1924年に合資会社大阪金属工業所(現在のダイキン)が設立された。資本金は15,000円。創業者は山田晃氏であり、大阪砲兵工廠(軍需工場)に勤務していた経験を生かし、川崎重工向けの飛行機用ラジエーターチューブの製造を開始。創業翌年の1925年には満洲向けの瞬発信管30万発を受注し、軍需企業として業容を拡大した。
圧搾加工品を海軍に納入。創業間もないベンチャー企業が指定工場の認定を受けるのは異例のことで、技術力が認められる形となった。
薬莢・信管を陸軍に納入
海軍から空調研究の依頼を受けて、冷凍機の研究開発を開始。海軍としては潜水艦向けに空調の研究を進めたい意図があった
1933年の時点でダイキンは、人事労務の面で課題を抱えていた。社員が競合企業を立ち上げて、ダイキンの技術者・技術を引き抜き、顧客も奪還されることに悩まされていた。
そこで、ダイキンは組織体制を近代化するために、住友財閥の住友伸銅所との資本提携を締結することを決めた。当時のダイキンの企業規模に対して、住友財閥は比較できないほどの大企業であり、異例の資本提携となった。
ダイキンは住友から銅やアルミといった材料を仕入れており、両社ともに大阪に拠点を置いていたという縁があった。住友財閥としてダイキンの高い技術力に期待した。
ただし、資本政策において、ダイキン側は経営の支配権を譲らない姿勢をとり、住友財閥に条件提示した。具体的には、①株式の保有比率は、創業者の山田晃氏の持分に対して、住友財閥の持分が超過しないこと、②住友財閥は取締役の過半数をダイキンに派遣しないこと、③住友財閥はダイキンの経営方針に関与しないことを条件として提示している。
住友財閥はこの条件を承諾し、ダイキンは住友財閥との資本提携による株式会社設立を行った。
1933年時点のダイキンは従業員数約300名であったのに対して、1941年の時点で10,000名を突破。約7年間で30倍に急拡大を遂げた。
背景としては、軍需品に対するニーズが高まったことや、資金調達によって大規模な設備投資が可能になったことが挙げられる。1930年代後半は日本で海軍と陸軍が軍備拡張を図った時代であり、ダイキンは時代の波に乗る形となった。
すなわち、戦前にダイキンが中小企業から大企業へと発展する上で、住友財閥との資本提携は重要な決定事項であったといえる。
南海電鉄に向けて電車用冷房「ミフジレータ」を納入。1938年には海軍の潜水艦向けに空調設備を納入。空調メーカーとして日本再先発へ。ただし、売り上げの大半は軍需部品であり、空調は新規事業の位置づけ
空調(冷凍機)の工場として1号・2号工場を新設稼働。のちに増設された3号工場では航空機部品の生産を行い、軍需工場として活用
フロンの製造拠点として新設。冷房という機械領域と、冷媒という化学領域を、一気通貫で製造する世界でも珍しいメーカーに転身
戦後に途絶えていた住友金属工業との資本提携を復活。住友金属工業から春日弘氏(ダイキン・取締役会長)と土屋義夫氏(ダイキン・専務取締役)が派遣され、ダイキンの経営に従事。ダイキンは住友金属工業のグループ会社としての色彩を濃くした。
朝鮮特需(防衛ラインの強化)により在日米軍から砲弾の大量受注に成功。累計199万発で、金額は68億円
冷房の普及(年率+20%の市場成長)に対応して家庭用エアコンの専門量産工場を新設。年産20万台。家電メーカーとの競合に対処。ダイキンは従来から得意だった業務用(国内シェア30%)に加えて、家庭用エアコンへの本格投資を開始した
山田晃氏が取締役相談役(1973年逝去)、土屋義夫氏が取締役会長・山田稔氏が取締役社長に就任
東京西ダイキン空調と北大阪ダイキン空調の2社を設立。エアコンの営業活動を本格化
オイルショックによる業績低迷により、累計約700名を解雇。余剰となった工場勤務の従業員はエアコンの販売会社に配属転換して対応
金岡工場内にエレクトロニクスの研究拠点設置。エレクトロニクスによる制御技術の研究を開始した。この研究によって、ダイキンはエアコン向けのインバータの内製化で世界最先発の企業に踊り出た。
ロボットシステム部および電子機器部を新設
フッ素樹脂プラントの稼働
特殊株主(総会屋)の妨害活動により、株主総会の開催時間が5時間58分。
フッ素製品の米国輸出が中止へ
ソ連に軍需品としてフロン製品を輸出した疑いで、ダイキンの課長だった社員2名が逮捕。ダイキンの企業イメージが低下。役員4名を処分へ
オゾン層の破壊に配慮した冷媒を開発。量産体制を構築。化学事業の再建に大きく寄与する冷媒となった。ダイキンの空調機器と冷媒の一貫生産を持続させる原動力に
ダイキンアメリカ社のディケーター工場を稼働
中国現地のミシンメーカーと合弁会社を設立。出資比率はダイキン60%・現地メーカー40%。当初は空調メーカーと合弁予定だったが米キャリア社が契約を締結しており、後発ダイキンが手を組む余地がなかった。ただし、ミシンメーカーは北京政府との関係が強く、のちにダイキンが高級エアコンの販売網を形成する際に大きな力になったと推察される
山田稔氏(1995年逝去)が取締役会長、井上礼之氏が取締役社長に就任
業績低迷を打破するために改革計画を立案。3期連続赤字の商品から撤退する方針を決定。これに基づき、翌1995年1月に組織改革を実施。生産・開発・販売の強化に即した組織に改編し、商品戦略会議を設置。また多角化を中止して、空調に集中投資を行う姿勢を打ち出した。
累積100億円の赤字を出していたロボット事業から撤退。社内向け産業用ロボットの製造が主体で売り上げが伸びず
ダイキンは中国で高価格帯のエアコンを販売するために、400社がひしめく競争の激しい家庭向けエアコンではなく、官公庁や銀行などのカスタマイズが必要な業務用空調の顧客開拓に集中した。1997年に政府機関が集積する北京に事務所を新設。技術セミナーの開催や、積極的な営業(販売店開拓のための飛び込み営業)、卸を介さない直売代理店の整備(2003年までに150店)、空調システムの個別提案によって、ダイキンブランドの浸透を狙った。
ダイキンの営業方針は、中国市場では後発参入であったために、まだ開拓されていない高価格帯という市場しか残されていなかったという事情もあった。これらの戦略は、田谷野憲氏(2014年にダイキン副社長就任)が主導する形で行われた。
1999年から2003年にかけてダイキンは中国事業で「売上高利益率20%超」の高収益を達成。また、資金繰りの面では、手形決済ではなく前払いによるキャッシュフローを実現した。2003年時点で、中国における業務エアコンのシェア60〜70%を確保し、中国事業はダイキンの収益源に育った。
先進技術に対してカネを惜しまない市場が中国には確実にある。国や地方政府が威信をかけて作る建築物や、通信などのインフラ関係、外資系を含む全国チェーン店などだ。財政支出などから確実に予算がつく優良需要を抑えられることが高収益の秘訣
空調事業においてグローバル包括提携契約に調印。前年に東芝が米国キャリア社と提携しており、キャリア社のグローバル展開に対抗する狙いがあった
2003年度の国内シェア1位(16.9%)を確保。
既に進出していた中国での販売体制を強化。100%出資によるサービス会社を3社(大金空調技術北京有限公司・大金空調技術広州有限公司・大金空調技術広上海有限公司)を設立。高価格帯の業務用エアコンへの投資を継続
売却先は住友重機械
グローば大手空調メーカー
OLY買収資金に充当
ドイツの暖房機メーカー
14期連続増収増益の記録が途絶へ
北米の住宅向け空調メーカーを37億ドルで買収
新冷媒R32の本格展開を開始。第一弾として「うるさら7Rシリーズ」としてルームエアコン向けに展開
十河政則氏が代表取締役社長兼COOに就任。井上礼之氏は代表取締役会長兼任CEO
世界的なインフレに対応して平均4〜5%の値上げを実施。利益を確保