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米ヤフーとの合弁によるヤフー株式会社の設立

1996年実施

社員数名のベンチャーへの2億円——孫正義はなぜ情報網で見つけた無名の検索会社に賭け、それをグループ最大級の含み資産に変えたのか

時期 1996年1月
意思決定者 孫正義(社長)
論点 検索ポータル事業への参入と米ヤフーへの出資
概要
1996年1月、ソフトバンクが米ヤフーとの合弁で日本法人「ヤフー株式会社」を設立し、日本の検索ポータルに最先発で参入した経営判断。ソフトバンク60%・米ヤフー40%の出資で日本法人を握り、同年4月には米ヤフー本体へ35%・100億円を追加出資して創業者を上回る筆頭株主となった。社員数名のベンチャーへの出資が、のちにグループ最大級の含み資産へ育った。
背景
ソフトバンクは米ジフ・デービスの買収で得たシリコンバレーの情報網から、創業間もない米ヤフーを把握し、1995年11月に米ヤフー株5%を2億円で取得していた。当時の日本ではインターネットの利用者が限られ、検索という概念すら一般に浸透していなかった。
内容
1996年1月11日、資本金2億円の合弁会社ヤフー株式会社を設立し、日本語対応の情報検索サービスを始めた。ブランドと技術は米ヤフーから借り、資本と経営はソフトバンクが握る変則的な合弁であった。同年4月には米ヤフー本体へ100億円を追加出資し、社員5〜6名・月商数千万円の企業に巨額を投じる賭けに出た。
含意
情報網の先で見つけた小さなベンチャーへの投資が、ネットバブル期には米ヤフー約2兆円・日本ヤフー約1.2兆円の含み益となり、グループの企業価値の大半をYahoo関連が占めた。2億円の初期投資が、投資会社ソフトバンクの中核資産へ育った案件であった。
筆者の見解

情報網から拾った一株が、企業価値を決めた

この判断の核心は、日本で検索ポータルを立ち上げたことよりも、実績のない小さなベンチャーへ、情報網から得た確信だけを頼りに資本を集中させた点にある。1995年の2億円も、1996年の100億円も、当時の事業規模から逆算すれば説明のつかない金額であった。ソフトバンクがそれを投じられたのは、ジフ・デービスの買収で築いた情報網の先に、次に来る技術の姿が見えていたからである。買収先の利益ではなく、そこから拾い上げる情報に賭けるという論理が、ここで一つの果実を結んだ。

あわせて重いのは、この一件がグループの企業価値そのものを決めたことである。ネットバブル期のソフトバンクの時価総額は、自前の事業ではなくYahoo関連の含み益に支えられ、株価の反転とともにその評価は揺れた。2億円で拾った持ち分が数兆円の含み益に化けた事実は、孫正義の投資家としての嗅覚を示すと同時に、他社の株価に企業価値を委ねる危うさもはらんでいた。情報網の先で見つけた無名の会社への賭けが、その後のソフトバンクの姿を長く形づくったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

情報網の先にいた無名の検索会社

ソフトバンクは、1990年代半ばに米ジフ・デービスなどの買収を通じて、シリコンバレーの新興IT企業に関する情報網を手にしていた。コンピュータ雑誌の出版社や見本市の運営会社には、創業間もないベンチャーの広告や出展が集まる。孫正義はこの情報の集積のなかで、1994年に生まれたばかりの検索サービス、米ヤフーの存在を早くに把握した。1995年11月、ソフトバンクは米ヤフー株の5%を2億円で取得する。当時の米ヤフーは社員数名、収益もこれからという小さな会社であり、2億円という金額に見合う裏づけは、事業の実績よりも急増するアクセス数にあった[1]

いっぽう、出資先の日本市場は、まだ検索を必要とするほど成熟していなかった。1990年代半ばの日本では、インターネットの利用者そのものが限られ、無数のサイトから目的の情報を探すという検索の発想が一般には根づいていなかった。米国で先に立ち上がった検索ポータルの型を、利用者もサイトも乏しい日本へ持ち込むことには不確実さがつきまとう。ソフトバンクは、その空白の市場に最も早く入る側を選ぶ[2]

決断

ブランドは借り、経営は握る合弁

1996年1月11日、ソフトバンクは米ヤフーとの合弁で、資本金2億円の日本法人ヤフー株式会社を設立した。出資はソフトバンクが60%(1.2億円)、米ヤフーが40%(0.8億円)で、代表取締役社長には孫正義自身が就いた。事業は日本国内での日本語対応の情報検索サービスの提供などで、本社は東京都中央区に置かれた。ブランドと検索の技術は米ヤフーから借りつつ、資本と日々の経営はソフトバンクが一手に握る——名前は米国のもの、実態は子会社という変則的な合弁であった。同年4月には日本語の検索サービス「Yahoo! JAPAN」を立ち上げ、日本の検索ポータルに最も早く参入した[3]

社員数名の会社への100億円

合弁の設立と前後して、ソフトバンクは米ヤフー本体への出資をさらに厚くした。1996年4月、既存の5%に加えて35%を100億円で買い増し、保有比率は37.02%となって、創業者のジェリー・ヤンらを上回る筆頭株主の座を確保する。買い増しの相手は、社員5〜6名、月商が数千万円という規模のベンチャーであった。実績のある事業ではなく、これから伸びるという見込みだけを頼りに100億円を投じる判断には、相応の危うさが伴った。ソフトバンクはこの賭けに、グループの資金と信用を積んだ[4]

結果

上場と日本ヤフーの膨張がもたらした含み益

賭けの答えは、早くに出た。1996年4月、米ヤフーはナスダックに上場し、株価は公開価格を上回って推移する。ソフトバンクが37%を握る会社の株価が跳ねたことで、帳簿上の含み益は急速にふくらんだ。2000年のネットバブルのピークには、米ヤフー株で約2兆円、日本法人のヤフーで約1.2兆円の含み益に達し、ソフトバンクグループの資産価値の大半をYahoo関連が占めた。2億円で買った小さな持ち分が、グループで最も重い資産へと育った[5]

含み益だけではなかった。日本法人のヤフーは、検索ポータルからニュース、オークション、ショッピングへと事業の幅を広げ、日本のインターネットサービスで支配的な位置を確保していく。孫正義が同時代に語った言葉は、この賭けの底にあった危機感をよく示している。世界がデジタル情報革命の速さで走っているのに、日本の経営者はそれを腹の底で理解していない——その認識が、無名のベンチャーへ資本を集中させる判断を支えた。ソフトバンクにとって米ヤフーとヤフー日本法人への出資は、投資会社としての企業価値そのものを規定する中核資産へと育った[6][7]

出典・参考