日本アイ・ビー・エム:開戦による資産凍結と特許公開による国内生産の開始
1941年〜開戦による資産の凍結、別会社での継承、66名の再出発
開戦は会社を一度消した。1941年10月に代表取締役となった水品氏は、12月8日の朝、残る10名ばかりの社員を集め、機械そのものは米国のものでも性能によって国力の向上に役立っている以上、動揺せず顧客への奉仕を続けようと訓示した。その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される。米国資本100%の会社の責任者というスパイ容疑での勾留は異例の3カ月に及び、検事が現れたのは一度だけだった。釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された。1942年3月、日本ワットソンの資産は全面的に凍結され、業務は指定管理人のもとで必要最小限の保守に限られた。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [1]開戦は会社を一度消した
- [2]水品氏は1941年10月に代表取締役へ就任した
- [3]開戦当日に社員へ顧客サービスの継続を訓示した
- [4]その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される
- [5]スパイ容疑で3カ月勾留され釈放後も2カ月の外出禁止が課された
- [6]釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された
- [7]1942年3月に資産が全面凍結され業務は最小限の保守に制限された
事業は別の会社で続いた。1943年6月、東京芝浦電気を推進母体とする日本統計機が発足し、大蔵省の指令で日本ワットソンの正味資産173万円を引き継いだ。物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた。政府は戦争を始めたが、企業家としてはIBMの事業を残しておくことが義務である——取締役に就任した第一生命の矢野一郎氏が発足にあたって掲げた考えである。同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた。東京芝浦電気の縁故でこのとき採用された稲垣早苗氏は、のちに日本IBMの社長となる。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [8]事業は別の会社で続いた
- [9]1943年6月に東京芝浦電気を母体とする日本統計機が発足した
- [10]日本ワットソンの正味資産173万円が日本統計機へ移転された
- [11]物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた
- [12]第一生命の矢野一郎氏がIBMの事業を残すことを企業家の義務と述べた
- [13]同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた
- [14]稲垣早苗氏は日本統計機に採用され後年日本IBM社長となった
1949年8月、GHQの指令で日本ワットソンの資産凍結が解かれ、資産相当額299万円が返還された。これに先立つ同年6月、8年ぶりに開かれた株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ改め、本店を日本統計機の所在地である東京・神田須田町へ移した。代表取締役にはIBM本社の利益代表としてデッカー氏が、常務取締役には水品氏が就任した。1950年4月に業務を再開したときの社員は66名で、その大半は日本統計機の出身者が占めた。この年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円である。1952年5月には麹町二番町に新社屋が竣工した。正面玄関のガラスには社是の"THINK"が金文字で掲げられ、玄関脇の大理石には世界平和は世界交易からという一節が刻まれた。当時の水品氏の役職は常務取締役である。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [15]1949年8月にGHQ指令で資産凍結が解除され299万円が返還された
- [16]1949年6月の株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ変更した
- [17]デッカー氏が代表取締役、水品氏が常務取締役に就いた
- [19]1950年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円だった
- [22]当時の水品氏の役職は常務取締役である
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史/岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [18]1950年4月に業務を再開し、社員66名の大半は旧日本統計機の出身者だった
- 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
- [20]1952年5月に麹町二番町の新社屋が竣工し、玄関にTHINKの金文字が掲げられた
- [21]玄関脇の大理石に「World peace, World trade(世界平和は世界交易から)」が刻まれた
参考文献[1]-[22]
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [1]開戦は会社を一度消した
- [2]水品氏は1941年10月に代表取締役へ就任した
- [3]開戦当日に社員へ顧客サービスの継続を訓示した
- [4]その訓示を終える間もなく警官が踏み込み、水品氏は横浜加賀町署へ連行される
- [5]スパイ容疑で3カ月勾留され釈放後も2カ月の外出禁止が課された
- [6]釈放後も2カ月の外出禁止が言い渡された
- [7]1942年3月に資産が全面凍結され業務は最小限の保守に制限された
- [8]事業は別の会社で続いた
- [9]1943年6月に東京芝浦電気を母体とする日本統計機が発足した
- [10]日本ワットソンの正味資産173万円が日本統計機へ移転された
- [11]物資動員計画のもとで統計処理の需要が高まり、陸海軍も暗号解読から配船計画まで統計機械の役割に気づいていた
- [12]第一生命の矢野一郎氏がIBMの事業を残すことを企業家の義務と述べた
- [13]同社は1949年まで保守を続け、その間にIBMへのロイヤリティを非居住者勘定へ積み立てた
- [14]稲垣早苗氏は日本統計機に採用され後年日本IBM社長となった
- [15]1949年8月にGHQ指令で資産凍結が解除され299万円が返還された
- [16]1949年6月の株主総会で社名を日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズへ変更した
- [17]デッカー氏が代表取締役、水品氏が常務取締役に就いた
- [19]1950年の売上高は7700万円、税引後利益は1200万円だった
- [22]当時の水品氏の役職は常務取締役である
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史/岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [18]1950年4月に業務を再開し、社員66名の大半は旧日本統計機の出身者だった
- 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
- [20]1952年5月に麹町二番町の新社屋が竣工し、玄関にTHINKの金文字が掲げられた
- [21]玄関脇の大理石に「World peace, World trade(世界平和は世界交易から)」が刻まれた
1950年〜事務機械化の需要と、国内メーカーへの特許公開
再開後の需要は速く伸びた。1950年の朝鮮動乱を契機に日本経済が上昇へ向かうなかで、占領下の米軍が大量に装備していたIBM機の存在と、財閥解体で三井物産という販売元を失った競合のレミントン製統計機の伸び悩みが追い風になった。1953年にはパンチカード・システムの輸入関税が免除され、同じ年に東京・大田区の糀谷工場が操業を始めてIBM405の組み立てにあたった。1953年に入社した椎名武雄氏によれば、社員はそのころ200人まで増えていた。新社屋の1階には教室が置かれ、統計会計機を採用した企業の社員を1日6時間・3週間半で講習した。1952年までの修了者は557名にのぼる。
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [23]1950年の朝鮮動乱を契機に日本経済が上昇機運に乗り、同社も経営基盤を固めていった
- [26]1953年に糀谷工場が操業を開始し、IBM405を組み立てた
- [27]1953年入社の椎名武雄氏によれば、当時の社員は200人まで増えていた
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要/社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [24]米軍の圧倒的なIBM装備と、三井物産の財閥解体による強敵レミントン製統計機の伸び悩みが追い風となった
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [25]1953年に日本政府がパンチ・カード・システムの輸入関税を免除した
- 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
- [28]新社屋1階の教室で1日6時間・3週間半の講習を行い、1952年までに557名が修了した
1953年に米国IBMが初の商用コンピュータIBM701を発表し、コンピュータ事業へ踏み出した。1960年、IBMワールド・トレード社と日本IBMとの間で技術援助契約が成立した。同じ年、IBMはコンピュータ製造技術に関する基本特許を国内の7社、三菱電機・日立製作所・東芝・富士通・日本電気・沖電気・松下電器に公開した。エレクトロニクスを中心とする知識集約型産業への移行を見越した通産省は、電子工業振興臨時措置法によって業界への援助を本格化させていた。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [29]1953年に米国IBMが初の商品コンピュータIBM701を発表してコンピュータ事業に進出した
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [30]昭和35年(1960年)にIBMWTCと日本IBMとの間に技術援助契約が成立した
- [31]昭和35年にIBMは国内企業7社(三菱電機・日立製作所・東芝・富士通・日本電気・沖電気・松下電器)にコンピュータ製造技術の基本特許を公開した
- [32]通産省は知識集約型産業への移行を見越し、電子工業振興臨時措置法を制定して業界へ援助措置を講じた
国内での生産は、技術援助契約の成立を境に本格化した。千鳥町工場は1961年5月に拡張とレイアウトの全面変更を行い、1963年には電子計算組織の国産を本格的に始めた。1964年に発表されたIBMシステム/360も、1966年に国産が始まっている。1960年には国産IBM機の輸出第一号として分類機がインドへ船積みされ、1966年には政府から輸出貢献企業の認定を受けた。
- 荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利(荷役研究所)
- [33]千鳥町工場は1961年5月に拡張しレイアウトを全面変更した
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [34]昭和38年(1963年)に電子計算組織の国産を本格的に開始した
- [35]昭和39年にIBMシステム/360を発表し、昭和41年(1966年)にその国産を開始した
- [36]昭和35年に輸出第一号機の分類機をインドへ船積みし、昭和41年に政府から輸出貢献企業の認定を受けた
参考文献[23]-[36]
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [23]1950年の朝鮮動乱を契機に日本経済が上昇機運に乗り、同社も経営基盤を固めていった
- [26]1953年に糀谷工場が操業を開始し、IBM405を組み立てた
- [27]1953年入社の椎名武雄氏によれば、当時の社員は200人まで増えていた
- [30]昭和35年(1960年)にIBMWTCと日本IBMとの間に技術援助契約が成立した
- [31]昭和35年にIBMは国内企業7社(三菱電機・日立製作所・東芝・富士通・日本電気・沖電気・松下電器)にコンピュータ製造技術の基本特許を公開した
- [32]通産省は知識集約型産業への移行を見越し、電子工業振興臨時措置法を制定して業界へ援助措置を講じた
- [34]昭和38年(1963年)に電子計算組織の国産を本格的に開始した
- [35]昭和39年にIBMシステム/360を発表し、昭和41年(1966年)にその国産を開始した
- [36]昭和35年に輸出第一号機の分類機をインドへ船積みし、昭和41年に政府から輸出貢献企業の認定を受けた
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要/社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [24]米軍の圧倒的なIBM装備と、三井物産の財閥解体による強敵レミントン製統計機の伸び悩みが追い風となった
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [25]1953年に日本政府がパンチ・カード・システムの輸入関税を免除した
- [29]1953年に米国IBMが初の商品コンピュータIBM701を発表してコンピュータ事業に進出した
- 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
- [28]新社屋1階の教室で1日6時間・3週間半の講習を行い、1952年までに557名が修了した
- 荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利(荷役研究所)
- [33]千鳥町工場は1961年5月に拡張しレイアウトを全面変更した
1960年〜戦時の積立から組み直した資本と、十年ごとの急成長
戦後の資本は、戦時中に積み立てられた資金から組み直された。日本統計機は1943年から1949年までの間にIBMへのロイヤリティを積み立て、資産凍結の解けた日本IBMへ全額を返還し、それが再発足の資本金になった。資本金は1950年のうちに3回の増資で2980万500円となり、その増資金額は日本統計機からIBMへ半期ごとに支払われたロイヤリティを再投資したものだった。
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
- [37]日本統計機は積み立てたIBMへのロイヤリティを資産凍結の解除された当社へ全額返還し、それが再発足の資本金となった
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [38]資本金は1950年のうちに3回の増資で29,800,500円となり、増資金額は日本統計機からIBMに半期ごとに支払われたロイヤリティの再投資だった
再開から10年で、事業の規模は桁を変えた。1950年に7700万円だった売上高は1960年に57億2200万円と約74倍になり、税引後利益は1200万円から11億7400万円へ、従業員は66人から1387人へ増えた。1981年の時点でも、IBM本社との金銭面の結びつきは持ち株への配当と技術援助契約に基づく特許使用料の支払いに限られ、売上や利潤の計画からトップ人事までの経営方針のほとんどを日本IBM自身が決めていた。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [39]1950年 売上高77百万円・税引後利益12百万円・従業員66人/1960年 売上高5,722百万円・税引後利益1,174百万円・従業員1,387人
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [40]経営ポリシーのほとんどを日本IBM自身が決め、IBM本社との金銭面の結びつきは配当と技術援助契約に基づく特許使用料の支払いだけ
1958年には茨城県東海村の日本原子力研究所へ、国内で初めてとなる電子計算機650を納入した。翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した。同じ年に社名を日本アイ・ビー・エム株式会社へ改め、千鳥町工場の第一期工事を終えて国内の生産体制を構築した。1970年の売上高は984億円、税引後利益は228億円で、売上高利益率は23.2%に達する。従業員は7358名だった。1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した。1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した。
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [41]1958年に日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納入した
- [42]翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した
- [44]1970年の売上高98,441百万円・税引後利益22,856百万円(売上高利益率23.2%)だった
- [45]1970年の従業員は7358名だった
- [46]1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した
- [47]1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- [43]1959年に社名を日本アイ・ビー・エムへ変更し千鳥町工場が竣工した
参考文献[37]-[47]
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
- [37]日本統計機は積み立てたIBMへのロイヤリティを資産凍結の解除された当社へ全額返還し、それが再発足の資本金となった
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- [38]資本金は1950年のうちに3回の増資で29,800,500円となり、増資金額は日本統計機からIBMに半期ごとに支払われたロイヤリティの再投資だった
- [39]1950年 売上高77百万円・税引後利益12百万円・従業員66人/1960年 売上高5,722百万円・税引後利益1,174百万円・従業員1,387人
- [41]1958年に日本原子力研究所へ国内初の電子計算機650を納入した
- [42]翌1959年には大和銀行と塩野義製薬にも導入した
- [44]1970年の売上高98,441百万円・税引後利益22,856百万円(売上高利益率23.2%)だった
- [45]1970年の従業員は7358名だった
- [46]1962年にはシステムズ・エンジニアの職種を設け、1964年の東京五輪では競技結果の集計に協力した
- [47]1967年には神奈川県に藤沢工場が完成した
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- [40]経営ポリシーのほとんどを日本IBM自身が決め、IBM本社との金銭面の結びつきは配当と技術援助契約に基づく特許使用料の支払いだけ
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』
- [43]1959年に社名を日本アイ・ビー・エムへ変更し千鳥町工場が竣工した
1938年〜1970年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年12月期 | 単体 | 0 | n/a | 0 | 12.5% | n/a |
| 1951年12月期 | 単体 | 2 | +212.5% | 0 | 12.0% | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | 3 | +20.0% | 0 | 10.0% | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | 5 | +80.0% | 0 | 9.3% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 10 | +94.4% | 1 | 15.2% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 15 | +44.8% | 2 | 15.8% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 19 | +27.0% | 2 | 15.0% | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | 22 | +17.6% | 4 | 21.1% | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 30 | +34.4% | 10 | 34.4% | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 39 | +29.2% | 10 | 25.9% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 57 | +45.2% | 11 | 20.5% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 85 | +49.7% | 12 | 14.4% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 137 | +60.9% | 21 | 15.8% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 185 | +34.4% | 31 | 17.2% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 238 | +28.6% | 30 | 12.7% | n/a |
| 1965年10月期 | 単体 | 236 | ▲0.6% | 52 | 22.1% | n/a |
| 1966年10月期 | 単体 | 361 | +52.7% | 41 | 11.5% | n/a |
| 1967年10月期 | 単体 | 480 | +33.0% | 58 | 12.1% | n/a |
| 1968年10月期 | 単体 | 568 | +18.3% | 107 | 19.0% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 831 | +46.4% | 193 | 23.3% | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 984 | +18.4% | 228 | 23.2% | n/a |
出所:日本アイ、ビー、エム50年史(1988年)統計資料
出典・参考
8件
- 社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要/社史插話『日本アイ・ビー・エム(献身の譜)』(1981年)
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)序章 創立前史/岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- 日本アイ・ビー・エム50年史(日本アイ・ビー・エム、1988年)第1章 日本ワットソン統計会計機械株式会社と創業時代
- 事務と経営 1952年7月号「日本産業にいぶきを與える日本IBM」(日本経営協会総合研究所)
- 荷役と機械 1962年6月号「日本IBM(株)千鳥町工場のH・M その1.レイアウト」竹内昌利(荷役研究所)
- 岡崎世雄・小長谷和髙「水品浩-創業期 日本アイ・ビー・エム(株)社長」城西国際大学紀要
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』