さくら銀行:東都銀行の合併と太陽神戸銀行の発足
1955年〜第一銀行系を切り離した帝国銀行の後身と、個人預金を柱に据えた長期経営計画
三井銀行は1954年1月1日、帝国銀行から三井銀行へ行名を戻した。1948年10月の分割で旧第一銀行の側を切り離し、旧三井・十五両行の側は帝国銀行の名で再発足していた。分割後の旧三井側の店舗数は、旧十五銀行系を合わせてようやく旧第一銀行と釣り合う程度にとどまった。社長の佐藤喜一郎氏は分割の動機として、帝国銀行が産業界の約4分の1の取引先を抱え、戦後の資金需要に応じ切れなくなる懸念を挙げていた。行名の復帰について佐藤氏は、『当行の場合特に海外市場における『三井』名の宣伝価値が大きいため』だと説明した。あわせて大企業中心だった戦前の行き方を改め、公共性と大衆性に沿う銀行を築くよう行員に求めた。
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「7章 動乱の昭和二十年代」
- [1]1954年1月1日に行名を帝国銀行から三井銀行へ改称
- [3]分割時、旧三井銀行の店舗数は旧第一銀行より少なく、旧十五銀行系を合計してようやく均衡する状況で二分割案となった
- [5]1954年1月の支店長会で佐藤社長は改称の理由を海外市場での三井名の宣伝価値に求めた
- [6]同じ支店長会で佐藤社長は戦前の大企業中心の行き方を改め、金融機関の公共性・大衆性に沿う新しい三井銀行を築くよう求めた
- 株式会社年鑑 1960年版「三井銀行」
- [2]1948年10月、金融機関再建整備法に基づき第一銀行を分離し、旧三井・十五両行側が帝国銀行の名のまま発足
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社)
- [4]佐藤喜一郎は帝国銀行分割の動機に、旧第一出身者の復帰希望と、産業界の約4分の1の取引先を抱えて戦後の資金需要に応じ切れない懸念を挙げた
三井銀行は1959年12月に会長制を敷き、佐藤氏が会長に、副社長の柳満珠雄氏が社長に就任した。1956年の創立80周年には外部負債の一掃を営業目標に据えたが、取引先の設備資金の急増と貸出競争で達成できなかった。1960年3月末の預金は348,434,303千円、従業員は6,538人だった。同年11月の日比谷への本店移転に際し、柳氏は行員1人当たり預金が他行に見劣りする点を認めた。そのうえで、大衆層との取引基盤を広げることを最優先の課題とした。1961年3月末の預金に占める個人預金の比率は29%で、全国銀行平均の40%を下回っていた。法人預金だけでは系列企業の借入需要を支え切れず、個人預金に資金源を求めたと推察される。
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「8章 高度成長と大衆化への転身」
- [7]1959年12月の倍額増資を機に会長制を採用し、佐藤喜一郎が会長、副社長の柳満珠雄が社長に就任
- [8]創立80周年の営業目標は外部負債の一掃だったが、取引先企業の設備要資の急増と各行間の貸出競争の激化で達成は容易でなかった
- [10]1960年11月15日の日比谷新本店開店時、柳社長は行員1人当たり預金が他行に比べ見劣りすると述べ、大衆層と密着した取引基盤の開拓を最も肝要とした
- [11]1960年11月15日の日比谷新本店開店時、柳社長は行員1人当たり預金が他行に比べ見劣りすると述べ、大衆層と密着した取引基盤の開拓を最も肝要とした
- 株式会社年鑑 1960年版「三井銀行」
- [9]1960年3月末の預金合計348,434,303千円、従業員6,538人
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [12]1961年3月末の預金総額に占める個人預金の構成比は全国銀行平均40%に対し三井銀行29%
三井銀行は1961年8月に長期計画委員会を設け、1962年4月に3カ年の第一次長期経営計画を始めた。高度成長下のオーバーローンのなかで、三井系などの取引先へ貸す資金を引き受ける立場にあり、その原資を自前で集める力を高めることが課題だった。1962年2月の支店長会で柳氏は、個人預金を主体とする純預金の強化など4項目の方針を示した。その第三項には、店舗上の制約を除くため他の金融機関との提携と親密化を進めることを掲げた。1960年3月末の店舗は本店のほか支店102カ所と出張所5カ所だった。1965年3月末までの3年間で預金の都市銀行内シェアは上がり、貸出金のシェアは下がって、どちらも目標を超えた。
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「8章 高度成長と大衆化への転身」
- [13]1961年8月に長期計画委員会を設置し、1962年4月に1965年3月末までの3カ年の第一次長期経営計画が発足
- [14]当時の銀行はオーバーローンの状態にあり、三井銀行には三井系その他の取引先への資金供給の責務と、それを賄う資金調達力を養う必要があった
- [15]1962年2月の支店長会で柳社長は、個人預金を主体とする純預金吸収力の強化、収益性重視の資金配分など4項目の基本方針を示した
- [16]基本方針の第三項は、店舗上の制約を排除するため他金融機関との提携・親密化を積極的に推進すること
- [18]第一次長期計画の3年間で預金の都市銀行シェアは向上、貸出金の同シェアは低下し、いずれも当初目標を突破
- 株式会社年鑑 1960年版「三井銀行」
- [17]1960年時点の事業所は本店・大阪・名古屋・福岡支店とその他99支店、5出張所
参考文献[1]-[18]
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「7章 動乱の昭和二十年代」
- [1]1954年1月1日に行名を帝国銀行から三井銀行へ改称
- [3]分割時、旧三井銀行の店舗数は旧第一銀行より少なく、旧十五銀行系を合計してようやく均衡する状況で二分割案となった
- [5]1954年1月の支店長会で佐藤社長は改称の理由を海外市場での三井名の宣伝価値に求めた
- [6]同じ支店長会で佐藤社長は戦前の大企業中心の行き方を改め、金融機関の公共性・大衆性に沿う新しい三井銀行を築くよう求めた
- 株式会社年鑑 1960年版「三井銀行」
- [2]1948年10月、金融機関再建整備法に基づき第一銀行を分離し、旧三井・十五両行側が帝国銀行の名のまま発足
- [9]1960年3月末の預金合計348,434,303千円、従業員6,538人
- [17]1960年時点の事業所は本店・大阪・名古屋・福岡支店とその他99支店、5出張所
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社)
- [4]佐藤喜一郎は帝国銀行分割の動機に、旧第一出身者の復帰希望と、産業界の約4分の1の取引先を抱えて戦後の資金需要に応じ切れない懸念を挙げた
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「8章 高度成長と大衆化への転身」
- [7]1959年12月の倍額増資を機に会長制を採用し、佐藤喜一郎が会長、副社長の柳満珠雄が社長に就任
- [8]創立80周年の営業目標は外部負債の一掃だったが、取引先企業の設備要資の急増と各行間の貸出競争の激化で達成は容易でなかった
- [10]1960年11月15日の日比谷新本店開店時、柳社長は行員1人当たり預金が他行に比べ見劣りすると述べ、大衆層と密着した取引基盤の開拓を最も肝要とした
- [11]1960年11月15日の日比谷新本店開店時、柳社長は行員1人当たり預金が他行に比べ見劣りすると述べ、大衆層と密着した取引基盤の開拓を最も肝要とした
- [13]1961年8月に長期計画委員会を設置し、1962年4月に1965年3月末までの3カ年の第一次長期経営計画が発足
- [14]当時の銀行はオーバーローンの状態にあり、三井銀行には三井系その他の取引先への資金供給の責務と、それを賄う資金調達力を養う必要があった
- [15]1962年2月の支店長会で柳社長は、個人預金を主体とする純預金吸収力の強化、収益性重視の資金配分など4項目の基本方針を示した
- [16]基本方針の第三項は、店舗上の制約を排除するため他金融機関との提携・親密化を積極的に推進すること
- [18]第一次長期計画の3年間で預金の都市銀行シェアは向上、貸出金の同シェアは低下し、いずれも当初目標を突破
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [12]1961年3月末の預金総額に占める個人預金の構成比は全国銀行平均40%に対し三井銀行29%
1964年〜田中久兵衛社長のオンライン化と、姉妹銀行だった東都銀行の合併
三井銀行は1965年5月22日、国内初のオンライン・リアルタイム方式による預金事務の処理を始めた。導入は1964年4月に常務の小山五郎氏らが発表し、京浜地区の約60店を1年半で切り替える計画だった。業務合理化室は1962年ごろから普通預金への導入を検討しており、従来の方式では人員も元帳の保管場所も限界に達する見通しだった。1965年4月には柳氏が退任し、副社長の田中久兵衛氏が社長に就任した。オンラインへの移行は1965年中に都内10店、1968年に首都圏の全支店へ広がった。1967年の経済誌は、銀行がコンピューター導入に最も熱心な業界で、営業店の元帳が不要になると解説した。店舗を増やしにくいなかで、1店当たりの処理量を引き上げる手立てだったのだろう。
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「8章 高度成長と大衆化への転身」
- [19]1965年5月22日にわが国最初のオンライン・リアルタイム・バンキングシステムを開始
- [20]1964年4月、小山五郎常務らが日銀記者クラブでIBMのオンライン・リアルタイム・システム導入を発表。京浜地区約60店を1965年春から約1年半で切り替える計画
- [21]業務合理化室は1962年ごろ普通預金への導入を検討。従来方式では人員・元帳保管スペースとも限界に達することが明らかだった
- [22]1965年4月に柳社長が退任して相談役となり、田中久兵衛副社長が社長に就任
- [23]1965年中に都内10店がオンラインへ移行し、1968年に首都圏の全支店へ行き渡った
- 新日本経済 31(10) 1967年
- [24]コンピューター導入に最も熱心な業界は銀行で、オンライン化により営業店の元帳類が不要になると解説
三井銀行は1968年4月1日に東都銀行を吸収合併し、資本金は184億円となった。東都銀行は1900年創立の高田農商銀行が前身で、戦後の店舗整備に遅れ、三井銀行に支援を求めていた。三井銀行は1957年7月に役員を送り、12月に資本参加して、姉妹銀行として支え続けた。それでも東京の競争のなかで、小規模経営と知名度の不足による不利は預金吸収にも採算にも表れていた。合併で17店と400人余りを迎えたが、国内店舗は143店で、主要都市銀行のなかで最も少なかった。合併直前の1968年3月末の預金量は1兆2586億円だった。同年5月には副社長の小山五郎氏が社長に就任し、田中氏は会長に移った。
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [25]1968年4月1日に東都銀行を吸収合併し、資本金は4億円増の184億円
- [26]東都銀行は1900年に高田農商銀行として創立。戦後の店舗網整備に立ち遅れ、鮎川義介の斡旋で三井銀行に支援を求めた
- [27]三井銀行は1957年7月に役員を派遣、同年12月に資本参加し、1958年4月の東都銀行への改称後も姉妹銀行として支援
- [28]東都銀行は競争の激しい東京で小規模経営と知名度不足による不利が預金吸収面と経営効率・採算面で顕著になった
- [29]合併で17店舗・行員400余名が加わり、国内店舗143カ店となったが主要都市銀行の中では最も少なかった
- [31]1968年5月、小山五郎副社長が社長に就任し、田中久兵衛社長は会長に移った
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三井銀行」
- [30]1968年3月末の預金量は1兆2586億円、貸出金は1兆1566億円
第一銀行と日本勧業銀行は1971年10月に合併し、第一勧業銀行として発足した。それまでの再編は第一・朝日、住友・河内、三井・東都と、いずれも都市銀行が地方銀行を合わせるものだった。第一勧業銀行の発足は都市銀行どうしの大型合併で、1969年1月に報じられた第一銀行と三菱銀行の合併構想が白紙に戻った後の組み合わせだった。小山氏は社長就任以来、都市銀行で最も借金の多い銀行からの脱皮を唱え、最も劣っていた個人預金の増強に行員の力を集めた。1971年7月の創立95周年には個人預金6000億円の目標を掲げて大幅に超え、同年9月期に総預金は2兆円を上回った。他行が合併で規模を広げるなかで、個人預金を積む単独の道を選んだとみられる。
- 産業と経済 27(10) 1973年
- [32]第一勧業銀行は1971年10月にスタートした都銀合併の第一弾
- 『私の銀行昭和史』(1985年)「大型合併の衝撃」
- [33]1964年の第一・朝日、1965年の住友・河内、1968年の三井・東都は、いずれも都市銀行と地方銀行の組み合わせだった
- [34]1971年に都市銀行同士の大型合併として第一・日本勧業の合併が実現。1969年1月報道の第一・三菱合併は約2週間で白紙還元された
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [35]小山社長は体質強化を第一の使命とし、最も劣っていた個人預金を伸ばして都市銀行中最も借金の多い銀行から脱皮することを目指した
- [36]1971年7月の創立95周年を期して個人預金6000億円の目標を立て大幅に突破、1971年9月期に総預金2兆円を超えた
参考文献[19]-[36]
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「8章 高度成長と大衆化への転身」
- [19]1965年5月22日にわが国最初のオンライン・リアルタイム・バンキングシステムを開始
- [20]1964年4月、小山五郎常務らが日銀記者クラブでIBMのオンライン・リアルタイム・システム導入を発表。京浜地区約60店を1965年春から約1年半で切り替える計画
- [21]業務合理化室は1962年ごろ普通預金への導入を検討。従来方式では人員・元帳保管スペースとも限界に達することが明らかだった
- [22]1965年4月に柳社長が退任して相談役となり、田中久兵衛副社長が社長に就任
- [23]1965年中に都内10店がオンラインへ移行し、1968年に首都圏の全支店へ行き渡った
- 新日本経済 31(10) 1967年
- [24]コンピューター導入に最も熱心な業界は銀行で、オンライン化により営業店の元帳類が不要になると解説
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [25]1968年4月1日に東都銀行を吸収合併し、資本金は4億円増の184億円
- [26]東都銀行は1900年に高田農商銀行として創立。戦後の店舗網整備に立ち遅れ、鮎川義介の斡旋で三井銀行に支援を求めた
- [27]三井銀行は1957年7月に役員を派遣、同年12月に資本参加し、1958年4月の東都銀行への改称後も姉妹銀行として支援
- [28]東都銀行は競争の激しい東京で小規模経営と知名度不足による不利が預金吸収面と経営効率・採算面で顕著になった
- [29]合併で17店舗・行員400余名が加わり、国内店舗143カ店となったが主要都市銀行の中では最も少なかった
- [31]1968年5月、小山五郎副社長が社長に就任し、田中久兵衛社長は会長に移った
- [35]小山社長は体質強化を第一の使命とし、最も劣っていた個人預金を伸ばして都市銀行中最も借金の多い銀行から脱皮することを目指した
- [36]1971年7月の創立95周年を期して個人預金6000億円の目標を立て大幅に突破、1971年9月期に総預金2兆円を超えた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三井銀行」
- [30]1968年3月末の預金量は1兆2586億円、貸出金は1兆1566億円
- 産業と経済 27(10) 1973年
- [32]第一勧業銀行は1971年10月にスタートした都銀合併の第一弾
- 『私の銀行昭和史』(1985年)「大型合併の衝撃」
- [33]1964年の第一・朝日、1965年の住友・河内、1968年の三井・東都は、いずれも都市銀行と地方銀行の組み合わせだった
- [34]1971年に都市銀行同士の大型合併として第一・日本勧業の合併が実現。1969年1月報道の第一・三菱合併は約2週間で白紙還元された
1973年〜神戸銀行と太陽銀行の合併で生まれた太陽神戸銀行と、板倉譲治社長の迎えた創業100年
神戸銀行と太陽銀行は1973年10月1日に合併し、太陽神戸銀行が発足した。太陽銀行は日本相互銀行が1968年12月1日に普通銀行へ転換して生まれ、都市銀行の列に加わっていた。転換の際、大蔵省銀行局長の澄田智氏から、他の金融機関との合併を望む意向が示されていた。合併の目的は、関東に地盤を置く太陽銀行と関西を主力とする神戸銀行が、重なりの少ない店舗網と取引先を補い合うことにあった。1973年3月期の両行の預金は合計3兆3568億5100万円で、東海銀行に次ぐ都市銀行7位の規模に当たった。頭取の石野信一氏は1975年、旧両行が欠けていた要素を補い合った組み合わせだったという見方を示した。
- 産業と経済 27(10) 1973年
- [37]神戸銀行と太陽銀行が1973年10月1日に合併し太陽神戸銀行が発足。本店は旧神戸銀行本店、資本金490億円
- [40]関東に基盤の太陽銀行と関西主力の神戸銀行が、店舗網・取引先の重複が少ないことから合併で相互補完することを目的とした
- [41]1973年3月期の預金は神戸銀行1兆9266億4500万円、太陽銀行1兆4302億600万円、合計3兆3568億5100万円で、東海銀行に次ぐ都銀第7位
- 私の履歴書 経済人21「河野一之」(日本経済新聞社)
- [38]日本相互銀行は1968年12月1日に普通銀行へ転換して太陽銀行となり、都市銀行入りした
- [39]転換認可の際、澄田智銀行局長から他の金融機関との合併を望む意向が示された
- 産業と経済 29(7) 1975年
- [42]石野信一は東と西に分かれていた旧両行が互いに欠けていた要素を補い合う組み合わせだったと語った
三井銀行では1974年5月30日、副社長の板倉譲治氏が62歳で社長に就任した。板倉氏は就任に際し、銀行の発展の基礎は純預金の増強にあり、その量に比例するという考えを行員に示した。小山社長時代の預金シェアの向上も、法人と個人を問わない純預金の積み上げに支えられていたという認識だった。1974年3月末の個人預金の構成比は33%で、全国銀行平均の38%との差は縮まっていた。同じ1974年、板倉氏は総需要抑制で設備投資が抑えられるなか、貸出金利と預金金利の開きは正常な利ザヤではないとの見方を示した。そのうえで、利ザヤが縮んでも耐えられる経営には、行員1人当たりの効率を高めるしかないと説いた。
- 日経ビジネス 1974年7月22日号
- [43]板倉譲治は1972年11月副社長を経て1974年5月30日に社長に就任、62歳
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [44]板倉新社長は就任時、銀行の基本的な発展の基礎は純預金の増強に帰し、この量に比例せざるを得ないと述べた
- [45]板倉社長は小山社長時代の預金シェア・アップ等の成果は法人・個人を問わない純預金の増強に支えられていたと述べた
- [46]1974年3月末の個人預金構成比は33%、全国銀行平均は38%に低下
- 東邦経済 1974年10月「対談 物価高騰の中の銀行運営 板倉譲治・漆島参治」
- [47]板倉社長は総需要抑制で設備投資が抑えられている状況を認め、1973年12月の貸出金利2%引上げに対し預金金利は0.8%の引上げにとどまり、現在の利ザヤは正常でないと述べた
- [48]板倉社長は、耐えられる経営とはコストの切り下げであり、行員1人当たりの効率を高める以外にないと述べた
三井銀行は1976年7月1日に創業100周年を迎えた。その3年ほど前から、百周年へ向けた基本理念として社会性・発展性・人間性の三つを掲げていた。預金は1975年に4兆円を超え、板倉氏は同年4月から1年間、全国銀行協会連合会の会長を務めた。一方で板倉氏は1976年、1972年上期以降の銀行の実体の利益は、貸倒引当金の繰入率の引き下げに隠れて減り続けていると指摘した。社史は同年、昭和30年代以降の三井系企業群への資金供給の責務が体質改善を難しくしたと振り返った。1978年6月には副社長の関正彦氏が社長に就任した。規模の伸びと引き換えに、系列への資金供給の重さと収益の細りを抱えたまま次の代へ移ったと考えられる。
- 産業と経済 29(5) 1975年
- [49]三井銀行は明治9年創業で、1976年7月1日に100周年を迎える
- [50]3年ほど前から百周年を迎える基本理念として「社会性・発展性・人間性」を掲げている(副社長青木郁朗)
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [51]預金は1975年に4兆円を超え、板倉社長は1975年4月から1年間全国銀行協会連合会会長を務めた
- [53]社史は、昭和30年代に三井の企業群への資金供給の責務が大きく、体質改善を困難にする要因となったと記す
- 月刊経済 1976年新年号
- [52]板倉社長は、貸倒引当金の繰入率が1000分の18から1000分の10へ下げられ、1972年上期以降の銀行の実体収益は減り続けていると述べた
- 日本企業要覧 1979年版「三井銀行」
- [54]関正彦は1977年12月に取締役副社長、1978年6月に取締役社長
参考文献[37]-[54]
- 産業と経済 27(10) 1973年
- [37]神戸銀行と太陽銀行が1973年10月1日に合併し太陽神戸銀行が発足。本店は旧神戸銀行本店、資本金490億円
- [40]関東に基盤の太陽銀行と関西主力の神戸銀行が、店舗網・取引先の重複が少ないことから合併で相互補完することを目的とした
- [41]1973年3月期の預金は神戸銀行1兆9266億4500万円、太陽銀行1兆4302億600万円、合計3兆3568億5100万円で、東海銀行に次ぐ都銀第7位
- 私の履歴書 経済人21「河野一之」(日本経済新聞社)
- [38]日本相互銀行は1968年12月1日に普通銀行へ転換して太陽銀行となり、都市銀行入りした
- [39]転換認可の際、澄田智銀行局長から他の金融機関との合併を望む意向が示された
- 産業と経済 29(7) 1975年
- [42]石野信一は東と西に分かれていた旧両行が互いに欠けていた要素を補い合う組み合わせだったと語った
- 日経ビジネス 1974年7月22日号
- [43]板倉譲治は1972年11月副社長を経て1974年5月30日に社長に就任、62歳
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- [44]板倉新社長は就任時、銀行の基本的な発展の基礎は純預金の増強に帰し、この量に比例せざるを得ないと述べた
- [45]板倉社長は小山社長時代の預金シェア・アップ等の成果は法人・個人を問わない純預金の増強に支えられていたと述べた
- [46]1974年3月末の個人預金構成比は33%、全国銀行平均は38%に低下
- [51]預金は1975年に4兆円を超え、板倉社長は1975年4月から1年間全国銀行協会連合会会長を務めた
- [53]社史は、昭和30年代に三井の企業群への資金供給の責務が大きく、体質改善を困難にする要因となったと記す
- 東邦経済 1974年10月「対談 物価高騰の中の銀行運営 板倉譲治・漆島参治」
- [47]板倉社長は総需要抑制で設備投資が抑えられている状況を認め、1973年12月の貸出金利2%引上げに対し預金金利は0.8%の引上げにとどまり、現在の利ザヤは正常でないと述べた
- [48]板倉社長は、耐えられる経営とはコストの切り下げであり、行員1人当たりの効率を高める以外にないと述べた
- 産業と経済 29(5) 1975年
- [49]三井銀行は明治9年創業で、1976年7月1日に100周年を迎える
- [50]3年ほど前から百周年を迎える基本理念として「社会性・発展性・人間性」を掲げている(副社長青木郁朗)
- 月刊経済 1976年新年号
- [52]板倉社長は、貸倒引当金の繰入率が1000分の18から1000分の10へ下げられ、1972年上期以降の銀行の実体収益は減り続けていると述べた
- [54]関正彦は1977年12月に取締役副社長、1978年6月に取締役社長
1955年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1955年03月期 | 単体 | 146 | n/a | 29 | 13 | 8.9% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 262 | n/a | n/a | 11 | 4.2% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 298 | +13.7% | n/a | 13 | 4.4% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | 30 | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 1,237 | n/a | n/a | 79 | 6.4% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 1,403 | +13.4% | n/a | 92 | 6.6% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,610 | +14.8% | 223 | 117 | 7.3% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,831 | +13.7% | 296 | 132 | 7.2% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 2,202 | +20.3% | 331 | 158 | 7.2% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 3,074 | +39.6% | 314 | 194 | 6.3% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 4,449 | +44.7% | 384 | 144 | 3.2% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 4,551 | n/a | 398 | 172 | 3.8% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑(1986年版)半期合算
出典・参考
16件
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「7章 動乱の昭和二十年代」
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「8章 高度成長と大衆化への転身」
- 三井銀行『三井銀行 100年のあゆみ』(1976年)「9章 新しい銀行像をめざして」
- 株式会社年鑑 1960年版「三井銀行」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「三井銀行」
- 日経ビジネス 1974年7月22日号
- 私の履歴書 経済人8「佐藤喜一郎」(日本経済新聞社)
- 私の履歴書 経済人21「河野一之」(日本経済新聞社)
- 新日本経済 31(10) 1967年
- 産業と経済 27(10) 1973年
- 東邦経済 1974年10月「対談 物価高騰の中の銀行運営 板倉譲治・漆島参治」
- 産業と経済 29(7) 1975年
- 産業と経済 29(5) 1975年
- 月刊経済 1976年新年号
- 日本企業要覧 1979年版「三井銀行」
- 『私の銀行昭和史』(1985年)「大型合併の衝撃」