冨永光行は靴の販売事業に参入するために「丸富靴店」を名古屋市内に開業。当時は下駄が主流の時代で、靴はオーダーメイドの高級品で、サラリーマンの月給並みの金額だった。そこで、丸富靴店では価格を安く抑えることができる「既製靴」を企画し、販売する異色の靴店としてスタートを切る。
靴のマルトミは名古屋市内を中心に靴のチェーン展開を開始。名古屋駅の地下街を始め、栄などの主要繁華街に4店舗を新設した。
靴のマルトミでは4店舗で従業員の不正が発覚。創業者の冨永光行は不正を働いた授業員を全員解雇し、穴埋めのために新規採用を実施。新規採用した社員については、創業者の冨永光行が社員と寝食を共にすることで「冨永イズム」という商売の精神を叩き込んだという。
名古屋市内を中心に店舗網を拡大するために法人化
靴のマルトミは名古屋市内の商店街や地下街を中心に100店舗を展開していたが、都心部における路面電車の廃止による繁華街の錐体や、ロードサイドの発展による郊外商圏の拡大を受けて、全100店のうち60店を閉店し、郊外店を主軸に置く方針を決めた。
ロードサイドの発展を受けて、靴のマルトミは郊外における積極的な店舗展開を開始。出店地域の地名を冠した「〜靴流通センター」の大量出店をスタートさせる。なお、当時は大店法施行後のため、郊外店舗の面積は〜平方メートルに限られた。
靴に次ぐ事業としておもちゃ事業に参入。競合のチヨダが展開する「ハローマック」を追随する
靴販売金額で国内シェア1位(4.47%)を確保。2位のチヨダ(シェア4.25%)と接戦
靴のマルトミは従業員のポテンシャルを最大限に活かすために、店舗運営を社員に実質的に全て任せる「オーナーシステム」を採用し、すぐに約300名の社員が応募した。全店舗のうち70〜80%でオーナーシステムが採用され、本社に対して粗利の25%を支払う代わりに、売上総利益をオーナーが自由に使用することができる独立採算制となった。この結果、一部の社員は見違えるようにやる気を出し、給料を倍増させる社員も続出したという。
業容の拡大を受けて靴のマルトミは株式上場を果たす。
1993年に靴のマルトミは1700店舗を突破し、過去最高となる経常利益57億円を達成した。
1991年に大店法が改正されたことを受けて、郊外にショッピングセンターが出現する時代に突入した。このため、郊外のロードサイドの小型店を主力とする「靴のマルトミ」を取り巻く競争環境が激化し、1994年には減収決算となった。このため、経営再建のため、靴のマルトミは創業者である冨永光行社長の報酬カットと、180店舗の閉鎖を決定した。
郊外小型店舗の苦境により1998年に靴のマルトミは5億円の最終赤字に転落。靴流通センターの出店を凍結へ
大店法の改正によって郊外の買い物は「ショッピングセンター」が主流となり、ABCマートなどのショッピングセンターに入居する靴専門店が台頭する一方、郊外ロードサイドの小型店を主軸とした靴のマルトミの苦境が決定的となった。財務状況の悪化を防ぐため、靴のマルトミは1年間に300店の大量閉店を実施する
靴のマルトミは民事再生法の適用を申請し、倒産した。大店法の改正によって郊外ロードサイドにおける競争環境の変化に対応できず、靴のマルトミは約半世紀の歴史に終止符を打つ