第1章 年〜年

相鉄ホールディングス:相模鉄道の創立と茅ヶ崎〜橋本間の全通

1917年〜茅ケ崎〜寒川間で運び始めた相模川の砂利と、寒川で直営に戻した砂利採取

相模鉄道は、相模川沿いの農村に鉄道を通し、東海道線の茅ヶ崎と横浜鉄道線の橋本を結ぶ計画から生まれた。1916年6月に発起人の鳥越金之助氏らが旅客・貨物運輸の免許を受け、1917年12月に資本金60万円で会社が発足した。発起人37人のうち12人は茅ヶ崎在住で、茅ヶ崎町長の伊藤里之助氏らが計画の中心にいた。初代社長には、創立前から委員長を務めた岡崎久次郎氏が就任した。発起趣意書の結びに置かれたのは『本鉄道ハ東海道線ト中央線トヲ、最モ短距離ニ連絡スル、唯一ノ有利線ニシテ』という一節である。収入源として見込んだのは沿線の旅客と、相模川産の砂利の輸送だった。道路や鉄道の工事で砂利の需要が年々増えており、旅客だけでは採算の読めない農村の路線に確かな貨物を重ねて出資を募ったとみられる。

  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [1]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [3]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [4]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [5]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [2]大正5年6月に発起人鳥越金之助ほかが旅客・貨物運輸の許可を受け、大正6年12月に資本金60万円で発足
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「相模鉄道」
    • [6]主として沿線旅客と相模川産の砂利輸送にあたった

最初の線路は茅ヶ崎〜寒川間と、寒川から川寒川へ延びる砂利採取用の側線だった。1921年9月、単線での営業開始。車両は鉄道省から払い下げを受けた蒸気機関車2両、客車2両、貨車14両の計18両でそろえた。開業前は1920年の恐慌後の資金難が重なり、開業8日前には社長の岡崎久次郎氏や伊藤里之助氏ら経営陣が監査役2人を除いて辞任した。開業から1922年5月末までの9カ月の乗客は40,714人、1日平均165人で、旅客の運賃は4,796円余りにとどまった。貨車は同じ期間に38,907tを運び、16,443円余りの収入を上げている。旅客の3倍を超える貨物収入が、砂利の積み出し線というこの路線の性格を開業の初年から決めたといえる。

  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [7]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [9]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [10]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [11]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [12]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [8]大正10年9月に茅ヶ崎・寒川間の鉄道営業を開始し、相模川産の砂利類を輸送

砂利の採取・販売は鉄道より早く、1919年7月22日の兼営認可から始まった。手掘りで採った砂利をトロッコと馬で茅ヶ崎停車場へ運び、東海道線の貨車に積み替える方式だった。1921年末から採取と販売を相武砂利合資会社に委託し、1923年4月に直営へ戻し、採取の効率と販路の拡大を自社で追った。直営の採取は寒川を拠点とした。採取所には、歩留まり80%以上の良質な砂利を含む寒川村一之宮・宮山付近の川岸を選んでいた。同年9月の関東大震災のあと復興工事で砂利の需要が急増し、1924年4月には60万円の資本金を180万円へ増やして関東初となる砂利の採取船を入れた。運賃に加えて砂利の売上も自社に残す仕組みが、直営化と採取船の導入で固まったと推察される。

  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [13]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [14]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [15]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [17]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [18]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [16]大正12年4月、自ら寒川において砂利採取事業を開始。大正13年5月資本金180万円に増額し砂利部門設備を拡充
参考文献[1]-[18]
  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [1]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [3]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [4]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [5]1916年6月26日茅ヶ崎〜橋本間の軽便鉄道免許、1917年12月18日創立総会。発起人37人中12人が茅ヶ崎在住、伊藤里之助(茅ヶ崎町長)らが中心。初代社長岡崎久次郎(創立前は委員長)。趣意書は東海道線と中央線の連絡と砂利の採取販売の兼業を掲げる
    • [7]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [9]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [10]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [11]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [12]鉄道省から蒸気機関車2・客車2・無蓋貨車11・緩急車3の計18両の払い下げ。1921年9月28日茅ヶ崎〜寒川・寒川〜川寒川間で営業開始。開業8日前に岡崎社長以下経営陣が辞任。初年度9カ月の乗客40,714人、運賃収入4,796円余、貨物38,907t・16,443円余
    • [13]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [14]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [15]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [17]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
    • [18]1919年7月22日砂利採取販売兼営の認可。1920年7月寒川村一之宮・宮山などを採取所の本拠とし、歩留り80%以上の良質な砂利。1921年末から相武砂利(合)に委託、1923年4月1日直営に復帰。1924年4月25日に採取船購入資金のため資本金60万円→180万円
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [2]大正5年6月に発起人鳥越金之助ほかが旅客・貨物運輸の許可を受け、大正6年12月に資本金60万円で発足
    • [8]大正10年9月に茅ヶ崎・寒川間の鉄道営業を開始し、相模川産の砂利類を輸送
    • [16]大正12年4月、自ら寒川において砂利採取事業を開始。大正13年5月資本金180万円に増額し砂利部門設備を拡充
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「相模鉄道」
    • [6]主として沿線旅客と相模川産の砂利輸送にあたった

1924年〜借入と増資で通した茅ケ崎〜橋本間と、昭和産業から五島慶太氏の東横電鉄への移り

震災後の復興で砂利の出荷が増え、1925年7月に省線汐留停車場へ砂利荷揚場が新設されて東京市内へ大量に送る経路ができた。延長工事の資金は鉄道財団を担保にした約50万円の借入で賄い、1926年7月に厚木まで線路を延ばした。砂利輸送が急増した1926年度下期には年12%の初配当を実施し、同年9月の臨時株主総会で180万円の資本金を500万円へ増やすと決めた。増資の実施は1927年4月で、使い道は複線化やレール交換、借入金の返済だった。厚木〜橋本間18.7kmの工事代金は日本興業銀行の融資で支払い、1931年4月に茅ヶ崎〜橋本間33.3kmが全通した。増資だけでは延長を賄えず、全通の時点で興銀への借入が残った。

  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [19]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [20]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [21]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [23]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [22]昭和2年4月資本金500万円に増資、昭和6年4月茅ヶ崎・橋本間(相模線)開通

全通の直後から、世界恐慌で鉄道の主な収入源だった砂利輸送が衰え、経営が行き詰まった。債権者の日本興業銀行が監査役を送り込み、1931年6月から2年足らずで社長と経営陣の交替が続いた。1931年度上期から5期続けて欠損を計上し、興銀に払えていない利息が25万9,300円余りに膨らんだ。資本金は1927年から500万円のまま据え置かれた。1937年以降は軍需で砂利の需要が戻り、四之宮砂利支線に工場を置いた昭和産業の社長、伊藤英夫氏が相模鉄道株の大半を取得した。その要請で1939年6月に千葉三郎氏が社長に就任し、1940年には株式の42%を昭和産業の関係者が持つに至った。

  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [24]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [25]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [26]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [28]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [29]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [27]昭和2年4月に500万円へ増資、次の資本金変更は昭和18年4月の神中鉄道合併時(650万円)

1940年7月、昭和産業社長で相模鉄道の取締役も兼ねた伊藤英夫氏が急死し、昭和産業関係の株4万株余りが放出された。この株を取得したのは、東京西南部で鉄道統合を進め、江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下に置いていた東京横浜電鉄である。1941年6月に相模鉄道は東京横浜電鉄の子会社となり、東京横浜電鉄社長の五島慶太氏が社長に就任した。取締役には小田原急行鉄道常務の川又貞次郎氏が加わり、1942年1月には東京高速鉄道取締役の鳥居菊造氏が専務取締役として経営に入っている。地元資本で始まった砂利の鉄道は、こうして神中鉄道と同じ親会社のもとに入り、両社の合併へ向かう下地が整ったのだろう。

  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [30]1940年7月8日伊藤英夫急死で昭和産業関係株4万株余が放出。江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下にしていた東京横浜電鉄が取得。川又貞次郎が取締役、1942年1月26日鳥居菊造が専務取締役
    • [31]1940年7月8日伊藤英夫急死で昭和産業関係株4万株余が放出。江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下にしていた東京横浜電鉄が取得。川又貞次郎が取締役、1942年1月26日鳥居菊造が専務取締役
    • [33]1940年7月8日伊藤英夫急死で昭和産業関係株4万株余が放出。江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下にしていた東京横浜電鉄が取得。川又貞次郎が取締役、1942年1月26日鳥居菊造が専務取締役
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [32]昭和16年6月東横電鉄の子会社となり社長に五島慶太が就任、18年4月同じく東急傘下の神中鉄道を合併
参考文献[19]-[33]
  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
    • [19]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [20]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [21]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [23]1925年汐留に砂利荷揚場。鉄道財団担保で約50万円借入、1926年7月15日厚木まで開通。1926年度下期年12%配当、同年9月12日の臨時総会で500万円増資を決議(複線化・レール交換・借入返済など)。厚木〜橋本間は興銀借入で支払い1931年4月29日全通(33.3km)
    • [24]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [25]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [26]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [28]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [29]昭和恐慌で砂利輸送が衰退し経営行き詰まり。興銀から監査役、1931年6月以降社長交替が相次ぐ。5期連続欠損、未払利息25万9,300円余。昭和産業の伊藤英夫社長が株の大半を買い占め、1939年6月30日千葉三郎が社長就任。1940年時点で資本金500万円の42%が昭和産業関係
    • [30]1940年7月8日伊藤英夫急死で昭和産業関係株4万株余が放出。江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下にしていた東京横浜電鉄が取得。川又貞次郎が取締役、1942年1月26日鳥居菊造が専務取締役
    • [31]1940年7月8日伊藤英夫急死で昭和産業関係株4万株余が放出。江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下にしていた東京横浜電鉄が取得。川又貞次郎が取締役、1942年1月26日鳥居菊造が専務取締役
    • [33]1940年7月8日伊藤英夫急死で昭和産業関係株4万株余が放出。江之島電気鉄道・神中鉄道・静岡電気鉄道を傘下にしていた東京横浜電鉄が取得。川又貞次郎が取締役、1942年1月26日鳥居菊造が専務取締役
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
    • [22]昭和2年4月資本金500万円に増資、昭和6年4月茅ヶ崎・橋本間(相模線)開通
    • [27]昭和2年4月に500万円へ増資、次の資本金変更は昭和18年4月の神中鉄道合併時(650万円)
    • [32]昭和16年6月東横電鉄の子会社となり社長に五島慶太が就任、18年4月同じく東急傘下の神中鉄道を合併

出典・参考

3件
出典・参考
  • 相鉄グループ100年史(2019)第1章「神奈川県央部開発の先駆」
  • 会社銀行八十年史(1955)「相模鉄道」
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「相模鉄道」

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