、年間1000億円にも及ぶ研究開発費用を投じている。

    なお、2013年に東京エレクトロンは同業のアプライドマテリアル(米国)との経営統合を発表し、高騰し続ける半導体製造装置の開発コストを2社で賄うことを画策する。ところが、巨大な半導体製造装置メーカーの出現は、半導体メーカーにとっては価格交渉の面で不利になるため、独禁法の立場から両社の経営統合は実現することはなかった。だが、東京エレクトロンは統合に備えて、太陽光向けの製造装置などの不採算事業からの撤退を行なっており、結果として「統合への準備」が、2015年以降の東京エレクトロンの利益率の改善に大きく寄与する形となった。

    経営戦略

    1965年 フェアチャイルド代理店

    小高敏夫(東京エレクトロン社長・創業者)

    ICメーカーが製造装置を自作する動きもあるが、ライバルメーカーに売れるのだろうか。開発コストがばか高い商品だけに量産できるかどうかは大きな問題だ。

    1984/4/16日経ビジネス「東京エレクトロン・IC製造装置のハイテク・エンジニア集団がめざす新業態」

    【解説】メーカーの盲点をつく

    半導体製造装置は緻密な機構の究極系で、開発および製造には莫大なコストがかかる。このため、半導体を製造するメーカーは製造装置を自作するにも莫大な開発コストを負担することが難しく、メーカー自身が製造装置を開発したとしても、競合他社に販売することは道義的にも難しいことから、半導体産業の中で半導体製造装置メーカーが、DRAMやCPUなどの半導体メーカーから独立した形で存在している。半導体製造装置メーカーは莫大な開発コストを必要とするため、一部のメーカーの独占市場化形成されやすく、結果として1960年代という半導体産業の黎明期(ICの実用時期)に製造装置メーカーという独特なポジションをとった東京エレクトロンが、現在に至るまで優位な立場にある。東京エレクトロンの歴史的な転換年は1965年で、当時の最先端の半導体メーカーフェアチャイルドとの代理店契約を締結し、IC半導体テスターの国内販売を受け持った。これにより集積回路(IC)という最先端の分野と関わることになり、世界最先端の半導体装置メーカーとしての地歩を築く。

    日経ビジネス(末村篤・記者)

    昭和38年に日商岩井をスピンアウトした久保徳雄(現会長)、小高敏夫両氏を中心にわずか数名で旗揚げ、正真正銘、ゼロからスタートしたTELは、58年9月期には売上高828億円、経常利益99億円の超優良企業に成長。...(略)...日本の半導体・IC(集積回路)産業の発展と同じ軌跡を描いたベンチャービジネスのシンデレラ物語だが、同時にTELの歴史は、商社を原初形態としつつ、限りなくメーカーに近づくという、"新業態"を自ら作り出していく歴史でもあった。

    1984/4/16日経ビジネス「東京エレクトロン・IC製造装置のハイテク・エンジニア集団がめざす新業態」

    1994年 海外で直販体制に移行

    東哲郎(東京エレクトロン常務)

    米メーカーの声を聞かないと、次世代需要に適応できなくなる...(略)...代理店方式では、必ずしも顧客の要求やクレームを的確につかめず、情報伝達も遅かった。今後はユーザー側技術者と直結することで、欧米のトップクラスメーカーと戦略的なパートナーシップを組み、次世代装置を開発する

    1995/1/2日経ビジネス「東京エレクトロン・欧米の現法、直販に移行」

    【解説】直販体制を構築し、グローバルへ

    1992年の時点で東京エレクトロンの地域別売上高は「日本向けが80%」を占めていたが、1994年に東京エレクトロンは海外事業を強化する方針を決断した。東京エレクトロンは海外の半導体メーカーの要望を十分に汲み取るために、欧米などの先進国に直販体制(販売および部品供給)を敷くための現地法人を設立する。1994年に欧州と米国に現地法人を設立し、アジア圏でも1993年に韓国、1996年に台湾にそれぞれ現地法人を設立した。1980年代までの有力な半導体メーカーはNECや日立などの日本企業であったが、1990年代以降は米国のインテルや、韓国のサムスン、台湾のTSMCなどの新興勢力が業容を拡大しており、東京エレクトロンは直販体制の充実によって半導体産業のニューフェイスとの信頼関係の構築に成功する。この結果、2000年前後の日本半導体メーカーの凋落の影響を最小限に抑えることに成功し、東京エレクトロンはグローバル経営の成功企業となった。

    東哲郎(東京エレクトロン社長)

    苦境を乗り越えられたのは、まず6年前から進めてきたグローバル化の成果が数字で表れてきたからです。欧米、台湾などで直接、装置を販売し、技術サポートと部品供給の体制を築いたことで、顧客の信頼を得ることができました。また最も苦しい時期にも研究開発投資を惜しみませんでした。

    2000/10/9日経ビジネス「東京エレクトロン・6年でグローバル市場を攻略」

    経営課題

    1973年 電子機器輸出から撤退

    小高敏夫(東京エレクトロン創業者)

    当時のウチのような中小企業じゃ、リスクが余りに大きい。むしろほかに、商売がないなら、いくらリスクが大きくてもやる手だったかも知れない。だけど、もう一方に、十分利益を出し、また今後、高い成長が望める分野を持っていたんですから。なんで、そんな危険なことをやる必要があるか、と思ったわけです。...(略)...最後まで撤退に反対していた子会社が、当社のグループから独立するなど、人事・労務面ではずいぶん苦労しました。

    1982/5/31日経ビジネス「小高敏夫氏(東京エレクトロン社長)の利益本位経営論」

    【解説】半導体製造装置に集中

    創業から10年間の東京エレクトロンはカーラジオ、電卓、カーステレオのOEMを手がける電機商社として業容を拡大したが、1973年のオイルショックによって、これらの在庫が積み上がり業績が悪化した。そこで、東京エレクトロンの創業者は事業の主力を、当時成長しつつあった半導体製造装置に特化する代わりに、家電などの不採算部門からの撤退を決めて事業の選択と集中を遂行した。だが、撤退部門は東京エレクトロンの売上高の60%を占める主力事業であったため、東京エレクトロは段階的な撤退作戦を行い、社内の士気を下げないように撤退部門にはエース社員を投入するなどの配慮をしている。この結果、1973年以降の東京エレクトロンは半導体製造装置に投資を集中した。

    1990年代? 米現地生産から撤退

    東哲郎(東京エレクトロン社長)

    最初はものすごく歓迎されましたが、次第に雲行きが怪しくなっていきました。現地生産だけでは、日本製の半導体製造装置と同等の品質や性能を実現できなかったのです。そうしたものを維持するためには、日本からの部品輸入を続けざるを得ず、コストがかさんで採算が取れない。すると、日本から直接調達する顧客も登場しました。

    2018/11/12日経ビジネス「有訓無訓・東哲郎」

    【解説】部品の調達難により、米国現地生産から撤退

    1990年代に東京エレクトロンはグローバル展開を推し進めるために、米国での半導体製造装置の現地生産を行う方針を決めた。日米貿易摩擦が進行化しつつある情勢で、東京エレクトロンの選択は米国政府などから歓迎されたものの、米国では半導体製造装置に必要となる部品調達が困難だったため現地生産は難航した。このため、東京エレクトロンは米国の現地生産から撤退し、米国では先端メーカーの御用聞きとして顧客ニーズを汲み取ることに特化した。

    2015年 アプライド統合撤回

    東哲郎(東京エレクトロン・会長)

    非常に残念な結果だと思っている。反トラスト法に引っかかるものではないというのが我々の見解だ。このような結論となり、納得がいかない...(中略)...歴史的にどういう意味を持つかは歴史に任せるしかない。我々としては納得いかない結論が出た。ただし謙虚に認めざるを得ない状況だ

    2015/4/27日経新聞「東京エレクトロン会長「独禁法違反ではない」」

    【解説】米国司法省から通告

    2013年に東京エレクトロンは同業のアプライドマテリアル社との経営統合を発表し、巨大な半導体製造装置メーカーが誕生するかに見えた。だが、米国の司法省は両社が統合することにより半導体製造装置のシェアが高まることが、反トラスト法(独占禁止法)に抵触するという認識を示したため、政治的な理由で経営統合が難しい情勢となった。このため、2015年に東京エレクトロンはアプライドマテリアルとの経営統合を白紙撤回し、独立経営を続けることを決めた。