第1章 年〜年

三井住友トラストグループ:三井信託・住友信託の設立と戦後の銀行業務兼営

1924年〜米山梅吉氏が資本金3000万円で興した最初の信託会社と、住友家の資本で続いた住友信託

1924年3月25日に設立された三井信託は、信託業法に基づく日本で最初の信託会社である。設立を主導したのは三井銀行常務取締役の米山梅吉氏で、米国の信託の事情に明るい人物だった。米山梅吉氏は1922年4月の信託業法公布を受けて、経営基盤の堅い信託会社をつくると決め、三井合名会社理事長の團琢磨氏から支持を得た。準備の途中で関東大震災に見舞われ、計画はいったん難航。米山梅吉氏は計画を押し通し、資本金3000万円で会社を発足させ、同年4月に東京・日比谷で営業を始めた。開業後は金銭信託に加えて担保付社債信託の受託や債券の引受も手がけ、高い占有率を得た。銀行の一部門とせず別会社にしたのは、信託業法が信託会社を独立の業態として定めたためとみられる。

  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
    • [1]三井信託は1924年3月に信託業法に基づく最初の信託会社として資本金3000万円で設立され、同年4月に東京日比谷で営業を開始した
    • [5]三井信託は1924年3月に信託業法に基づく最初の信託会社として資本金3000万円で設立され、同年4月に東京日比谷で営業を開始した
  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [2]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
    • [3]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
    • [4]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
    • [6]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した

住友信託は1925年7月、住友吉左衛門氏ら住友関係者の資本を中心に設立された。設立日は7月28日で、資本金2000万円のうち払込は500万円である。8月に信託業と担保付社債信託業の営業免許を受け、9月に大阪市東区淡路町で営業を始めた。資金の源は金銭信託で、受け入れた資金を長期の設備資金の貸付と社債への投資に振り向けた。三井信託の発足から1年あまりで、住友も長期金融の担い手として名乗りを上げた。翌1926年8月には東京支店を開設し、大阪と東京の両方に営業の拠点を置いた。住友家が三井に続いて自前の信託会社を持ったのは、金銭信託が長期資金を調達する新しい経路になると判断したためと推察される。

  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [7]住友信託は1925年7月に住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付と社債投資を行い長期金融機関の地位を固めた
    • [10]住友信託は1925年7月に住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付と社債投資を行い長期金融機関の地位を固めた
    • [11]住友信託は1925年7月に住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付と社債投資を行い長期金融機関の地位を固めた
  • 『株式会社年鑑』1950年版 富士信託銀行(重役・金銭信託・貸借対照表)
    • [8]住友信託は1925年7月28日創立、資本金2000万円(払込500万円)
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [9]住友信託は資本金2000万円で設立、1925年8月に信託業・担保付社債信託業の免許を受け9月に大阪市東区淡路町で開業、1926年8月に東京支店を開設した
    • [12]住友信託は資本金2000万円で設立、1925年8月に信託業・担保付社債信託業の免許を受け9月に大阪市東区淡路町で開業、1926年8月に東京支店を開設した
参考文献[1]-[12]
  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
    • [1]三井信託は1924年3月に信託業法に基づく最初の信託会社として資本金3000万円で設立され、同年4月に東京日比谷で営業を開始した
    • [5]三井信託は1924年3月に信託業法に基づく最初の信託会社として資本金3000万円で設立され、同年4月に東京日比谷で営業を開始した
  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [2]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
    • [3]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
    • [4]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
    • [6]設立の中心は三井銀行常務取締役の米山梅吉で、1922年4月の信託業法公布を受け團琢磨(三井合名理事長)の支持を得て準備し、関東大震災で一時難航した
  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [7]住友信託は1925年7月に住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付と社債投資を行い長期金融機関の地位を固めた
    • [10]住友信託は1925年7月に住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付と社債投資を行い長期金融機関の地位を固めた
    • [11]住友信託は1925年7月に住友吉左衛門ら住友関係者の資本を中心に創立され、金銭信託を資金源に長期設備資金の貸付と社債投資を行い長期金融機関の地位を固めた
  • 『株式会社年鑑』1950年版 富士信託銀行(重役・金銭信託・貸借対照表)
    • [8]住友信託は1925年7月28日創立、資本金2000万円(払込500万円)
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [9]住友信託は資本金2000万円で設立、1925年8月に信託業・担保付社債信託業の免許を受け9月に大阪市東区淡路町で開業、1926年8月に東京支店を開設した
    • [12]住友信託は資本金2000万円で設立、1925年8月に信託業・担保付社債信託業の免許を受け9月に大阪市東区淡路町で開業、1926年8月に東京支店を開設した

1926年〜金銭信託で長期資金を担い、兼営法のもとでも親銀行に吸収されなかった三井信託と住友信託

三井信託の受託財産は開業後に急速に増え、1928年11月末には全国の信託会社37社の受託残高の30%近くを占めた。内訳は金銭信託が80%、有価証券信託が19%である。全信託財産に占める比率は初期に33.4%に達し、その後も終戦まで20%を割らなかった。金銭信託は主に貸付で運用され、電力や私鉄に長期資金を供給し、日本興業銀行がほぼ一手に担っていた分野の一角を占めた。1927年の金融恐慌では、金銭信託の期間を最短2年と定めていたため、取り付けの波を受けなかった。同年9月に大阪支店を開設し、1929年6月には新築の三井本館へ本店を移転。1929年の世界恐慌で一時伸び悩んだ金銭信託の受託も持ち直し、1934年から1936年に戦前の信託会社は最盛期を迎えた。

  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [13]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [14]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [16]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [17]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [18]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [19]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
    • [15]初期の受託信託財産は全国信託財産の33.4%を占め、終戦時まで20%を下らなかった

住友信託は1927年の金融恐慌のなかでも、利益と信託財産を毎期少しずつ積み増した。1928年12月に福島支店を開設し、1929年には遺言の執行と会計検査を併営する許可も得た。資金量が膨らむにつれて金融界での発言力が増し、1932年7月に国債引受シンジケート団へ加入した。大阪の本店の移転は、その前年の1931年1月である。その後は地方債と社債の引受、担保付社債信託の受託を広げ、起債市場で大きな役割を担った。三井信託も同じ1932年7月にシンジケート団へ加わり、担保付社債信託や公社債の引受を手がけた。預金を持たない信託会社にとって、起債市場への参加は運用先を自ら確保する手段になったと考えられる。

  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [20]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [21]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [22]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [23]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [24]資金量の増大で金融界での発言力が強まり、国債引受シンジケート団加入後は地方債・社債の引受と担保付社債信託の受託を活発に行い起債市場で役割を果たした
  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
    • [25]三井信託は1932年7月に国債引受シンジケート団に加入し、担保付社債信託・公社債引受業務を手がけた

1937年7月に日中戦争が始まり、太平洋戦争を経て1945年8月に終戦を迎えた。戦時体制への移行でインフレが進み、信託会社の金銭信託は不振に陥った。1943年に兼営法が施行されると、地方の信託会社の多くは親銀行に吸収された。住友信託をはじめ財閥系の大手信託は独立を保ち、終戦時に存続した信託会社は7社である。住友信託は1940年以降も名古屋・京都・神戸・西宮に支店を開設し、日中戦争後も営業規模を拡大した。三井信託も全国の信託財産に占める比率を終戦まで20%以上に保ち、業界首位の座を守った。財閥系の大手は自前の店舗網と受託基盤を持ち、親銀行に依存せずに経営が成り立つ規模に達していたためと推測される。

  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [26]1937年7月に日中戦争が勃発し、太平洋戦争を経て1945年8月に終戦
  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [27]戦時体制下のインフレで金銭信託は不振となり、1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、財閥系大信託は独立を守り終戦時に7社が存続した
    • [28]戦時体制下のインフレで金銭信託は不振となり、1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、財閥系大信託は独立を守り終戦時に7社が存続した
    • [29]戦時体制下のインフレで金銭信託は不振となり、1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、財閥系大信託は独立を守り終戦時に7社が存続した
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [30]住友信託は日華事変後も業績が順調で、1940年以降に名古屋・京都・神戸・西宮の各支店を開設した
  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
    • [31]三井信託の信託財産の全国比率は終戦時まで20%を下らず、信託界の首位にあった
参考文献[13]-[31]
  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [13]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [14]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [16]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [17]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [18]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [19]1928年11月末に全国37社の受託財産残高の30%近くを占め(金銭信託80%・有価証券信託19%)、金銭信託は電力・私鉄等への貸付で運用、金融恐慌時は最短2年の期間制限で取り付けの圏外、1927年9月大阪支店、1929年6月三井本館へ本店移転、1934〜36年に戦前の信託会社の絶頂期
    • [26]1937年7月に日中戦争が勃発し、太平洋戦争を経て1945年8月に終戦
  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
    • [15]初期の受託信託財産は全国信託財産の33.4%を占め、終戦時まで20%を下らなかった
    • [25]三井信託は1932年7月に国債引受シンジケート団に加入し、担保付社債信託・公社債引受業務を手がけた
    • [31]三井信託の信託財産の全国比率は終戦時まで20%を下らず、信託界の首位にあった
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [20]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [21]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [22]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [23]住友信託は1927年の金融恐慌下でも利益・信託財産が漸増し、1928年12月福島支店開設、1929年に遺言執行・会計検査の併営認可、1931年1月本店移転、1932年7月国債引受シンジケート団加入
    • [30]住友信託は日華事変後も業績が順調で、1940年以降に名古屋・京都・神戸・西宮の各支店を開設した
  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [24]資金量の増大で金融界での発言力が強まり、国債引受シンジケート団加入後は地方債・社債の引受と担保付社債信託の受託を活発に行い起債市場で役割を果たした
    • [27]戦時体制下のインフレで金銭信託は不振となり、1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、財閥系大信託は独立を守り終戦時に7社が存続した
    • [28]戦時体制下のインフレで金銭信託は不振となり、1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、財閥系大信託は独立を守り終戦時に7社が存続した
    • [29]戦時体制下のインフレで金銭信託は不振となり、1943年の兼営法施行で地方信託の多くは親銀行に吸収されたが、財閥系大信託は独立を守り終戦時に7社が存続した

1944年〜財閥の名を外して銀行業務を兼ねた東京信託銀行・富士信託銀行と、低コスト資金を元手にした上場

戦後の混乱で三井信託の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少となり、経営難が続いた。賞品付きの福徳金銭信託や無記名金銭信託を扱っても、不振は止まらなかった。1948年3月、金融機関再建整備計画に基づいて9割の減資で損失を処理し、そのうえで資本金を5000万円に増資。同年6月に大蔵当局が信託会社に銀行業務を兼ねることを認め、信託会社は兼営法のもとで信託業務を営む銀行へ転じることになった。三井信託は7月に三井の名を外して東京信託銀行へ社名を改め、財閥の印象を消した。8月には一般の銀行業務も始め、預金という新たな資金源を得た。減資による損失の処理と預金の獲得をそろえることが、再建の前提だったと思われる。

  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [32]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [33]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [35]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [36]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
  • 『株式会社年鑑』1951年版 東京信託銀行(沿革)
    • [34]1948年3月に金融機関再建整備計画で9割減資の後、資本金5000万円に増資し、同年7月東京信託銀行と改称、8月に一般銀行業務を開始
    • [37]1948年3月に金融機関再建整備計画で9割減資の後、資本金5000万円に増資し、同年7月東京信託銀行と改称、8月に一般銀行業務を開始

敗戦で金銭信託を支えていた大口の資産家が没落し、インフレのもとで住友信託は創業後で最も深刻な経営危機に直面した。受信が大きく減り、回収できない未収利息も積み上がった。GHQの提案で、信託会社の立て直し策として銀行業務の兼営が認められた。住友信託は1948年8月に社名を富士信託銀行と改め、信託業務に加えて普通銀行業務を始めた。同年9月には金融機関再建整備法に基づく確定損を負担し、旧資本金2000万円が全額切り捨てとなり、ただちに5000万円へ増資した。増資の手続きの完了は9月28日である。本店は大阪市東区北浜に置き、東京支店は丸の内に構えた。住友の名を外したのは、三井信託が東京信託銀行と改めたのと同じく、財閥の色を薄める必要があったためだろう。

  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [38]敗戦で金銭信託の基盤の大口資産家が没落し開業以来最大の危機に陥ったが、GHQの提案で銀行業務兼営が認められ、1948年8月に富士信託銀行と改称し銀行業務を開始した
    • [40]敗戦で金銭信託の基盤の大口資産家が没落し開業以来最大の危機に陥ったが、GHQの提案で銀行業務兼営が認められ、1948年8月に富士信託銀行と改称し銀行業務を開始した
    • [41]敗戦で金銭信託の基盤の大口資産家が没落し開業以来最大の危機に陥ったが、GHQの提案で銀行業務兼営が認められ、1948年8月に富士信託銀行と改称し銀行業務を開始した
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [39]戦後の混乱期に受信の減少が甚だしく未収利息が累増し、創業以来初めての苦難期に遭遇した
  • 『株式会社年鑑』1951年版 富士信託銀行(沿革)
    • [42]1948年9月に金融機関再建整備法の確定損負担で旧資本金が全部切捨となり、直ちに資本金5000万円に増資した
  • 『株式会社年鑑』1950年版 富士信託銀行(重役・金銭信託・貸借対照表)
    • [43]富士信託銀行の資本金5000万円への増資は1948年9月28日に完了、本店は大阪市東区北浜、東京支店は千代田区丸の内
    • [44]富士信託銀行の資本金5000万円への増資は1948年9月28日に完了、本店は大阪市東区北浜、東京支店は千代田区丸の内

銀行業務の兼営で、信託勘定の貸出の代わり金は他行ではなく自行の預金口座に入るようになった。自行に滞留する低コストの資金は、信託銀行の大きな収益源である。東京信託銀行の預金は1949年3月期に1,183,453千円だった。1950年3月期には3,410,144千円となり、1年で約2.9倍に増えた。両行は1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場し、社長は東京信託銀行が林賢材氏、富士信託銀行が熊谷栄次氏である。東京信託銀行は1950年2月に日本投資信託を吸収合併し、富士信託銀行は1949年6月に外国為替業務を始めた。預金と信託の2つの資金源を持ったことが、1952年の貸付信託の開始と旧社名への復帰に向けた足場になったとうかがえる。

  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [45]銀行業務導入で信託勘定の貸出代わり金が自行の預金口座に振り込まれるようになり、低コスト資金の滞留が収益の大きな源泉となった。1949年5月東京・大阪両証券取引所に上場
    • [46]銀行業務導入で信託勘定の貸出代わり金が自行の預金口座に振り込まれるようになり、低コスト資金の滞留が収益の大きな源泉となった。1949年5月東京・大阪両証券取引所に上場
  • 『株式会社年鑑』1950年版 東京信託銀行(重役・上場市場・銀行勘定)
    • [47]東京信託銀行の1949年3月期の銀行勘定の預金は1,183,453千円、社長は林賢材
    • [49]東京信託銀行の1949年3月期の銀行勘定の預金は1,183,453千円、社長は林賢材
  • 『株式会社年鑑』1951年版 東京信託銀行(沿革・銀行勘定)
    • [48]東京信託銀行の1950年3月期の預金は3,410,144千円、1950年2月に日本投資信託を吸収合併
    • [51]東京信託銀行の1950年3月期の預金は3,410,144千円、1950年2月に日本投資信託を吸収合併
  • 『株式会社年鑑』1950年版 富士信託銀行(重役・金銭信託・貸借対照表)
    • [50]富士信託銀行の社長は熊谷栄次、上場市場は東京・大阪
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [52]住友信託(富士信託銀行)は1949年6月から外国為替業務の取扱を開始した
参考文献[32]-[52]
  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [32]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [33]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [35]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [36]戦後の金銭信託は1945年下期に創業以来2度目の減少、福徳金銭信託等でも不振が続き、1948年6月に大蔵当局が銀行業務兼営を認め、7月に財閥色払拭のため東京信託銀行に改称
    • [45]銀行業務導入で信託勘定の貸出代わり金が自行の預金口座に振り込まれるようになり、低コスト資金の滞留が収益の大きな源泉となった。1949年5月東京・大阪両証券取引所に上場
    • [46]銀行業務導入で信託勘定の貸出代わり金が自行の預金口座に振り込まれるようになり、低コスト資金の滞留が収益の大きな源泉となった。1949年5月東京・大阪両証券取引所に上場
  • 『株式会社年鑑』1951年版 東京信託銀行(沿革)
    • [34]1948年3月に金融機関再建整備計画で9割減資の後、資本金5000万円に増資し、同年7月東京信託銀行と改称、8月に一般銀行業務を開始
    • [37]1948年3月に金融機関再建整備計画で9割減資の後、資本金5000万円に増資し、同年7月東京信託銀行と改称、8月に一般銀行業務を開始
  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
    • [38]敗戦で金銭信託の基盤の大口資産家が没落し開業以来最大の危機に陥ったが、GHQの提案で銀行業務兼営が認められ、1948年8月に富士信託銀行と改称し銀行業務を開始した
    • [40]敗戦で金銭信託の基盤の大口資産家が没落し開業以来最大の危機に陥ったが、GHQの提案で銀行業務兼営が認められ、1948年8月に富士信託銀行と改称し銀行業務を開始した
    • [41]敗戦で金銭信託の基盤の大口資産家が没落し開業以来最大の危機に陥ったが、GHQの提案で銀行業務兼営が認められ、1948年8月に富士信託銀行と改称し銀行業務を開始した
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
    • [39]戦後の混乱期に受信の減少が甚だしく未収利息が累増し、創業以来初めての苦難期に遭遇した
    • [52]住友信託(富士信託銀行)は1949年6月から外国為替業務の取扱を開始した
  • 『株式会社年鑑』1951年版 富士信託銀行(沿革)
    • [42]1948年9月に金融機関再建整備法の確定損負担で旧資本金が全部切捨となり、直ちに資本金5000万円に増資した
  • 『株式会社年鑑』1950年版 富士信託銀行(重役・金銭信託・貸借対照表)
    • [43]富士信託銀行の資本金5000万円への増資は1948年9月28日に完了、本店は大阪市東区北浜、東京支店は千代田区丸の内
    • [44]富士信託銀行の資本金5000万円への増資は1948年9月28日に完了、本店は大阪市東区北浜、東京支店は千代田区丸の内
    • [50]富士信託銀行の社長は熊谷栄次、上場市場は東京・大阪
  • 『株式会社年鑑』1950年版 東京信託銀行(重役・上場市場・銀行勘定)
    • [47]東京信託銀行の1949年3月期の銀行勘定の預金は1,183,453千円、社長は林賢材
    • [49]東京信託銀行の1949年3月期の銀行勘定の預金は1,183,453千円、社長は林賢材
  • 『株式会社年鑑』1951年版 東京信託銀行(沿革・銀行勘定)
    • [48]東京信託銀行の1950年3月期の預金は3,410,144千円、1950年2月に日本投資信託を吸収合併
    • [51]東京信託銀行の1950年3月期の預金は3,410,144千円、1950年2月に日本投資信託を吸収合併

出典・参考

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出典・参考
  • 『株式会社年鑑』1950年版 富士信託銀行(重役・金銭信託・貸借対照表)
  • 『株式会社年鑑』1950年版 東京信託銀行(重役・上場市場・銀行勘定)
  • 『株式会社年鑑』1951年版 東京信託銀行(沿革)
  • 『株式会社年鑑』1951年版 富士信託銀行(沿革)
  • 『株式会社年鑑』1951年版 東京信託銀行(沿革・銀行勘定)
  • 『会社銀行八十年史』三井信託銀行(1955年)
  • 『会社銀行八十年史』住友信託銀行(1955年)
  • 『日本会社史総覧』三井信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)
  • 『日本会社史総覧』住友信託銀行(東洋経済新報社, 1995年)

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