クレディセゾン:月賦百貨店「緑屋」から西武クレジットへの転換
1951年〜三軒茶屋の岡本商店から出た月賦百貨店の緑屋と、東証二部への上場
岡本虎二郎氏は1946年9月、東京・三軒茶屋で和洋家具を扱う岡本商店を始め、1947年11月に有限会社大丸へ改組した。1949年10月、家具店だった大丸は一部の商品に限って月賦販売を始めた。同じ月には、ミシンやラジオなど家庭用器具の月賦販売が増え、『金詰まりは月賦を生む』といわれる世相だった。大丸は月賦の売れ行きに合わせ、繊維から皮革・電気製品・雑貨へと扱う品目を広げた。三軒茶屋の岡本商店を前身とする緑屋は、岡本虎二郎氏が育てた会社にあたる。現金の乏しい戦後の家計に分割払いで家具や家庭用品を届ける商いが、家具店を総合的な月賦店へ変えたとみられる。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- [1]1946年9月岡本虎二郎が三軒茶屋に家具販売の岡本商店を設立、1947年11月有限会社大丸に改組、1949年10月月賦販売を一部開始し繊維・皮革・電気製品・雑貨へ拡大
- [2]1946年9月岡本虎二郎が三軒茶屋に家具販売の岡本商店を設立、1947年11月有限会社大丸に改組、1949年10月月賦販売を一部開始し繊維・皮革・電気製品・雑貨へ拡大
- [4]1946年9月岡本虎二郎が三軒茶屋に家具販売の岡本商店を設立、1947年11月有限会社大丸に改組、1949年10月月賦販売を一部開始し繊維・皮革・電気製品・雑貨へ拡大
- 読売新聞(1949年10月13日)
- [3]1949年10月、金詰まりを背景にミシン・ラジオなど家庭用器具の月賦販売が増加
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [5]緑屋の前身は1946年9月に岡本虎二郎が三軒茶屋に設立した岡本商店
大丸は1950年10月に社名を有限会社緑屋へ改め、1951年5月には資本金99万円の株式会社緑屋とした。有報の沿革は、この1951年5月の株式会社化を現在のクレディセゾンの設立として記載する。屋号の緑には、人に生気と希望を与える色であり、商人の心のすがすがしさを表す色だという意味を込めた。社章も屋号に合わせ、緑の字を丸で囲んだ意匠。株式会社となった緑屋は関東を中心に遠くは仙台まで、立川・原町田・追浜・八王子・府中・新宿などへ支店を相次いで開設した。株式会社への改組は、月賦の掛け売りを支える資本と、支店を重ねるための対外的な信用を整える手立てだったのだろう。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- [6]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [8]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [9]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [10]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [7]1951年5月 株式会社緑屋を設立
緑屋は1963年7月、資本金3億6000万円で東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。上場前の1960年1月期の売上高は35.6億円、当期純利益は0.6億円。上場から3か月後の1963年10月には倍額増資を実施し、資本金を7億2000万円とした。1964年3月には緑屋会館を発足させ、横浜に結婚式場を開設して月賦販売以外の事業に参入し、のちに観光業やボウリングへも事業を広げた。割賦販売は、売上を増やすほど必要な資金が加速度的に膨らむ商いである。代金を回収するまで売掛金として寝る資金を株式市場で調達することが、上場と増資を急いだ理由と推察される。
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- [11]1963年7月東証二部上場(資本金3億6000万円)、同年10月倍額増資で7億2000万円、1964年3月緑屋会館発足・横浜に結婚式場開設、のち観光業・ボウリングへ
- [13]1963年7月東証二部上場(資本金3億6000万円)、同年10月倍額増資で7億2000万円、1964年3月緑屋会館発足・横浜に結婚式場開設、のち観光業・ボウリングへ
- [14]1963年7月東証二部上場(資本金3億6000万円)、同年10月倍額増資で7億2000万円、1964年3月緑屋会館発足・横浜に結婚式場開設、のち観光業・ボウリングへ
- 会社年鑑(緑屋 1960年1月期 売上高)
- [12]緑屋の1960年1月期売上高35.6億円・当期純利益0.6億円(単体)
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [15]割賦販売は業容拡大に伴い資金需要が加速度的に増える性格をもつ
参考文献[1]-[15]
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- [1]1946年9月岡本虎二郎が三軒茶屋に家具販売の岡本商店を設立、1947年11月有限会社大丸に改組、1949年10月月賦販売を一部開始し繊維・皮革・電気製品・雑貨へ拡大
- [2]1946年9月岡本虎二郎が三軒茶屋に家具販売の岡本商店を設立、1947年11月有限会社大丸に改組、1949年10月月賦販売を一部開始し繊維・皮革・電気製品・雑貨へ拡大
- [4]1946年9月岡本虎二郎が三軒茶屋に家具販売の岡本商店を設立、1947年11月有限会社大丸に改組、1949年10月月賦販売を一部開始し繊維・皮革・電気製品・雑貨へ拡大
- [6]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [8]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [9]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [10]1950年10月有限会社緑屋に改称、1951年5月資本金99万円で株式会社緑屋に。屋号・社章の由来。立川・原町田・仙台・追浜・八王子・府中・新宿などに支店を開設
- [11]1963年7月東証二部上場(資本金3億6000万円)、同年10月倍額増資で7億2000万円、1964年3月緑屋会館発足・横浜に結婚式場開設、のち観光業・ボウリングへ
- [13]1963年7月東証二部上場(資本金3億6000万円)、同年10月倍額増資で7億2000万円、1964年3月緑屋会館発足・横浜に結婚式場開設、のち観光業・ボウリングへ
- [14]1963年7月東証二部上場(資本金3億6000万円)、同年10月倍額増資で7億2000万円、1964年3月緑屋会館発足・横浜に結婚式場開設、のち観光業・ボウリングへ
- 読売新聞(1949年10月13日)
- [3]1949年10月、金詰まりを背景にミシン・ラジオなど家庭用器具の月賦販売が増加
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [5]緑屋の前身は1946年9月に岡本虎二郎が三軒茶屋に設立した岡本商店
- [15]割賦販売は業容拡大に伴い資金需要が加速度的に増える性格をもつ
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [7]1951年5月 株式会社緑屋を設立
- 会社年鑑(緑屋 1960年1月期 売上高)
- [12]緑屋の1960年1月期売上高35.6億円・当期純利益0.6億円(単体)
1964年〜丸井に首位を渡した月賦百貨店2位と、西武流通グループの400万株
1967年3月の時点で、緑屋と丸井は月賦百貨店界の2つの横綱と並び称された。月賦百貨店は当時、東京で約300社、全国で約1,500社を数えた。緑屋は1967年2月に調布緑屋と千葉緑屋の2社を吸収合併し、1968年6月に東証第一部へ指定替えした。1968年1月期の緑屋は40店、売場面積5万1644平方メートル、年間売上高241億円強、関係会社を含む従業員は約5000名の規模だった。緑屋は1968年まで売上高で丸井を常に1割強上回っていた。子会社の吸収と第一部への指定替えは、乱立する同業の中で首位の規模を固める手立てだったと思われる。
- 週刊日本経済 20(12)(792) 1967年3月23日号
- [16]1967年3月時点で緑屋と丸井は月賦百貨店界の横綱。月賦百貨店は東京で約300社・全国で約1,500社
- [17]1967年3月時点で緑屋と丸井は月賦百貨店界の横綱。月賦百貨店は東京で約300社・全国で約1,500社
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- [18]1967年2月調布緑屋・千葉緑屋を吸収合併、1968年6月東証一部に指定替え。1968年1月期 40店・売場面積51,644㎡・売上高241億円強・従業員約5000名(関係会社含む)
- [19]1967年2月調布緑屋・千葉緑屋を吸収合併、1968年6月東証一部に指定替え。1968年1月期 40店・売場面積51,644㎡・売上高241億円強・従業員約5000名(関係会社含む)
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [20]緑屋は1968年まで売上高で丸井を常に10%強上回っていた
Decideの集計では、1969年の売上高は緑屋297億4100万円、丸井295億4000万円とほぼ並んだ。丸井が首位に立ち、緑屋が月賦百貨店業界の2位となったのは1970年1月期である。丸井が大型店を中央線沿線に密に配したのに対し、緑屋は全国展開を目指して関東一円に小型店を散らす出店策をとった。緑屋は元専務の安本浩三氏の主導で内装工事・ボウリング・住宅仲介へと多角化を進め、焦げ付き債権は丸井の2倍にのぼった。緑屋は1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し、1976年には30店まで減らした。1976年1月期の売上高は丸井1489億円に対し緑屋683億円となり、差は2.2倍近くに開いた。
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [21]元専務安本浩三が多角化を主導。1969年売上高 緑屋297億4100万円・丸井295億4000万円。丸井は中央線沿線に大型店、緑屋は関東一円に小型店。多角化(内装工事・ボウリング・住宅仲介)、焦げ付き債権は丸井の2倍
- [23]元専務安本浩三が多角化を主導。1969年売上高 緑屋297億4100万円・丸井295億4000万円。丸井は中央線沿線に大型店、緑屋は関東一円に小型店。多角化(内装工事・ボウリング・住宅仲介)、焦げ付き債権は丸井の2倍
- [24]元専務安本浩三が多角化を主導。1969年売上高 緑屋297億4100万円・丸井295億4000万円。丸井は中央線沿線に大型店、緑屋は関東一円に小型店。多角化(内装工事・ボウリング・住宅仲介)、焦げ付き債権は丸井の2倍
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [22]1970年1月期に丸井に首位を奪われる。1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し30店に。1976年1月期売上高 丸井1489億円・緑屋683億円
- [25]1970年1月期に丸井に首位を奪われる。1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し30店に。1976年1月期売上高 丸井1489億円・緑屋683億円
- [26]1970年1月期に丸井に首位を奪われる。1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し30店に。1976年1月期売上高 丸井1489億円・緑屋683億円
緑屋は1971年10月に丸紅と資本提携し、丸紅は600万株を取得して役員を派遣した。提携の背景には三和・勧銀・東海の3行が主力銀行から降り、富士銀行が丸紅との間を取り持った事情があった。緑屋が西武百貨店と資本提携したのは1976年3月である。堤清二氏が率いる西武流通グループは丸紅と岡本一族から計300万株を取得し、保有を400万株とした。4月28日の株主総会で岡本虎二郎氏は代表権のない会長となり、西武百貨店副社長の坂倉芳明氏が社長に選ばれた。岡本虎二郎氏は市民産業を掲げる西武流通グループの格好よさにひかれ、引退の花道を求めたという見方があった。
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [27]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- [30]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- [31]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- [32]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [28]三和・勧銀・東海がメインバンクを降り、富士銀行のあっせんで丸紅が資本参加
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [29]1976年3月 西武百貨店と資本提携
参考文献[16]-[32]
- 週刊日本経済 20(12)(792) 1967年3月23日号
- [16]1967年3月時点で緑屋と丸井は月賦百貨店界の横綱。月賦百貨店は東京で約300社・全国で約1,500社
- [17]1967年3月時点で緑屋と丸井は月賦百貨店界の横綱。月賦百貨店は東京で約300社・全国で約1,500社
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- [18]1967年2月調布緑屋・千葉緑屋を吸収合併、1968年6月東証一部に指定替え。1968年1月期 40店・売場面積51,644㎡・売上高241億円強・従業員約5000名(関係会社含む)
- [19]1967年2月調布緑屋・千葉緑屋を吸収合併、1968年6月東証一部に指定替え。1968年1月期 40店・売場面積51,644㎡・売上高241億円強・従業員約5000名(関係会社含む)
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [20]緑屋は1968年まで売上高で丸井を常に10%強上回っていた
- [21]元専務安本浩三が多角化を主導。1969年売上高 緑屋297億4100万円・丸井295億4000万円。丸井は中央線沿線に大型店、緑屋は関東一円に小型店。多角化(内装工事・ボウリング・住宅仲介)、焦げ付き債権は丸井の2倍
- [23]元専務安本浩三が多角化を主導。1969年売上高 緑屋297億4100万円・丸井295億4000万円。丸井は中央線沿線に大型店、緑屋は関東一円に小型店。多角化(内装工事・ボウリング・住宅仲介)、焦げ付き債権は丸井の2倍
- [24]元専務安本浩三が多角化を主導。1969年売上高 緑屋297億4100万円・丸井295億4000万円。丸井は中央線沿線に大型店、緑屋は関東一円に小型店。多角化(内装工事・ボウリング・住宅仲介)、焦げ付き債権は丸井の2倍
- [28]三和・勧銀・東海がメインバンクを降り、富士銀行のあっせんで丸紅が資本参加
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [22]1970年1月期に丸井に首位を奪われる。1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し30店に。1976年1月期売上高 丸井1489億円・緑屋683億円
- [25]1970年1月期に丸井に首位を奪われる。1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し30店に。1976年1月期売上高 丸井1489億円・緑屋683億円
- [26]1970年1月期に丸井に首位を奪われる。1969年の最多42店から衣笠・茂原・志村などを閉鎖し30店に。1976年1月期売上高 丸井1489億円・緑屋683億円
- [27]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- [30]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- [31]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- [32]1971年10月丸紅と資本提携(600万株取得・役員派遣)。1976年に西武流通グループが丸紅・岡本一族から各150万株を取得し計400万株。4月28日総会で岡本虎二郎は代表権のない会長、坂倉芳明が社長。岡本は西武の「市民産業」の格好よさにほれ有終の美を求めたとの見方
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [29]1976年3月 西武百貨店と資本提携
1977年〜月賦を離れた西武クレジットと、9年ぶりの復配を支えたセゾンカード
緑屋は1980年8月に商号を西武クレジットへ改め、同時に志澤を合併した。改称に先立ち、旧緑屋の店舗は西武流の業態に作り替えられ、池袋店は西武百貨店のハビタ館、吉祥寺店は西武スポーツとなった。この改称は、月賦百貨店からクレジット専門会社への転換点にあたる。堤清二氏は改称の時点ですでに物販業から抜け出すことを目指し、坂倉芳明氏に総合信販業への転換を託していた。1981年6月、西武クレジットはセゾングループでクレジットとファイナンスを担う基幹会社として新たに発足した。丸井と同じ月賦百貨店の看板では差を縮められないため、グループの金融を担う役割へ移る改称だったとうかがえる。
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [33]1980年8月 西武クレジットに商号変更・志澤と合併。1981年6月 セゾングループのクレジット・ファイナンス基幹会社として発足
- [37]1980年8月 西武クレジットに商号変更・志澤と合併。1981年6月 セゾングループのクレジット・ファイナンス基幹会社として発足
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [34]坂倉芳明の役割は小売業から総合信販業への飛躍。旧店舗を西武流に転換(池袋→ハビタ館、吉祥寺→西武スポーツ等)。改称を機にクレジット専門会社へ。堤清二は改称時点で物販業からの脱皮を目指した
- [35]坂倉芳明の役割は小売業から総合信販業への飛躍。旧店舗を西武流に転換(池袋→ハビタ館、吉祥寺→西武スポーツ等)。改称を機にクレジット専門会社へ。堤清二は改称時点で物販業からの脱皮を目指した
- [36]坂倉芳明の役割は小売業から総合信販業への飛躍。旧店舗を西武流に転換(池袋→ハビタ館、吉祥寺→西武スポーツ等)。改称を機にクレジット専門会社へ。堤清二は改称時点で物販業からの脱皮を目指した
西武クレジットは1982年8月、グループ共通の西武カード「セゾン」を発行した。それまでグループは西武カストマーズカードやグリーンカードなど4種のカードを別々に発行しており、期限を迎えたものから順にセゾンへ切り替えた。同じ1982年8月には、発行拠点のセゾンカウンターを全国に広げ始めた。堤清二氏がグループ各社に会員獲得を呼びかけ、会員は年に100万枚のペースで増えて1987年に490万に達した。比較に挙がる銀行系首位のJCBの独自会員は、1984年9月末で400万人。4種のカードを1枚にまとめたことで、グループの店舗網全体が会員を獲得する窓口になったのであろう。
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [38]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [39]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [41]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [42]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [40]1982年8月 西武カード発行、セゾンカウンターの全国展開を開始
1983年4月末、坂倉芳明氏が古巣の三越へ戻り、後任にレストラン西武社長の竹内敏雄氏が就任した。坂倉芳明氏は1976年に西武百貨店副社長から転じた人物で、堤清二氏はその手堅さに期待をかけた。当時の西武クレジットは未払いの会員が多く、グループのクレジット事業は失敗との評判が立っていた。竹内敏雄氏は500億円を投じて顧客情報のネットワークを築き、事故率を0.3%まで下げた。西武クレジットは物販を主とする店舗を半数ほどまで減らし、1986年1月期に9年ぶりの復配を果たした。1987年1月期は売上高781億300万円、経常利益29億6500万円で、経常利益は前期比103.4%増えた。
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [43]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [45]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [46]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [47]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [48]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [44]坂倉芳明は西武百貨店副社長から1976年に緑屋社長へ。堤清二は坂倉の手堅さに期待
参考文献[33]-[48]
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- [33]1980年8月 西武クレジットに商号変更・志澤と合併。1981年6月 セゾングループのクレジット・ファイナンス基幹会社として発足
- [37]1980年8月 西武クレジットに商号変更・志澤と合併。1981年6月 セゾングループのクレジット・ファイナンス基幹会社として発足
- [40]1982年8月 西武カード発行、セゾンカウンターの全国展開を開始
- Decide 5(2)(40) 1987年
- [34]坂倉芳明の役割は小売業から総合信販業への飛躍。旧店舗を西武流に転換(池袋→ハビタ館、吉祥寺→西武スポーツ等)。改称を機にクレジット専門会社へ。堤清二は改称時点で物販業からの脱皮を目指した
- [35]坂倉芳明の役割は小売業から総合信販業への飛躍。旧店舗を西武流に転換(池袋→ハビタ館、吉祥寺→西武スポーツ等)。改称を機にクレジット専門会社へ。堤清二は改称時点で物販業からの脱皮を目指した
- [36]坂倉芳明の役割は小売業から総合信販業への飛躍。旧店舗を西武流に転換(池袋→ハビタ館、吉祥寺→西武スポーツ等)。改称を機にクレジット専門会社へ。堤清二は改称時点で物販業からの脱皮を目指した
- [38]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [39]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [41]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [42]1982年8月グループ共通カード「セゾン」発行、従来の4種のカードを期限ごとに切替。会員は毎年100万枚増え1987年に490万。JCBの独自会員は1984年9月末400万人
- [43]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [45]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [46]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [47]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- [48]1983年4月末竹内敏雄(レストラン西武社長)が社長就任、前任坂倉芳明は三越へ。未払い者が多くクレジット事業は失敗との評判。500億円のシステム投資で事故率0.3%。物販店舗を約半数に縮小。1986年1月期9年ぶり復配。1987年1月期売上高781億300万円・経常利益29億6500万円(103.4%増)
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- [44]坂倉芳明は西武百貨店副社長から1976年に緑屋社長へ。堤清二は坂倉の手堅さに期待
1951年〜1987年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年01月期 | 単体 | 35 | n/a | 0 | 1.7% | n/a |
| 1961年01月期 | 単体 | 51 | +43.3% | 1 | 2.4% | n/a |
| 1962年01月期 | 単体 | 62 | +23.1% | 1 | 2.5% | n/a |
| 1963年01月期 | 単体 | 79 | +26.1% | 2 | 2.8% | n/a |
| 1964年01月期 | 単体 | 133 | +67.9% | 4 | 3.1% | n/a |
| 1965年01月期 | 単体 | 162 | +21.8% | 3 | 1.9% | n/a |
| 1966年01月期 | 単体 | 179 | +10.5% | 3 | 2.0% | n/a |
| 1967年01月期 | 単体 | 193 | +7.8% | 3 | 2.0% | n/a |
| 1968年01月期 | 単体 | 241 | +24.9% | 4 | 1.8% | n/a |
| 1969年01月期 | 単体 | 297 | +23.2% | 5 | 1.9% | n/a |
| 1970年01月期 | 単体 | 361 | +21.5% | 7 | 2.0% | n/a |
| 1971年01月期 | 単体 | 394 | +9.1% | 11 | 2.8% | n/a |
| 1972年01月期 | 単体 | 411 | +4.3% | 8 | 2.0% | n/a |
| 1973年01月期 | 単体 | 471 | +14.6% | 5 | 1.3% | n/a |
| 1974年01月期 | 単体 | 559 | +18.7% | 5 | 1.0% | n/a |
| 1975年01月期 | 単体 | 654 | +17.0% | 2 | 0.4% | n/a |
| 1976年01月期 | 単体 | 682 | +4.3% | 7 | 1.0% | n/a |
| 1977年01月期 | 単体 | 675 | ▲1.0% | ▲8 | ▲1.2% | n/a |
| 1978年01月期 | 単体 | 604 | ▲10.5% | ▲16 | ▲2.6% | n/a |
| 1979年01月期 | 単体 | 650 | +7.6% | ▲13 | ▲2.1% | n/a |
| 1980年01月期 | 単体 | 628 | ▲3.4% | 3 | 0.6% | n/a |
| 1981年01月期 | 単体 | 653 | +4.0% | ▲8 | ▲1.4% | n/a |
| 1982年01月期 | 単体 | 709 | +8.6% | 3 | 0.5% | n/a |
| 1983年01月期 | 単体 | 765 | +7.9% | 6 | 0.8% | n/a |
| 1984年01月期 | 単体 | 813 | +6.3% | ▲14 | ▲1.8% | n/a |
| 1985年01月期 | 単体 | 763 | ▲6.2% | 11 | 1.5% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
7件
- クレディセゾン 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑(緑屋 1960年1月期 売上高)
- 企業の歴史 : 明治百年(1968年)「緑屋」
- 週刊日本経済 20(12)(792) 1967年3月23日号
- 日経ビジネス 1976年5月24日号
- 読売新聞(1949年10月13日)
- Decide 5(2)(40) 1987年