第1章 年〜年

京成電鉄:京成電気軌道の設立と上野公園への路線延伸

1909年〜成田山と帝釈天の後押しで立った京成電気軌道と、沿線24町村に灯した電燈兼業

京成電気軌道は1909年6月30日に東京商業会議所で創立総会を開催し、専務取締役に本多貞次郎氏を選んだ。1907年に軌道の特許を得た直後に不況が始まり、3派で均等に割り振った株式は合同派の棄権で引受けが進まなかった。証拠金を通例の1株2円50銭から50銭に下げても、内藤派200名のうち応募は5名にとどまった。本多貞次郎氏は特許権を保つため、資本金を300万円から150万円に半減し、不足分を借入金と社債で賄う定款に改めて再認可を受けた。第1回払込みを支えたのは、成田山新勝寺・中山法華経寺・柴又帝釈天の3寺が納めた払込金だった。参詣客を運ぶ電車の実現が、寺院自身の利益にもなると見込まれたのだろう。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第3章 京成電気軌道の誕生」
    • [1]1909年6月30日 東京商業会議所で創立総会、第1回重役会で本多貞次郎が専務取締役
    • [2]特許後の不況で合同派の棄権が続出し株式募集が行き詰まる(1派各2万株の割当)
    • [3]証拠金を1株50銭に下げたが、内藤派200名のうち応募は5名
    • [4]資本金を300万円から150万円に改め、不足分は借入金・社債で賄う定款変更と再認可
  • 利光鶴松 手記(京成電鉄五十五年史(1967)「第3章 京成電気軌道の誕生」所収)
    • [5]正式の払込は成田山新勝寺・中山法華経寺・帝釈天の3寺のみで、本多がその払込金で会社を維持

本多貞次郎氏は1909年12月20日、市川・行徳・松戸・中山・船橋・津田沼一円の電燈供給兼営を逓信大臣に願い出た。沿線の主要町村で電燈事業を企てる者が現れ、先を越されないための企業防衛と、将来性のある兼業という2つの狙いがあった。1911年7月に市川発電所、9月に船橋発電所が落成して送電を始め、11月末の期末には3907燈に達した。電燈営業2期目の第6期末には5680燈に増え、軌道の開業前ながら年5分の株主配当を実施。1930年時点の供給区域は東葛飾郡の全部と千葉郡の一部の24町村に及び、東京電燈との協定で独占的な区域を保った。建設中の軌道の資金繰りを、電燈の安定収入が下支えしたと推察される。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第4章 兼業と鉄道の建設」
    • [6]1909年12月20日 市川・行徳・松戸・中山・二宮・船橋・津田沼一円の電燈供給兼営願いを逓信大臣に提出
    • [7]沿線主要町村に電燈供給を企画する者があり、企業防衛と将来性ある兼営の両面から出願
    • [8]1911年7月22日市川発電所、9月26日船橋発電所落成。期末(1911年11月30日)3907燈
    • [9]第6期(1912年5月31日)末5680燈、路線開業前に年5分の株主配当
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号
    • [10]供給区域は東葛飾郡全部と千葉郡の一部の24町村で独占的、東京電灯と協定

京成電気軌道は1912年11月3日、押上〜市川間と曲金〜柴又間の支線で電車の営業を始めた。第1期工事の区間は大部分が水田で、中川鉄橋を除いて橋梁・溝橋が45か所に上り、建設費は96万7000円に膨らんだ。盛土には埼玉県庁が進めていた中川浚渫の土砂を安く譲り受け、工期を予定どおりに保った。江戸川の鉄橋は工事が難航し、開業時の電車は河川敷の伊予田までで、対岸の市川へは伝馬船で接続した。新造の木製ボギー車5両で走らせ、運賃は押上から柴又まで11銭、市川まで13銭と報じられた。本線の開業と同時に柴又への支線を走らせたのは、帝釈天の参詣客を初日から見込めたためと思われる。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第5章 南葛の野を1号車は行く」
    • [11]1912年11月3日 押上〜市川間・曲金〜柴又支線で営業開始
    • [12]第1期工事は水田地帯で橋梁・溝橋45か所、建設費総額96万7000円
    • [13]中川浚渫工事の土砂を安く譲り受け、工事は予定どおり進捗
    • [14]江戸川鉄橋が難行し実際の開通は伊予田まで、市川へは伝馬船で接続
  • 都新聞 1912年11月4日「京成電軌の開業」(京成電鉄五十五年史(1967)「第5章」所収)
    • [15]押上より柴又迄11銭、市川迄13銭。新造車5両で営業
参考文献[1]-[15]
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第3章 京成電気軌道の誕生」
    • [1]1909年6月30日 東京商業会議所で創立総会、第1回重役会で本多貞次郎が専務取締役
    • [2]特許後の不況で合同派の棄権が続出し株式募集が行き詰まる(1派各2万株の割当)
    • [3]証拠金を1株50銭に下げたが、内藤派200名のうち応募は5名
    • [4]資本金を300万円から150万円に改め、不足分は借入金・社債で賄う定款変更と再認可
  • 利光鶴松 手記(京成電鉄五十五年史(1967)「第3章 京成電気軌道の誕生」所収)
    • [5]正式の払込は成田山新勝寺・中山法華経寺・帝釈天の3寺のみで、本多がその払込金で会社を維持
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第4章 兼業と鉄道の建設」
    • [6]1909年12月20日 市川・行徳・松戸・中山・二宮・船橋・津田沼一円の電燈供給兼営願いを逓信大臣に提出
    • [7]沿線主要町村に電燈供給を企画する者があり、企業防衛と将来性ある兼営の両面から出願
    • [8]1911年7月22日市川発電所、9月26日船橋発電所落成。期末(1911年11月30日)3907燈
    • [9]第6期(1912年5月31日)末5680燈、路線開業前に年5分の株主配当
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号
    • [10]供給区域は東葛飾郡全部と千葉郡の一部の24町村で独占的、東京電灯と協定
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第5章 南葛の野を1号車は行く」
    • [11]1912年11月3日 押上〜市川間・曲金〜柴又支線で営業開始
    • [12]第1期工事は水田地帯で橋梁・溝橋45か所、建設費総額96万7000円
    • [13]中川浚渫工事の土砂を安く譲り受け、工事は予定どおり進捗
    • [14]江戸川鉄橋が難行し実際の開通は伊予田まで、市川へは伝馬船で接続
  • 都新聞 1912年11月4日「京成電軌の開業」(京成電鉄五十五年史(1967)「第5章」所収)
    • [15]押上より柴又迄11銭、市川迄13銭。新造車5両で営業

1921年〜江戸川を越えて千葉・成田へ延びた本線と、浅草乗入れの陳情が招いた京成疑獄

京成電気軌道は1921年7月17日、船橋〜千葉間の開通式を稲毛で開き、鉄道大臣や千葉県知事を含む千余名が来賓として集まった。創立時の計画は船橋から津田沼・佐倉を経て成田に至る経路で、千葉への延長を先にする変更だった。千葉を先にしたのは、鉄道院線の蒸気列車が1時間に1本ほどしかなく、電車の便を知った地元が延長を求めたからである。1918年10月に特許を出願し、用地買収の遅れで着工は1920年10月にずれ込んだ。1920年1月の運賃改定後も押上〜船橋は30銭で、両国橋〜船橋の鉄道院線33銭を下回る水準を保った。安い運賃と30分間隔の電車で、蒸気列車の鉄道院線に対し競争優位を築こうとしたと考えられる。

  • 鉄道時報 第1140号 1921年7月25日「京成電車開通式船橋千葉間営業開始」(京成電鉄五十五年史(1967)「第7章」所収)
    • [16]1921年7月17日 稲毛駅前で船橋〜千葉間新線の開通式
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第7章 海岸ぞいに県都千葉へ」
    • [17]当初の建設計画は船橋・津田沼・大久保・佐倉・成田のコース。千葉線優先建設に変更
    • [18]千葉〜東京は鉄道院線の蒸汽鉄道で1時間に1回程度、地元民の要請
    • [19]1918年10月28日 船橋〜千葉間特許出願、用地買収で手間取り着工は1920年10月初旬
    • [20]1920年1月運賃改正後 押上〜船橋30銭、両国橋〜船橋(鉄道院線)33銭

京成電気軌道は1926年12月9日に津田沼〜酒々井間、24日に酒々井〜成田花咲町間を開業し、成田線を全通させた。1909年の創立から17年をかけ、社名に掲げた成田への路線が初詣の前につながった。成田までの営業は12月中旬に始まり、参詣客の便を図ると報じられた。前年の1925年9月には成田駅前と不動尊門前を結ぶ成田電気軌道の株式を取得し、参詣路の電車も傘下に収めた。成田電気軌道は1910年12月に千葉県で最初の電車を走らせた会社だった。仮駅の成田花咲町から0.4km延長し、現在の成田駅に移したのは1930年4月25日である。成田鉄道が先に運んでいた参詣客を、門前までの足ごと取り込む狙いも含まれていたはずだ。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第8章 法燈の町成田へ」
    • [21]1926年12月9日 津田沼〜酒々井間、12月24日 酒々井〜成田花咲町間開業で成田線全通
    • [22]1909年創立から20年近くを経て創業当初の目標である成田に到達
    • [24]1925年9月 成田電気軌道(成宗電気軌道)の株式買収に成功
    • [25]成宗電気軌道は1910年12月11日 成田駅前〜不動尊門前間を開通、千葉県下最初の電車
    • [26]1930年4月25日 成田花咲町から0.4km延長し現駅に移設
  • 鉄道時報 第1419号 1926年12月18日(京成電鉄五十五年史(1967)「第8章」所収)
    • [23]成田までは12月中旬より営業開始し賽客の便を図る

京成電気軌道は1927年3月15日、終点を浅草花川戸とする延長線を出願した。白鬚延長線に始まる都心乗入れの申請は、これで6回目だった。総武線が都心へ直通すれば押上止まりの京成は乗客を奪われるため、乗入れの実現は急務とされた。東京市会では隅田公園の風致や市営交通の統一を理由に反対論が強く、押上地区の住民も反対運動を起こした。1928年7月13日の市会本会議は42対35で乗入れ賛成の原案を可決。直後の9月6日に乗入れをめぐる不正の疑いで本社などが捜索を受け、社長の本多貞次郎氏と専務の後藤圀彦氏が起訴された。それでも京成は1929年9月に鉄道大臣と内務大臣へ陳情書を出し、省線の両国駅が都心と結ばれれば押上起点の京成は打撃を受けると訴えた。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第9章 浅草線計画と上野線建設」
    • [27]1927年3月15日 終点を浅草花川戸とする浅草延長線を出願
    • [28]白鬚延長線に始まる都心乗入れ申請は6回目
    • [30]市会反対派は隅田公園の風致・市営主義を理由に反対、押上地区住民が反対運動
    • [31]1928年7月13日 市会本会議で42対35により乗入れ賛成原案を可決
    • [32]1928年9月6日 本多社長宅・本社など捜索、本多・後藤らが起訴(京成疑獄)
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号
    • [29]総武線の都心直通が実現すれば京成は打撃、都心乗入れを断行しなければならない
  • 京成電気軌道 陳情書 1929年9月(京成電鉄五十五年史(1967)「第9章」所収)
    • [33]1929年9月 鉄道大臣・内務大臣宛陳情書。両国駅が万世橋駅と接続し都心と連絡すれば、押上起点の京成は抜本的打撃
参考文献[16]-[33]
  • 鉄道時報 第1140号 1921年7月25日「京成電車開通式船橋千葉間営業開始」(京成電鉄五十五年史(1967)「第7章」所収)
    • [16]1921年7月17日 稲毛駅前で船橋〜千葉間新線の開通式
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第7章 海岸ぞいに県都千葉へ」
    • [17]当初の建設計画は船橋・津田沼・大久保・佐倉・成田のコース。千葉線優先建設に変更
    • [18]千葉〜東京は鉄道院線の蒸汽鉄道で1時間に1回程度、地元民の要請
    • [19]1918年10月28日 船橋〜千葉間特許出願、用地買収で手間取り着工は1920年10月初旬
    • [20]1920年1月運賃改正後 押上〜船橋30銭、両国橋〜船橋(鉄道院線)33銭
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第8章 法燈の町成田へ」
    • [21]1926年12月9日 津田沼〜酒々井間、12月24日 酒々井〜成田花咲町間開業で成田線全通
    • [22]1909年創立から20年近くを経て創業当初の目標である成田に到達
    • [24]1925年9月 成田電気軌道(成宗電気軌道)の株式買収に成功
    • [25]成宗電気軌道は1910年12月11日 成田駅前〜不動尊門前間を開通、千葉県下最初の電車
    • [26]1930年4月25日 成田花咲町から0.4km延長し現駅に移設
  • 鉄道時報 第1419号 1926年12月18日(京成電鉄五十五年史(1967)「第8章」所収)
    • [23]成田までは12月中旬より営業開始し賽客の便を図る
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第9章 浅草線計画と上野線建設」
    • [27]1927年3月15日 終点を浅草花川戸とする浅草延長線を出願
    • [28]白鬚延長線に始まる都心乗入れ申請は6回目
    • [30]市会反対派は隅田公園の風致・市営主義を理由に反対、押上地区住民が反対運動
    • [31]1928年7月13日 市会本会議で42対35により乗入れ賛成原案を可決
    • [32]1928年9月6日 本多社長宅・本社など捜索、本多・後藤らが起訴(京成疑獄)
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号
    • [29]総武線の都心直通が実現すれば京成は打撃、都心乗入れを断行しなければならない
  • 京成電気軌道 陳情書 1929年9月(京成電鉄五十五年史(1967)「第9章」所収)
    • [33]1929年9月 鉄道大臣・内務大臣宛陳情書。両国駅が万世橋駅と接続し都心と連絡すれば、押上起点の京成は抜本的打撃

1931年〜日暮里から上野公園に届いた都心線と、後藤圀彦氏の下での京成電鉄への改称

京成電気軌道は1931年12月19日に青砥〜日暮里間、1933年12月10日に日暮里〜上野公園間を開業した。浅草延長線の特許は1931年7月21日に下りたが、東武鉄道は2か月前に浅草雷門まで開通させており、浅草への乗入れは出遅れた。都心への口は、資金難の筑波高速度鉄道を1930年5月に合併して得た日暮里起点の免許線に求めた。東武鉄道に断られた筑波高速度鉄道の幹部が専務の後藤圀彦氏に話を持ち込み、後藤圀彦氏はその場で引受けを決めた。日暮里線の開業で日暮里〜成田は普通80分・急行60分となり、上野・両国発の省線の1時間50分以上を大きく下回った。上野線は総工費636万円をかけ、寛永寺や美術館を避けた隧道で上野公園駅に達し、地下道で省線と地下鉄に連絡した。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第9章 浅草線計画と上野線建設」
    • [34]1931年12月19日 日暮里〜青砥間開通、1933年12月10日 上野公園まで開通
    • [35]1931年7月21日 浅草延長線特許。東武は1931年5月25日に浅草雷門まで開通済み
    • [36]1930年5月3日 臨時株主総会で筑波高速度鉄道との合併を承認、日暮里起点の免許線を得る
    • [37]東武に断られた筑波高速度鉄道幹部が後藤専務に持ち込み、後藤が即座に引受け(百武定一の回想)
    • [38]鉄道時報1931年12月26日:社日暮里成田間 普通1時間20分・急行1時間、省は1時間50分以上
  • 鉄道時報 第1784号 1933年12月16日「上野線建設工事の概要」(京成電鉄五十五年史(1967)「第9章」所収)
    • [39]上野線 総工費636万円、寛永寺・美術館等を避け隧道で上野公園駅、地下道で省線・地下鉄に連絡

京成電気軌道は1942年4月1日、創業以来の配電事業の設備・資材・従業員のすべてを関東配電へ移した。東京電燈が千葉県内に持つ配電網の買取りは1934年11月に調印まで進んでいたが、認可を得られないまま、国策の配電統合で関東配電への移管に至った。移管時の供給区域は市川・船橋・千葉の各市と13か町村で、換算燈数は62万燈に達した。移管が社業に響かなかったのは、運輸部門の成績が上向いていたためである。バスは陸上交通事業調整法に基づく再編で1942年1月に沿線と松戸方面を統合し、営業路線は1941年の200.4kmから1945年春に490kmへ拡大した。本多貞次郎氏が社長として創業を支援した総武鉄道は、1944年3月1日に東武鉄道へ吸収された。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「年譜」
    • [40]1942年4月1日 配電事業の設備一切を関東配電へ出資
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第12章 太平洋戦争と私鉄」
    • [41]1934年11月9日 東京電燈から千葉県内配電網譲受契約に調印、許可が下りず1942年4月1日に関東配電へ移管
    • [42]配電事業は市川・船橋・千葉新市域ほか13か町村、供給換算燈数62万燈
    • [43]運輸部門の成績が順調に上昇しており、移管は社業に影響を残さず
    • [44]1942年1月 交通事業調整法によるバス再編で沿線・松戸方面を統合。路線は1941年200.4km→1945年春490km
    • [45]総武鉄道(創業時の社長は本多)が1944年3月1日 戦時統合で東武鉄道に吸収

京成電気軌道は1945年6月25日の定時株主総会で定款を改め、社名を京成電鉄に変更し、本店を東京都下谷区に置くと定めた。同じ年には上野公園〜日暮里間の地下区間の営業を休止し、運輸省に貸し付けた。1936年12月に本多貞次郎氏から社長を継いだ後藤圀彦氏は、終戦後の1945年10月27日に死去。年末には労働争議を経て、12月29日に京成電鉄労働組合と団体協約を結んだ。1946年1月19日に取締役の吉田秀弥氏が第3代社長に就任し、同年10月には新京成電鉄を設立した。路面の軌道から郊外の高速電車へ事業の実態が移ったことが、社名から「軌道」を外した理由とみられる。

  • 京成電鉄五十五年史(1967)「年譜」
    • [46]1945年6月25日 第72期定時株主総会で定款変更、京成電気軌道を京成電鉄と社名変更
    • [47]1945年 上野公園〜日暮里間の地下鉄営業を休止して運輸省に貸付
    • [49]1945年12月29日 京成電鉄労働組合(12月5日結成)と団体協約締結
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第12章 太平洋戦争と私鉄」
    • [48]1936年12月2日 後藤圀彦が社長就任(本多は会長)、1945年10月27日 死去
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第13章 荒廃と混迷の中から」
    • [50]1946年1月19日 吉田秀弥が第3代社長に就任、1946年10月18日 新京成電鉄設立
参考文献[34]-[50]
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第9章 浅草線計画と上野線建設」
    • [34]1931年12月19日 日暮里〜青砥間開通、1933年12月10日 上野公園まで開通
    • [35]1931年7月21日 浅草延長線特許。東武は1931年5月25日に浅草雷門まで開通済み
    • [36]1930年5月3日 臨時株主総会で筑波高速度鉄道との合併を承認、日暮里起点の免許線を得る
    • [37]東武に断られた筑波高速度鉄道幹部が後藤専務に持ち込み、後藤が即座に引受け(百武定一の回想)
    • [38]鉄道時報1931年12月26日:社日暮里成田間 普通1時間20分・急行1時間、省は1時間50分以上
  • 鉄道時報 第1784号 1933年12月16日「上野線建設工事の概要」(京成電鉄五十五年史(1967)「第9章」所収)
    • [39]上野線 総工費636万円、寛永寺・美術館等を避け隧道で上野公園駅、地下道で省線・地下鉄に連絡
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「年譜」
    • [40]1942年4月1日 配電事業の設備一切を関東配電へ出資
    • [46]1945年6月25日 第72期定時株主総会で定款変更、京成電気軌道を京成電鉄と社名変更
    • [47]1945年 上野公園〜日暮里間の地下鉄営業を休止して運輸省に貸付
    • [49]1945年12月29日 京成電鉄労働組合(12月5日結成)と団体協約締結
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第12章 太平洋戦争と私鉄」
    • [41]1934年11月9日 東京電燈から千葉県内配電網譲受契約に調印、許可が下りず1942年4月1日に関東配電へ移管
    • [42]配電事業は市川・船橋・千葉新市域ほか13か町村、供給換算燈数62万燈
    • [43]運輸部門の成績が順調に上昇しており、移管は社業に影響を残さず
    • [44]1942年1月 交通事業調整法によるバス再編で沿線・松戸方面を統合。路線は1941年200.4km→1945年春490km
    • [45]総武鉄道(創業時の社長は本多)が1944年3月1日 戦時統合で東武鉄道に吸収
    • [48]1936年12月2日 後藤圀彦が社長就任(本多は会長)、1945年10月27日 死去
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第13章 荒廃と混迷の中から」
    • [50]1946年1月19日 吉田秀弥が第3代社長に就任、1946年10月18日 新京成電鉄設立

出典・参考

16件
出典・参考
  • 都新聞 1912年11月4日「京成電軌の開業」(京成電鉄五十五年史(1967)「第5章」所収)
  • 鉄道時報 第1140号 1921年7月25日「京成電車開通式船橋千葉間営業開始」(京成電鉄五十五年史(1967)「第7章」所収)
  • 鉄道時報 第1419号 1926年12月18日(京成電鉄五十五年史(1967)「第8章」所収)
  • 京成電気軌道 陳情書 1929年9月(京成電鉄五十五年史(1967)「第9章」所収)
  • 鉄道時報 第1784号 1933年12月16日「上野線建設工事の概要」(京成電鉄五十五年史(1967)「第9章」所収)
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第3章 京成電気軌道の誕生」
  • 利光鶴松 手記(京成電鉄五十五年史(1967)「第3章 京成電気軌道の誕生」所収)
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第4章 兼業と鉄道の建設」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第5章 南葛の野を1号車は行く」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第7章 海岸ぞいに県都千葉へ」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第8章 法燈の町成田へ」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第9章 浅草線計画と上野線建設」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「年譜」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第12章 太平洋戦争と私鉄」
  • 京成電鉄五十五年史(1967)「第13章 荒廃と混迷の中から」
  • ダイヤモンド 1930年1月1日号

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