コナミグループ:上月景正氏の創業とファミコン参入による家庭用ゲームへの拡大
1969年〜資本金100万円で興したコナミ工業と、米英独の現地法人を連ねた大証二部上場
創業者の上月景正氏は1969年3月、大阪府豊中市で個人経営の「コナミ工業」を興し、ジュークボックスなどの電子応用製品を作って売った。上月景正氏は音響機器メーカーから独立した人物で、初めは他社の下請けをこなすうちにコンピュータへの関心を深めた。ハードは巨額の資本を要する大企業の領分だと見て、ソフトに絞る方針を固め、昼は工場と経理を見ながら夜にソフトを学んだ。社名は、上月景正氏と創業を支えた若手3人の頭文字を並べて付けた。1973年3月には資本金100万円で法人に改め、コナミ工業株式会社を設立した。下請けで他社の機械に触れた経験が、付加価値がどこに残るかを見きわめる材料になったとみられる。
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [1]1969年3月に上月景正が豊中市でジュークボックス等の電子応用製品の製造販売を目的に個人経営のコナミ工業を創設、1973年3月に資本金100万円で法人化
- [5]1969年3月に上月景正が豊中市でジュークボックス等の電子応用製品の製造販売を目的に個人経営のコナミ工業を創設、1973年3月に資本金100万円で法人化
- バンガード 8(9) 1987年9月「社長職禅譲でサクセス企業活性化――コナミ工業(株)社長 菱川文博」
- [2]上月は音響会社からの独立組で、下請けを経てコンピュータに親しみ、ハードは巨大資本の分野としてソフトに特化、経理と工場管理の傍らソフトを学んだ
- [3]上月は音響会社からの独立組で、下請けを経てコンピュータに親しみ、ハードは巨大資本の分野としてソフトに特化、経理と工場管理の傍らソフトを学んだ
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- [4]社名は上月と創業を助けた若手3人の頭文字の組み合わせ、1973年に資本金100万円のコナミ工業株式会社とした
- [6]社名は上月と創業を助けた若手3人の頭文字の組み合わせ、1973年に資本金100万円のコナミ工業株式会社とした
コナミ工業は1978年1月、ゲームセンター向けのビデオゲーム機の製造販売に参入した。国内ではソフトの権利を守る法制度が整わず、発売後まもなく複製品が出回ったため、上月景正社長は著作権保護の固まった米国に目を向けた。上月景正社長は見本を携えて米国各地を回り、シカゴのスタン・エレクトロニクスが権利を買い取ったことが米国進出の足場になった。以後、大手からのOEM供給の求めをできるだけ断り、「コナミ」の名で売る方針を通した。1984年時点で製品の約55%が輸出に回り、そのうち約70%を米国向けが占めた。国内では複製の被害が続き、1983年2月期の売上高は43億円と前期の81億円から減少した。自社の名で売る方針は、複製と争う場面で権利の持ち主を示す意味も帯びたと推察される。
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [7]1978年1月にゲームセンター用ビデオゲーム機の製造販売を開始、1983年2月期の収益悪化は自社製品の大量コピーが原因
- [12]1978年1月にゲームセンター用ビデオゲーム機の製造販売を開始、1983年2月期の収益悪化は自社製品の大量コピーが原因
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年12月(菱川文博)
- [8]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [9]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [10]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [11]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- [13]売上高は1982年2月期81億円、1983年2月期43億円
海外で名が通ると、コナミ工業は販売を現地法人へ移した。1982年11月に米国ロサンゼルスでKonami, Inc.を設け、1984年10月に取引の中心であるシカゴへ移した。1984年6月にロンドンでKonami Ltd.、同年12月にフランクフルトでKonami GmbHを設け、欧州市場を二分して担わせた。国内の販売は、1982年6月に買収した日本遊園(現コナミ株式会社)に一手に任せた。1984年1月には兵庫県企画部長だった菱川文博氏を会長に迎え、同年10月に大阪証券取引所の新2部へ上場した。菱川文博会長は上場の狙いとして、優秀な学生の採用、社員の意欲、金利のかからない資金の3点を挙げた。工場を持たず研究所だけで稼ぐ会社にとって、上場は資金よりも人材を確保する手段だった。
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- [14]1982年11月ロサンゼルスにKonami, Inc.設立、1984年10月シカゴへ移転、1984年6月ロンドンにKonami Ltd.、同12月フランクフルトにKonami GmbHを設け欧州販売を二分
- [15]1982年11月ロサンゼルスにKonami, Inc.設立、1984年10月シカゴへ移転、1984年6月ロンドンにKonami Ltd.、同12月フランクフルトにKonami GmbHを設け欧州販売を二分
- [17]1982年11月ロサンゼルスにKonami, Inc.設立、1984年10月シカゴへ移転、1984年6月ロンドンにKonami Ltd.、同12月フランクフルトにKonami GmbHを設け欧州販売を二分
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年12月(菱川文博)
- [16]米国法人は取引の中心の中東部に合わせシカゴへ移した。1984年10月1日に大証新2部上場、上場の狙いは人材確保・社員の意欲・金利のかからない資金
- [20]米国法人は取引の中心の中東部に合わせシカゴへ移した。1984年10月1日に大証新2部上場、上場の狙いは人材確保・社員の意欲・金利のかからない資金
- [21]米国法人は取引の中心の中東部に合わせシカゴへ移した。1984年10月1日に大証新2部上場、上場の狙いは人材確保・社員の意欲・金利のかからない資金
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [18]1982年6月に日本遊園(現コナミ株式会社)を買収し国内販売会社に、菱川文博は1984年1月取締役会長就任(元兵庫県企画部長)
- [19]1982年6月に日本遊園(現コナミ株式会社)を買収し国内販売会社に、菱川文博は1984年1月取締役会長就任(元兵庫県企画部長)
参考文献[1]-[21]
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [1]1969年3月に上月景正が豊中市でジュークボックス等の電子応用製品の製造販売を目的に個人経営のコナミ工業を創設、1973年3月に資本金100万円で法人化
- [5]1969年3月に上月景正が豊中市でジュークボックス等の電子応用製品の製造販売を目的に個人経営のコナミ工業を創設、1973年3月に資本金100万円で法人化
- [7]1978年1月にゲームセンター用ビデオゲーム機の製造販売を開始、1983年2月期の収益悪化は自社製品の大量コピーが原因
- [12]1978年1月にゲームセンター用ビデオゲーム機の製造販売を開始、1983年2月期の収益悪化は自社製品の大量コピーが原因
- [18]1982年6月に日本遊園(現コナミ株式会社)を買収し国内販売会社に、菱川文博は1984年1月取締役会長就任(元兵庫県企画部長)
- [19]1982年6月に日本遊園(現コナミ株式会社)を買収し国内販売会社に、菱川文博は1984年1月取締役会長就任(元兵庫県企画部長)
- バンガード 8(9) 1987年9月「社長職禅譲でサクセス企業活性化――コナミ工業(株)社長 菱川文博」
- [2]上月は音響会社からの独立組で、下請けを経てコンピュータに親しみ、ハードは巨大資本の分野としてソフトに特化、経理と工場管理の傍らソフトを学んだ
- [3]上月は音響会社からの独立組で、下請けを経てコンピュータに親しみ、ハードは巨大資本の分野としてソフトに特化、経理と工場管理の傍らソフトを学んだ
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- [4]社名は上月と創業を助けた若手3人の頭文字の組み合わせ、1973年に資本金100万円のコナミ工業株式会社とした
- [6]社名は上月と創業を助けた若手3人の頭文字の組み合わせ、1973年に資本金100万円のコナミ工業株式会社とした
- [13]売上高は1982年2月期81億円、1983年2月期43億円
- [14]1982年11月ロサンゼルスにKonami, Inc.設立、1984年10月シカゴへ移転、1984年6月ロンドンにKonami Ltd.、同12月フランクフルトにKonami GmbHを設け欧州販売を二分
- [15]1982年11月ロサンゼルスにKonami, Inc.設立、1984年10月シカゴへ移転、1984年6月ロンドンにKonami Ltd.、同12月フランクフルトにKonami GmbHを設け欧州販売を二分
- [17]1982年11月ロサンゼルスにKonami, Inc.設立、1984年10月シカゴへ移転、1984年6月ロンドンにKonami Ltd.、同12月フランクフルトにKonami GmbHを設け欧州販売を二分
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年12月(菱川文博)
- [8]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [9]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [10]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [11]ソフトの権益保護の法制度が未整備でコピーが出回ったため著作権保護の確立した米国に着目、上月がサンプルを持って回りシカゴのスタン・エレクトロニクスが権益を買い取った。OEMを避けコナミ・ブランドで販売、製品の約55%が輸出でうち米国約70%
- [16]米国法人は取引の中心の中東部に合わせシカゴへ移した。1984年10月1日に大証新2部上場、上場の狙いは人材確保・社員の意欲・金利のかからない資金
- [20]米国法人は取引の中心の中東部に合わせシカゴへ移した。1984年10月1日に大証新2部上場、上場の狙いは人材確保・社員の意欲・金利のかからない資金
- [21]米国法人は取引の中心の中東部に合わせシカゴへ移した。1984年10月1日に大証新2部上場、上場の狙いは人材確保・社員の意欲・金利のかからない資金
1985年〜ファミコン参入で伸びた家庭用ソフトと、社長を任せた7年間の米国の過剰在庫
コナミ工業は1984年12月、任天堂と「ファミリーコンピュータ」用カートリッジの製造販売契約を結び、1985年4月から出荷した。国内のゲームセンターは1981年ごろの5万3,000軒から2万4,000軒へ減り、1985年2月施行の改正風営法で営業時間も縮んでいた。家庭用には業務用で評判を得た作品を選び、プログラムを組み直して出したため、ヒットが比較的安定して続いた。菱川文博会長は1986年2月の講演で、ファミコン用ソフトのシェアを約10%、MSX用を40%以上とみていた。1987年2月期の売上高19,014百万円のうち、ファミコン用は13,516百万円で71.1%を占め、業務用は17.1%に下がった。ゲームセンターで客の反応を確かめた作品を家庭用へ移植する手順が、開発費の回収先を一つ増やした。
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [22]1984年12月に任天堂とファミコン用カートリッジの製造販売契約、1985年4月開始。業務用で評判の高い製品を再設計して家庭用に。1987年2月期売上高19,014百万円のうちファミコン用13,516百万円(71.1%)、業務用17.1%
- [24]1984年12月に任天堂とファミコン用カートリッジの製造販売契約、1985年4月開始。業務用で評判の高い製品を再設計して家庭用に。1987年2月期売上高19,014百万円のうちファミコン用13,516百万円(71.1%)、業務用17.1%
- [26]1984年12月に任天堂とファミコン用カートリッジの製造販売契約、1985年4月開始。業務用で評判の高い製品を再設計して家庭用に。1987年2月期売上高19,014百万円のうちファミコン用13,516百万円(71.1%)、業務用17.1%
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- [23]ゲームセンターは1981年ごろのピーク5万3,000軒から2万4,000軒に減少、前年2月施行の風営法改正で営業時間短縮。ファミコン用シェア約10%、MSX用40%以上(1986年2月4日講演)
- [25]ゲームセンターは1981年ごろのピーク5万3,000軒から2万4,000軒に減少、前年2月施行の風営法改正で営業時間短縮。ファミコン用シェア約10%、MSX用40%以上(1986年2月4日講演)
上月景正氏は1987年6月に社長を退任して会長となり、会長だった菱川文博氏が社長に就任した。上月景正氏は当時46歳で、のちに40代で上場企業の社長を務めることに気後れし、60代の菱川文博氏に譲ったと振り返った。社員の多くが若く上場会社の役員に見合う人材を欠いたため、コナミ工業は上場の準備に入った時点から、大企業や金融機関の出身者を採り続けた。社員の平均年齢は27歳で、菱川文博社長は東証一部に上場して基盤が固まれば、社長職を上月景正会長へ返すと明言した。コナミ工業は1988年2月に東京証券取引所第2部へ上場し、同年8月には東証・大証の第1部へ指定替えとなった。会社の顔を外部の年長者に託す判断は、ゲーム会社への世間の目を気にしたものでもあった。
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [27]菱川文博は1987年6月に取締役社長就任、上月景正は取締役会長。1988年2月19日東証上場
- [33]菱川文博は1987年6月に取締役社長就任、上月景正は取締役会長。1988年2月19日東証上場
- 日経ビジネス 1999年7月19日号
- [28]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [29]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [31]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [34]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- 日経ビジネス 1995年7月31日号
- [30]上月は1987年、46歳で社長から会長に退き、兵庫県庁出身の菱川文博を社長に招いた
- バンガード 8(9) 1987年9月「社長職禅譲でサクセス企業活性化――コナミ工業(株)社長 菱川文博」
- [32]社員の平均年齢27歳、菱川は一部上場を果たして基盤ができたら上月に社長職を返すと表明
1992年5月、上月景正会長は大和銀行出身の西村靖雄氏を社長に据えた。1990年2月期は輸出が売上高の80.0%を占め、売上の大半が任天堂向けのソフトだった。西村靖雄社長はこの偏りを改めるため、1992年からパチンコ台の画像ICと娯楽施設の運営へ事業を広げた。その裏で本社は売上計画を優先し、米国の販売子会社へ商品を押し込んで帳簿上の利益を立てていた。上月景正会長は1994年6月に会長のまま社長へ戻り、1995年3月期に海外在庫の引当金105億円を積んで、160億円の最終赤字を出した。復帰後は社員3人に1台の割合でパソコン350台を入れ、電子メールで毎日指示を出す体制に改めた。創業者と外部の社長が互いに相手へ任せたつもりでいた7年間が、在庫の実態を見えにくくしたと考えられる。
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- [35]西村靖雄は大和銀行出身、1991年2月入社、1992年5月社長就任
- 日経ビジネス 1999年7月19日号
- [36]1992年5月に都市銀行出身者を社長に、1994年6月に上月が社長に復帰し翌年巨額赤字
- [41]1992年5月に都市銀行出身者を社長に、1994年6月に上月が社長に復帰し翌年巨額赤字
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [37]1990年2月期は売上高377億円のうち輸出302億円(80.0%)、売上の大半が任天堂向け。1992年9月パチンコ台向け画像IC納入、同10月神戸ハーバーランドにアミューズメント施設
- [38]1990年2月期は売上高377億円のうち輸出302億円(80.0%)、売上の大半が任天堂向け。1992年9月パチンコ台向け画像IC納入、同10月神戸ハーバーランドにアミューズメント施設
- 日経ビジネス 1995年7月31日号
- [39]本社の売上計画優先で米国子会社へ押し込み販売、海外在庫整理の引当金105億円で1995年3月期に最終160億円の赤字。1994年6月総会後に社長復帰、パソコン350台と電子メールで指示
- [40]本社の売上計画優先で米国子会社へ押し込み販売、海外在庫整理の引当金105億円で1995年3月期に最終160億円の赤字。1994年6月総会後に社長復帰、パソコン350台と電子メールで指示
- [42]本社の売上計画優先で米国子会社へ押し込み販売、海外在庫整理の引当金105億円で1995年3月期に最終160億円の赤字。1994年6月総会後に社長復帰、パソコン350台と電子メールで指示
参考文献[22]-[42]
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)
- [22]1984年12月に任天堂とファミコン用カートリッジの製造販売契約、1985年4月開始。業務用で評判の高い製品を再設計して家庭用に。1987年2月期売上高19,014百万円のうちファミコン用13,516百万円(71.1%)、業務用17.1%
- [24]1984年12月に任天堂とファミコン用カートリッジの製造販売契約、1985年4月開始。業務用で評判の高い製品を再設計して家庭用に。1987年2月期売上高19,014百万円のうちファミコン用13,516百万円(71.1%)、業務用17.1%
- [26]1984年12月に任天堂とファミコン用カートリッジの製造販売契約、1985年4月開始。業務用で評判の高い製品を再設計して家庭用に。1987年2月期売上高19,014百万円のうちファミコン用13,516百万円(71.1%)、業務用17.1%
- [27]菱川文博は1987年6月に取締役社長就任、上月景正は取締役会長。1988年2月19日東証上場
- [33]菱川文博は1987年6月に取締役社長就任、上月景正は取締役会長。1988年2月19日東証上場
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- [23]ゲームセンターは1981年ごろのピーク5万3,000軒から2万4,000軒に減少、前年2月施行の風営法改正で営業時間短縮。ファミコン用シェア約10%、MSX用40%以上(1986年2月4日講演)
- [25]ゲームセンターは1981年ごろのピーク5万3,000軒から2万4,000軒に減少、前年2月施行の風営法改正で営業時間短縮。ファミコン用シェア約10%、MSX用40%以上(1986年2月4日講演)
- 日経ビジネス 1999年7月19日号
- [28]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [29]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [31]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [34]上場時の社内に上場企業の役員を務められる人材がいなかった。上月は40代で上場企業の社長という立場に怖じ気づき60代の外部出身者に社長を譲った。上場準備期から外部人材を多数迎えた。1987年6月会長に、1988年2月東証2部上場、同8月東証・大証1部指定替え
- [36]1992年5月に都市銀行出身者を社長に、1994年6月に上月が社長に復帰し翌年巨額赤字
- [41]1992年5月に都市銀行出身者を社長に、1994年6月に上月が社長に復帰し翌年巨額赤字
- 日経ビジネス 1995年7月31日号
- [30]上月は1987年、46歳で社長から会長に退き、兵庫県庁出身の菱川文博を社長に招いた
- [39]本社の売上計画優先で米国子会社へ押し込み販売、海外在庫整理の引当金105億円で1995年3月期に最終160億円の赤字。1994年6月総会後に社長復帰、パソコン350台と電子メールで指示
- [40]本社の売上計画優先で米国子会社へ押し込み販売、海外在庫整理の引当金105億円で1995年3月期に最終160億円の赤字。1994年6月総会後に社長復帰、パソコン350台と電子メールで指示
- [42]本社の売上計画優先で米国子会社へ押し込み販売、海外在庫整理の引当金105億円で1995年3月期に最終160億円の赤字。1994年6月総会後に社長復帰、パソコン350台と電子メールで指示
- バンガード 8(9) 1987年9月「社長職禅譲でサクセス企業活性化――コナミ工業(株)社長 菱川文博」
- [32]社員の平均年齢27歳、菱川は一部上場を果たして基盤ができたら上月に社長職を返すと表明
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- [35]西村靖雄は大和銀行出身、1991年2月入社、1992年5月社長就任
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [37]1990年2月期は売上高377億円のうち輸出302億円(80.0%)、売上の大半が任天堂向け。1992年9月パチンコ台向け画像IC納入、同10月神戸ハーバーランドにアミューズメント施設
- [38]1990年2月期は売上高377億円のうち輸出302億円(80.0%)、売上の大半が任天堂向け。1992年9月パチンコ台向け画像IC納入、同10月神戸ハーバーランドにアミューズメント施設
1995年〜パワプロとメタルギアの自社シリーズと、遊戯王カードとピープル買収
上月景正社長は1995年4月、開発部門を切り分けて家庭用ソフトの制作子会社を相次いで設けた。大阪開発センターの145人を移したKCE大阪が任天堂向け、200人のKCE東京がソニーとセガ向けを受け持った。子会社では終身雇用型の給与や就業規則から離れ、成果に応じて報酬を払い、開発者の流出を防ぐ仕組みにした。家庭用ソフトの売上高は、1995年3月期の134億円から1996年3月期には190億円超へ増える見通しとなった。KCE大阪は1998年に「パワフルプロ野球」シリーズをプレイステーションなど3機種へ出し、共通の基本設計を機種ごとに移した。2001年3月期のトップメッセージは、海外で評価の高い自社作品に「メタルギアソリッド」を挙げた。開発を機種と分野で分けたことが、自社シリーズを複数の機種へ出す体制の下地になった。
- 証券アナリストジャーナル 34(3) 1996年3月(上月景正)
- [43]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- [44]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- [45]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- [46]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- 証券アナリストジャーナル 37(10) 1999年10月(樹下國昭)
- [47]KCE大阪は1995年4月設立、パワフルプロ野球シリーズを1998年にプレイステーション・NINTENDO64・ゲームボーイカラー向けに発売、基本設計を複数ハードへコンバート
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2001 トップメッセージ
- [48]海外で大きな評価を得ている作品として「メタルギアソリッド」を挙げ、新作投入を予定
1997年発売の音楽ゲーム「ビートマニア」は、家庭用に客を奪われていた業務用で久しぶりのヒットになった。1999年6月、コナミはジャレコの「VJ」が特許を侵すとして差し止めの仮処分を申請し、7月にはナムコの店にも撤去を求めた。上月景正社長は、知的所有権の重視こそ業界のルールだという立場を示した。社内では1995年10月に管理職へ年俸制を入れ、1999年6月には部門と全社の業績から報酬を算出する制度に移した。計算式どおりに払った結果、年俸が1億円を超える役員も出た。1999年2月には、「週刊少年ジャンプ」連載の漫画を商品化した「遊戯王オフィシャルカードゲーム」を発売した。当てた作品の権利を守り、漫画の権利を紙のカードへ運ぶ動きは、どちらも作品を資産として扱う発想から出ていた。
- 日経ビジネス 1999年9月13日号
- [49]1997年発売のビートマニアは不振の業務用で久々のヒット。1999年6月7日にジャレコVJの差し止め仮処分を申請、7月23日にナムコのゲームセンターからの撤去を申請。上月は知的所有権の重視が業界のルールとの立場
- [50]1997年発売のビートマニアは不振の業務用で久々のヒット。1999年6月7日にジャレコVJの差し止め仮処分を申請、7月23日にナムコのゲームセンターからの撤去を申請。上月は知的所有権の重視が業界のルールとの立場
- [51]1997年発売のビートマニアは不振の業務用で久々のヒット。1999年6月7日にジャレコVJの差し止め仮処分を申請、7月23日にナムコのゲームセンターからの撤去を申請。上月は知的所有権の重視が業界のルールとの立場
- 日経ビジネス 1999年7月19日号
- [52]1995年10月に管理職全員に年俸制、1999年6月に部門・全社業績連動の賃金制度、年俸1億円超の役員が出た
- [53]1995年10月に管理職全員に年俸制、1999年6月に部門・全社業績連動の賃金制度、年俸1億円超の役員が出た
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2001 トップメッセージ
- [54]週刊少年ジャンプ連載「遊戯王」を商品化した遊戯王オフィシャルカードゲームを1999年2月に販売開始
2000年8月、コナミは健康に娯楽の要素を加えた商品で女性とシニア層を取り込むため、ヘルスエンタテインメント事業本部を設けた。2001年2月には、その事業を一気に立ち上げるため、スポーツクラブ最大手ピープルの株式54.64%を公開買付けで取得した。ピープル(現コナミスポーツ)はフランチャイズを含め約150店舗を運営していた。2001年8月にはゲームソフト制作のハドソンに45.5%を出資し、のちに持分を54.0%へ高めて連結子会社にした。2006年3月31日、コナミは純粋持株会社へ移り、デジタルエンタテインメントなど3事業を事業会社に委ねた。移行の理由には、変化の激しい市場へ機動的に応じる体制が要ることを挙げた。若者向けのゲームから健康へ客層を広げた買収は、少子化で細る主力市場への備えでもあった。
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2001 トップメッセージ
- [55]2000年8月にHE事業本部を創設(女性・シニア層向け)、2001年2月に公開買付けでピープル(現コナミスポーツ)の54.64%を取得し子会社化、約150店舗
- [56]2000年8月にHE事業本部を創設(女性・シニア層向け)、2001年2月に公開買付けでピープル(現コナミスポーツ)の54.64%を取得し子会社化、約150店舗
- [57]2000年8月にHE事業本部を創設(女性・シニア層向け)、2001年2月に公開買付けでピープル(現コナミスポーツ)の54.64%を取得し子会社化、約150店舗
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2006
- [58]ハドソンは2001年8月取得の関連会社(45.5%)、のち14億3千4百万円を投じて54.0%とし連結子会社化。2006年3月31日に純粋持株会社へ移行、市場変化に柔軟かつ機動的に対応するため
- [59]ハドソンは2001年8月取得の関連会社(45.5%)、のち14億3千4百万円を投じて54.0%とし連結子会社化。2006年3月31日に純粋持株会社へ移行、市場変化に柔軟かつ機動的に対応するため
- [60]ハドソンは2001年8月取得の関連会社(45.5%)、のち14億3千4百万円を投じて54.0%とし連結子会社化。2006年3月31日に純粋持株会社へ移行、市場変化に柔軟かつ機動的に対応するため
参考文献[43]-[60]
- 証券アナリストジャーナル 34(3) 1996年3月(上月景正)
- [43]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- [44]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- [45]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- [46]1995年4月に大阪開発センター145人を分離しKCE大阪(任天堂向け)、KCE東京200人(ソニー・セガ向け)などを100%子会社で設立、成果に応じた報酬で流出防止。CSソフト売上は1995年3月期134億円から1996年3月期190億円超の見通し
- 証券アナリストジャーナル 37(10) 1999年10月(樹下國昭)
- [47]KCE大阪は1995年4月設立、パワフルプロ野球シリーズを1998年にプレイステーション・NINTENDO64・ゲームボーイカラー向けに発売、基本設計を複数ハードへコンバート
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2001 トップメッセージ
- [48]海外で大きな評価を得ている作品として「メタルギアソリッド」を挙げ、新作投入を予定
- [54]週刊少年ジャンプ連載「遊戯王」を商品化した遊戯王オフィシャルカードゲームを1999年2月に販売開始
- [55]2000年8月にHE事業本部を創設(女性・シニア層向け)、2001年2月に公開買付けでピープル(現コナミスポーツ)の54.64%を取得し子会社化、約150店舗
- [56]2000年8月にHE事業本部を創設(女性・シニア層向け)、2001年2月に公開買付けでピープル(現コナミスポーツ)の54.64%を取得し子会社化、約150店舗
- [57]2000年8月にHE事業本部を創設(女性・シニア層向け)、2001年2月に公開買付けでピープル(現コナミスポーツ)の54.64%を取得し子会社化、約150店舗
- 日経ビジネス 1999年9月13日号
- [49]1997年発売のビートマニアは不振の業務用で久々のヒット。1999年6月7日にジャレコVJの差し止め仮処分を申請、7月23日にナムコのゲームセンターからの撤去を申請。上月は知的所有権の重視が業界のルールとの立場
- [50]1997年発売のビートマニアは不振の業務用で久々のヒット。1999年6月7日にジャレコVJの差し止め仮処分を申請、7月23日にナムコのゲームセンターからの撤去を申請。上月は知的所有権の重視が業界のルールとの立場
- [51]1997年発売のビートマニアは不振の業務用で久々のヒット。1999年6月7日にジャレコVJの差し止め仮処分を申請、7月23日にナムコのゲームセンターからの撤去を申請。上月は知的所有権の重視が業界のルールとの立場
- 日経ビジネス 1999年7月19日号
- [52]1995年10月に管理職全員に年俸制、1999年6月に部門・全社業績連動の賃金制度、年俸1億円超の役員が出た
- [53]1995年10月に管理職全員に年俸制、1999年6月に部門・全社業績連動の賃金制度、年俸1億円超の役員が出た
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2006
- [58]ハドソンは2001年8月取得の関連会社(45.5%)、のち14億3千4百万円を投じて54.0%とし連結子会社化。2006年3月31日に純粋持株会社へ移行、市場変化に柔軟かつ機動的に対応するため
- [59]ハドソンは2001年8月取得の関連会社(45.5%)、のち14億3千4百万円を投じて54.0%とし連結子会社化。2006年3月31日に純粋持株会社へ移行、市場変化に柔軟かつ機動的に対応するため
- [60]ハドソンは2001年8月取得の関連会社(45.5%)、のち14億3千4百万円を投じて54.0%とし連結子会社化。2006年3月31日に純粋持株会社へ移行、市場変化に柔軟かつ機動的に対応するため
1969年〜2006年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年09月期 | 連結 | 225 | n/a | n/a | 6 | 4 | 1.8% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 319 | +41.8% | n/a | 43 | 20 | 6.3% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 411 | +28.8% | n/a | 1 | ▲29 | ▲7.1% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 399 | ▲2.9% | n/a | ▲117 | ▲132 | ▲33.1% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 565 | +41.6% | n/a | 23 | 13 | 2.3% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 694 | +22.8% | n/a | 76 | 60 | 8.6% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 896 | +29.1% | n/a | 62 | 50 | 5.6% | n/a |
| 1999年03月期 | 連結 | 1,134 | +26.6% | n/a | 162 | 51 | 4.5% | n/a |
| 2000年03月期 | 連結 | 1,467 | +29.4% | n/a | 311 | 183 | 12.5% | n/a |
| 2001年03月期 | 連結 | 1,715 | +16.9% | n/a | 364 | 218 | 12.7% | n/a |
| 2002年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 2003年03月期 | 連結 | 2,537 | n/a | ▲219 | n/a | ▲285 | ▲11.2% | n/a |
| 2004年03月期 | 連結 | 2,734 | +7.8% | 407 | n/a | 201 | 7.4% | n/a |
| 2005年03月期 | 連結 | 2,607 | ▲4.6% | 281 | n/a | 105 | 4.0% | n/a |
| 2006年03月期 | 連結 | 2,621 | +0.5% | 25 | n/a | 230 | 8.8% | n/a |
出所:会社年鑑、有価証券報告書
出典・参考
13件
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2001 トップメッセージ
- コナミ株式会社 アニュアルレポート2006
- 証券アナリストジャーナル 22(12) 1984年12月(菱川文博)
- 証券アナリストジャーナル 24(3) 1986年3月(菱川文博)
- 日経ビジネス 1992年8月3日・10日号
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- 日経ビジネス 1995年7月31日号
- 証券アナリストジャーナル 34(3) 1996年3月(上月景正)
- 日経ビジネス 1999年7月19日号
- 証券アナリストジャーナル 37(10) 1999年10月(樹下國昭)
- 日経ビジネス 1999年9月13日号
- バンガード 8(9) 1987年9月「社長職禅譲でサクセス企業活性化――コナミ工業(株)社長 菱川文博」
- 証券 40(4) 1988年4月(新規上場会社紹介)