富士ソフト:三菱電機への70%依存からマイコン専業のソフト・ハウスへ
1970年〜アルバイトを含め5〜6人で始めた二次・三次下請け
1970年5月、野澤徹氏と野澤宏氏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した。資本金は3,000千円、本店は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地。発足当時の従業員はアルバイトを含めて5〜6人、年商は300万円程度にとどまった。1972年ごろまでの主要業務は、オペレーターの派遣を中心とする二次下請け・三次下請けが占めた。二次下請け・三次下請けは元請けの下で仕事を受ける立場を指し、富士ソフトウエア研究所は求められた人数のオペレーターを送り出した。受注そのものは安定していた半面、利幅は薄かった。
- 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
- [1]1970年5月、野澤徹と野澤宏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した
- [2]設立時の資本金は3,000千円、本店所在地は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [3]1970年の発足当時、従業員はアルバイトを含め5〜6人、年商300万円程度だった
- [4]1972年ごろまでの主要業務はオペレーターの派遣を中心とする二次・三次下請けだった
- [5]最初の1972年ごろまでの時期はオペレーターの派遣を中心とする二次、三次下請けが主要業務だった
- [6]下請け中心の時期を「非常に安全だが、うまみも少なかった」と述べた
野澤宏氏は設立時に取締役として名を連ね、1973年5月に代表取締役社長へ就任した。同じ1973年から1975年にかけて、富士ソフトウエア研究所はオペレーターの派遣をプログラマーの派遣へ切り替え、元請け化に挑んだ。派遣はその後すべて請け負いに改め、時間あたりで人を出す契約から、成果物の完成に責任を負う契約へ移った。発足時にアルバイトを含めて5〜6人だった従業員は、この時期に100人を超えた。年商300万円で始めた富士ソフトウエア研究所の売上高は、1973年ごろから年率30〜40%で伸び、発展の節目もおおむね3年ごとに訪れた。
- 富士ソフト 有価証券報告書【役員の状況】
- [7]野澤宏は1970年5月に(株)富士ソフトウエア研究所取締役、1973年5月に代表取締役社長へ就任した
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [8]1973年から1975年にかけてプログラマーの派遣に切り替え元請け化に挑戦した
- [9]派遣をすべて請け負いに切り替えた
- [10]発足当時の従業員はアルバイトを含め5〜6人。1973年から1975年にかけて規模が膨らみ従業員数は100人を超えた
- [11]発足当時の年商は300万円程度。1973年ごろから年率30〜40%の高成長を続け、発展の足どりは大体3年ごとが節目となっている
参考文献[1]-[11]
- 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
- [1]1970年5月、野澤徹と野澤宏が株式会社富士ソフトウエア研究所を設立した
- [2]設立時の資本金は3,000千円、本店所在地は神奈川県横浜市旭区左近山1148番地
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [3]1970年の発足当時、従業員はアルバイトを含め5〜6人、年商300万円程度だった
- [4]1972年ごろまでの主要業務はオペレーターの派遣を中心とする二次・三次下請けだった
- [5]最初の1972年ごろまでの時期はオペレーターの派遣を中心とする二次、三次下請けが主要業務だった
- [6]下請け中心の時期を「非常に安全だが、うまみも少なかった」と述べた
- [8]1973年から1975年にかけてプログラマーの派遣に切り替え元請け化に挑戦した
- [9]派遣をすべて請け負いに切り替えた
- [10]発足当時の従業員はアルバイトを含め5〜6人。1973年から1975年にかけて規模が膨らみ従業員数は100人を超えた
- [11]発足当時の年商は300万円程度。1973年ごろから年率30〜40%の高成長を続け、発展の足どりは大体3年ごとが節目となっている
- 富士ソフト 有価証券報告書【役員の状況】
- [7]野澤宏は1970年5月に(株)富士ソフトウエア研究所取締役、1973年5月に代表取締役社長へ就任した
1987年〜三菱電機への受託集中と、子会社政策が招いた1社依存の是正
当時、国内のコンピューターの作り手は、IBM機に対抗できる機種づくりをめざして三つの陣営に分かれており、日本電気と東芝が"エイコス"、日立と富士通が"Mシリーズ"、三菱電機と沖電気が"コスモシリーズ"を手がけていた。元請けとなった富士ソフトウエア研究所は、このうちどの系列に付くかを選ぶ段に来ていた。最良と判断したのは三菱電機・沖電気の組で、三菱電機へ働きかけて受託化を進めた。野澤宏社長が最も苦しんだのはこの受託化の時期だったが、三菱電機向けの仕事はやがて積み上がり、総売上高の70%に達した。
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [12]日本のコンピューター・メーカーはIBM対抗機種の開発で三系列に分かれ、日電と東芝が「エイコス」、日立と富士通が「Mシリーズ」、三菱と沖電気が「コスモシリーズ」を開発した
- [13]元請け化のあと、三系列のうち三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機へアプローチした
- [14]三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機にアプローチし受託化を進めた
- [15]三菱電機への受託化を進めた時期を「一番苦労した時期である」と述べた
- [16]総売上高の70%を三菱電機に依存していた
ところが各コンピューター・メーカーが子会社政策を打ち出し、三菱電機も子会社を多数設けたため、売上の7割を1社に預けた富士ソフトウエア研究所の立場は弱くなった。そこで1社依存を改め、管理力と営業力を高めたうえで、富士通と日本電気からも受注した。取引先はその後も広がり、1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなど、コンピューター・電機・通信機・事務機・音響機器のメーカーに及んだ。時計やカメラを専業とする精密機械メーカー、メカトロニクスやマイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた。
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [17]各メーカーが子会社政策を強化し、三菱電機も子会社を多数つくったため、総売上高の70%を三菱電機に依存していた立場が弱くなった
- [18]1社依存を改めることとして管理力・営業力の強化を図り、富士通・日本電気などからも仕事を受けた
- [19]1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなどコンピューター、電機、通信機、事務機、音響機器のメーカー
- [20]時計・カメラを専業とする精密機械メーカーやメカトロニクス、マイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた
参考文献[12]-[20]
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [12]日本のコンピューター・メーカーはIBM対抗機種の開発で三系列に分かれ、日電と東芝が「エイコス」、日立と富士通が「Mシリーズ」、三菱と沖電気が「コスモシリーズ」を開発した
- [13]元請け化のあと、三系列のうち三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機へアプローチした
- [14]三菱・沖電気が一番良いとみて三菱電機にアプローチし受託化を進めた
- [15]三菱電機への受託化を進めた時期を「一番苦労した時期である」と述べた
- [16]総売上高の70%を三菱電機に依存していた
- [17]各メーカーが子会社政策を強化し、三菱電機も子会社を多数つくったため、総売上高の70%を三菱電機に依存していた立場が弱くなった
- [18]1社依存を改めることとして管理力・営業力の強化を図り、富士通・日本電気などからも仕事を受けた
- [19]1987年12月時点の主な取引先は日本電気、富士ゼロックス、ピーエフユー、富士通、ソニーなどコンピューター、電機、通信機、事務機、音響機器のメーカー
- [20]時計・カメラを専業とする精密機械メーカーやメカトロニクス、マイクロエレクトロニクス関連企業との取引も増えた
1987年〜8ビットマイコンで転じたファーム・ウェア専業と店頭登録
マイコン専門のソフト・ハウスとして業務を組む道を富士ソフトウエア研究所が選んだ背景には、ハード屋の手詰まりと次世代機の見通しがあった。8ビットのマイコンが出てくると、4ビットのソフトまでは自前で書けていたハード屋(システム・ハウス)が追いつけなくなり、その注文が同社に入り始めた。16ビット機も遠くないうちに登場するとの話が届いており、特化の判断はこれを踏まえたものだった。自社商品の開発にも着手し、受託商品に加えて構造化プログラム開発支援ソフトウェア"COMPAL"、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ"SACK"を開発・販売した。このうち毛筆ワープロを最初に手がけたのは富士ソフトウエアである。
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [21]8ビットマイコンの出現で、4ビットのソフトを自分でやっていたハード屋(システム・ハウス)が手に負えなくなり注文が来るようになった
- [22]16ビットマイコンが遠からずできるという情報から、マイコンに特化したソフト・ハウスとして業務を展開することとした
- [23]受託商品だけでなく自社商品を開発することとし、構造化プログラム開発支援ソフトウェア「COMPAL」、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ「SACK」を開発・販売した
- [24]毛筆ワープロは同社が元祖である
経営の基本理念には『サービスの原点はひのきから』を掲げ、品質・納期・機密保持の三つを守るべきものとした。顧客と社員の教育のため早くから教育部門を置き、インストラクター20人と15人程度の少人数教室4つを備えた。実習を中心に最短1カ月をかける講習会と出張教育も行った。マニュアル類や操作手引書の必要からソフトウェア開発の入門書・専門書の出版にも注力し、NTTと共同で"初級Ada"を出版した。1987年12月時点の技術者資格は情報処理試験の1種が7人、2種が101人。新規社員の採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人で、1988年4月は100人を予定した。
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [25]経営の基本理念として「サービスの原点はひのきから」を掲げ、「ひ」は品質、「の」は納期、「き」は機密保持を指す
- [26]以前から教育部門を設置し、インストラクター20人、15人程度の少人数教室を四つ持つ
- [27]実習を中心に最短1カ月をかける教育を行い、各種講習会の開催・出張教育も実施した
- [28]ソフトウェア開発関連の入門書・専門書の出版に取り組み、NTTと共同で「初級Ada」を出版した
- [29]技術者の資格は情報処理試験1種が7人、2種が101人
- [30]新規社員採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人、1988年4月は100人を予定
受注先を広げた富士ソフトウエア研究所は、1984年からの4年間で社名と本社と株式の売買の場を順に改めた。1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社へ商号を変更。1985年5月には本社新社屋の完成により本社を神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ移し、旧本社を芝浦事務所に改称した。1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録。これを機とする増資で資本金は9億4,910万円、従業員数は約700人となった。1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込んだ。前期が減益に転じたのは、急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の主要取引先が打撃を受け、受注が減って稼働率が一時的に下がったことによる。
- 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
- [31]1984年4月に商号変更、1985年5月に本社移転、1987年12月に株式を店頭売買銘柄として登録
- [32]1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社に商号変更
- [33]1985年5月、本社新社屋完成により神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ本社移転、旧本社は芝浦事務所に改称
- [34]1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [35]1987年12月1日の店頭登録を機とする増資で資本金9億4,910万円、従業員数は約700人
- [36]1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込む(1987年12月16日の講演時点の見込み)
- [37]前期の減益は急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の取引先が打撃を受け、受注が減って一時的に稼働率が低下したことが主因
参考文献[21]-[37]
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)
- [21]8ビットマイコンの出現で、4ビットのソフトを自分でやっていたハード屋(システム・ハウス)が手に負えなくなり注文が来るようになった
- [22]16ビットマイコンが遠からずできるという情報から、マイコンに特化したソフト・ハウスとして業務を展開することとした
- [23]受託商品だけでなく自社商品を開発することとし、構造化プログラム開発支援ソフトウェア「COMPAL」、毛筆ワープロ、日本語処理パッケージ「SACK」を開発・販売した
- [24]毛筆ワープロは同社が元祖である
- [25]経営の基本理念として「サービスの原点はひのきから」を掲げ、「ひ」は品質、「の」は納期、「き」は機密保持を指す
- [26]以前から教育部門を設置し、インストラクター20人、15人程度の少人数教室を四つ持つ
- [27]実習を中心に最短1カ月をかける教育を行い、各種講習会の開催・出張教育も実施した
- [28]ソフトウェア開発関連の入門書・専門書の出版に取り組み、NTTと共同で「初級Ada」を出版した
- [29]技術者の資格は情報処理試験1種が7人、2種が101人
- [30]新規社員採用数は1985年4月50人、1986年4月100人、1987年4月60人、1988年4月は100人を予定
- [35]1987年12月1日の店頭登録を機とする増資で資本金9億4,910万円、従業員数は約700人
- [36]1988年3月期は売上高45億8,000万円、営業利益5億4,500万円、経常利益5億円、当期利益2億4,500万円を見込む(1987年12月16日の講演時点の見込み)
- [37]前期の減益は急激な円高で輸出関連・半導体関連・ハイテク関連の取引先が打撃を受け、受注が減って一時的に稼働率が低下したことが主因
- 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
- [31]1984年4月に商号変更、1985年5月に本社移転、1987年12月に株式を店頭売買銘柄として登録
- [32]1984年4月、事業の規模拡大に伴い富士ソフトウエア株式会社に商号変更
- [33]1985年5月、本社新社屋完成により神奈川県鎌倉市岡本960番地1へ本社移転、旧本社は芝浦事務所に改称
- [34]1987年12月、日本証券業協会に株式を店頭売買銘柄として登録
出典・参考
3件
- 富士ソフト 有価証券報告書【沿革】
- 富士ソフト 有価証券報告書【役員の状況】
- 証券アナリストジャーナル 1988年1月号(野澤宏・日本証券アナリスト協会企業分析部会講演)